第三十四話
目の前の浅間栞の形をした何かは、徐々にその輪郭を崩していき、やがて周囲の闇と混ざり合っていった。激しい頭痛と嘔吐感に襲われながら、何とか自らの意識に言い聞かせる。その従うべき主の存在を。他の誰でもなく、叶望という名を。
するとようやく醒め出した視覚神経は、眼前の誠の光景をようやく映し出した。ここは他のどこでもない逢見学園校舎屋上であり、我は他の誰でもない叶望であり、目の前に驚嘆に伏している女は望月燕である。思い出すのも悍ましい悪夢を見ていたような気がする。そうだ、長い、長い夢だった。ある男の生涯に渡る記憶、だった。そしてその報われない末路までの、道筋、だった。
恐らくは彼女が染谷から抽出した記憶をプシュケーに換え、性質の悪い脚色を施して悪夢として望に見せたのだろう。本当なら自分はそのまま廃人となり、その牙の餌食となっていたはずである。
「あ、あなた……どうして、立っていられるのっ? あの女はあなたにとって、最も大事な、人なのではないのっ? その女の命を、自らの手で断つ光景を見せられて、どうして、その心を折らないで、いられるのっ。貴方、それでも人間?」
面白い冗談だ。
「あんたは政治家としての才能はあっても、脚本家の素質はなかったってことさ。下手な芝居を観させやがって、浅間はそういう人間じゃねえんだよ。死ぬことを恐れて、自暴自棄になって何もかもをぶっ壊しちまうようなあんたとは違う」
とは言え染谷の言葉がなければ、どうなっていたかはわからない。彼はこうなることを予想していたのだろうか。もしそうならば、その理由とはなんだろう。彼の記憶を目の当たりにした今ならば、それは今更考えるまでもなかった。
「なん、ですってえぇぇぇぇぇ」
悪魔の如き、形相。これがかつての逢見学園生徒会長の成れの果て。人間を捨てた者の哀れな末路。ようやく、この長い悪夢に終止符を打つときが来たようだ。
「俺は吸血鬼が血を吸うこと自体は、否定はしない。人間が肉や魚を食らうことと、何も変わりはしないからな。しかし悪戯に人間を弄び、奴隷を増やしてこの地に不和をもたらす行為は別だ。そして何より、許せないことがある。それは、大切な存在が蹂躙されたことだ。大切な人が奪われたことだ。それだけは、どんな理由があろうと絶対に許せない。覚悟はできているか?」
速やかに神器のもとに駆け寄り、本の盾から生える剣の柄に手をかける。イメージと共に力を込めて引き抜くと、それは分厚い壁の基部から分離し、その剣の姿を再び現した。染谷明の血を吸ったその漆黒の剣は、より一層濃密なプシュケーで満たされていた。いくら吸血鬼といえど、プシュケーを喰われては一溜まりもないはずだ。
「くうぅ、ううううううううううううううううううううううぅぅうぅぅぅぅぅぅぅ。私の、眷属、誰か、誰かいないのおおおぉぉぉぉぉ」
「無駄だ。ここには他に誰もいない」
頭を抱える彼女のもとへ、その神器の剣先を突きつける。吸血鬼、だが、この目には普通の人間に見えるのが厄介だ。しかし、この胸の内に燃え滾る憤りを、怒りを収めるためには、この腕を振り下ろす他にはなかった。そのはずだった。
彼女の無念を込めて、その両腕を、振り下ろし――
「叶君、助、けて」
望の鼓膜を震わせた声は、まさしく彼女の、浅間栞のものだった。追い詰められた死に際の獣の、最後のひと噛み。一瞬動きが止まる。
「やっぱり効くんじゃないのおおおおおぉぉぉぉっ。貴方のを貰うわあぁっっっ」
彼女の、ぱっくりと開かれた口腔から覗く牙。それがスローモーションで迫ってくる。世界の時が、緩やかに流れていた。全身の血の気がざあっと引いていくのが分かった。
真に最後の瞬間には、その全てが緩やかに感じられるという。それを望はその身を持って知った。不覚に気が付くころには、彼女の牙が、首筋に。首筋に。噛まれ。る寸前、で。
牙。首。血。死。
「詰めが甘いですねえ。叶君」
首筋までの痛みはいくら待ってもやって来なかった。一度の瞬きの後、目にしたのは肉厚な背中、だった。その崖の様な背中は望の眼前に立ちふさがり、吸血鬼の牙から彼を守った。暫くの間彼には何が起こったのか理解することもままならなかった。
「吸血鬼は最後の一瞬にこそ、その命を投じて襲いくるのです。全て終わるまで油断してはいけませんよ」
そこに突如として現れたのは、見上げるような巨漢。肌が黒く、とてつもなく岩の様な巨体だ。そしてもう一人。それは良く見知った人物だった。望を痛めつけ、凌辱し、貶めた張本人。高坂辰也。その眼鏡をかけた憎らしい顔が、こちらを得意げに覗いていた。
巨漢は吸血鬼の首筋を掴み、ぐしゃりと締め上げると彼女は息を詰まらせたように呻きを上げる。もがき苦しむも、その手の力は緩まない。何という力だ。片手で、女性一人の全体重を軽々支えている。そして何より吸血鬼をいとも容易く無力化した。
「お前、どうして」
「本当はそこの女を仕留める役割は元々私達にあったのですよ。それを横取りしようという存在に気が付いたのはずっと前でした。当初は警告するつもりでしたが、それが貴方だということを知って傍観する事にしたのです。予想通り面白いものが見られました」
「役割……だと」
「そうです。私達はそこにいる亡者、劣悪な鬼を撲滅することを目的とした組織、吸血鬼狩りというものなのですよ」
吸血鬼狩り。
背の低い、嗄れた声で絶望を聞かせる老人の顔がフラッシュバックする。
……あんたが一向に出てこないのはこういうわけか。ラミア。
「その女は色々やり過ぎました。今まで私達の目から逃れていたのは、巧妙なやり口で上手く隠蔽されていたから。まさか人間を手駒にして血を集めさせているとは、思いませんでした。彼女を見つけられたのは貴方のお陰でもあります。感謝していますよ。叶君」
突然の事に、認識がついていくことを拒否する。この世界は、どこまでその裏に隠しているのだろう。笑えない真実を。この世界というものは、一向にその全貌を現そうとしない。
「高坂という名も表の名でしてね。本当の性は交叉禍と言うのです。以後お見知り置きを。いやあそれにしても、貴方は想像以上のものを見せてくれました。神器を持つ人間を打倒するだけなら未だしも、吸血鬼の支配から逃れて見せた。お陰で大分仕事が減りました。個人的に何かお礼をしたい位です。まあ後は任せてもらいますよ」
高坂が親指を立てた右拳を逆さにひっくり返すと、黒人の男は軽く頷いて望月の首を絞める腕の力を強めた。首の骨が嫌な音を立てて悲鳴をあげる。
「事件の後始末はどうする気だ。そいつらを警察に突き出すわけにはいかないだろう」
「警視庁のお偉い方々との話は既についています。こんな事はそう珍しい話ではないのですよ。吸血鬼はその場で処理する権利を私達は与えられています。神器に縛られていた彼らは、まあ人道的な対応が為されると思うのでご安心を。神器を取り外されて記憶を消され、自分が何をしたのかわからない状態で解放、という所でしょうね。多少顔の形は変わるかもしれませんが」
望は安心したような、それでいて腑に落ちない複雑な心境にあった。これで無理矢理殺人をさせられていた罪なき人間は救われるが、染谷明も生き残る事になる。彼も神器によって縛られていたのかもしれないが、浅間を殺したのは彼自身だ。全ての罪を、望月に集約して、彼女一人を抹殺する。本当にそれで良いのか。
「あぁ、きら……くん。た、すけぇ……」
それで本当に良いのか。
望にはわからなかった。
何もわからなかった。
道徳も。
倫理も。
正義も。
悪も。
望には、何が正しくて何が間違っているのか、わからなかった。
そんな中、一人行動を起こした者があった。その者は串刺しにされた四肢を無理矢理に引き抜き、穴の空いた血塗れの脚で屋上の床を蹴った。
もう彼には神器の力はないはずだった。それにも関わらず、彼はまだ止まろうとしない。高坂と黒人は一瞬気付くのが遅れ、望は早かったが、傍観していた。驚愕のあまり、だったかもしれない。それとも、最後に彼が示す矜持を、その目に焼き付けておきたかったのかも知れない。
染谷明は、その瀕死の脚で黒人の元へ滑り込み、渾身の蹴りを右腕に叩きこんだ。黒人は不意を突かれてその体勢を崩し、望月の首を取り落とした。
「どういうつもりですか副会長。黙っていれば貴方の罪は赦されるのですよ」
高坂は微塵も焦りを感じさせない。
「なあに、お前たちに反旗を翻そうという訳ではない。それは恐らく無理だからな。俺は敗北したのだ。敗北者は潔く去るのみ。そして彼女だけを行かせはしない」
染谷は望月燕を、かつて人間だった吸血鬼をその手で抱き起こした。
「流石のあんたも、どうやらここまでのようだな。この者達は強い。どうやら俺達は、敵に回してはいけない存在に捕まってしまったらしい。これで終わりだ」
望月、燕。
「い、がはっ、……いや、だわあ。死ぬなんて、貴方のいない、所へ行くなんて、嫌だあぁ。なんで貴方はそんな事を、いうの?私、は、生きてこの世で、貴方と……ずっと一緒に」
「だから、一人では行かせないと言っているだろう」
彼は自分の首筋を彼女の前に差し出した。その行為の意味する所は。すぐに分かった。しかし、それは途轍もなく重い、行為だった。その重さが、望には分かってしまう。彼の記憶を見せられた望には、その行為の、その余りにも強かな愛の重さが分かってしまう。
これが、正義なのだろうか。
そしてこれが、愛。
「貴方は馬鹿か? そんな事をすれば、処分の対象はそこの女のみならず貴方にも及ぶことになりますよ。何を考えている、染谷明」
それは当然の疑問。高坂には分からない。彼がどんな思いで、そこに立ち、今それをしようと、人間としての尊厳と命を二つとも賭けようとしているのか。
「さあ、会長、早く噛むんだ。此奴らが邪魔しないうちに。あんたの手で俺をあんたと同じにしてくれ。あんたにはそれができるはずだ」
彼女は。吸血鬼は、血の涙を流して嗚咽を漏らしながら呻く。それは愛する人を殺す行為だ。彼女は抵抗した。染谷の頭を掴み、遠ざけようとする。
「いやああぁっ、私……まだ怖いの。貴方を噛んでしまったら、ウイルスが、私の中の死が、貴方にも及んでしまうような、気がして。私が人間でなくなって、からも……ずっと怖かった。触れるのも、我慢してたの。ましてや噛むなんて、できないわ。私は触れるものを皆不幸にする……それなら、一人で死んだ方がまし」
彼は、その言葉を彼女が言い切る前に、その口を塞いだ。記憶によれば、彼は女性経験などなかったはずだ。それは決して綺麗な口づけとは言えなかった、しかし、それは力強く、見る者の心中に熱い情熱の炎を湧き起こらせるような、ものだった。染谷明の愛は、最後に彼女の凍てついた心を溶かし切った。
望月燕の目に光が映り、その頬が朱に染まる。それは吸血鬼の顔ではなかった。最後に人間の、一人の女性の顔に戻った。
「最初から、あんたの為になら死ねると言っているだろう。さあ、これで良いか? これであんたの言うあんたの中の死は、俺にも及んだ。もう俺とあんたは運命を共にする以外にない。さあ早くやってくれ」
その時二人の背後から黒人の巨体が迫ってくるのを、望は見逃さなかった。漆黒の剣でその右腕を弾き返し、男の眼前に剣先を構える。
「野暮なことはやめてやれよ」
身体は独りでに動いていた。
「本当に、いいのね」
「良いと言っているだろう。あんたもしつこい」
彼女は、彼をまっすぐに見つめて言う。
「染谷君は、本当に生意気ね」
彼女はその顎を目いっぱいに開き、彼の首筋にあてる。そして牙を出し、その尖った鋭利な先端を彼の肌に触れさせ、彼の体を力強く抱きしめながら、目を一度も逸らすことなく瞬きすることもなく、愛する男を。
その牙で噛み締めた。
最初は恐る恐るだった彼女の所作も、次第にそうではなくなっていく。本能のままに、血を求める。彼の体を掴む力は強くなり、最後にはまるで行儀悪くしゃぶるように、彼の血を吸っていた。彼はその彼女の行為を、無言で耐えるのみ。痛くないはずがない。苦しくないはずがない。しかし彼は悲鳴一つ上げなかった。
初めて見る吸血鬼の吸血行為。それはあまりにも生々しく、捕食に近い絵面だった。しかしどうしてだろう、二人のそれには愛が感じられた。吸血鬼は血を吸って仲間を増やす。それはもしかしたら、人間でいう性行為に近い行為なのかもしれない。
その時間は数分だった。こちらが邪魔者なのではと思うほどに、それは情熱的だった。
それは名残を惜しんでいるのだろう。
いや、彼らはこれからもきっと共に行くのだ。
望には、それが少し羨ましく思えた。
「はああぁ……はあ、はああああぁぁぁぁぁ、美味し、かったよ。貴方の血。ごめんなさいね、こんなに痛くして、辛かったでしょう?」
「……痛くも、ない。苦し、くもない。俺が一番辛いのは、あんたが泣いているのを、見ることだ。だから、こんなものは、何でもない」
染谷の首の傷痕は徐々に塞がっていく。周囲の肌から金色の糸が伸び、それが幾重にも折り重なって互いを結び付けようとしている。これがこの世の神秘そのものだ。吸血鬼は、傷つかない。
「さて、お二人の時間はその辺にしてもらいましょうか。叶君、ここからはもう邪魔しないでもらいたい。これ以上は、わかりますね」
断罪を知らせる審判者の声がかかった。これ以上は、望にもどうすることもできない。黙って下がる望を横目に、背広を着込んだ黒人の巨体が横切って行った。彼には表情一つ感じられない。ただ主人の命じるがままに刑を執行するのみ。
彼の手にはいつの間にか大ぶりの鎌が握られていた。それは望の神器よりも長く、牙のように鋭い刃をつけていた。二人は手を繋ぎ、互いを見つめ合っていた。
「貴方には、失望しました。どうして自ら死に急ぐようなことを」
「お前には生涯分からんさ」
「良いでしょう。最後に残す言葉がありますか?」
「……叶君、だったわね」
そこで望月燕は、以外にもこちらを向いて口を開いた。
「図々しい願い出だと、承知しているわ。けれど、どうしても心残りがあるの。私たちがいなくなった後の生徒会を、どうか見守ってあげてくれないかしら。何も言わずに、いってしまうから。あの子達だけでは、心配なの」
「俺からも頼もう。叶」
「……俺が、お前たちの願いなど聞くと思うのか?」
「ああ。だからこれは、聞き逃してくれ。……さあ、終わらせてくれ」
二人は更に強く指を絡めあって結びつき、お互いだけを見つめていた。その瞳には、きっと互いの姿だけが映っているのだろう。最後の時まで、そうしているのだろう。
鎌が大きく振りかぶられ、それは無情にも執行された。
逢見連続猟奇殺人の幕は、こうして人知れず降ろされた。それは一人の少女の見ていた、長い悪夢だった。しかし最後に少しだけ報われる、そんな物語だった。




