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She is a vampire【挿絵あり】  作者: べなお
◆Ⅲ Awakening

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第三十三話

挿絵(By みてみん)

 私は手足に走る激痛を辛うじて耐えながら、彼女の声を聴いた。その声は、自分が生涯で唯一愛した女

性の物だった。そしていつしか変わってしまった、女性の物だった。しかし彼女と出逢ってから、その声を今まで忘れたことはなかった。









 高校生となる前の当時のことを、正直にいってあまり思い出したくはない。それまでの自分は今からしてみればあまりにも幼く、そして浅ましく、そして愚かだったのだ。両親は子供に平気で暴力を振るうような人間で、中学校の頃には彼は自らの身を守るために武道に手を出していた。そうしなければ生きられなかったからだ。彼は協調性とは無縁の性格をしていたが、しかし力を求める欲求には目を見張るものがあった為、中学校三年時には既にテコンドーで全国大会に出場するまでになっていた。


 試合では対戦相手を自らの憎むべき両親に重ね合わせ、憎しみを拠り所にして自らの力を最大限に引き出すようにしていた。幸福な家庭で何不自由なく育ってきた人間などに、自分が負けるわけがないと愚かにも勘違いをしていた。そのころには自分の力を過信するようになっていた。クラスでは武道の技で周囲を威嚇し、強きを束ね弱きを虐げていた。家庭では力で彼に敵わなくなった両親は、ほとんど家に帰ることはなくなり、子供を恐れてか生活費だけが送られてきた。これを彼は自分の勝利だと認識した。


 彼は地の頭は決して悪くはなかった。中学卒のみで世間を生きていくことの無謀さは理解しており、適当な高校を探して適当に勉強し、適当に在籍しておくことにした。将来の夢などはない。ただの暇つぶしだ。


 卒業してからは喧嘩に明け暮れていた。部活の人間は途端に離れていった。彼らの自分に対する感情は恐怖以外の何物でもなく、自分の近くにいたのもそれゆえの事だった。学校が別れ、関係が解消されれば、そこからは無縁。彼も特に不都合は感じなかった。


 喧嘩相手が見つからなければ街へ出て適当に見繕い、因縁をふっかけてそしてその足で全てをなぎ倒してきた。何もかもはただの暇つぶしだった。


 それが高校に入学したところで変わることはないと、彼は思っていた。せめて停学など面倒なことにならない程度に多少手は抜いた。しかし既に争いは彼の心の拠り所と化していた。彼は戦わずして生きることは出来なくなっていた。友人も親すらも見離し、自分にはそれ以外には何一つなくなっていた。


 そんなときに学校で出逢ったのだ。


 三年生の不良集団と校内でひと悶着あったときのことだ。彼は自分から対決を申込み、そしてぼろぼろになりながらも相手を全員なぎ倒して勝利を収めた。奴らが立ち去った後、一部始終を見ていた一人の女子生徒が近づいてきて、酷い有様の自分を見て言った。


「貴方、そんな生き方をしていたらその内死んでしまうわ。そうだ、暫くは社会勉強の為に生徒会にきなさい。いいわね」


 その時はただの冗談だと思っていた。しかし彼女は次の日の放課後に、彼の教室をどこで知ったのか真っ先に訪れ、彼を生徒会室へと連行しようとした。自分は乱闘の件を咎められるのだと思い、逃走を図ったが当時の生徒会長だった大柄な男に捕まり、仕方なく生徒会室に拉致された。


「逃げなくてもいいじゃない。何も説教しようってわけじゃないわ」


 じゃあどうしようっていうんだ。


「最近校内でも昨日みたいな騒ぎが結構あってね、問題になっているのよ。新年度になって、新しい人がたくさん入ってきたから秩序が一時的に不安定になっているのだと思うのだけれど、ウチとしては見逃すことはできないわ。貴方には当事者の一人として色々協力してもらいます」


 昨日は社会勉強がどうとか言ってたような気がするが。


「勿論それもして行ったらいいわ。ウチは何時でも歓迎よ。何処に役員の原石が燻っているかわからないものね。まあ差し当たり今日は自己紹介も兼ねて皆でお茶でもしましょうか。あ、言い忘れていたけれど、私は生徒会副会長二年の望月燕っていうの。よろしくね」


 ……こいつはふざけているのか? 最初はそう思った。言っていることが昨日と今日で全く違う。それを悪びれる様子もない。生徒会とかいうやつは、この様な人間の溜まり場なのであろうか。


 その日は彼女がお茶を淹れ、会長が書類に目を通している隙に逃走する事にした。闘わずして逃げるというのはあまり経験のない事だったが、その時はそれしかないと彼は思った。ここは自分のいるべき場所ではないとすぐに分かったからだ。


 周囲の生徒会役員をすり抜けて出入り口の扉を開け、最後にあの女はどんな顔をしているかとふと気になって後ろを振り返ると、彼女は笑っていた。


 その日から彼女は、毎日放課後に彼の教室に現れるようになった。普段話す事のないクラスメートが、望月と交際しているのかと怒気混じりに尋ねてきたほどだ。彼は適当にそれを無視した。


 彼女との鬼ごっこは毎日のように続き、大抵は彼がそのまま逃げおおせて終了になる事が多かった。しかしそうなった次の日も、そのまた次の日も、彼女の追跡が止む事はなかった。回を重ねる毎にこちらの逃走ルートを分析され、待ち伏せをされることも多くなった。一度それで袋小路に追い込まれた時、抱き続けていた疑問を彼女にぶつけてみた。


「あんた、俺なんかに構ってる暇なんてないだろ。このまま追い続けたって、無駄だって分かるだろう? あんただってそんなとこにいるんだから馬鹿じゃないはずだ。そんなあんたが、どうして俺なんかに時間を割く? 俺みたいな奴は、無視すれば良いだろ。ていうか、そうすべきだ」


 自分で言っていて虚しくなってきたが、単純に事実を彼は述べた。すると彼女は走って荒げた呼吸を収め、膝に手をつきながら言った。


「……私はね、思うのよね。ここで貴方のような人間一人と向き合えないような、女が、学校一つを預かる資格なんか、ないって。そうは思わない?だって、貴方だって、逢見学園の生徒の一人なんですもの」


 彼はその言葉に衝撃を受けた。不良生徒が優等生に更生されると言えば使い古されたパターンかもしれないが、しかしその瞬間彼の心が揺らいだのは確かだった。彼女のそれは理想論である。普通の人間は理想を掲げはしても、それを本気で実現できると信じているものは少ないだろう。大抵が現実という壁にぶつかってしまうからだ。しかしこの女は、本気で理想を語っている。今正にそれを実行している。


 今まで彼のことを避け、恐れのあまり一人の人間として扱ってこなかった者達とは、彼女は明らかに違っていた。


 こんな人と、もっと早く出逢えていれば。


「俺なんか、きっとなんの役にも立たねえぞ。出来るのは喧嘩だけだ」


 彼女は途端に表情を晴れさせた。それは一輪の華のように可憐だったことを覚えている。


「これから出来るようになれば良いのよ。それにきっと、貴方の特技も何かの役に立つわ。これからよろしくね、染谷明君?」


 その日から彼の人生は変わった。人生には転換点があるというが、そのときのそれがそうだったのだと今にして思う。それまで一人で早々に帰宅し無益に消費していた放課後の時間は、生徒会での活動に費やされるようになった。


 最初は一不良生徒としての視点から、この問題に関して自分の思うことを聞かれた。彼が素直な意見を一言述べると、望月は非常に上手い相槌を打ってくるのだ。それが彼女の処世術だとわかっていながらも、悪い気にはなれなかった。そうして彼の言葉を上手く引き出していき、恐るべきことに気が付けば僅か三十分あまりの面談で、解決策が二つや三つ導き出されていた。


 彼は本当に優秀な人間というものを初めて見た。染谷明という人間の現在の原型が、構築されていったのもこの時期である。


 彼女は染谷の素質までも引き出していった。


「貴方はもともと見込みがあったのよ。それに今まで誰も気づいていなかっただけ」


 彼女は正しい力の使い方を教えてくれた。間違って使えば人を傷つけてしまうこの厄介な代物、彼を孤立たらしめていた剣の用い方を教えてくれた。正しく使えば、それは大切なものを守れるのだと。教えてくれた。当時の校内の不良集団を散り散りに散開させ、事実上壊滅させたのは他ならぬ彼の最初の仕事だったのだ。


 成果を上げた彼は生徒会のメンバーに認められ、受け入れられた。正式なメンバーには入れないが、実質的には生徒会の一員となった。力仕事があれば、会長の手が追いつかぬ時などに頼りにされ、書類仕事も徐々に覚えた。今まで自分の為だけに生きてきた彼は、誰かの為に生きる充実感を初めて知ったのである。二年生に進級した際には、正式なメンバーとして迎えられることもいつの間にか決まっていた。


 そこからは彼の人生において最も輝かしい時期に突入する。生徒会で真面目に活動し続けることで、それまで孤立していた彼の悪い印象は徐々に霧散していき、代わりに彼の周りには人が集まってきた。夏休みは生徒会の面々で山にてバーベキューに興じた。海にも行った。そういったイベントとは無縁の家庭に育った彼にとっては、それらは未知との遭遇の連続だった。


「染谷君楽しんでる?」


「それなりに、楽しんでます」


「それは良かった。来年は本当の本当に仲間だからね。これからも私を助けてね」


 その時には既に、彼は彼女という恋に落ちていた。しかし彼は今まで誰かを愛したことも愛されたこともない。どうすれば良いのか、彼にはわからない。しかも彼女は校内の男子生徒に強烈な人気があり、敵は多かった。しかし自分にはアドバンテージがあった。同じ生徒会に属するもの同士というアドバンテージである。しかしその奢りが、彼の足をとっていたこともまたあった。


 夏を共に過ごし、秋を超え、冬になると生徒会役員選挙が始まる。現会長はやはりと言うべきか、望月燕を次期生徒会長へ推薦した。他の者達も反論の余地はなく、染谷自身も納得のことだった。そして驚くべきことに望月は、自分を生徒会副会長へ推薦すると告げた。


「望月先輩、どうして俺を副会長に?」


「それが一番良いと思うからよ。皆も貴方のことを認めてるわ。推薦人は私がやるから、……引き受けてくれるわね」


 彼女が自分を評価し、最も近い立場に迎え入れようとしていることに彼は喜びを感じ、感謝した。同時に期待もした。彼は生徒会副会長という責任を負いきる覚悟を直ちに決め、彼女の問いに肯定を返した。今の自分があるのは彼女あってのことだ。それに報いる機会が与えられるのならば、是非もなかった。


 選挙は圧勝だった。彼女の応援演説が全てを決めたのは言うまでもなく、自分が何かをしたという記憶は殆どない。こうして生徒会新体制、即ち現在のメンバーが決まった。同時に全ての終わりもまた、やってきた。


 最初の違和感は些細なことだった。


 生徒会室にて、書類仕事に従事していた彼。そこへ扉の開く音がすると、買い出しに行っていたはずの望月が生気を失ったような顔をして現れた。


「どうかしましたか、会長」


 彼のその問いに彼女は暫くの間沈黙。少ししてようやく此方に気がつき、自分の顔をみると何かに怯えるように目を逸らし、両肩を抱いた。それは明らかにいつもの彼女ではなかった。


「何か、あったんですか?」


「……いや、何でもないのよ。ごめんなさい、余計な心配させて。大丈夫よ、本当に」


 その時は、染谷の僅かに抱いた違和感もすぐに消えてしまった。しかしその時に彼女の話をもっと良く聞くべきだったと、彼は今だに後悔している。しかし彼女に何か心配がかかるような事態が起こるとは、どうしても思えなかったのだ。望月燕という人間は、それほどまでに完璧、に見えていた。自分だけではなく、全員が忘れていたのだ。彼女が普通の人間でもあり、一人の女性でもあるということを。


 それが彼女をあのようにしてしまったのだと思うと、どうにもやりきれなくなる。ここから先は、思い出そうとすると激しい抵抗に襲われる記憶だ。


 そして終わりの始まりである。


 春休みに差し掛かったある日、染谷は学校を訪れた。身の竦むような厳しい北風の吹く昼下がりだった。生徒会業務は無かったが、忘れ物を取りに来ていた。そして校舎の外から屋上をふと見上げると、一人の女子生徒が柵に背を預けているのが見える。


 まさかとは思い、彼は屋上に赴いた。


 そこには望月燕が、生気を失ったかのように項垂れていた。そんな彼女の姿を、染谷は初めて見た。彼女はいつでも自由奔放で、可憐で、聡明。それが望月燕である。はずだった。


「会長、何かあったんですね。俺でよければ……」


 彼女は自分を目で捉えると、物凄い力で抱き締めてきた。突然のことに自分は激しく動揺する。


 しかし彼女は我に返ると甲高い悲鳴を上げてそこから飛び下がった。崩れ落ちた彼女は全身を震わせ、嗚咽を上げている。そんな彼女の姿を、彼は初めて見た。何かただならぬ自体が彼女の身に起きていることを確信する。


「一体、何があった? 話してみろ」


 無意識に彼は彼女の両肩をとっていた。


 彼女はすると気の抜けたように泣き出し、暫くして虚ろのようにそれでも語り始めた。絶望の一部始終を。


 話は一か月前に(さかのぼ)る。あの最初の違和感のあった日である。


 望月は生徒会室の茶葉がきれていることに気が付き、買い出しに出かけた。その時に部屋には他の役員はいなかった為、彼女一人で街のスーパーへ向かうことにした。この時期はまだ日が短く、既に日は落ち辺りは暗闇に覆われていた。


 街へ向かう道は非常に薄暗く、人通りもあまりなかった。そしてそういう場所では、しばしば人間の悪意が解放されるものだ。望月は不幸にもその現場に居合わせてしまった。


 スーパーへと向かう道すがら、路地裏から不審な音が聞こえてくる。それは何かを殴っているような、鈍い響きのする打撃音だった。泣き声も聞こえる。どうらやリンチがそこでは行われていた。二人が一人を一方的に痛めつけ、金品を奪っていた。強盗である。


 望月は理不尽な悪意には敏感だった。そしてそれを見過ごすような性分を持ち合わせてもいなかった。彼女は冷静に状況を分析し、数秒の考察の後、迅速に行動した。


 携帯電話で警察に通報し、助けが来るころには彼らは逃げおおせているだろう。そして周囲に助けを求められるような人間も無し。しかし望月はリンチの現場に飛び込んでいった。彼女はいかにも数分前に警察に通報したかのように携帯電話を片手に持ち、背後に警察官が控えている体で演技しながら飛び出していった。その演技は彼らに危機感を感じさせるほどに絶妙だった。


 かくして二人の強盗犯はたまらず逃走し、被害者の男は金品を奪われることもなかった。


 しかしここからが、最悪だった。


 被害者の男は、なぜ自分が痛めつけられる前に助けなかったのかと訴えだしたのだ。それはあまりにも理不尽な言い分だった。彼女がいなければ彼は、更に酷い仕打ちを受けていたに違いない。


 彼女は戸惑うことしかできない。


 そして男は、持って行き場のない怒りを彼女に向けて解放した。


 彼女は男に襲われた。制服を奪われ、肌を触られ、激しく叩かれ、髪を引き回され、写真を取られ、舐めさせられ、そして奪われた。まだ誰とも経験していなかったそれを、見知らぬ男にさせられた。彼女は苦しかった。痛かった。辛かった。叫び声を上げたが、助けてくれる人間は誰もいなかった。涙が出たが、男はそれを見て更に興奮し、より激しい行為に及んだ。


 どれだけ経ったかわからない。どれだけされたかわからない。地獄の時間は永遠にも思えた。彼女は死をも覚悟した。


 しかし男は暫くして満足したのか、無残な有様の彼女を置いて去って行った。しかし男の立ち去る際の悪意に満ちた笑みが、彼女の脳裏に焼き付いていた。その意味を彼女は一か月後に知ることになる。


 悪夢から一月が立ち、彼女の心の傷は癒え始めていた。しかし彼女の心中には一抹の不安が残っていた。例の事件の後警察に通報し、すぐに薬を服用したためにそちらの方は問題なかった。しかしこの世には、性行為によって感染し得る病がある。それらの感染が発覚するのには、最低でも一月はかかる。生きた心地のしない一か月だった。彼女の夢には毎晩あの男の笑みが現れた。意を決して受けた検査は、彼女にこの世で最も恐ろしい現実を叩きつけた。


 彼女はHIVに感染していた。あの男が感染者だったのだ。あの男の最後の笑みは、決して逃れられない絶望を、他者に植え付けた喜びから来るものだったのだ。男の所在は現在でもわかっておらず、捜索は未だに続いている。


 そこまでの想像を絶する地獄を、彼女は嗚咽交じりに語った。一度も顔を上げることはなかった。いつもの彼女はそこにはいなかった。


 染谷にはどうすることもできなかった。あまりにも重く、どうしようもない問題だった。犯人の男を憎もうにも、警察が探し当てられない男を自分に見つけられるとは思えない。そもそも男を捕まえてしかるべき罪を償わせたところで、彼女の体がもとに戻るわけではないのだ。


 あの時、自分がもっとはやく生徒会室についていれば。


 彼女があの時、茶葉の確認などしなければ。


「親御さんには言ったのか……?」


「……まだ」


「なら今から帰って言うんだ。俺がついて行ってやる。犯人もきっと捕まる。心配するな」


 彼はそう彼女に、あるいは自分にも言い聞かせるように囁いた。


 しかし現実はあまりにも残酷だった。犯人は一向に捕まらず、春休みは明け、新学期を迎えた。彼女は学校に出てくることはなく、生徒会新体制は出鼻を挫かれる形となった。生徒会副会長である染谷明はその代りとなり、新生徒会を導かなければならなかった。しかし、彼女という存在の欠落はあまりにも大きかった。校内の秩序は再び乱れ始め、生徒会はその対処に追われるようになった。


 彼女は、一体どうやっていた? 染谷の精神状態もまた、平常とは言えなかった。去年はあんなにも簡単にやって見せたではないか。しかしあの時は彼女がいた。今はいない。その違いはあまりにも大きかった。自分は彼女に未だに依存していた。


 仕方なく、染谷は自分のやり方で校内の諸問題を処理し始めるようになった。しかしそれはしばしば人間関係の軋轢を生じた。彼を支持する者も大多数はいた。しかしそれはやはり望月という存在あってのことだった。次第に現体制に不安を覚える空気が浸透していった。


 彼女の両親は、望月の現状を聞いたときこそ彼女の身を案じるような素振りを見せていたが、療養という名目で市外の住居に移し、家政婦に処理を押し付けた。しかしそれもやむを得ないことなのかもしれない。もし自分が同じ立場になったらどうだ。彼らと同じ行動を取らないと、果たして言い切れるだろうか。


 彼らはその中でも最も冷静な手段をとったというだけの事だった。


 彼女からその旨の連絡を受けた時は、彼は人間不信に陥りそうになった。しかし思い出して見れば、自分は両親に見放された人間を一人よく知っていることに気がつく。ただ、今は自分が落ち込んでいる場合ではないことは理解していた。それでも心中は生徒会の事と彼女の事で混沌としていて、睡眠も取れない夜が続いていた。


 ようやく生徒会の業務が一段落し、土曜日に彼女のもとへ見舞いに行くことにした。彼女を安心させるためにも、生徒会を自分一人でも守りきらなければならなかった。例え彼女が、もう二度と戻って来ないのだとしても。


 彼女にそう連絡すると、萎れるような声で了承した。


 彼はピンクのガーベラの花束を手に、支持された住所へ赴いた。逢見市を出ること一時間弱。見知らぬ地で人に道を聞きながらたどり着くと、そこには望月一人に与えられたとは思えない程の立派な一軒家があった。


 インターフォンを押すと暫くして一人の女性が応答し、見舞いに来た旨を伝えると、中年の女性が扉を開けてくれた。彼女に花のアレルギー等がないかどうか聞き、了承を得て寝室へ。家政婦の女性は快く対応してくれた。


 あれから彼女と会うのは初めてだった。どうな表情をして、どんな言葉をかけてやれば良いのかは分からなかった。しかし、彼は彼女の力になりたかった。自分は両親にも友達にも誰にも手を差し伸べてもらえなかった。そこへ彼女は、望月燕は一人、染谷明に人並みの人生をくれた。そして今、彼女が両親から見放され、誰からも見放されると言うのなら、今こそ自分が彼女への恩を返す時だと。そう思った。


 再開した彼女は、あまり食事を取っていないせいか、痩せ細って頰が少しこけていた。彼女はベッドに腰掛け、こちらを見ていた。その瞳は虚ろで、かつての聡明な輝きは失われていた。


「よう、来たぞ。これは家政婦さんに渡しておくな。あんまり食べてないんじゃないのか? 食事はしっかり取るんだ。あんたのそんな姿は、……なんだ、あまり似合わない」


 精一杯の励ましのつもりだった。染谷はこういう時に、どうしたら良いのかが分からない。しかしその気持ちだけは届いたのか、彼女は口を開いた。


「染谷君のくせに、生意気ね」


 ほんの少しだけ。いつもの彼女がそこにいた。


「生徒会は心配いらない。俺が何とかする。あんたはまずは休むことだ。そして食べろ。そして、寝ろ。病は気からというだろう」


「ええ。そうさせてもらうわ。本当に、貴方を選んで良かった」


 そんな些細なやり取りが、自分にとっては大切なものだったのだ。最近の生徒会業務と彼女の離脱が、そんな当然のことに気付かせてくれた。彼は少しだけ救われた。


 会話は陽が落ちるまで続いた。心地よい時間は、相対的に早く変化して感じられる。それもまた、錯覚だ。


「染谷、君。もう帰ってしまうの?」


「そろそろ、流石に不味いだろう。あんたも疲れたんじゃないのか。体を大事にしたほうが良い」


 彼女は、僅かに頬を染めた。


「私、あれから暗いところで、眠れなくなってしまったの。目を瞑ると嫌なことを、思い出してしまうの。それに、独りで眠るのも、本当は怖いの。だから、だから……」


 今の彼女は、普段の聡明さや可憐さが抜けていて、どことなく、艶やかで、生々しかった。


「朝まで、傍にいて欲しいの」


 気が付けばシャワールームにて、彼は汗を流していた。他意はなかった。自分の部屋に帰らないことになり、ここで体を洗う必要性が生じただけである。彼女に不快な思いはさせたくはなかったし、症状はまだ表れていないかもしれないが、彼女は徐々に体の免疫力を失っていくはずだ。できる限り清潔にして接するのが良いだろうという配慮。


 あらかた流し終わると、家政婦の用意してくれた夕食を御馳走になった。普段は自分が料理するしかなかったが、たまには他人のつくる料理というのも、なかなかに良いものだった。そういえば、望月は料理はするのだろうか。


「ごめんなさいね、我儘をいって。染谷君はご両親は大丈夫なの?」


「さあ、知らないな。今頃どこかで、ギャンブルでもしてるんだろう。つまりあんたと同じだ」

 

「……そうね。おんなじね」


 彼女がベッドに横たわると、彼はその横に椅子を置いて座る。家政婦には許可を取っていた。明日は日曜日。心配する両親も無し。いつまででも、彼女に付き合うつもりだった。


「なんだか、変な気分。私が寝ていて、そこに染谷君がいるなんて。私が頼んだことだけれど」


「本当だぞ。さっさとあんたが寝てくれたら、俺は帰れるんだが」


「……卑怯な人ね」


 生徒会の近況報告から、思い出話まで、様々なことを話した。新しい生徒会顧問についてや、新入生の今年の傾向、入学式の会長スピーチを急遽代行してやり遂げた事、生徒会のメンバーが望月のことを心配している事、などを彼は話した。その間彼女はしばしば相槌を打ち、それを聞いていた。彼女と最初に出逢った頃にも、こんな風に話したことを彼は思い出していた。夜は、更けていった。


 深夜には、人間の悪意だけでなく本心までもが顔を覗かせる。それは、誰にも知られたくないことだからだろう。自分の中に隠しておきたくて、ずっと奥深くに守っておきたいもの。それが誰もが寝静まり、夢を見ている時間には解放されるのだ。彼女の場合それは、ずっと心中に秘めていた苦痛だった。


 それは唐突に吐き出された。


「染谷君、私のこれまでの人生って、一体なんだったのかしらね」


「誰かの助けになれば、誰かの救いとなることができれば、きっと自分も幸せになれる。そう信じて、今まで生きてきた。頑張ってきた。辛いことも、苦しいことも、乗り越えてこれた。けれど、こればっかりは、もう…………私は、もう分から、ないわ」


「私は、何か間違っていたの? 私の抱いていたものは、幻想、だったの? 私は夢見がちな、馬鹿な女、だったの? ……教えて。教えてよぉっ。染谷くんっ」


 彼は、何も言うことができない。彼女に対して、かけるべき言葉を何一つ持ち合わせてはいない。彼は悔しかった。目の前の彼女の絶望を、晴らしてやることが自分には出来ない。その無力さに歯噛みした。


「いやあぁ。もう、いやだあぁ。こんな……こと。こんな、こんなはずじゃ。こんなはずじゃなかった、のに。どうして、何で私なのよぉ。何で私だけが、こんな目に……」


 ベッドに駆け寄り、彼女の肩を触ろうとすると、彼女は激しく叱責し後ずさった。


「やめてえっ。触らないで。私は穢れているんだからっ。こっちに、こないで。うう、うううううううううううううううううぅぅ。そうよ。私、は、もうだれとも、だれとも…………」


 そう。彼女はこの先誰とも体を重ねることができない。触れ合うことすら、難しい。この先誰かを愛したとしても、その誰かを彼女は受け入れることもできない。それが女性にとってどれだけ辛いことか。彼女の心境は想像するに余りあった。


 自分は彼女の為に何ができるのだろうかと、ずっと考えていた。その答えは一向に見つからないでいた。しかし、今ふと思ったことがある。彼女を救う唯一の方法。代償はあるが、それはもともと彼女に貰ったものだ。今こそ、それを返す時がきたのだ。


 彼は彼女の腕をとった。


「染谷、くん」


「俺はあんたが好きだ」


 呆気にとられる彼女を差し置いて、その体を両腕で捕まえ、自分のもとに引き寄せる。彼女は必死に逃れようとするが、力で叶うはずもない。それは無駄な抵抗。


「やめ、て。駄目よ……。駄目」


「俺はあんたになら移されても構わない。もともと体は丈夫に生まれたのでな。そんな程度で壊れてしまうような、中途半端な鍛え方もしていない。それに俺の事を心配するような人間にも、心当たりはない。むしろ俺がいなくなったらほくそ笑むだろう人間はいくらでも思いつくがな」


「そめや、くん」


「どうだ。この先のあんたの人生に、あんたの為に命を懸けられる男がどれだけいるだろうか。俺はあんたに命を捧げられる。引け目を感じることはない。俺はあんたとずっとそうなりたいと思っていた。これは病を利用してあんたを手に入れるための、しがない男のやり口だ。俺は貴方が欲しい」


 彼女の顔を、自分のそれと向かい合わせる。


「やめ、て。いやっ。そんなこと、できるわけがないでしょう。私に貴方を殺せと言うの? 貴方の人生を奪えと言うの? あの男と、同じことをしろと?」


「したところで、確実に感染するというわけでもないだろう」


「同じよっ。ロシアンルーレットの引き金を、貴方に向かって引けるわけがない」


「何もすぐに死ぬわけでもない。ただあんたと一緒になり、あんたと一緒に苦しみ、あんたと一緒に笑い、あんたと一緒に泣き、あんたと一緒に生き、そしてあんたと一緒に死ぬだけだ。それは俺が望んでいることだ。むしろ移してくれ。俺は貴方と一緒になら死んでいい」


 嘘偽りのない本心だった。染谷明は、心の底からそう思っていた。今彼が持っているものは、全て彼女が俺に持たせてくれたものだ。ならば捨てるのに悔いはない。それが彼女の為ならば、尚更だ。その時彼は固く決心した。この人の為に、命を懸けることを。


「……考えさせて」


 彼女はそう言って彼の口を掌で塞いだ。


「今すぐには、無理。気持ちは、嬉しいけれど。一週間、頂戴。考えて、みるから」


 こんなにも長い七日間というものを、彼は初めて経験した。しかしいつもと何かが変わることはなかった。いつも通り、彼女の生徒会を守るだけ。彼は学校中を疾走し、問題があれば解決し、不良がたむろすれば成敗し、誰かが苦しんでいたら手を差し伸べた。


 その週の最後の金曜日、夕焼けが鮮やかに生徒会室を照らし出す午後。誰もが帰途についた生徒会室を訪れると、そこにいるはずのない人物が人知れず(たたず)んでいた。


「あんた……どうして」


「染谷君、奇跡が起きたのよ」


 彼女が振り返ると、妖艶にも破顔した。その口元には、鋭い八重歯が覗いていた。


「これでずっと一緒にいられるわ」


 彼女は異形の存在に憑りつかれていた。それに付けこまれてしまった彼女のことを、責めることは出来ないだろう。吸血鬼(かれら)は絶望の匂いを嗅ぎ分け、這いよって来るハイエナが如き存在だ。彼女は人間をやめることを代償に、限りのない命を手に入れた。


 そこからは更に深い闇。


「染谷君、私は血が必要だわ。貴方のは勿体ないから、逢見の誰かのものを手に入れましょう。どうせ皆生きる価値のないゴミのような人間ばかりだもの。恩も知らない、愚か者ばかりだもの。今から返してもらうわ。私の与えた分の恩を」


「自ら動いて手当たり次第に吸っては駄目だと言われたの。だからこれを使って、この牙を使って、私の代わりに集めてもらうことにしたわ。効率的な方法でしょう? どうかしら。良い考えだと思うのだけれど」


 救いのない、闇。


「まだ足りないわ。もっと、もっと欲しい。貴方、私の為に生きるのよね。そう言ったわよね。ならこれを、貴方にもつけてあげるわ。喜びなさい。たくさん取ってきたら、色んなことをしてあげるわ」


 それでも、彼女が生き続けるのならと。


 次の瞬間、目の前にはブランコに腰かける少女の姿。彼女は泣いていた。どうして泣いているのかは分からない。恐らく苦しいのだろう。辛いのだろう。ならば終わらせてやろう。やけに硬くなった自らの拳で目の前の肉塊を殴る。骨が折れる音。悲鳴。逃げる。追う。逃げる。追う。


 とうとう彼女は力尽き、木の根元に崩れ落ちた。その顔は絶望に打ちひしがれ、涙と鼻水で汚れ、憎悪に歪んでいた。


 ゼッタイニユルサナイ。


 ワタシヲコロシタノハオマエダ。


 ノロッテヤル。


 オマエモコッチニコイ。


 何かがおかしい。何かが変だ。何かが違っている。彼女がそんなことを言うはずがない。世界の違和感。それは一旦気が付けば、見る見るうちに広がっていき、彼の全身を包んでいった。目の前の彼女の姿が、歪んでいく。そこで望は覚醒した。


「お前は浅間じゃない。そして俺は染谷明ではない。これは幻想だ。お前は吸血鬼だ。俺は叶望だ。消え去れ、鬼共ッッッ!」


 望を包む世界の殻にひびが走り、それらはその世界そのものを伴って崩壊していった。

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