第三十一話
「これで条件は同じだ。俺とあんた、どちらの気力が上を行くのか、どちらが自らの正義を貫けるかどうかの闘いになる。……準備はいいか」
「……良いだろう。思えばこのような対等の立場で闘える相手というのも失って久しい。手を抜く必要もないのは気が楽で良い。いいぞ。これほどまでに心地よい緊張感は、ここ最近なかった」
望の脳内からは当初の、生き残るという目的は既に形骸化していた。今はこの男を止める。そのことに全精力を、心血を注ぎ切る。勝利の保証の全くない闘いであったが、望は興奮さえ覚えていた。こんなにも生を噛み締めさせてくれる緊張を、望もまた感じるのは初めての事だった。
浅間のことを忘れたわけではない。しかし、この目の前の兵に対して、自分がどこまでやれるのかを試してみたい。
日の沈み切り、月も顔を隠した夏の夜。互いの呼吸の音まで聞こえるような、静寂の支配する暗闇。そんな中、逢見市連続猟奇殺人の決着を結ぶ闘いが人知れず幕を開けた。
望は安易にこちらから仕掛けることはせず、慎重に相手の出方を伺う。染谷はその鋼鉄の拳で顔面をガードしたボクシングスタイル。人体の急所である脳を守っているのだろうが、それ以上にこれは神器を狙われまいとする考えの表れだろう。あの牙は、武器であると共に弱点でもあるということだ。
どうにかしてあの鋼鉄の護りを叩き落とし、本丸へ切り込まなければならない。
意識を研ぎ澄まし、敵の一挙手一投足に集中。瞬きすら見逃さない。プシュケーの挙動をも感覚し続けた。呼吸すらとめて自身の頭からつま先までを鋭敏なアンテナとし、僅かな流れでさえ逃さぬように全神経を集中。相手が動くのを待つのだ。
染谷もまた軽々に勝負をかけたりはせず、此方の動きを観察しているようだった。もう先ほどのような隙は与えては貰えないだろう。
暫くの間無言の闘争は続いた。瞬きも許されずに乾いていく眼球。対して染谷は大地に屹立した銅像の如く微動だにしない。
静寂。
沈黙。
それらが支配する空間で、ほんの一瞬脈動したプシュケーの閃きを望は見逃さなかった。
故に望はその襲撃に対して一瞬早く対応できた。今まさに望の脳髄を打ち砕かんとばかりに迫り来る鉄拳に剣を合わせることができた。瞬発力は先ほどよりも数倍に跳ね上がっている。剣を通していても、その剛力はこちらをその力だけで捩じ伏せようとしてくるかのようだ。
そして今こちらと鍔迫り合っているのは染谷の右の拳である。当然、拳は人間には二つある。
渾身の力を両腕に動員し、染谷の右の鉄拳を剣で打ち落とした。迫り来る左拳を寸前で躱しながら、背後にステップ。距離をとる。ほんの一瞬前には望の頭部が在ったその空間を、鉄腕が莫大な質量と運動エネルギーを伴って通過していくのが見えた。拳が空を切ることにより生じた風が、望の頬を叩く。
「ほう……見えている――のではなく感じている、のか。器用な奴だ」
何とか凌いだ。凌ぎはしたが、望はその絶望的なまでの力の差をその手に感じていた。両手を襲う激しい痺れ。こちらは神器で受けたとはいえ、それを支えるは常人の筋肉である。対して向こうは神器によって直接肉体を強化してきている。あの鉄腕に対抗するだけの強度がこの剣にはあるようだが、これではこちらの身が持たない。
額を冷や汗がつたう。次の攻撃を受け切るだけの腕力は、どうやらもう残ってはいない。今は精神力のみでプシュケーの感覚を辛うじて保っているだけだ。どうすれば良い。どうすれば。
諦めるな。
望は冷静だった。何よりも、彼女の死を無下にするわけにはいかない。その一心において彼の心中はいつになく明瞭であった。望は考えた。自分にできることは力で強引に捻じ伏せることではない。考えることだ。思考を巡らせ、策をもってこの場を切り抜けるのだ。
既に必要のない視覚情報を、望は瞳を閉じることによって捨てる。途端に、より濃い闇によって眼前に広がる世界が塗りつぶされていく。そして魂の奔流がより鋭く感じられるようになる。視覚を失うとそれ以外の聴覚や嗅覚が強化される現象と何ら変わりない。その真の闇の中でも、染谷の居場所はプシュケーの流れを縁取る形で浮かび上がっていた。わかる。感じる。
視覚が排除されたこの状態において、感覚のみならず思考までもが研ぎ澄まされていく。そんな時、望はあることに思い至った。
望の手にした剣が内包するプシュケーが、異常なまでに高密度に保たれているのだ。染谷の”牙”とは比べるべくもない、最早この剣は、プシュケーの塊である。これほどまでの高濃度のそれは、あのラミアからでさえ感じた事はない。そのあまりにも濃いプシュケーは色で表現するならば黒。目を閉じた光の失われた漆黒の世界においても、それははっきりと周囲の闇と区別できるほどに深い黒色をしていた。
その黒は剣の周囲へと少しずつ漏れ出ているように、見えた。
あたかも剣という入れ物から溢れんばかりに、はち切れてしまいそうな――
待て。
彼女は、ラミアは先ほど何と言っていた。
”いいさ。今度ばかりは許してやる。イメージしろ。望の思う力を。今必要な力を。そしてそれを右手で掴み取る光景を想像しろ。さすれば、それは想像のままに、思い描いた形で現れるだろう”
それは想像のままに、思い描いた形で現れる。
望は一つの策とも言えない希望的な考えのようなものに思い至った。それは到底命を懸けられるようなものではなかった。しかし、他に選択肢はない。成功するかどうかは不確定。しかし俺は先ほど奇跡を起こした。今日の自分はどんな不可能でさえ、可能にしてしまうような気がした。きっと、それは錯覚だろう。しかしその錯覚に、命を懸けてやる。叶望は腹をくくった。自分のすべきことをを脳内で整理し、覚悟をきめる。次で最後だ。生きるも死ぬ、この目論見がうまくいくかにかかっている。
瞳をゆっくりと開ける。それまでの一連の動作は時間にして数秒だった。眼前には鋼鉄の拳を携えた兵が一人。我が人生において紛れもなく最強の敵。しかしここで打ち倒さなければならない。実力差は言うに及ばない。そんな自分が、その差を覆そうというのならば、我が身を賭した策に打って出る他に道はない。
「思考は纏まったか? 人生に幕を下ろす準備をしておけ。なぶり殺しはせぬ。一撃のもとに脳髄を破壊する」
「あんたこそ、死ぬ覚悟を決めてかかってこい。そうでなければ、その一抹の油断の隙に、俺が噛みつくくことになる。それがあんたの最後だ」
「もとよりそのつもりだッ」
魂の閃き。肉体が動くよりも一瞬早くそれが先行する。染谷の動きが先読みできた。直線的に突進し、こちらへその拳を打ち込んでくるのだ。しかしそれを受け切るだけの力はこちらにはない。
望は剣を再び構える。お前に全てがかかっている。無様に倒れ、彼女の無念も晴らせずに死ぬか。ここで兵を打倒して生きるか。それは剣にかかっている。後はそれを、自分にすることができるか。その資格が、自分に備わっているか。
膨大な質量がこちらへ目掛けて猛進してくる。死そのものが物凄い速度でやってくる。襲いくる恐怖を捻じ伏せ、頭が狂いそうになりながらも、望はただ一つのことを念じ、気力のみで精神を支え、自らの魂と意思を織り交ぜて、その手に煌めく漆黒の剣へと流し込んだ。
全ては一瞬の出来事。
染谷が拳を引き、望の頭蓋を狙い渾身の一撃を放ち、それが物体を捉えるまでは一瞬。そして勝利を確信した染谷が、その拳の感触、手ごたえに違和感を覚えるまでもが、総じて一瞬だった。しかし、その一瞬は望にとっては十分すぎた。
その一瞬の間に、漆黒の剣は剣とは最早言えない形へと変貌を遂げていた。起こったのは爆発、に近い現象だった。溢れんばかりにプシュケーを詰め込んだ剣が、その内なる魂の奔流によって器としての形を押し広げられ、その体積を膨大なものへと変えたのだ。その形は分厚い漆黒の板、のように見える。漆黒の板は染谷の鉄腕から望の体を守護し、その圧力を完全に防いで見せた。ヒビ一つない。
望の手にした剣の柄はそのまま残存していて、漆黒の板はその柄から伸びた剣の先と繋がっている。この神器は使用者の精神に呼応し、必要に応じて姿形を自在に変化させる武具。もとよりその本来の姿は剣でさえないのだ。
剣は叶望の中にある、八重垣命の、闘う者としてのイメージ。
そしてこの眼前に塗壁のごとく立ちふさがる物体は、そう。左右で微妙に形が異なっている。左側面が多少ゆるやかに膨らんでいて、右側には逆にへこみがある。それは非常に慣れ親しんだものだ。彼女だけのイメージではない。それにはきっと染谷明自身のイメージをも合わさっている。それは巨大な本、だった。あまりにも強大な違和感を醸し出していたが、それは紛れもなく背表紙によって幾重ものページが束ねられた、巨大な本の盾に他ならなかった。
浅間栞の、他人を守ろうとしたイメージの象徴だ。それが今、形を伴って、染谷の襲撃から一度ならず二度までも、叶望を守った。
浅間、栞。
「ぬう。こんなもの……ええいッ」
鋼鉄をも受け止める漆黒の盾。それに勢いよく突進した染谷の体制は大きく崩れた。本越しにも望にはそれがわかった。そして、その隙を逃しはしなかった。今一度、残りのプシュケーを全て、神器に注ぎ込む。剣がそれに答える。
本の盾の中央を、剣が刺し貫く形で染谷の側にその切っ先が突如現れた。一本だけではない。本の上方、下方、右方、左方、あらゆる角度から鋭利な剣先が伸長し、染谷の体中を貫いたのだ。その数にして五本。染谷はその四肢を総じて刺し貫かれ、最後に顎部に在る牙を、口腔内から貫かれた。聞くも無残な断末魔を闇夜に響かせて。
生々しい手ごたえは、望の手元の柄から伝わってくる。肉体を貫通する感触と、音。彼の魂の奔流が徐々に弱まっていくのがわかった。その向こう側を伺うのは少々躊躇われた。
終わった、のか?
「はあぁ、……はぁ、ぁ。はあぁ…………」
危なかった。まさに死線を潜り抜けた。すぐそこまで死が迫っていた。最後に望を押し留めたのは、力となったのは、二人の女性の存在だった。どうやら自分は、浅間以上に八重垣命という女性のことも気に入っているらしい。
そして、また助けてくれたな。
「助かったよ……本当に」
浅間栞。
今はもういない。しかし、ここにはちゃんといる。そして俺を寸前で引き戻してくれた。二度までも、守ってくれた。本当に、大した奴だ。
望は、彼女の現身を眺めながら、心からそう想った。




