第二十九話
周囲は鉄の檻に囲まれ、断崖絶壁、底の見えない深淵。目の前には俺がこの夏の間探し求めていた逢見連続殺人事件実行犯が一人、染谷明が文字通り牙をむいて立ちふさがっている。ただでさえ身体能力の優れた男、吸血鬼の力を手に入れたとあっては、今の望には太刀打ちできるとは思えない。
浅間はその時、どのような感情を抱きながらその最後を迎えたのだろうか。同じ境遇に立たされた今ならば、その心の内を察することができるかもしれない。浅間は染谷のことを知っていた。自分が知る人間が、その表の姿を豹変させ、自分を殺そうとする現実。今ならばそれを自身の心情にトレースすることは可能だ。しかし何故だろう、胸の辺りが、激しく痛むのだ。
彼女も、痛かったのだろうか。苦しかったのだろうか。
「浅間は、……あいつじゃなきゃ、いけなかったのか。血を奪われるのは、あいつじゃなければならなかったのか?」
「いや、誰でも良かった。身の回りの、自分にとって優先度の低い者ならば誰でも。正確に言えばこの逢見市の者ならば誰でも」
「…………ならどうして、あいつなんだよッ。もっと、他に……」
「どうして自分に関係ない人間ではなくて、浅間栞なのか、か? ずいぶんお前は自分勝手な考えを持っているようだな。誰とも関係のない人間などいない。誰を標的としたところで、お前のように苦しむ人間は現れるだろう。ならば標的は誰でも良い。その罪の重さは変わらないのだから。強いて言うなら、あの晩お前が彼女を独りにして去ってくれたおかげで、やりやすくはなったが」
胸の刺すような痛みが、その鋭さを増す。それを考えるのは、意味のないことだと断定した、つもりであった。しかしその意識を完全に消し去ることもまたできなかった。自責の念。望は未だに闘っていた。あの時、何もできなかった自分と、弱い自分と――。
「お前は、縛られているのか。吸血鬼に支配され、その牙に縛られ、人を殺すのも強制されてやったことなのか」
その質問には、他のそれまで問いよりも答えるまでの間が一瞬だが、長かったように感じられた。
「俺はこんなものに縛られてなどいない」
染谷明は語る。その表情は、心の奥深くに絶望を抱えた者のように望には見えた。染谷の神器の口の部分は時折痙攣しながら開閉し、染谷の意思を言葉にした。その言葉が、吸血鬼に支配されてのものだったなら、どんなに救われただろう。しかし望の目には、彼が本心を語っているようにしか見えなかった。感じられなかった。プシュケーの感覚が、教えてほしくない事までも望の大脳皮質に伝えてくる。
「俺が縛られているのはもっと別の物だ。神器よりも強く、絶対的に俺を縛り付けてくる。しかしそれは俺の意思だ。心配はしなくていい。俺は自らの意思以外で動いたことは一度もない。浅間を殺した罪は俺に在り、そして今からお前を殺す罪はやはり俺に在る。言い訳や責任転嫁などするつもりはない。俺は殺人者だ。浅間の命を奪った者が憎いのならば俺を憎め」
既に同情の余地は皆無だった。この男は浅間栞を殺した。文学を愛し、偶像を愛し、そして自分を愛してくれた少女を、この男は殺した。命を奪った。もうこいつは殺さなければ駄目だ。そうしなければ、自分が壊れてしまう。このどこにも行き場のない憎しみが、怒りが、叶望という器を完膚なきまでに壊すだろう。この男でそれを清算しなければ。俺は俺という器を保てない。
もう、やるしかないな。
「もう駄目だ。やるなら早く来い。もう俺は我慢できないようだ」
「いいだろう。俺としては非常に残念だが、ここまでのようだ。浅間のもとへ送ってやる」
腰をかがめ、あらゆる攻撃に受け答えられるように戦闘準備。対する染谷は右足を上げて構える。まるでフラミンゴの様だ。染谷明はテコンドーの使い手だと高坂は言っていた。テコンドーといえば多彩な蹴り技があることが特徴の格闘技だ。あの構えは瞬時に足技を放てるように特化したものだろう。磨き抜かれ、そして神器の力で増幅された足技の威力は想像に難くない。
相手は神器を備え、格闘技の達人。それに対してこちらは身一つの人間。状況は圧倒的不利。こんな時に赤髪の吸血鬼の横顔が想起されることに嫌になる。彼女は今ここにいない。そしてこれは俺自身の問題だ。俺が打ち勝たなければ、乗り越えられない試練なのだ。そうして彼女の相貌を脳内から追い出す。
思い出せ。あの時だってできたはずだ。俺は吸血鬼狩りの襲撃から生き延び、三人の不良生徒を打倒した。八重垣との剣道勝負では互角の打ち合いを演じもした。修練は欠かしていない。自分には力がある。そして感覚がある。相手の神器を上手く無力化さえすることができれば、勝機はあるはずだ。いや、見出して見せる。
瞬間、闘いは始まりを告げた。染谷の目が見開かれ、二、三メートルあった間合いが瞬時に詰められる。そのあまりにも早い行動に、望の動きは止まる。
染谷の膝蹴りが望のみぞおちを鋭く狙った。欠けた奥歯を噛み締めながら狙いを辛うじてずらし、右手で防ぐもその勢いを殺しきれずに後方に投げ出され、鉄柵に強く打ち付けた。一瞬息が止まり、右手を強い痺れが襲う。
速すぎる。
桁違いだった。戦闘経験の差があり過ぎる。同じ人間とはとても思えない。
「どうした。もう終わりか」
暗闇の中を足音がこちらへ向かってくる。それはある意味で死神の足音。望の終わりを告げにやってくる死神の足音。立たなければ、俺はこのまま殺される。
何とか立ち上がり、目を凝らして染谷の姿を捉えようとすると、目の前に右足による跳び蹴りが迫ってきた。それを顔面に受け意識が一瞬飛び、仰向けに倒される。頭の中を火花が散っていた。脳震盪を起こし、身動きが取れなくなる。まずい。このままでは。
「なあ、人間はどうしてそこまでみっともなく生きようとするのだろうな。どうせ皆いつかは人生を終えるのだ。人の道を外してまで、この世に縋りつく理由には、一体何があるのだろうな」
染谷は俺のことを言っているのかと最初は思ったが、目がこちらを向きながらも見据えていないことに気が付く。こいつは一体誰を見て言っている?
「俺は別に良かったのだ。彼女がそれを望むのなら、共に死を選んだろう。その覚悟はあった。しかし彼女は化け物に成り果ててまで、この世に執着した。その理由がお前には分かるか? 俺にはどうしても理解できないのだ」
望には奴が何を言っているのか理解できなかったが、いくつかの単語が脳裏に引っかかった。彼女、化け物、……諸悪の根源たる吸血鬼は、染谷の知る人物ということなのか。
ローファーの靴底に胸板を踏みつけられ、万力の如く圧迫される。息が苦しくなる。思考が朦朧としていく。このまま自分は死ぬのだろうか。血を吸われ、吸血鬼にもならずに死ぬ。プシュケーには魂が宿るという。奴の神器の中に浅間の血液がまだ残っているのだとしたら、そこで彼女の魂と俺の魂が混ざり合うことになるのだろうか。そうだとしたら、それも悪くはないのかもしれない。そんなことを思い始めていた。
ラミア、八重垣、済まない。
真相も半ばに、俺はどうやらここまでのようだ。
痛みに涙があふれ、意識が段々と希薄になっていく。命が死に近づいていく。そんな中、どこかずっと遠くに聞こえる染谷の言葉があった。
「あの時の浅間はどんな最後だったと思う? 俺に襲われ、命からがら山の方へ逃げ、とうとう追い詰められた彼女が最後に何といって死んだか気にはならないか?」
浅間…………。
「彼女はこう言っていた。”叶君じゃなくて良かった。彼を逃がせてよかった”と。泣きながら笑っていたよ」
望は気が付けば垂直に立ち上がっていた。そのせいで足を取られバランスを失った染谷の脚を掴み。一瞬動きの止まった染谷の顔面即ち神器に向けて右の拳を渾身の重みで放った。
たまらず後方へ倒れる染谷。油断していたのか、ダメージは与えられたらしい。完全に全てを諦めていたと思ったのだろう。いや実際に、望は先ほどまで全てを諦め、終わりを受け入れようとしていた。
それを疑問に思ったことはあったのだ。彼女はなぜ公園で襲われた後に望の帰って行った方向に逃げなかったのだろうと。少なくとも自分の身に危機が迫れば、助けを求められる他の人間がいる確率の高い方へ逃げるのが当然だ。しかし現実に彼女はその時間に人がいるはずのない方向へ、即ち山道へ逃げた。それはどうしてか。染谷の異能に気付き、自分の命がここまでだと悟り、他の人間から、叶望から染谷を遠ざけるために山道へ逃げたのだ。
どうしてそんなことに気が付かなかった。
俺は馬鹿だ。浅間栞という人間のことを全く分かっていなかった。彼女のことを分かっていたつもりだった。本を読むときに視線に気が付かなくなる。不意に褒められると赤くなる。そんなことばかりを見て彼女という人間の本質を全く分かっていなかった。
もっと知りたい。
しかし、それはもうできない。
もうできないのだ。
浅間栞はこの世にいない。
それは厳然たる事実。
”貸し出しカードをお預かりします。いつもありがとうございます”
”洋書を読まれるなんて、凄いですね。私英語は苦手で。国語と古典は得意なのですけれど”
”また会いましたね。こんなところで会うなんて、なんて奇遇なんでしょう”
”今日はお姉さんが奢ってあげます”
”……叶君、ありがと。じゃあ”
”叶君、試験が終わったら、ちょっと付き合って欲しいの”
”別に変じゃないけど、貴方はそういう気遣いをしない人なのかと思っていたからちょっとね。……そっか、貴方はそういう人なのね。また貴方のことを一つ知れた”
”浅間栞は叶望のことが好きよ”
どうしてこんな時に彼女との記憶がこんなにも止めどなく溢れくるのだろう。彼女はもういないのに。望は悲しかった。彼女との記憶を思い起こすとなぜか涙が一緒に溢れてくるのだ。この温かい透明の液体は、どうして、全く止まらない。
ここで死ぬわけにはいかない。
彼女が救おうとした命だ。彼女が守ってくれた命だ。ならばここで死ぬわけにはいかない。どうしても死ねない。ここで無様に敗北して死ねば、例えあの世で彼女と再会したとして、どんな顔でいればよいというのだ。
ここで死なないために、自分はどうすればよいか。
「多少の力はあるようだな。ようやく本気になった、といったところか」
染谷明は既に立ち上がり、こちらを向いて再び構える。
「ああ。またせたな。お望み通りこちらの本気を見せるとしよう」




