第十九話
そのあとは逃げるようにアパートへと帰った。扉を開けるとベッドへ身を投げ、布団を被って、世界から自分を隔離しようと無駄な抵抗を試みたが、無駄に息苦しくなっただけだった。思考を紡げば、何もかもを彼女に悟られてしまう気がして、なるべく頭の中を空洞にしようと努力するが、中々上手くいかない。混沌とした脳内からは、さっきまでの刑事との会話が壊れたラジオのように何度も再生された。
そんな中、最早遠い昔のことのような記憶に思い至る。逢見市連続猟奇殺人。いつか見たニュースで報道されていた。どうして自分は忘れていたのだろう。あの夜、自分は浅間を連れてあんなところへ行くべきでは無かった。ましてやその後、彼女を一人で置き去りになどすべきでは無かった。何としてでも、止めるべきだったのだ。
「俺の、せいか……」
こんなことになるなんて想像すらしていなかった。まだ二十四時間も経っていない。昨日のこの時間はまだ彼女は生きていた。まだ学校にいたのだ。そして、自分と別れるまでは確かに生きていた。しかしその後、殺された。一体その後何があったのだろう。布団の中で思考とも言えない無秩序な何かを垂れ流す。考えが全くまとまらない。
こんな時に、弱い自分が姿を現す。非力で臆病で、耳を塞いで目を閉じることしかできない弱い自分。別れを告げたはずの自分。捨てたはずの自分。しかしそんな自分はまだ自身の中に残っていて、普段の叶望が弱ると顔を出すのだ。
……あの時、彼女を一人にさえしなければ。
しなければ、どうだと言うのだろう。そんなことは分かっていた。今更後悔をしたところで、何かが戻ってくるはずもない。しかし、それでも、後悔せずにはいられなかった。そんなに簡単に割り切れる物では無かった。
自分と関わったが為に、浅間栞は死んだ。そんな思考にさえ行き着く。自分とさえ出逢わなければ、彼女は今も変わらずに生きていただろう。生きていただろう。まともな人間なら、あんな馬鹿なことになんて付き合うはずがないのだ。吸血鬼、その単語に初めて望は心の底から恐怖を感じた。畏怖を抱いた。自分は忘れていたのだ。彼女が異形の存在であったということを。
このままここで一生燻っていたかった。もしかしたら、もしかしたら本当にもしかしたら、このまま死んだように眠れば、起きた後は全て夢だったということになるかもしれない。夢の話を彼女にすると、散々笑われた挙句からかわれ、八重垣も共にに出かけるのだ。場所はどこでも良い。海でも山でも良い。しかしそんなことはあるはずも無かった。望はラミアの修練の中で、現実と幻想を見分ける術を得ていた。その紛れもない望の感覚が叫んでいた。これは現実だと。夢落ちなどというつまらない洒落では決してないということを。唯一無二の現実なのだと。浅間栞は逝ってしまったのだと。
八重垣は俺のことを責めるだろうか。俺が付いていながら、殺されてしまったのだ。彼女なら俺を殺そうとしてもおかしくない。いつかの豹変した彼女の顔を思い出して憂鬱さが一層増した。
こんなことになるのなら、最初から出逢わなければ良かった。一度でも、自分以外の誰かとの繋がりを求めたのが間違いだったのだ。希望を持とうとすると絶望が待っている。繋がりを求めれば、裏切られる。失う苦しみしかないではないか。最初から何もなければ、失うことなんてないのに。苦しまなくていいのに。
気が付けば望は図書室にいた。辺りはやけに静かで、窓の外は鮮血のように赤い。そこが夢の中であるということは、すぐに気付いた。疲れて果てて眠ってしまったのだろう。辺りを見渡すと、自分は机に座っていた。足や手は動かない。窮屈で息苦しい。
困り果てたところへ、不意に窓際に女子生徒が立っていることに気が付く。窓の方を向いていて、こちらには背を向けている。助かったとばかりに自分は彼女に助けを求めようとするが、望の口から言葉が出ることはなかった。声の出し方を忘れてしまったようだ。いくら喋ろうとしても、掠れた獣の鳴き声のようなものしか出ない。
それに気が付いたのかどうか、彼女はこちらへと振り向いた。しかし奇妙なことに、彼女の表情は見えなかった。彼女の顔にだけ、黒い靄のようなものがかかっていて、どんなに目を凝らしても見えない。
彼女は自分に向かって近づいてきた。その光景に望は本能的な恐怖を覚えるが、身動きは出来ず逃走もままならない。目を背けようとするも、眼球さえ貼り付けられたかのように、動かない。動かない。
そして気が付けばそこは、昨日彼女と別れた公園だった。さっきまでそこにあったはずの書架も、机も、窓も姿を消し、自分はブランコに腰掛けていた。妙に肌寒く、震えが止まらない。目の前には、やはり顔の無い少女。自分には、彼女が誰なのか何と無く分かっていた。
「私を、置いて、いったわね」
彼女は音もなく、こちらへと歩み寄る。呼吸すらも、できなくなる。
「よくも、私を……よくもぉ」
その声は酷く掠れ、まるで亡者が死の淵から発しているかのようだった。鼓膜がその音を震わせる度に体の震えが増して行くが、どうすることもできない。
「オマ、エモ、ミチズレ、……ダ」
終いには最早金切声のような不協和音を発しながら、彼女は近づいてくる。全身から冷や汗が流れ、奥歯が勝手にカチカチと鳴る。脳裏を過るのは死の恐怖。
自分はあの時死ぬはずだった。それが少し延びただけじゃないか。
自分はいつも死にたいと願っていたはずだ。ならば、どうしてそれに抗うことがある。
彼女は体温のない両手でこちらの両肩を掴み、その見えない唇を首筋にあてがった。ああ、自分は血を吸われるのだな。こんな自分にはお似合いの死に方なのかもしれない。
「君は吸血鬼になりたいのか」
それも良いかもしれない。この苦しみから解放されるのなら。
「なんの覚悟も無いくせに、吸血鬼になろうなんて馬鹿げている。人間をやめたところで、その苦しみは終わらない。それどころか、永遠に続く。人間なら死ねば終わりだが、私達は限りのない存在だ。永遠に苦しみ続ける覚悟がなければ、吸血鬼になんてなるべきではないんだ」
じゃあどうしたらいいっていうんだ。
「苦しむことを受け入れろ。それは生の一部分さ。苦しんでこそ、生きている。苦痛もなく生きようなんてのはな、そんなのは死んでいるのと同じだ。魂のない、人形と何一つ変わらない」
目の前には、赤い目をした吸血鬼がいた。体は動くようになっていた。自分はいつもの自分の部屋で、ベッドの上で汗だくに丸まっていた。顔のない少女の姿はどこにもなかった。その様を彼女は、面白おかしそうに見下ろしていた。
「おや、これは見てはいけないものを見てしまったかな」
吸血鬼。異形の存在。
「中々やってこないと思えば、一体何をしているんだ望は。言ってくれれば手伝うのに」
恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。
「きちんと欲求は解消しておかないと、そんな悪夢を見るのだ。どれ、私が……」
「く、くるなあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
目の前の吸血鬼から逃げるように後ずさると、ベッドから転落。背中を打ち付け、涙目になりながらなんとか彼女から逃げようとする。しかしすぐに壁に阻まれる。
「次は、……俺なのか」
あたかも世界の理不尽さを妬むかのように、吐き捨てる。
「望?」
「俺が裏切った、から……次は俺の番なのか。彼女のように、殺すのか……。血を吸い尽くして、殺すのか」
自分は一体何を口走っているのだろう。そんなことを言ったところで、彼女がその気ならば、何の容赦もなくそれを実行するだろう。血も涙もない。彼女は吸血鬼だ。人間が豚や鳥を食すように、人間の血を好む。そこに感情を挟む余地は存在しない。
「……望」
こんな自分などが、人並みの幸せなどを求めたのが、そもそもの間違いだったのだろうか。その報いを、自分はこれから受けるのだろうか。
「いや、だ。死にたく、ない。……悪かったよ。俺がすべて悪かった。だから許してくれ。そんなつもりはなかったんだ。こんなことになるなんて、俺は…………」
死が目前に迫った時、死神に背筋を撫でられたような感覚を覚える。いつかのあの感覚。もう二度と息を吸えない、目を覚まさない、考えることもない、笑うこともない、泣くこともない。何も感じることすらできなくなるというこれ以上ない恐怖。苦痛苦痛苦痛。そして死。
彼女も、同じような恐怖に苛まれながら殺されたのだろうか。これまでの人生を悔いながら、理不尽にも自分に降りかかる運命を呪いながら死んでいったのだろうか。
しかし。
「望っっっ!」
全身を抱き寄せられ、身動きを封じられる。反射的に目を逸らそうとするが、彼女の鋭い視線に射止められ、それは叶わなくなる。彼女の体は、腕は、胸は、悲しいくらいに冷たかった。自分は彼女に血を吸われるのだと最後を覚悟したが、しばらくして様子がおかしいことに気付いた。
「何か恐ろしいことがあったんだな。何も言うな。いま私が全て”わかってやる”」
自分という意識とは異なる形のない何かが、自分を構成する器を満たす液体に交じっていく、例えるならそんな感覚。以前はその感覚を掴むことはできなかったが、今ならばわかる。彼女は今、自分の中へ入っている。吸血鬼の人心掌握。それは本来ならば人間を意のままに操り、不安を煽り、精神を苛ませ、絶望を見せて獲物とするための力だ。
だが徐々に、徐々に望の中の器を濁らせていたものが取り除かれていく。それらは、恐怖や絶望という名の黒ずんだものだった。彼女への恐怖は澄んだように消えていき、それは安堵へと変わっていく。誰かが理解してくれる。それだけのことが、今の望にとっては何物にも代えがたい救いだった。
「そうか、そうか。辛かったな。苦しかったろう。プシュケーをこんなにも濁らせて」
「俺が、……俺のせいなんだ」
無意識のうちに、それらは自分の口からひとりでに出ていたらしい。自分は懺悔の言葉を紡ぎ始めていた。この街が危険な状況にあることを知っていて、彼女を止められなかったこと。彼女からの告白に動揺し、彼女を一人にしてしまったこと。もうどうしようもないことだが、未だに後悔し続けていることを延々と望は吐き出し続けた。ラミアが現れたときには、既に日が落ちていたのだろう。電気も付けずに窓から差す電灯の灯の照らす彼女の顔を見つめながら。しかし彼女は、吸血鬼ラミアは一度も視線を切ることなく、自分が懺悔を続ける間、自分の傍にいてくれた。
「あんたは、浅間を殺してないんだな」
いくらか冷静さを取り戻した望は、今更だが、極めて重要な事実を慎重に確認することにした。
「ああ。私は昨日は誰の血も吸っていない。というか真っ先に私を疑うなんて、ちょっとショックだぞ」
彼女はおどけたように落ち込んで見せる。そんな彼女の仕草に苦笑するだけの平静さを望は取り戻していた。そして手元にあった携帯に目をやると、日付が変わっている。驚くべきことに、あれから一日以上経ってしまっているらしい。どうりで頭が異常に疲れているわけだ。
「少し待ってくれ……じゃあ何か、この街には今、もう一人の吸血鬼がいるってのか」
「そうかもしれないが……まず望、君は大事なことを忘れている」
「大事なこと?」
少し考えるが、漠然としていてわからない。
「いつもの君ならすぐに気付いていたと思うのだけれどね。まあ仕方ないか。……あの刑事は彼女が全身の血を抜かれていたと、そう言ったのだろう?」
疲弊した頭で何とか昨日の記憶を掘り起こし、確認する。確かそうだったはずだ。それで自分は彼女が吸血鬼に襲われたのだと思ったのだから。
「そして死体として見つかったのだろう? "人間の姿で"」
そこで望は彼女が言わんとしていることにようやく思い至る。確かにこんなこと、明らかではないか。どうしてこんな簡単なことに、今まで気が付かなかったのか。
「吸血鬼に血を吸われたのなら少なくともそいつは吸血鬼化する。なら答えは一つじゃあないか。この事件の犯人は人間だ」




