第十六話
期末試験はまさに、夏季休暇を前にした最後の試練であった。勉強の得意な者、不得意な者、皆平等に残酷に数枚の紙切れによって試され、相応の点数をそれぞれに付けられていくことになる。朝1番の数学の試験問題が配られると、教室の空気はピリピリとしたものに一変。担当教師の合図がかけられれば、そこからは沈黙の支配する時間。普段とは様変わりした教室で、皆自分の頭の中から覚えたはずの答えを探し出すことに躍起になっていた。
氏名欄に名前を記入しながら周りの雰囲気を伺うと、望も頭を切り換えて集中。周囲の僅かな音さえも脳内から追い出し、邪魔な感情も全て収めて目の前の言葉と数式の羅列にのみ全神経を注ぎ読み解いていく。難しいことは何もない。
大方の問題を解き終えると、もう1度慎重に答案の確認。致命的な間違いがないことを確かめると、教室のいくつかの空席に自然と目がいく。溝口を始めとした例のグループ。彼らは未だに学校に復帰していなかった。クラスの皆はそれをいいことに、最初から彼らは存在しなかったかのように振る舞い続けていた。
自分のやり方は正しかったのだろうか。あの夜、彼等を呼び寄せたのは自分だ。そして暴力を持ってして屈服させたのも自分である。最初は脅すだけのつもりだったが、気が付けば三人は自分の前に倒れていた。望は自分が時々恐ろしくなる。自分の中に抑えのきかないもう一つの人格があって、それが時折現れて暴れ出すような気がするからだ。強過ぎる力はしばしば持ち主をのみこむ、とはラミアの言葉。
四限の試験を危なげなく終えると、つかの間の休息が訪れ、皆が安堵の溜息をつく。友人同士で答え合わせをする者、1人で黙々とノートを見返す者、力を使い果たしたように俯いて動かない者がいる中で望は鞄から弁当とペットボトルの水を取り出す。次の試験科目のノートを見返しながら昼食をとっていると、暫くして教室のドアの辺りが何やら騒がしく、皆が視線を向けていた。望も気になって目を向けると、そこには。
「あ、いた」
「……なんで、あんたが」
浅間栞だった。右手にはノートや教科書の束。左手にはコンビニのレジ袋を持っていた。こちらに気付くと真っ直ぐにやってくる。
「昨日どうしても納得いかないことがあって、自分で頑張ってたんだけどわからなかったから、ずっと聞きたくて。お昼一緒してもいいかな」
突然の訪問者に、教室中の視線が自分と彼女に集まっているのがわかる。彼女が一学年上の先輩と気付いている者がどれだけいるかわからないが、普段は見ない顔が、あの誰とも接点を持たない叶望と慣れたように話しているのだ。彼女は気にしていない様子だが、望にはたまらない。
「じゃあ場所を移してくれ」
弁当を包み直して足早に教室を後にすると、二人は昼食の場所を探した。食堂は今からでは混雑しているだろうと避け、屋上もノート等を見返すには不便として、多少暑いが外のベンチにすることにした。彼女はレジ袋から小さな菓子パンを取り出して頬張る。
「ところで、ここなんだけど」
「……というかあんたは、いつも昼にそんなもの食べてるのか」
袋に入った菓子パンを指さす。
「え……? まあそうだけど。朝よわくって」
「それだけじゃあ午後の試験を乗り切れないぞ。ほら、俺のを一つやろう」
そう言って弁当箱を開けると唐揚げを一つ差し出す。浅間はというと最初こそ戸惑って、口をポカーンとさせたり頭の中で何かと戦っていたりはしたが、最後には諦めて俺の箸から唐揚げを口に含んだ。
「ダイエットしてるのに……………………美味しい」
「何か言ったか?」
「別に。ほら、休み時間おわっちゃう」
最近はいつも一緒にいるな、と不意に思う。決して親友になるような仲ではないと思うのだが。それに勝手にそんな仲になれば、あの八重垣に今度こそ殺されてしまう。ノートの書き込みを読み直す彼女を横目に、そんな他愛ない思いを募らせる。試験が終わったら付き合ってほしいとは、一体どういうことなのだろう。まさか、とは思うのだけれど。
「私の顔に何かついている?」
まさか、な。
試験期間は思いのほか、瞬く間に過ぎていった。試験問題に一喜一憂するクラスメート達を尻目に、望は全ての科目を問題なくクリアした。後は成績を受け取りさえすれば、今学期はめでたく終了となる。当分はのんびりするのもいいだろう。その資格は得たはずである。しかしその前に、望には重要な案件が一つ待っていた。
事前に言われた通り、図書室に向かう望。すれ違う同級生は皆自分などには目もくれず、これから訪れる長い休暇をどう過ごすか友人と相談するので忙しいらしい。こちらとしては好都合だった。
ゆっくり歩いてようやく図書室の扉の前につくと、一旦立ち止まる。なぜか理由もなく深呼吸をし、意を決して扉に手をかける。試験期間を終えた図書室には人影はほとんどなく、普段よりも閑散としていた。そんな中、一人机に腰かけて窓の外を眺めている女子生徒がいた。髪はおかっぱで、黒縁の眼鏡をかけている。後姿だけでも、それが彼女だとわかる。
「何か外に見えるのか」
はっとしてこちらに振り向く彼女。少し不機嫌そうに。
「いたんなら声くらいかけてよね」
「たったいま来たんだ」
「そう」
しんと静まり返る図書室。窓の外に微かに聞こえる生徒たちの声や蝉の鳴き声も、ずっと遠くのことのように思える。少しの沈黙の後、彼女は口を開いた。ある意味望みを驚愕させる言葉を。思っていたものとは違う形で。
「私と一緒に吸血鬼を探してほしいの」
「なん、だって?」
吸血鬼を、探す?
一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。彼女との日常に慣れていた望には、不意に突きつけられた非日常を、頭が受け入れることを拒否していた。しかし暫くして叶望は思い出す。彼女はそういう人間だったということに。
「この前吸血鬼に会いたいって言ったでしょ? まだ諦められなくって、あれからずっと調べてたの。噂は色々で信憑性はどれも微妙だけれど、一つだけよく出てくる単語があったの。それはね」
吸血鬼について語る彼女は普段の彼女とは別人のようだった。恐怖すら覚える。それは俺が本当の吸血鬼を知っていて、それを彼女に隠しているからか。それとも彼女自身に対して感じる本能的な恐怖そのものなのか。わからなかった。俺は一体、彼女のことをどれだけ知っているというのだろう。
「白樺山。そこで出るらしいの。あそこなんか普段は誰も寄り付かない場所だから、そういう噂が立つのかもしれないけれど、一応確かめてみる価値はあると思って。けどあそこへは一人ではいかないように言われているから、一緒に行ってほしいの。お願い」
手を合わされ、頭まで下げられてしまっては、望も簡単に断ることはできなかった。様々な思考が頭の中を巡った。あそこは嫌な記憶ばかり連想させられる。望としても好んで行きたくはない場所だ。しかし目の前の彼女の意思はどうやら固く、簡単に説得できるとは思えない。第一吸血鬼は今そこにはいないのだ。彼女を連れて行ったとしても危険はないはず。彼女も、どうやら噂レベルの話としか捉えていない様子。
ならばここは黙って付き合い、現実を見せて諦めてもらうのが無難か。
「ああ。わかった」
何より、付き合うと言ったのだ。この目の前の少女の笑顔だけでも、そう答える価値はあった。その時は、そう思っていた。




