第十七話
金曜日の昼過ぎには試験日程で切り上げとなっていたので、2人は一度家に帰ってから着替えて集合することにした。駅前で別れ、一旦望は自宅のアパートに向かった。相変わらず太陽がジリジリと地上を焼く、暑苦しい夏の日の放課後だった。
普段よりも早めの帰宅に、しかし誰かが迎えてくれるなんてことはない。この時間ならあの吸血鬼は、隠れ家で深い眠りに落ちていることだろう。遭遇したら山だけには来るな、と忠告するつもりだったが、その必要もないかと思い改める。汗の染み込んだ制服を脱ぎ捨て、適当にチノパンとシャツを着て財布と携帯だけを持って再び外へ。駅前で食事してから山へ行く予定らしい。
集合場所に決めたのは、以前に二人で寄った、喫茶店。中に入ると冷蔵庫で冷やしたような冷たい風が肌を吹き付け、火照った身体がいくらか冷える。
中には試験を終えた他の逢見学園生も多少はいたが、幸いにしてクラスメートの姿は見えない。浅間は前に来た時と同じ席を確保していた。緑色のブックカバーのかかった文庫本を開いていた。
「待たせた」
「ううん、私も今来たところ」
彼女の姿は、白のブラウスにカーディガン、下はタイツにショートパンツという出で立ちだった。私服の彼女は初めてであり、中々に新鮮。定型のようなやり取りを社交辞令で交わしつつ、席について飲み物とサンドイッチを注文。意外にも美味だったそれを食しながら、望は彼女に聞いてみた。
「浅間。今日は一体どうするつもりなんだ。ただ吸血鬼を探すといっても、漠然とし過ぎて何をすれば良いのかわからん」
まずは一応常識的な質問から始める。自分でも馬鹿馬鹿しくなってきたが。
「それなんだけどさ、吸血鬼って夜にならないとでてこないんじゃないかしら」
「……確かにな。でもじゃあこれから一体どうすればいいんだよ。まだ当分日は暮れないだろう。日も長いし」
「まあそれに関しては、ここなら問題ないわ。気長に待てばいいもの。貴方も何か読みたいものを持ってきたら?」
そう言って彼女は手元の文庫本に視線を戻した。仕方ない。最近は自分も教科書以外の本を読んでいる暇がなかったのだ。久し振りに何も考えずに読書するのもいいか、と望は本を探しに行くことにした。
そうして二人は日没を待つことになった。その間は始終無言。というのも、彼女は一旦ページをめくり出すとどんな邪魔が入ろうとやめることはない。その点は彼女の親友であるところの八重垣と似通っている部分でもあった。彼女の豹変した姿には、望は文字通り追い詰められたのだ。スイッチが切り替えられる人間というのは、有る意味恐ろしいかもしれない。
しかし、望はそんな彼女の一面が決して嫌いではなかった。むしろ愛おしいと思う。結局のところ、暫くの間を望は本越しに彼女の顔ばかり見つめることで過ごしていた。面白いことに、本を読んでいる間は彼女はこちらの視線には絶対に気付かないのだ。
ゆっくりとした時間。本当に時の流れが遅くなっているかのようだった。ガラス越しの通行人達の気配すら遠く感じる。
この後吸血鬼を捜しに行かなければならないことを除けば、わりと学生生活を満喫できているのではないかと望は思った。ただ一つ、それだけが憂鬱の種であり、望に罪悪感をもたらしていた。自分は彼女を騙しているようなものだ。
本当に隠し通さなければ、ならないのだろうか。彼女なら、彼女ならば打ち明けても、……。
そんな思考が止めどなく巡る。しかしその度にあの吸血鬼の顔が思い浮かび、それを押し留めた。自分は、一生この人に嘘をつき続けなければならないのだ。彼女は、そんな世界を知る必要はないのだ。そんなのは自分だけでいい。もうそれだけでたくさんである。
もう誰かが傷つくのはたくさんだ。自分はこの秘密を一生背負って生きて行かなければならない。それは何となく寂しい事だったが、きっと間違ってはいない。望はそう言い聞かせた。
「何を怖い顔をしているの。そろそろ行きましょう」
いつの間にか夕方になっていたらしい。こちらを覗き込む彼女の顔で、我を取り戻す。顔が少し近い。彼女の唇の形までよく見えた。
そうして駅ビルを出て暫く歩くと、駅前の風景は間も無く闇に染まっていく。昼間の姿とは一変して、どこまでも染み渡っていくような寂寥感があった。少し駅前から外れるとネオンや電灯の類いは一切なく、ベッドタウンで辺りは非常に暗い。望はラミアとここへ来たことを思い出していた。右手の付け根が鈍く疼いた。
「中々雰囲気あるわね」
「あんた怖くないのか」
「まあね。貴方がいるし」
意外と頼りにされているようだ。しかし今回は最悪なことにはならないはずである。この街の吸血鬼は今、別の所にいるはずなのだから。
暫く歩くと山の麓の公園につく。ここもあまり思い出したくはない場所。
「取り敢えず登ろうか。登ってみて、一周してみましょう。それで吸血鬼がいないか探すの」
「そんなに簡単に見つかるとは思えないがな」
彼女の所持していた懐中電灯の灯りを頼りに、コンクリートで舗装された山道を歩んでいく。少しすると舗装がなくなり、足裏の感触が柔らかい土に木製の階段のものとなる。白樺山はそれ程大きな山ではなく、登るだけなら頂上まで一時間とかからない。軽く一周すれば、彼女も諦めるだろう。
確かにほんの数週間前に、この場所に吸血鬼はいた。そういう意味では、噂というのは馬鹿にできないものだと望は思った。
何だか季節感もあって、肝試しでもしているようだった。しかし本当の人外を知っている望にとっては、少々物足りない。
「ところであんたは、もし吸血鬼に遭ったらどうするつもりだ。好きな本の話でもする気なのか?」
ラミア以外の吸血鬼を見たことはないが、世界のどこかには読書を嗜む吸血鬼もいるかもしれない。そういえばラミアは本を読むのだろうか。研究が好きなら学術書などは読んでいそうだが。
「……血を吸って貰おうかしら」
「浅間……」
「なんてね。そうね。私も本当に逢えるなんて思ってるわけじゃないの。今は空想と現実の区別はついているつもり。今はね。でも、けれど、理由もなく破滅的になってしまうときってあるじゃない? そんなときに吸血鬼の噂を聞いたの。そしたら、とにかく逢いたいって思って」
今はどこまでも染み込むような暗闇が、彼女の顔を隠している。もしかしたら、彼女は自分の顔を見られずに、話せる場所を求めていたのかもしれない。
「私、吸血鬼とかゾンビが出てくる小説が好きなんだよね。映画も一人で何回も見に行ったりして、友達がいなくなるくらい、そういうのが好きな人達の会に行ったりもした。閉鎖的空間に人が閉じ込められて、人がどんどん死んでくのがどうしようもなく、好きなのね。それは中学のとき。お小遣いは全部そういうのに使ってた。家族とも何か遠くなっちゃって」
それは結局は彼女の、長々とした告白だった。
「結局それは高校にあがっても変わらなくて、更に孤立してた。もう色々諦めてた。私は一生こうなんだって。周りの人が皆、亡者か何かに見えてさ。吸血鬼か何かに見えてさ。学校が地獄だった。気の休まる場所は図書室くらいのものだった。今私がこうしていられるのは、望月さんと命ちゃんのおかげだっていうことはもう話したね」
「一番酷い時は、……もうイジメみたいなものだった。誰も助けてくれなくて、家族にも相談出来なくて、どこにも逃げられなくてとにかく、とにかく辛かった。辛くて苦しくて何より惨めだった。ああ……何だか思い出してきちゃった。もう、忘れてたんだけどなあ」
「……無理して言わなくて良い」
しかし彼女は首を横に振り。
「ううん。ここまで付き合ってもらったんだもの。最後まで言わせて。話させて」
歩く速度は変わらない。しかし彼女の話す速度は次第に速くなっていった。彼女の感情の激しさに比例していくように。
「そんなとき、クラスメイトだった命ちゃんと出会ったの。命ちゃんはね、凄いんだよ。クラスの男子なんか目じゃない。竹刀一つで皆黙らせちゃうんだよ。そして私に言ったの。お前も悪いんだっ、て。人間関係を拒否して何もかもを拒否して、思っていることを口に出す事もしない。そんなお前は卑怯者だって、そう言ったの。私に。その時、久し振りに思い出したのね。ああ、誰かに怒られるのってこういう感じだったなあって。望月さんと会ったのもその時。私が後腐れなくクラスに溶け込めるように取りはかってくれたの。それも魔法みたいなやり方でよ。放課後に毎日教室に来てくれて、皆と仲良くなって、私とも仲良くなって、それでいつの間にか私と皆も仲良くなっていた。あの人には感謝してもしきれないわ」
八重垣ならそれ位はやりそうだと思ったが、望月という生徒会長も凄まじい人物だと望は思った。一度仲違いした人間同士、そう簡単には元通りにはならない。それが難しいから、この世から争いは中々なくならないのではないのか。
「こうして私はまともな人生を取り戻すことができた。一度諦めた人生を、もう一度手に入れることができた。今でもスプラッタは好きだけどね」
「じゃあ、その人生を大事にしろ。こんなことをする必要はない」
彼女はこれから、普通に幸せになれば良い。自分にはできないが、彼女にはそれができるのだ。そんな思いが、気付けば口から漏れて出ていた。
「……うん。もうやめるよ。そうだよね。私、一体何やってたんだろ」
彼女の歩く足がとまる。つられて望の足もとまる。丁度月明かりに照らされて露わになった彼女の顔は、まるで憑き物が落ちたようだった。夢から覚めたようだ。
「ごめんね。せっかくついて来てもらったのに。私、もう大丈夫みたい」
「別にいい。あんたの気が済んだのなら」
「そうよね。吸血鬼なんて、現実にはいないのよね。それが現実なのよね」
二人は頂上に踵を返した。
何てことはない。彼女はきっかけが欲しかっただけなのだ。夢から覚めるきっかけを。現実に踏み込むきっかけを。彼女はたった今悪夢から覚めたのだ。もう彼女は大丈夫だろう。そうだ。彼女の世界には吸血鬼なんていない。それで良いのだ。それが普通なのだ。
二人は山路を引き返す為に後ろを振り返った。すると、登っていた時には気付かなかったものが目に飛び込んできた。
「星が綺麗ね」
「ああ」
無数の星々だった。夏の大三角が、悠然と夜空で輝いていた。彼女とも、ここで星をみたことを思い出す。
帰り道は終始無言。暗い足もとを注意しながら山路を下ることに集中。一体自分はこんなところで何をやっているのだと、一瞬正気に戻りかけたが、これがもしかしたら青春という奴なのかもしれない。もしくは若さゆえの過ちか。どちらだろうか。どちらでも良いか。
山路を降りきると、目の前に再び現れた公園。彼女はそれを見つけるとひとりでに走っていって、ブランコに腰掛けた。小柄な彼女に良く似合っていたのはあえて言うまい。手招きをされると、仕方なくそれにならって隣に腰掛ける。軽く前後に揺らすとその懐かしの遊具は、キィコウと小気味良い音を立て、望の遠い昔の記憶に遡らせた。多少窮屈な気がするのは、自分がいくばくか成長したことの証か。
「小さい頃ってさあ、何にも考えないで良かったよね。こうやって無邪気に、無垢にしてれば良かったんだ。人生って疲れるねえ」
「それが大人になるってことだろ」
「そう、なのかもしれないねえ」
そうやってしばらく過ごしていた。不意に彼女はそれを口にする。
「私、小説家になりたいんだよね。今もたくさん書き溜めてるの。私が本と出逢って貰ったたくさんのものを、今度は私が、昔の私みたいな人にあげたいなって思うの。私の物語で。私の手で」
彼女の瞳を見れば、それが冗談でも何でもなく本気で言っているのだということはすぐに分かった。
「あんたならできるさ」
「……今度は、言えた。誰にも言ったことないのよ。誰にも言うつもりもなかったし。なんでだろ、私今普通じゃないみたい。君のせいかな」
心の底まで染み込むような暗闇に、ブランコの鎖が奏でる音がしては溶けて行く。その繰り返しの生み出すリズムに、言葉と想いを乗せてゆく。
「私吸血鬼にもし出逢えていたら、その時は取材してみたいなって思っていたの。今吸血鬼が出てくる話をかいていてね。吸血鬼の気持ちが中々想像できなかったから、詰まっていたのよね」
「俺で良かったら、その取材とやらを受けようか」
少し考えてそう望は答える。それはそれなりの危険を孕んだ行為であったが、それで彼女が多少なりとも満足するなら、と望はそう思った。
彼女はきょとんとして途端に破顔した。そんなに可笑しいことを言っただろうか。
「君は、吸血鬼の気持ちがわかるのかいっ」
「笑うことはないだろう。これでも吸血鬼のことに関しては、誰よりも分かっていると自負しているんだぜ」
それは様々な意味で決して嘘ではなかった。吸血鬼について書かれた図書室の文献は読み漁り、洋書まで手を出している。今はこの街で最も吸血鬼に精通しているといっても過言ではないはずである。
「あはは、じゃあ聞いてみようかな。吸血鬼って、どんな姿をしてるの」
「意外と人間と変わらない。目は赤いな。案外そこら辺に紛れているかもしれないぞ」
「…………吸血鬼って怖いものなの?」
「恐ろしい存在であることは確かだ。でも吸血鬼によるな。上手くやればもしかしたら友達になれるかもしれない」
「私にもなれるかしら」
「ああ、きっとな」
ラミアも、彼女をとって食いはしないだろう。
「吸血鬼も恋をするの?」
何となく、その質問がされるのには時間がかかったように思う。
「……俺にはよくわからないが、多分するんじゃねえかな。たまにそう思う時がある」
「何それ……全然分かってないじゃない」
笑われる。
「じゃあ、叶望は浅間栞のことをどう思ってる?」
その質問は不意に放たれた。
「どうって」
どういう意味だ? なんて逃げの言葉は、彼女の視線によって防がれる。その真っ直ぐな瞳を前にして、もし今自分が逃げてしまったなら、この先もずっと、死ぬまで逃げ続けることになるだろう。どうやら退路は断たれたらしい。
「浅間栞は叶望のことが好きよ」
誰かに好意を告白されたのは生まれて初めてのこと。それは何となく面映く、それでいて背中の痒くなるものだった。
それは恋愛小説では決して味わえない、ものだった。本物の色恋は、ただただ艶めかしかった。生々しかった。
しかしそれでも、叶望は彼女にそれを伝えなければならない。
それを伝えることが、今自分にできる精一杯の誠意。望は彼女のことが嫌いではなかった。むしろ好きな方に分類されるはずだ。しかし、だからこそ、望はそれを彼女に伝えなければならない。
それが例え彼女の気持ちを裏切ることになったとしても。
「叶望には、憧れている人がいるんだ」
途端に彼女の瞳から色が消えた。猛烈な罪悪感に襲われるが、構わず続ける。
「それは俺何かにはとても釣り合わないような人で、そう、例えるなら吸血鬼、みたいな人。多分手に入らないし、向こうはこっちのことなんて何とも思っていないだろう。多分いつかどっか遠くにいってしまう」
でも、今は。
「その人のことしか、考えられないんだ」
誰かに話すことで、口にすることで初めて認識することのできたその気持ち。自分は彼女のことが好きなのだ。どうしようもなく、愛してしまっている。だからこの目の前に立ち尽くす彼女の願いに、自分は答えられない。
「そっか。まあそんな気はしたけれどね。……そっか。上手くいってると、思ったんだけどなあ。現実は物語みたいには行かないか。…………これは、暫く立ち直れそうにないな」
「浅間」
「こっち見ないで。こんな姿見せたくないから。………………今日は、先に行ってくれる?」
彼女はその時、一体どんな顔をしていたのだろう。
「もう少ししたら、きっとまた元に戻れるから。大丈夫になるから」
「……浅間」
今の自分には、彼女にしてやれることはなにもなかった。
望はその場を後にした。暫くして、静かな夜の空気に、誰かのすすり泣く音が混ざっていたような気がした。
朝、目が覚めると強い陽の光に目が眩む。暫くぼうっとしていると頭は徐々に冴えていき、昨日の出来事を思い出して鬱になった。来週から図書室に行き辛くなる。とそんなことを考えながらも、朝の支度を始める。
着替え終わると同時に電話のベルが鳴った。普段それが鳴ることはほとんどなく、大抵は煩わしいセールスや教材の宣伝くらいのものだ。しかしこの時間にそれらがかかってくることはまずない。
望は訝しげながら受話器を取った。
「もしもし叶です」
「……叶、君? 私同じクラスの、片桐ですけれど」
それは確か出席番号の一つ前の女子だった。
「要件は何だ」
「連絡網です。今から言うことを次の人にも伝えて欲しいんです」
明らかに嫌そうなニュアンスが端々に見え隠れしていたが、義務はきちんと果たすつもりのようだ。しかし次の言葉は中々口にされず、それが内容の重さを感じさせた。
そしてようやく望の鼓膜を震わせた音は、全ての終わりを告げるものだった。
「二年生の浅間栞さんが亡くなりました」




