第八話
「奴、ら…………」
その言葉は、その代名詞は、頭に刻みつけられた二文字だった。それが意味するものは、言葉にするのも恐ろしい。魑魅魍魎の悪鬼羅刹。それを聞くたびに、全身を流れる血液が逆流したような感覚に襲われる。そういうふうに教えられてきた。
そうなるべく教えられてきた。
私はそれを見たことはない。しかしその悍ましさ、禍々しさ、恐ろしさを嫌というほど言われてきた。それを憎むようにと育てられた。
最悪の三文字。絶望の体現者達。
「我々の目と鼻の先でその姿を現すとは、身の程知らずか、はたまたただの物知らずか。いずれにしても決して逃がさず、我々の恐ろしさを教えてやらねばなるまい」
鬼頭家の当主、鬼頭総司は感情の感じられない声でそう吐き捨てた。彼は決して逃がさないだろう。奴らを決して逃がさないだろう。地獄の底まで追い続け、必ずや滅ぼすだろう。
「けれど、なんでまたこんなところに……、今まで一度もそんなことはなかったのに」
「一度もか。ないことはなかったがな。……しかしそんなことはどうでもいい。貴様は着替えて地下牢の準備をしておけ。牢の鍵の場所はわかるな。束縛せし十字架には間違っても触れるな」
「分かりました……お父様」
地下牢――屋敷の地下に設けられた、捕らえた者を決して逃がさぬ牢獄。そこに囚われた者は二度と外へと帰還することは叶わない。罪人を戒める為の場所。
今よりも小さい頃、私が間違って入った時には恐ろしい折檻を受けた。思い出すのも鳥肌が立つ。あそこは暗く、寂しい場所だった。冷たくて、この世の場所ではない気がした。そこを使うということは、罪人を待ち受ける運命は死以外には有り得ない。
光も希望もなく、そこには絶望だけ存在する。
ガチャリと無機質な音をたて、巨大な漆黒の錠前が外れる。それを開けた鍵は、銀色で独特の装飾が施してあるもの。普段ここへと立ち入ることは禁じられている。しかし今は”奴ら”を捕らえに家の人間が駆り出されているせいか、ここの準備という役目を私が任された。ここは家政婦や召使が入ることを許されていないせいだ。
鉄格子を苦労して押し開け、その孤独な場所へと足を踏み入れた。入った瞬間に体にのしかかる重力が強くなった錯覚に襲われる。冷たい空気が体中にまとわりつき、体の自由があまり効かない気がするのは果たして本当に気のせいだけだろうか。
牢の隅に配置されている燭台に明かりを灯すと、暗闇がかき消されいくらか心が楽になる。こんなところに囚われれば最後、どんなに屈強な精神の持ち主だろうと、自身を保つことはできないだろう。もし自分がそうなったらなんて、考えるだけで身が総毛立つ。
こんな場所に長居したくはないが、当主の命に逆らうわけにはいかない。そこには朱音の意思は存在しなかった。あの男がやれと言えばそうし、死ねと言われれば死ぬ。絶対的な優劣関係。この家に生まれ落ちたその時から定められた宿命。鬼頭の絶対規律――。
地下牢は囚人を捕らえおく独房と、それに値するかを問う尋問牢が存在する。ここは後者であり、中央の牢を中心に放射状に客席が並ぶ様相を呈している。しかし推し量るなどと言う言葉は詭弁でしかなく、それはただの飾りでしかないのだろう。罪人はどんな訴えも受け入れられることなく、非情な裁定を下されるしかない。
朱音は”奴ら”を実際に目にしたことはなかった。話や書物によってしか、それを知らない。好奇心と恐れの入り交じった胸の鼓動を抑え、客席の一つに腰掛けた。鉄でできた座椅子はひんやりと冷たく、体温を奪われていくような気がした。
「一体どんな姿をしているのかしら」
それがどんなものでも、今の朱音にはどうでもよかった。ただ沈黙していると、また闇に自らの心を引きずり込まれてしまいそうで怖かったからだ。ここはどことなく、あそこと同じ感じがする。
この分だとまともな夕食にありつけるのは、だいぶ先になるかもしれない。家の男がなにも口にせずにいるときに、私だけがなんて許されない。思えば、もう何年も家族と食事を共にしていなかった。食事は給仕の出すものを無言で黙々と食べるだけ。それはただの作業。生きるための作業。
今更あの男や兄と分かり合えるなんて淡い期待を持ってはいない。昔は意味のない期待をしていたときもあったが、それはやはり昔の話。ここには私が気を許せる相手はいない。私のことを理解してくれる人はいない。私は誰にも理解されない。
もうそれでもいい。
人形になろう。鬼頭の人形となろう。何も想わない人形に。何を苦しむことも傷つくこともない人形に。
世界なんて諦めてしまおう。何も失うものはない、ただ少し妥協するだけ。それだけで色々なことから解放される。ただそれだけ。ただそれだけでいい。
望みを捨て希望を持たず理想も抱かずに生きる。それは果たして人間と言えるだろうか。それこそまさしく人形に相応しいではないか。鬼頭朱音という人間はもう終わってしまった。しかしそれはそこまで悪いことではないのかもしれない。
これはきっとそう。そうなるふうにできていたのだ。私という存在がこの世に生まれ落ちたそのときに、ずっと前から決まっていたことなのだ。どんな選択をしようが、結局人は運命という一本の旅路を歩くことしかできない。生きている限り歩き続けなければならない。
徐々に自分のなかの生身の部分が磨り減っていくような気がする。感情が温度を失っていき、それらのことが自分の中で当たり前となっていく。違和感の喪失。無へと堕ちていく消失感。
自らの意識という意識が、ふわふわと遊離していく感覚。現実に存在する数多の柵から解放されていく。もう何も考えずに何も感じずに何も望まずに。ただ呼吸するだけの人形。今鏡が目の前にあったとしたら、そこには無表情な傀儡が映っていることだろう。
もっと早く気付いていればよかったのかもしれない。もっと早くこうすればよかったのかもしれない。無駄な望みを捨て、無駄な感情を捨てれば楽になれる。何を思い悩むこともない。無駄な労力を消費せずに済む。これで、これできっと良かったのだ。
これが正解なのだ。
これが答えなのだ。
そう自分に言い聞かせる。しかし脳裏には、彼のくたびれた笑顔が…………。
――ガチャン
暴力的な金属音が地下中に響き、何人かの気配が忙しなく近づいてくる。それを察して朱音はすぐに立ち上がり、礼服の裾を軽くはたいた。
出入り口から現れたのは、朱音の二倍はあるのではないかという大男。漆黒の背広を着込み、その上からでも筋肉のつき方が分かる程の隆々とした体格。その男が巨大な十字架を背負って入ってきたのだ。その後から同じ格好をした男たちが次々と現れる。
大男は横に立っていた朱音を無視し、地下中央の尋問牢へとその重みを感じさせない歩みで進んでいった。その背中の十字架は、銀色でどことなく神々しい。大男の身長に及ぶような巨大な十字架である。入ってきた時には分からなかった。大男が影となって、朱音の目にはそれが映らなかったからである。
誰がその十字架に縛り付けられているのか、映らなかったのである。
十字架には柱が交差する部分に、罪人の自由を封じるために銀色の鎖が金具でつなぎ止められていた。その鎖は彼の四肢という四肢を縛り付け、柱に何重にも巻きつけられている。
ぼろぼろの旅人のような出立ち。痩せ細った体。漆黒で長めの髪の毛。線のはっきりした輪郭。しかし前のような穏やかで落ち着いた雰囲気は、その表情からは既に感じられなかった。
「っっっ………………!?」
なんで……。どうして……。どうしてっ、そんなっ……。
「束縛せし十字架を構築しろ。それで奴は決して逃れられぬ」
感情の宿らない声で粛々と命ずるのは、鬼頭家当主。しかしそんなものは朱音の耳には入ってきはしなかった。
十字架に貼り付けられたトロイアは、血の気の失せた顔をしていた。何もかもに絶望し、何もかもを失った者の表情だった。長い髪の毛に隠れてその瞳は窺えない。
「この血の亡者が。鬼頭の縄張りに入って生きて帰るとでも思ったか。忌々しい吸血鬼め」
底のない闇に、どこまでも落ちていくような気がした。全身の血管という血管が逆流し、血の気が引いていくのが分かった。
この世界にやはり神はいない。




