第七話
暫く空いてしまいました。申し訳ないです。最近生活習慣が酷くてなんとかしたいと思っています。ここに宣言して引っ込みつかなくしようと思います。
もしも次の話を待ってくれていた読者様がいたとしたら、精一杯の感謝を。読者様のご感想が何よりの励ましと執筆意欲となります。それでは本文へどうぞ
「私を一緒に、連れて行って」
「………………」
迷いは無かった。何かを迷う余地がなかった。私はもうあそこにはいられない。あんなところの空気をこれ以上吸っていたら、気が狂ってしまう。私が私でなくなってしまう。鬼頭朱音という人形になってしまう。
彼は岩壁に横たわりながら、苦悶の表情でこちらを見つめてくる。彼の瞳はまっすぐ私の目を見ていた。その中には僅かに揺れる蝋燭の灯りが映っていた。
一時の気の紛れなどでは有り得ない。何日も何日も、毎夜考え続けて自分なりに出した答えだった。こんな私などが出した答えが正しいものだなんて思わない。正しいか間違っているかなんて、たった十五の少女に分かるはずもない。けれど、私はこのままでは駄目なのだ。
何かを変えたいと思う。ここから一歩踏み出すことで、何かが変わるのなら、私はその先の景色を見て見たい。その為ならどんなことでもする。
「…………いつか、そんなことを言われるのではないかと思っていました」
「……トロイア、様?」
「見ていればわかります。あなたは籠に囚われた小鳥だ。いつも籠の外の景色を羨ましがっている。そこに格子越しに見える世界を欲して、いつかそれを手に入れたいと願う少女だ。あなたは今の自分のいる場所から抜け出したいのでしょう?」
籠の中の鳥。自分では大空に羽ばたくこともできない。外の世界を中から眺めることしかできない小さくて弱い存在。
「私は…………」
「私たちは出逢うべきではなかったのかもしれない」
彼は、そんなこと言った。目を逸らし、取り返しのつかない過ちを悔いているような顔で。私にはそれがどういう意味なのか分からなかった。
「…………どうし、て」
「私にはあなたの願いに答えることはできません」
それがそういう意味だと悟ったとき、湧きでてくる疑問をそのままに相手目がけて投げつける。しかし口から出てくる言葉はどれも震えていた。
「どうして、なのですか」
「私にはその資格がないからだ」
「私は、……わたしは……」
そこにはまるでトロイアとは違う誰かがいるような気がして、何も言えなくなる。今まで自分と話すときに纏わせていた優しげな表情を脱ぎ捨て、彼はただ否定し続けた。
「私はあなたに決して許されることはない」
「わたしが、トロイア様に、何をしたというの? わたしは何も……、何もそんな覚えは……。何を許さないというのっ……」
彼が何を言っているのかわからなかった。資格とは、なに。何を許さないというの。私は……私は……。どうして、そんなことを、言うの。
なぜか、彼のくたびれた笑顔をもう二度と見られない気がした。
「――お嬢さんではない。私なのです。この私が、あなたに決して許されない罪を働いたのです。それゆえに私は、お嬢さんを連れて行くことはできない。あなたの高潔な魂は、私の傍にいるだけで汚れてしまうのです」
「何を言っているのか、わからない……」
ワンピースの裾をギュッと握り締め、掌には汗が止まらない。信じていた。この人だけは自分のことを本当に理解してくれていたのだと。この人だけは、信じられるかもしれないと思った。私をあの息苦しいところから、どこか別の場所へ行かせてくれると。なのに、それはたった今裏切られようとしている。自分を支えていた足場が崩れていく。どんなに体や心を傷つけられても、虐げられても耐えることができたのに。
「私があなたに何かしたというのならっ、言ってください……。どんな償いでもっ、します‥………。どんなことでも、するっっ……。だからっ……、どうか……。私のことを許してぇっ、もうわたしには、あなた、しか……。トロイア様しか……」
泥で汚れた手を彼に向かって伸ばす。もう掴めないとわかっても、受け入れてもらえないとわかっていても。それでも諦めきれない。あなたを失ってしまったら、私はこの先一体どうやって生きていけばいいのだろう。
「それ以上、手を伸ばしてはいけない。私なんかに触れれば、お嬢さんが汚れてしまいます。もうおやめなさい。今日は帰るのです。そしてここへはもう来てはいけない」
今、一体なんと言われたのだろう。
「トロイア、様……」
「ここへはもう来てはいけない。そして私のことは忘れるのです。私はこの体が癒えれば、ここを出ていきます。そして二度と会うことはないでしょう。それで最後、終わりです」
「………………そん、な」
もうその表情にはかつての面影はなく、朱音をただ冷たく突き放つだけだった。その瞳は固く閉ざされたままだった。もう終わりなのだろうか。これで最後なのだろうか。
「さあ行きなさい。私のしらないところへ。さあ」
それ以上私は彼に声をかけることができなかった。ほかに何もできず、ただこの場所から立ち去ることしかできなかった。
灰色の天井だった。目が覚めると心のどこかが抜け落ちているような虚無感が残っている。それはいつしか大切な人を失ったときのもの。そして彼に拒絶されたときのもの。
ここには私を理解してくれる人間はひとりもいない。私はただ抜け殻のように生き続け、この籠の中で一生、生き続ける。もうそれはどうしようもない。きっとこの世に神様はいない。もしいたとしても、それは残酷で無慈悲な神だろう。
運命に逆らうことは無駄かもしれない。それは今まで生きてきて、何度も――何度も頭の中を巡ったこと。けれど諦めきれなかった。どうしても、この目で世界を見てみたかった。
鬼頭という見えない鎖にがんじがらめになって、自分ではどうすることもできない。私には何の力もない。どんなに夢や希望があっても、それを成し遂げる力がなければ何の意味もない。わたしは無力な少女だ。籠の外に出れば自分で餌をとることもできずに死んでしまう小鳥。
もう諦めてしまおうか。無気力に抜け殻のように生きるのは楽だ。また何かに期待して、勝手に足掻いて、意味もなく希望を抱いて裏切られるのはもう嫌だ。それだったら、最初から何も抱かないほうがいい。
駄目だ。瞼の隙間から生温かいものが溢れてくる。もう何度も流した。この液体はとめどなく溢れてきて止むことを知らない。これは一体どこからくるのだろう。止まれ……止まれ、止まれ、止まれ。いくら擦っても拭っても止まらない。
あれから諦めがつかず、何度か洞窟を訪れたが、まるでそれ自体が私を拒絶しているかのようにあの場所へとたどり着く事はできなかった。彼の拒絶の意思に、あの場所が同調しているようだった。
もう一度あそこに帰りたい。彼の物語の世界へ。彼のくたびれた笑顔を見たい。しかしそれはもう叶わないのだろう。もう終わってしまったのだろう。もう何もかも終わってしまったのだろう。
彼は、罪を犯したといっていた。その意味は今になってもわからない。しかしどうやらそれが、彼が私を遠ざけた理由なのだ。彼が私を拒絶した理由なのだ。どんなに考えを巡らせても、その答えに行き着くことはなかった。出口のない空洞のように、行くあてのない旅路のように。
体に力をいれて起き上がる気にもなれずに、ただ朱音は横たわっていた。ただの人形のように。鬼頭朱音と名付けられた人形のように。その瞳にかつて映していた夢も希望もなくして、絶望だけが濁った瞳に満ちていた。救いはそこにはなかった。
こんな思いをするくらいなら、希望をもたせて裏切られるのなら、いっそあのときに野垂れ死んでしまえばよかった。
このまま絶望を胸中に抱えたまま生きていくのなら、そんなことに意味などない。そんなのはただの地獄だ。ただ生きているというだけで、そこにいるのと変わらない。
そのときに、朱音の鬱屈した意識を現実に引き戻す音がした。部屋の無機質なドアが開き、外から人間が歩いてくる気配がした。気配の主は、感情の宿らない声で自分に向かってこう告げた。
「奴らが出た。今、須佐之男等を向かわせている。捉え次第尋問にかける。お前も立ち会え」