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2. いちばん新しい足跡

 水路の石は、ぬるりと濡れていた。身を屈めると、肩が湿った壁をこする。前を行く王女の手のひらでは、集めた霜の粒が青白く光る。足もとの泥までしか届かない明かりだが、靴の置き場は見えた。王女が得意そうに、小さな手を高く掲げる。


「見て! あなたの大きな靴も、ちゃんと見えるわ! もっと褒めなさい。こんなに明るくしてあげてるのよ。私だって役に立つでしょう?」


「助かります。足を踏み外さずに済みます。ですが、外へ出たら消してください。王家の光は、遠くからでも目につきます」


 背後の石の奥で、王宮の鐘が乱れ打ちになった。噴水の石蓋を閉めた手に、その響きがまだ残っている。前で寝間着の裾が止まり、王女の靴が泥に沈んだ。足を抜こうとするたびに泥まで持ち上がり、王女が顔をしかめる。


「攫われるって、泥だらけになることなの? 私は馬車で遠くへ行くのだと思っていたわ。靴まで置いていかなきゃいけないの?」


「しばらくは、ご辛抱ください。馬車の通れる道には見張りがいます。まず、その靴を抜いてください。泥はお供にできません」


「しばらくって、どれくらい? 夕方まで? 明日まで? 私の靴は、いつ自由になるの?」


 答える代わりに、泥から抜けた小さな靴を拭う。近衛の上着を脱ぎ、石の陰に隠した。旅の外套を王女の寝間着の上から掛け直し、白い裾を隠す。俺の肩にも旅人の布を掛ける。上着一枚ぶん軽くなった肩が、妙に心もとない。置いてきた上着へ戻るより、この小さな靴を先へ進ませる。


 夜明けの出口は、葦(あし)の茂みに隠れていた。川の匂いが、泥の匂いを押し流していく。下流の渡し場から、一番舟が西岸へ出るところだ。乗っているのは、大きな籠を背負った行商人が一人。朝霧がその輪郭をぼかし、背に人を担いだ影にも見える。


 渡し場の脇の坂は、崖の上の東岸の道へ続いている。兵舎の朝の窓から毎日見ていた、北へ出る粉屋の荷車の道だ。あそこなら、舟を待たずに先へ行ける。渡しで時を稼げれば、あの列に乗れる。


 最初に来るのはティモンだ。同室の後輩で、前の十年を通して組んだ相棒。隊でいちばん足跡を読む男だった。小さな乱れも見逃さない。ただ、読むのはいつも、いちばん新しい足跡ばかり。前の十年の二年目、引き返した盗賊を逃して隊長に叱られていた姿を、兵舎で見ている。


 王女を背負い、舟に乗る板の端まで靴跡を付けた。戻りは同じ跡へ、かかとを一つずつ合わせる。泥の窪みを外さず、新しい筋を増やさない。葦の陰へ戻ると、背中の王女が身じろぎする。


「荷物みたいに担がないで! 足を置くたびに止まるから、私まで揺れるじゃない! もっと上手に運びなさい!」


「背負っています。お静かに。荷物でしたら、もう少し静かです。揺れるのがお嫌なら、背中で足を振らないでください」


「……振ってないわ。ちょっと揺らしただけよ。荷物と比べないで!」


 出口の葦が割れた。麦わら色のくせ毛を揺らし、ひょろりとした後輩が這い出てくる。一晩で、もう水路まで見つけたのか。ティモンは靴跡にしゃがむと、迷わず板の端へ走った。ちょうど戻る舟を見つけ、声を張る。


「いま誰か渡りませんでしたか? 人を背負ったような、大きな荷の男です! あの一番舟に乗っていませんでしたか?」


 渡し守が綱を握ったまま、対岸へ顎をしゃくる。


「一番舟で、でかい荷を背負った男を一人渡したよ。市へ行くんだってさ」


「それです! 出してください、すぐ! 西の街道へ出られたら追いつけません! お願いです、急いで!」


 渡し守が綱を引く。嘘を言わせる用意は要らなかった。本当に渡った客と、その後に残る靴跡だけで足りる。舟が川の半ばへ進む。張った綱が、水面に細い筋を引く。ここからは、対岸へ着くまで返せない綱渡しだ。


 背から下ろしていた王女が、葦より高く立ち上がった。


「この人は私の騎士よ!」


 舟の上でティモンが振り向く。空色の目が丸くなり、手が縁を掴んだ。隠れていた場所も、俺の顔も丸見えだ。ティモンの声が裏返る。


「ジーヴェルトさん?! 戻して、舟を戻してください! 殿下も一緒です! 僕には訳がわかりません! どうして先輩が?」


 渡し守が綱から手を離さずに首を振る。


「綱渡しは途中で返せねえよ。立つな、落ちるぞ! 向こうへ着いたら戻してやる!」


 王女の手を引き、葦の中へ引き戻す。足跡は隠せても、この声までは隠せない。舟との距離を確かめ、俺は声を抑える。


「殿下、それは困ります! 助けに来たつもりが、捕まるところです! せっかく隠れた場所から、お顔まで見せてどうなさるのですか?」


「言っておかないと、あの子はあなたを悪い人だと思ったままでしょ! そんなの、嫌よ! あなたは悪い人じゃないのに! 私が嫌がっていると思わせるの?」


「自分は、いま誘拐犯です」


 王女が外套を引っ張った。葦の葉が外套に触れて揺れる。さっきより大きな声で、王女が言い張る。


「違うわ。私が攫われてあげてるの!」


「……走りますよ、お嬢さま。続きのお叱りは、あの坂を上ってから伺います。いまは、足を動かしてください」


「叱ってるんじゃないわ! あなたの味方をしているのよ。いいから手を離さずに走りなさい! 置いていったら、本当に怒るわよ!」


 小さな手を引いて、坂へ向かう。前の人生の裁きでは、誰も庇わなかった名だ。その俺を、王女は川の上まで聞こえる声で、自分の騎士だと言い切った。泥の付いた靴が、俺の隣で坂の土を蹴る。守るはずの子に庇われながら、俺はその足が進む先を探す。握った手のひらが熱い。道の輪郭がにじんでも、手を離さずに走る。


 舟が往復する半刻で差を作る。坂の上には、荷車の轍が続いていた。もう靴跡を隠すために止まる必要はない。走って列に追いつき、俺は親方へ銀貨一枚を差し出す。


「北の宿場町まで乗せてください。連れの子も一緒です。荷を下ろすお手伝いならできます。こちらで足りるでしょうか?」


 親方が袋の上から顎を上げ、銀貨を指で弾く。


「粉袋の隙間でよけりゃな。幌の中でじっとしてろよ、粉をこぼすと叱られるぞ。嬢ちゃん、くしゃみもなしだ」


 王女を抱えて幌の下へ上げると、白い粉が外套にまぶされた。袋の間に足を下ろした王女が、裾の汚れを見て声を弾ませる。


「粉だらけになるのね! 次は何だらけになるの? 泥より、こっちのほうがいいわ! 甘い匂いがするもの! 鼻にも、くしゃみはしないように命じておけばいいの?」


「鼻は、ご命令を聞きません。夕方まで、そのままお待ちください。粉に埋まって遊ぶご用意までは、しておりません」


 車輪が回り出す。靴跡は轍と蹄の列に踏まれ、道の上で切れた。後輩が川へ戻って来ても、追える新しい筋はもうない。幌の揺れに合わせ、粉の付いた外套が隣で揺れる。


       ◇


 昼、馬に水をやる村の井戸で、荷車が止まった。親方は桶を馬へ運ぶのに忙しく、字の並んだ紙には目もくれない。掲示板には新しい手配書。紙の端が風に浮く。足跡を切っても、名までは隠せない。俺は親方と紙の間に背を置き、王女が外套の陰から覗く。


 『王女殿下を攫った罪人、近衛騎士ジーヴェルト。生死を問わず』


 続きには、連れている娘は白金の髪の十歳、寝間着、とある。見つけた者に金貨百枚。後見人、宰相オルドリッチ。娘の似顔はなく、俺の顔だけが粗い線で描かれていた。王女が紙と俺を見比べ、外套の陰で口を尖らせる。


「似てないわ。あなた、もっと困った顔をしてるもの。眉も、こんなに立派じゃないでしょう? 金貨百枚もかけるのに、どうしてあなたに見せてから描かないの?」


「褒め言葉として受け取ります。描き直しは頼めません。お嬢さま、髪を出さずにご覧ください」


「褒めてないわ。でも、この顔なら誰もあなただと思わないわね。よかったじゃない。……紙に罪人と書いてあっても、私までそう呼ぶと思わないで」


 生死を問わず。宰相が急いで塞ぎたいのは、娘の居場所より騎士の口らしい。


 頭巾からこぼれた白金の一筋を、布の奥へ押し戻した。

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