1. 処刑台から、窓の下へ
朝の広場に群衆のざわめきが満ちていた。首へ回される縄の毛羽が、頬をかすめる。宰相オルドリッチが羊皮紙の端を伸ばす。
「近衛騎士ジーヴェルト。王女殿下を手にかけた罪により、処刑する」
守れなかった。十八の春に剣を捧げてから十年、たった一人の主を。
そして殺したのは俺だと、宰相は言った。
壇の階段が鳴る。宰相は群衆へ笑みを向けてから、俺の耳もとへ身を屈めた。細めた茶色の目には、裁きの席で見たのと同じ笑い皺がある。
「霜の夜も、北の塔も、わたくしが用意したのですよ」
猿轡を噛んだ。否定の声は布の奥で潰れ、宰相の袖の匂いだけが遠ざかる。塔の扉の前で、命令どおりに鍵を持ち続けた十年だった。その鍵を持つ者は俺一人だと、裁きの席では何度も繰り返される。守るために渡された鍵が、俺を縛る輪になった。開ける手まで、俺にはあったのに。
手首の白と青の紐だけが冷たい。牢で剣帯を取り上げられても、これだけは外さずにきた。王女が結んだ小さな結び目を、縛られた手で探る。春の風は暖かいのに、結び目だけが冬のままだ。違う、と叫ぶ声は、もう出ない。
首に縄がかかった瞬間――――。
「グッ! グォォォォ……」
目を開けると――十年前の兵舎の天井があった。
「え……? あれ?」
節の浮いた天井が近い。跳ね起きて、寝台の脇の洗い桶を覗き込む。短く刈った黒髪と琥珀色の目が、朝の水に揺れていた。頬の線が細い。肩も薄い。十八の顔だ。首に触れても、縄の跡はどこにもない。桶の縁を掴んだ。水だけが、まだ揺れている。
向かいの寝台で、同室の後輩が毛布から足を下ろす。
「叙任式の翌朝に寝坊ですか、ジーヴェルトさん。昨日は殿下付きの騎士だって、あんなに早く支度してたのに! 今日こそ張り切るところでしょう!」
「……今日は、何日でしょうか? 昨日が叙任式だったのですか?」
「え、叙任式の翌日ですよ。寝ぼけてます? 殿下のお守り、今日からですよね? ちょっと、僕まで不安になるじゃないですか!」
壁に掛けた剣帯に、昨日王女が結んだ白と青の紐がある。ほどけかけた端を差し込むと、触れた布は温かかった。同室の後輩が寝台から身を乗り出す。
「顔が真っ青ですよ、ジーヴェルトさん。悪い夢でも見ました? うなされてましたけど。そんな顔で行ったら、殿下までびっくりしますよ!」
「……ええ。長い夢を、少し。もう覚めました。ご心配には及びません。殿下の前では、こんな顔はいたしません」
「ならいいですけど。今日から殿下付きなんですから、しゃきっとしてくださいよ! 隊長に叱られますよ。僕は起こしたって言いますからね!」
冷たい水で、もう一度顔を洗う。水を払う手を、縛るものは何もない。
王女フロレンツィアは十歳。宰相はまだ笑顔の後見人。暗殺まで、あと十年。
前の十年では、今夜が霜の夜だった。王女の寝室が凍りつき、明朝には北の塔へ移される。処刑台で聞いた囁きの続きを、もうなぞるつもりはない。
◇
昼、離れの廊下に靴音が響いた。白髪まじりの撫でつけた髪を一筋も乱さず、宰相が王女の手を引いてくる。宰相の柔らかな手のひらが、小さな頭を撫でた。
「騎士殿、殿下をよろしく頼みますぞ。外は危ないものばかりです。殿下には、静かなお部屋がいちばんお似合いだ。わたくしの代わりに、よくお守りください。騎士殿のお役目は、殿下のおそばにいることですぞ」
膝をつく。剣の柄へ伸びかけた手を、床の石に置き直した。王女は宰相のすぐそばにいる。証拠のない若い騎士が、ここで剣を抜いて何を守れる。
「はっ。お任せください。殿下のそばを離れず、お守りいたします。この身に代えても」
頭を垂れたまま、石の冷たさを掌で受ける。処刑台の囁きを知っていて、俺はまた頭を下げている。
王女が振り返った。菫色の大きな目が、まっすぐ俺を捉える。王女は何も言わず、宰相の手をそっとほどいて歩き去った。離れていく小さな背に、塔の窓が重なる。前の十年の五年目、十五の冬に、扉越しに聞いた声だ。
「ねえ、私をここから攫って」
「殿下、それは困ります」
あのときも鍵の重さは腰にあり、手は剣帯から動かなかった。扉の向こうの頼みより、扉を閉める命令を選んだのだ。廊下の石を靴で踏み直す。今、離れの扉はまだ開いている。
だったら、待つ必要はない。
貯えは銀貨六十枚。旅の外套は二枚。庭の見回りは鐘一つごとで、藤棚の下を過ぎたあとに半刻の空きがある。噴水の石蓋の下には古い水路が通っている。前の十年の三年目、盗賊が見つけた道を塞ぐ当番で、俺が確かめた道だ。国王陛下は離宮で喪に沈み、宰相は俺を別の持ち場へ移すこともできる。訴える相手を探すより先に、王女を連れ出す道が要る。
◇
鐘が鳴り終わると、見回りの灯が藤棚の下を通り過ぎていった。薔薇の枝を避け、夜露に湿った桟へ靴を載せる。棚は離れの二階まで届いている。袖口から夜気が入った。窓の外で足を据える。持ってきた外套を腕に掛け直す。
その夜、俺は王女の寝室の窓を叩いた。
内側で掛け金が鳴る。窓が開くのを待ち、頭を下げる。
「殿下。攫いに来ました」
「遅い!」
月明かりに、王女の腰まで届く白金の髪が揺れる。用意した外套は、どうやら余りだ。
寝間着の上に外套を羽織った十歳の王女は、窓枠に足をかけていた。
差し出しかけた腕を、桟へ戻す。窓の外まで身を乗り出した王女が、俺の頭の上から言い放つ。
「十年も待ったのよ! さあ、遠くまで攫いなさい!」
「……十年?」
小さな顎が庭を指す。見回りの灯は、まだ遠い。王女は外套の裾を持ち上げる。
「早く! 見張りが来るわ! あなたが下でもたもたしている間に、私は外套まで着たのよ! 攫う人が攫われる人を待たせて、どうするの?」
「殿下、それは困ります。いま足場を――飛ばずにお待ちください。桟が湿っています。準備ができましたら、自分からお声をかけます」
返事の代わりに、窓枠が鳴った。慌てて背を向け、腰を落とす。王女が俺の背へ飛び降り、古い木が大きくきしむ。かかとの下で桟が沈んだ。膝を曲げ、重さを柱へ逃がす。頭の上で、王女の声が跳ねる。
「乗れたわ! ねえ、もう誘拐は始まっているの? 窓の外って、こんなに風が来るのね! 星もあんなにあるわ! 顔を上げなさい、見逃してしまうでしょう!」
「始まっています。ですから、跳ねないでください! 星は逃げませんので、下りてからご覧ください。自分はいま、足場を見るので精いっぱいです」
背中で笑い声が弾んだ。細い腕が首に回るのを確かめ、両手で棚を掴んで桟を下りる。外套越しに、小さな体温が背の真ん中へ染みてくる。前の十年、扉の前で一度も運べなかった重さだ。思っていたより、ずっと軽い。こんな重さも知らずに、守っているつもりだった。背中で王女が身じろぎする。
「なら、落とさないで運びなさい。庭の向こうへ行くのよ。壁の外も見せなさい! 私、部屋から出られたのよ。あなたも、少しはうれしそうにしなさい!」
「はい。自分もうれしく思っております。ですが、お声を落としてください。次の見回りより先に、噴水へ着かねばなりません。お喜びになるのは、静かにお願いいたします」
「私に黙れと言うの? 攫ったばかりで、ずいぶん偉そうな騎士ね! 窓の外で突っ立っていたくせに! うれしいのに黙るなんて、難しいわ!」
地面に靴を据え、噴水へ向かう。棚の上には、空いた窓だけが残った。十年待った、か。十歳の子が、自分の一生ぶんを待ったと言っているのだろう。それにしては、背中への乗り方に迷いがない。外套は余り、段取りは追い越され、背中では叱られている。それでも、足は軽い。
「……ご無事に運ぶためです。噴水の底に、外へ出る道があります。暗いですが、自分の背でよろしければ、見回りの来ない所まで必ずお運びします。殿下が静かになさる間に、できるだけ遠くへ参ります」
「暗いのなんて平気よ! 黙るから、先へ行きなさい。ちゃんと遠くまでよ、ジーヴェルト! 部屋へ戻すのだけは、許さないわ! 約束よ! 攫ったからには、最後まで運ぶのよ!」
背の重みを支え直した。霜の夜が来る前に、王女は寝室の外にいる。今度の足は、扉の前で止まらない。
二度目の人生、俺は王女の誘拐犯になる。




