ダイ12時代 大切な人達の為に ユウ気の一歩
「ああああああああああああああ!!!」
ある日の夜。両親に挟まれるように眠っていた彼は今夜も、突如目を見開き、絶叫と共に身体を起こす。
「ああああ…!あああ…!があああああああああああっっっっ!!!」
「…!」
ズーケンは脳裏を支配する怨霊の歪んだ笑みと声を振り払うかのように悲鳴を上げ、顔を左右に小刻みに振る。
「ズーケン!」
真夜中に響く我が子の悲鳴にアティラが身体を起こすと、彼女は小刻みに震える我が子の背中を一心にさする。これがいつの間にか、一家の日常となっていた。
「また、怖い夢を見たのか?」
「…なんでもない」
アティラに続き身体を起こしたズケンタロウの問いに、ズーケンは今も身体を震わせながら、消え入るような声と共に首を振る。
「なんでもないって…ここのところずっとこの調子じゃないのよ…。一体何があったのよ…?」
「なんでもない…なんでもないよ…!」
「なんでもないわけないじゃない!」
「なんでもない!!!」
息子の身を思うが故に、アティラは無意識に口調が強くなっていた。それに比例するかのようにズーケンは反射的に声を荒げ、母の手を振り払った。
「ズーケン…!」
「!!」
アティラとズケンタロウは、ズーケン自身も言葉を失った。ズーケンは母を振り払った感触が残る手を震わせ、見開いた目で見つめる。自分がやったことが、信じられなかった。
「…ごめん。母ちゃん、僕は…ダメなんだ…ダメなんだよ…」
「ズーケン…!」
大好きな母を傷つけてしまった。振り払われた手をおさえながら悲しそうな表情を浮かべる母を見ていると、それだけは痛い程理解出来た。ズーケンは訳も分からないまま、ただ目を強くつむり、謝ることしか出来なかった。
「ごめん…。お母さん悪かったね…」
大好きな息子を苦しめてしまった。我が子が何に怯えているのか、何が我が子を苦しめているのか、何一つ分からなかったアティラだったが、涙を流しながら謝る息子に胸を締め付けられる思いだった。戸惑い強い不安に駆られたその罪悪感と自責の念からアティラは無意識の内に息子を抱き締めた。腕の力と共に
(僕は…一体どうしちゃったの…?どうして…こんなに苦しいの…?僕は…どうしたらいいの…?)
今までこんなことはなかった。母親に対して声を荒げることも、手を振り払うことも、一度たりともなかった。自分に一体何が起きているのか、何が自分を変えてしまったのか、ズーケンは何も分からないまま夜が明けるのを待つのだった。
「ズーケン、今日も休みかな…?」
「かもな。ただでさえいつもより元気なかったし、最近学校休みがちだったからな…。あの感じを見ると、仕方ねぇのかもな」
ダイ海洋にて、マニヨウジによって結界のエネルギー源にされていた最後の魂を解放してから翌日。ヘスペロー、ペティ、レーガリンの3人は一つの席を囲み、今日もいないその主の身を案じている。
「折角昨日ルーズさん達から、マニヨウジに利用されていた霊の魂を解放したって聞いたから報告しようって思ってたのに。アサバスも無事にダイナ装備に戻れたみたいだしさ」
「でも、ダイ海洋で紫の人魂を見た時のズーケン、すごく怯えてたし、バザルさん達に送ってもらっている時もずっとあのままだったから…今どうしてるかな…」
マニヨウジの怨念によって紫の人魂となったユリを目にした直後、ズーケンはその場でマニヨウジによって刻み込まれた恐怖が蘇った。身体中を震わせ怯え続けるズーケンと共にダイ大陸に戻ったヘスペロー達は、その後ズーケンがどうなったのかは分かっていない。
「こうなったらもう今日中にでもズーケン家に行って、ズーケンのお父さんかお母さんに話してこようよ。このままじゃ何も解決しないしさ」
「でも、ズーケン家ってお父さんもお母さんも仕事で今は家にいないと思うけど…」
「普段ならね。でも、子供が休んだら親もどっちかは休むだろうし、家にいると思うよ」
「そ、そうだったね…」
レーガリンの場合実家が個人医な為両親とも常に家にいる状態ではあるが、他の家庭の場合はおそらく子供が風邪を引いたら親は仕事を休むものなのだろうと考えていた。そのことはヘスペローのようなシングルマザーの家庭の場合も同様であり、自身が熱を出した際は仕事を休まなければならない母親には、その度に罪悪感を覚えていたのだ。
「けど、まずバウソーに話すのが先だな。あいつはあいつで悩んでいるだろうし…話したらもっとショックを受けるかもしれねぇけど、このまま黙っとくのもちげぇしな」
「だねぇ。んじゃ放課後にでもバウソーにズーケンのことを話して、それからズーケン家行こっか」
ズーケンの異変にはバウソーもかなり動揺し、その身を案じている。その真相は、バウソーにとっては辛いものであったが、何も知らず苦しむよりは本当のことを話した方がいい。ペティとレーガリンは、バウソーの悩みの種を取り除くことを優先させた。
「そうだったのか…ズーケンは…俺に憑りついていたマニヨウジのことで苦しんでいたのか…!」
ズーケンが何故、自身を見ると酷く怯え出すのか。その背景には、かつて自身に憑依した怨霊の存在があった。その真相を前に、バウソーは目をギュッとつむり、両手を強く握り締める。
「こればっかりはしゃあねぇよ。お前が悪いことしたわけじゃないんだから」
「だが現に、ズーケンは俺を見ただけでマニヨウジのことを思い出し、苦しんでいる…。俺も一緒にズーケンのところへ…」
「バウソー。気持ちは分かるけど、今のままズーケンに会ってもかえってズーケンがマニヨウジのことを思い出して苦しんじゃうだけだよ。そうなったら、バウソーも辛いと思うよ」
「…そうか」
ペティの言う通りだったとしても、かつて自身を怨霊から救い出してくれた親友の為に出来ることはしてやりたい。だが今ズーケンに会えば、レーガリンの言う通りその親友をさらに苦しめてしまう。結局、親友の為に何もしてやれない現実を前に、バウソーは深いため息をついた。
「心配すんな。後は俺らに任せとけ。お前は、ズーケンがまたお前と前みたいに一緒にいられるようになったら、その時にまた力になってやりゃあいいさ」
「ペティ…」
バウソーが力なく落とした肩に、ペティは蝙蝠の羽のような手をポンと置く。その時のペティの優しい笑みに、バウソーは少しばかりの安心感と落ち着きを覚えた。
「みんな…ズーケンを頼む」
「任せといて。ズーケンは、きっと良くなるから安心して」
バウソーは一人の親友を託すように、3人の親友に頼み込むように頭を下げた。レーガリンは、親友の思いを確かに受け取り、先程のペティと同じ様に優しく微笑むのだった。
バウソーの強い思いを胸に、ズーケンの家の前までやってきたレーガリン、ヘスペロー、ペティの3人。親友がいるであろう一軒家の2階を見上げ、彼らは玄関の前に立つ。いつも4足歩行で移動するレーガリンとヘスペローも2足で立ち上がり、いつもズーケンの家に遊びに行く時にはない緊張感が漂う中、レーガリンが代表してで呼び鈴を押す。
「あら、レー君。それに皆も…」
「どうもズーケンのママさん…」
出迎えたのは、ズーケンの母アティラだった。レーガリンから見ると、声にはいつもの明るさもなく、心無しかどこかやつれているように見える。
「折角来てもらったんだけど、ウチの子ちょっと…みんなと会える状態じゃなくて…」
「ああいえいえ。僕達はズーケンじゃなくて、ズーケンのことでママさんに話があるんです」
「あたしに…?」
てっきり息子の見舞いに来たものだと思いアティラは一瞬呆気に取られるが、レーガリン達は始めからズーケンに会うことは難しいと考えていたのだ。
「最近、ズーケンのことが気になってるんです。一緒にいると急に何かに怯え出したり…」
「あの子、学校でも…?」
「あ、いえ、学校じゃなくて公園でなんですけど、家でもそうなんですか?」
「…」
アティラが沈黙したところを見ると、以前ズーケンが公園で見たことは、家でも同じように起きているのだろう。ペティ達は、話を先に進めた方が良いと判断した。
「それでなんですけど、ズーケンに病院を勧めようと思って色々調べてきたんです。勿論病院と言っても心を診てもらえる方で、バッチコルっていうところがあるんです。変わった名前ですけど、腕は確かみたいですよ。お節介なのは分かってたんですけど…」
「バッチコル…」
バッチコル。そこは以前ヘスペロー達が、ルーズに勧められた精神科病院だった。少々図太いレーガリンでも、内心いき過ぎた真似をしているのではないかと不安にもなった。だが、もしそれで親友が救われるなら、お節介も承知だった。
「ありがとう…わざわざあの子の為に…。実はあたしも旦那と同じことを考えてたんだけど、何処に行ったらいいか分からなくて迷ってたのよ。でも、ここは何処で知ったの?」
「知り合いに教わったんですよ。その人曰く、色んな患者さんがその病院でお世話になっていて、ズーケンにもどうだって勧めてくれたんです」
「まあ…そうだったの…」
アティラの反応から見ると、少なくとも嫌悪感は抱かれておらず、むしろ感謝されているように感じた。ただし、その知り合いが霊能力者だということは伏せておくことにした。しかし、レーガリン達は覚えていないが、ルーズとアティラは既に顔見知りである。
「ただ、先生と患者さんの相性というものがあるみたいで、合わなかったら他の病院を捜せばいいって言ってました。だからその時は、僕達も一緒に他の病院捜しますよ」
「レー君…!」
ズーケンの為ならば病院を捜す。今の言葉は、その場で思わず出たものだった。アティラが感動のあまり涙を滲ませる一方、レーガリンは自分でも驚いていた。そして痛感した。やはり、ズーケンは自身にとって大切な存在なのだ。
「みんな…あの子の為に、ありがとね。あの子のことは、あたし達に任せてちょうだい。また、元気になったら、あの子と遊んであげてね」
「分かりました。それと、ズーケンに伝えてほしいことがあるんです」
用件は済んだ。出来ることならズーケンに一目会いたかったが、当人が会える状態ではない上アティラも既に感涙をこぼし始めている。さらに、玄関前でこれ以上話し込むのは迷惑だろう。だがせめて、伝えたいことだけでも伝えさせてもらうことにした。
「僕達は、ずっと待ってる。ズーケンに何があっても僕達は変わらずズーケンの友達でいるから、ズーケンも僕達のことを友達でいてって。ね、二人共?」
「「!!」」
今のレーガリンの言葉も、その場で思い立って出たものだった。二人は驚き思わず顔を見合わせるが、すぐに揃って笑みを浮かべる。
「そうだね。僕達は、何があってもズーケンの友達だし、出来ることがあるなら、いつでも力になります」
「俺達はずっとズーケンのダチだ。今までも、これからも。あいつが俺達に会いたいって言ったら、そん時はいつでも会いに行きます」
「みんな…ありがとう…ありがとね…」
息子は、これだけ温かく思いやりのある友達に恵まれたのか。アティラは感動と我が子の親友達への感謝の思いが涙と共に溢れた。
「もしまたあいつになんかあれば、その時は言ってください。俺達は何があってもズーケンを助ける、ズケダチなんですよ」
「え?」
「んもぅいいよそれは!」
自分達だけの秘密の肩書きを自慢げに語るペティに、レーガリンは慌てて首を傾げるアティラに両手を振る。それが図らずとも一足早いバイバイになった。
「なんでもないですよ!じゃ、ズーケンのママさん、また来ますね!」
「おいおい待てっての」
「あ、ちょっと…どうも。また来ます」
深堀される前に逃げるようにその場を1人2足のまま走り去るレーガリン。そんな彼の後をペティは楽しそうに笑いながら蝙蝠のような腕を羽ばたかせて追いかけた。あっという間にその場を後にする2人に戸惑いながら、ヘスペローはアティラに一礼し、彼らの後を4本足で追った。
その日の晩。夕食も取らずズーケンが引き籠ってしまった部屋の前に、ズケンタロウがドアをノックし声をかける。
「ズーケン…今、話せそう?」
「…」
アティラは声をかけるが、返事はこない。だが、ズーケンは聞こえていないわけではなかった。両親を部屋に迎え入れようとドアに向かって手を伸ばした。
「…!」
しかしその直後、怨霊の顔が脳裏に現れ、ズーケンは腕を伸ばしたまま動けなくなってしまった。
「ズーケン、起きているならそのままでいい。聞いてくれ。今日、家にレー君達が来てね、ズーケンの為に、ズーケンのことを診てくれる病院を探してくれたんだって。っていうみたいなんだけど、行ってみるか?」
「!」
ズーケンは、レーガリン達が家に来ていたことは、部屋の窓から見えていた。会いたい気持ちは十二分あった。しかし、その時のズーケンは怨霊が脳裏に渦巻いており、一歩踏み出すだけで悪夢が過る為、部屋から一歩も動けずにいたのだ。
「あたし達も正直、今ズーケンのことがすごく心配で心配で、なんとかしてあげたいって思ってて、二人で病院探してたのよ。でも、いっぱいあって何処にすればいいのか分からなくて迷ってて、今日レー君達が勧めてくれたところも調べたら悪くなさそうだし、行ってみない?」
「…」
レーガリン達が勧めたはおそらく、以前ルーズが勧めていたところだろう。ルーズが勧めるなら安心していいのかもしれが、一歩でも動けばすぐに脳裏に怨霊が現れる。ズーケンは病院どころか部屋から出ることさえ億劫になっていた為、どれだけ病院に行く意思があっても決断出来ずにいたのだ。
「勿論無理強いはしないし、すぐにとも言わない。でも、今のままだと絶対に良くはなら。これは、ズーケンだけの問題じゃなくて、俺達親子の問題なんだ。俺達にも出来ることがあるなら、遠慮なんかしないで、もっと俺達に甘えて、頼ってくれよ。なんでもいいから…何かさせてくれよ…」
「…!」
苦しそうに呻き声を上げる息子に、ズケンタロウは父親としての思いをぶつける。親としての苦しみと悲しみ、そして自身への大きな愛に溢れた言葉に、ズーケンは一筋の涙を流す。そして次の瞬間、目を強く瞑り、脳裏に渦巻く怨霊をかき消すかのように思い切り叫び声を上げると、その勢いに任せドアを開ける。
「父ちゃん…母ちゃん…僕、行くよ…。父ちゃんと母ちゃん、それにレーガリン達が僕の為に頑張ってくれたんだから…応えないと…応えたいんだ…皆の気持ちに…」
ズーケンは今も目を瞑り息を切らせ両手の二本指を強く握り締め、未だ脳裏に渦巻く怨霊と戦いながら必死に自身の思いを伝えている。
「だから…父ちゃん…母ちゃん…僕に…力を貸して…お願い…僕どうしたらいいか分からないんだ…!だから…助けて…!」
「ズーケン…!」
弟を亡くしたあの日以来、両親に甘えたりはっきりと助けを求めたことがなかったズーケン。そんな彼が、やっとの思いで涙ながらに両親に救いの手を求めた。今まで人には理解されない痛みや苦しみを一人抱え込み続け、堪え続けていた悲鳴をとうとう上げた我が子を、アティラは抱き締めずにはいられなかった。
「辛かったよね…!ずっとずっと…苦しかったんだよね…!でも…よく頑張ったね…!」
「そっか…そっかそっか…!ありがとうズーケン…!一緒に、頑張ろうな」
互いに号泣しながら強く抱き合う妻と息子を、ズケンタロウも涙を滲ませながら抱き締めた。
翌日の朝。前日の晩、ズーケンが病院に赴く決意を固めてすぐに予約を取ったズケンタロウとアティラは揃って仕事を休み、息子ズーケンと一緒に病院へ訪れた。その際ズケンタロウが車を運転し、病院に着いた後はズーケンをアティラがおんぶして院内まで移動した。息子が一歩歩くだけでもトラウマが蘇ることを知った二人は、出来る限り息子がトラウマを思い出さないようにする為の配慮だった。因みに、ダイチュウ星でも車のような乗り物は存在し、形は動物園のバスのような古生物を模したものが多い。通常の乗り物と異なるのは、ハンドルに手をはめる箇所があり、運転の際はそこへ両手をはめて運転することが多い。
「ズーケン、具合はどうだ?」
「…まあ、なんとか」
受付を終えた一家は、受付窓口のすぐ横にある待合スペースに並んだ椅子に、ズーケンを挟むように座った。椅子は座り心地、初めての病院を前に緊張や不安を感じていた両親は少しだけだが、ほっとした気持ちになれた。しかし一方、ズケンタロウが声をかけたズーケンは俯いたままだ。怨霊の顔が過るズーケンは時折、それを振り払うかのように首を小刻みに震わす仕草を見せる。
「ズーケン。大丈夫だからね。あたし達がついてるからね」
「俺達がついてるからな」
ズーケンの身に何が起きているのかを理解している夫婦はそれぞれ、アティラは恐怖に見舞われている我が子を包み込むように抱き寄せ、ズケンタロウはその両手を優しく握り締める。今は、それしか出来なかった。
「おーいズーケンちゃん…ズーケン君だったか?来とくれ~」
夫婦なりに息子に寄り添いながら診察待ちしてから1時間後、診察室のドアが開かれ、患者が出た直後、白衣を着たリューキャク系の老人の長い首が顔を出す。
「ズーケン。いけるか?」
「…」
医者に名を呼ばれたことは分かっていたが、ズーケンは俯いたまま動くことが出来なかった。初めての精神科病院への緊張や不安もあったが、何よりまだズーケンの脳裏にはトラウマの元凶が渦巻いていたのだ。
「ズーケン…苦しいのは分かるけど、お医者さんが待ってるから…」
「ああ構わん構わん。ゆっくりでいい。気にしなさんな」
「すみません先生…ズーケン、ちょっとごめん」
息子の苦しみは痛い程理解出来ていたズケンタロウ達だったが、医者を待たせてしまっていることやズーケンの後に診察するであろう患者に迷惑をかけたくない思いから焦りを感じていた。だが、医者当人が片手で制すると、少し落ち着きと安心感を覚えた。しかし、このまま医者を待たせる訳にもいかない為、アティラはズーケンの両脇を抱え、夫と共に医者の待つ診察室へと入った。
「すみません先生、ご迷惑をおかけして…」
「なんのなんの。まあこちらにかけてくだされ」
コルバは頭を下げるアティラを両手でなだめると、親子を丸椅子に招く。
「確か、ズーケンちゃんといったな。ワシは、ティタノサウルスのコルバ。よく来てくれたな」
「…どうも」
ズーケンはアティラの両脇に抱えられたまま椅子に座らせられると、優しく微笑むコルバに小さく頭を下げる。だが、ズーケンは一瞬コルバと目を合わせるも、再び視線と共に俯いてしまう。
「親御さんから聞いたが、とても辛い思いをしとるようじゃな。わしはそのことについて、お前さんの力になりたいと思っとる。思い出したくないことも、口に出したくもないことなのは百も承知じゃ。じゃが、わしがお前さんを手助けする為にはそれがなんなのかを知らねばならん。辛いとは思うが、話せそうか?」
「…」
マニヨウジのことを話すことは、ズーケンにとってはとても難しいことだった。自身の身に起きたことを口にすること自体傷口をえぐり返すようなことで恐ろしく、何より話自体を信じてもらえるかどうかが不安だったのだ。ズーケンは俯いたまま何も言えずにいると、コルバは一息つく。
「そりゃすぐには決められんよな。無理もないことじゃ。医者とはいえ会って間もないジジイに、思い出したくもないことを話せなんて言うのも酷な話じゃ。じゃが、今のお前さんが苦しんでいるように、親御さんはお前さんのことをとっても心配して、お前さんのように苦しんどる。わしはな、お前さんは勿論、お前さんの親御さんのことも助けたいんじゃ。その為には、お前さんの力が必要なんじゃよ。わしに…力を貸してくれんか?」
「…!」
コルバは心から自身に寄り添い、自身だけでなく両親までもを救おうとしてくれている。それを心から感じ取ったズーケンは、の為だったが、しかし、今この場で話すことは難しかった。
「親御さんがいると、話し辛いことか?」
「…」
長年患者を診続けてきた経験もあってか、ズーケンが話せない理由を察したコルバが問うと、ズーケンは小さく頷く。
「そうかそうか。ご両親。悪いが一旦席を外してもらえませんか?終わったらお呼びしますんで、ご心配なく。ここは、わしに任せてくだされ」
「分かりました…。ズーケン、またあとでね」
コルバは診察室のドアを開け退出を促すと、アティラ達は心配と不安が入り混じった目で息子を見つめながら、穏やかな笑みを作り、部屋を後にした。
「さて、これで少しは話しやすくなったじゃろう。話せそうか?」
よいしょ。とズーケンの前に小さく腰掛けるコルバはズーケンに尋ねるも、ズーケンは俯き黙り込んだままだ。
「何か話せん理由があるのか?あったら教えてくれんか?誰にも言わん。秘密は絶対守るから、わしを信じて、勇気を出して打ち明けてくれんか?」
「…!」
コルバの言葉に心動かされたズーケンは、口を開く。
「…信じてくれるか、分からなくて」
今は、それを絞り出すのが精一杯だった。
「親御さんには、信じてもらえんと思ったか?」
「…分かりません。信じてくれるかもしれないけど…」
「そうか…」
心配をかけたくない。ズーケンの身に何が起きたのかは分からなかったが、その思いはコルバも十分感じ取っていた。
「お前さんの思いはよく分かった。みんなそうやって家族や友達には話したがらないもんじゃ。心配かけたくない一心でな。それに、お前さんは自分の話を信じてもらえるかどうか不安のようじゃが、少なくともお前さんが苦しんでるのは確かじゃ。話が本当かどうかというより、何がお前さんを苦しめているのかを知ることが先じゃ。だから、話してくれるか?勿論、時間はかかっても、今日話せなくても構わん。ここに来ただけでも、勇気を出してくれたもんじゃからな。お前さんは偉いのう」
「…」
一歩歩くだけでトラウマが蘇るズーケンは、初めての病院しかも精神科に訪れるだけでも心にかなりの負担がかかり疲れ切っている筈。コルバはこれ以上ズーケンに負担をかけないよう、無理させないよう彼の勇気を褒め称えた。
「口に出すのも辛いじゃろう。じゃが、それでもわしに教えてくれるなら、紙に書いてくれてもいい。確か、お前さんは二本指じゃったな。ちょっと待っとれ…ええと…これか。ほれ、箇条書きでも構わんぞ。例えば、どこで何があったか、その場所や周りに誰かいたか…何がお前さんを苦しめているのか、出来る限り教えてくれ」
「…?」
ズーケンはコルバから二本指用のペンを受け取ると、ぎこちなさを見せながらも、自身の心の傷や渦巻くものを、時折手を震わせ、筆を止めながら記し、伝え始めた。
数十分後。待合室の椅子に腰かけ、息子を待つズケンタロウとアティラ。最初は不安そうなアティラをズケンタロウがその背をさすったり励ましの言葉をかけていたが、今はお互い黙り込んでしまっている。終始不安な表情を浮かべながら診察室のドアをじっと見つめ、時折溜息をつきながら中にいるズーケンの帰りを今か今かと待ち続けている。そして次の瞬間、夫婦が疲れ切った目で見つめる診察室のドアが、ゆっくりと開かれた。
「ズーケン…」
「…」
ドアが開かれるのと同時に、アティラとズケンタロウはコルバと共に診察室を出た息子に駆け寄る。揃って不安そうな表情を浮かべる夫婦と目を合わせず、ズーケンは俯いたままだ。
「先生、ズーケンは…?」
「ズーケンちゃんは、色んなことを話してくれました。あの子は、子供なりに御両親のことや友人達、色んなことを考えていたんです。大した子です」
何故ズーケンがトラウマを負ったのか、ズーケンが今まで何を思い、何を考え生きてきたのか。その全てを知ったコルバは、最初はこの世の出来事とは思えず驚愕もしたが、同時に思わず涙する程感動を覚えていた。彼は熱のこもった言葉で患者を褒めたものの、両親からしてみればそれどころではない。
「あの…ズーケンはなんて…?」
「ズーケンちゃんの身に何があったのかは、話せません。お二人には話さないでほしい、それがズーケンちゃんとの約束です。なんで、家に帰ってもそのことについては触れないでやってください」
「…そうですか」
息子を苦しめるトラウマの正体。それは両親であるズケンタロウとアティラが最も知りたいことであったが、息子がコルバと交わした約束に込められた思いを尊重し、自分達の思いを抑えることにした。
「ズーケンちゃんは今、自分の中の怖いものと戦おうと、病気を治そうと頑張っています。ただその為には、ズーケンちゃんはこれから…とても辛い思いをすることになると思います。それこそ、自分の心の傷をえぐるような…場合によっては、長い戦いになるかもしれません」
「…」
心に深い傷を負い今もそのトラウマに苦しむズーケンに対し、コルバが行おうとしている治療法は、ズーケンが蓋をし、抑え込もうとしている恐怖の記憶そのものを何度も呼び起こし、身体に馴染ませるものだった。ズーケンからしてみれば、口に出すどころか思い出したくもない記憶を何度も掘り起こすのは苦行以外なにものでもないが、コルバが施せる治療法の中では一番効果がある方法だったのだ。
「ですが、それでもズーケンちゃんは治療を受けると、自分の中の恐ろしい記憶と向き合うと言ってくれました。他の方法もあると伝えましたが、それでもズーケンちゃんは、一番効果があって一倍苦しい方法を選んだのです。お父さんやお母さん、そしてお友達とまたいつものように一緒にいられるようになりたい、これ以上自分の為に、大切な人に心配をかけたり傷ついてほしくないと…。彼は自分の為というより、ご両親のような大切な人達の為に、勇気を出してくれたのです」
「…!」
視線も顔も俯かせるズーケンは、自分より自分達親の為に消してしまいたいくらい辛い記憶と、その記憶と何度も正面から思い起こす過酷な治療と向き合うとしている。アティラとズケンタロウは自分達親を思う気持ちに改めて気づかされる一方、ただでさえ心に深い傷を負い苦しんでいる我が子が治療とはいえこれからまた苦しい思いをしてしまう。なのに親である自分達は何もしてやれない。そんな無力感に胸を痛めるのだった。
「今日のところはズーケンちゃんの症状和らげる為の薬を出しときます。それと、トラウマによる症状は放っておけばおく程悪化してしまうもので、出来る限り早く治療してやりたいと言ったら、ズーケンちゃんは明日にでも始めたいと言ってくれました。わしも明日にでも治療を始めたいところですが、ご両親の予定は空いとりますかな?」
「はい。是非…」
「先生…息子を、よろしくお願いします…」
自分達には何も出来ない以上、最早医師に全てを託すしかない。ズケンタロウとアティラはすがる思いで深々と頭を下げる。両親の一人息子を託されたコルバもまた二人の思いを受け止め、固く強く頷くのだった。
「ただ、明日のことは明日になってみないと分かりません。今ズーケンちゃんは心の波が激しい上、またここに来るかどうかは、ズーケンちゃんの様子を見てから決めてくだされ。無論、行けそうになかったら無理せんでもええでしょう。治療は早い方がよいですが、次に来た時にもう少しズーケンちゃんの話を聞いて、今後の治療をどうするか判断します。ズーケンちゃんの身が一番ですからな」
「そうですね。ありがとうございます…」
心の病気もまた、他の病気と同じく早期段階で治療を始めれば治療期間も短く済むが、ズーケンの意思や体調を考慮せず無理強いすることは出来ない。患者を診察する度に、アティラのように深々と下げる同伴者を見る度に、いつもの如く今すぐにでも治療したくなるコルバだったが、もう一日問診を行ってから、よりズーケンに適した処方箋や治療法を決めることにした。
「ズーケンちゃん。今日はよく頑張ったな。またいつでもウチに来てくれ。わしは、いつでも待っとるからな。身体に気をつけてな」
「…ありがとうございます」
コルバは最後に、目の前で俯くズーケンに向かって穏やかに微んだ。ズーケンはゆっくり顔を上げる。気分はまだどこか優れず、なにか重苦しいものを抱えているような感覚を覚えている。だが、心はいつものように重く沈んだままだが、いつもより少しだけ軽くなったような気もしていた。それが何故なのかは分からないが、もしかしたらコルバに、今まで誰にも話せなかった、誰も信じてくれないだろうと蓋をして抑え込もうとしていた心の傷を、打ち明けられたからかもしれない。なんとなくそう思えたズーケンは、コルバに対し、今の重く沈んだ心では一言でしか、深く一礼することでしか表せない感謝を伝えると、明日の来診を決意し、両親と共にバッチコルを後にするのだった。
翌日。ズーケンは、アティラと共に再びバッチコルを訪れた。この日の朝を迎えた時、ズーケンは憂鬱な気持ちだった。バッチコルに訪れた時点では、今日の受診には前向きだったが、夜になるにつれ、段々と心に不安が押し寄せ、中々夜寝付くことが出来なかった。おまけに、悪夢にうなされ夜中に何度も目を覚ましてしまい、まともに眠ることさえ叶わなかった。そんな彼の体調を鑑み、アティラは受診は後日にすることを提案し、ズーケンも一瞬今日はやめておこう、そんな言葉が過った。だがズーケンは、毎晩悪夢にうなされ、まともに睡眠もとれず、毎日トラウマが頭から離れず、家族や友人達にずっと心配をかけている…こんな日々を一日でも早く終わりにしたい。その強い意思で再び、コルバの元を訪ねたのである。
「ズーケンちゃん、よく来てくれたな。ここに来るまで色々と大変じゃったと思うが、来ただけでも十分偉い。何より、またお前さんに会えてわしは嬉しいぞ」
「…」
コルバの言った通り、ズーケンは朝から頭も心も身体も重く、ここに来るだけでも勇気や気力を要した。さらに治療への不安もあり、向かう道中何度も帰りたくなった。たが、自身を歓迎するコルバの穏やかな笑みを見ていると、自身の沈んだ表情は変わらなかったが、不安は少しだけ和らぐのを感じた。
「どうじゃ、気分の方は?薬の方は、少しは効いたかの?」
「まあ…」
ズーケンは正直、効いているのかいないのかはよく分からない。だが心なしか、症状と心が少しだけ軽くなったような気がしていた。薬の効果なのか気のせいなのかもしれないが、コルバと出会い、自身の思いを受け止めてもらえたことが大きかったのだろう。
「さて、ここに来てくれたということは、治療する為に勇気を出してくれたんじゃろう。今日のところはお前さんの過去や症状についてもうちょい話をして、今後の治療をどうするか考えていこうと思う。まあ病気とはなんの関係のない話をしても構わん。なんだったら今日のところはただのお喋りでもいい。肩の力を抜いておくれ」
ただのお喋り。ズーケンは昨晩、今日の為に自身の傷についてどう伝えるか頭を悩ませてなんとか自分なりにまとめ上げた。どこか拍子抜けしたような気持ちにもなったが、その言葉を聞いただけで心が軽くなるのを感じた。
「…ありがとうございます。でも、僕は自分の傷と向き合います。その為に、ここに来たんです。だから…お願いします…」
「ズーケン…」
ズーケンは藁にも縋るような思いで、頼み込むようにコルバに頭を下げる。アティラは隣で弱々しく首を垂れる我が子の姿に思わず、その肩を寄せた。
「そうか…分かった。お前さんの思いに応える為にも、わしも全力で力を貸そう。わしに出来そうなことがあれば、何でも言ってくれ。まあ金絡みは無理じゃがな」
コルバは親子の緊張と不安をほぐす為に冗談を交える。アティラは愛想笑いをする一方、ズーケンは次に切り出す話題で頭がいっぱいだった。
「あの、僕の病気は…治るんですか?」
「む…」
ズーケンは思い詰めた表情と共に、単刀直入に尋ねる。この答えによって、自分の人生が決まるといっても過言ではないくらいの気持ちだった。しかしコルバは、そんな彼に現実を、僅かな望みを断たなければならなかった。
「ズーケンちゃん。よく聞いてくれ。ズーケンちゃんの病気は、薬とかによる治療を重ねれば幾分か症状を和らげることは出来る。少なくとも、日常生活を支障なく送れるぐらいにはな。しかし…残念じゃが、ズーケンちゃんのトラウマは消えん。ズーケンちゃんの心の病気の場合、完全には治らんのじゃよ」
「…!」
自身が患う病は、完全に治ることはない。この事実が、ズーケンから言葉と希望を奪い、一気に暗闇の底へと叩き落とした。またそれはアティラも同じであり、親子共々呆然とする中、コルバは続ける。
「誰でも一度負ったトラウマは、大きかれ小さかれその記憶は消えることはないんじゃ。二度と同じ思いをせんように、脳が記憶するんじゃ。今まで通りの生活を送れるようになっても、時にはトラウマがぶり返すこともあるかもしれんのじゃ」
「そんな…!」
一度刻み込まれたトラウマは、二度とその心から離れることはない。その記憶は生涯付きまとい、時にその後遺症に悩まされながら、背負い続けなければならない。コルバから突き付けられた現実は、年も十に満たないズーケンから見ればあまりにも残酷なものだった。これから先明るい未来が待っている筈だった長い人生が、一気に真っ黒い雲に覆われたように感じた。
「じゃあ…僕は、一生苦しまなきゃいけないんですか?いくら治療を頑張っても、薬を飲んでも、病気は治らないんですか?一生このまま…ずっと苦しまなくちゃいけないんですか…?」
「ズーケン…!」
このまま一生、終わりのない怨霊の恐怖に怯え続けなければならないのか。ズーケンは涙をこぼしながら嘆くようにコルバに訴えた。その姿に、ズーケンにアティラがより強く肩を抱き寄せる姿もあり、コルバはさらに胸を痛めていた。
「ごめんなズーケンちゃん。わしも医者として、ズーケンちゃんの病気を完全に治してやりたいんじゃが、今の医療技術ではどうにもならん。じゃが、さっきも言った通りズーケンちゃんの苦しみを和らげることは出来る。時に治療が辛くなる時もあるじゃろう。じゃが、トラウマが消えなくとも、完全に治らなくとも、症状を改善し、今まで通りの日常を取り戻すことは出来る。医者として、ズーケンちゃんの為に出来ることには最善を尽くす。それだけは言わしてくれ」
ズーケンの抱える恐怖の記憶を消し去り、トラウマによる症状や発作は完治させることは出来ない。だがコルバはそれでも、医師として、一人の大人として、これまで通り目の前の患者に向き合うことに全力を注ぐのみだった。少年の痛みや苦しみを出来る限り、少しでも多く和らげる為に。
「僕は…どうしたらいいんですか?治療を受けられるなら、僕は何をすればいいんですか…?」
気が付けば、ズーケンは昨晩布団の中でまとめた言葉など完全に忘れ、今自分がしなければならないことと向き合おうとしていた。すぐにでも日常を取り戻したい、以前の、本来の自分に戻りたい。その思いの強さは、俯いたままの姿勢には表れなくとも、コルバはその言葉で感じ取っていた。
「ズーケンちゃんが治療に前向きになってくれとること、わしはとても嬉しく思っとる。ズーケンちゃんのような、トラウマによる症状は、まず呼吸法や薬等による治療が一般的じゃ。ただ、ズーケンちゃんの症状を聞く限り、ズーケンちゃんが受けた傷は深く、症状も重い。わしに出来る範囲で今のズーケンちゃんに一番効果がある治療を施すとしたら…。お前さんにはこれから、自分の中の思い出したくもない記憶を、その隅から隅まで何度も口にし、何度も掘り起こし、辛く苦しい思いを何度もすることになるじゃろう。それでも、やるか?」
「えっ…」
「…!」
コルバから告げられた、ズーケンにとって最善の治療法。それを聞いたズーケンは、母アティラと共に思わず絶句した。
「ズーケン、無理しなくていいからね。他の方法もあるんですよね?」
息子と共に言葉を失っていたアティラはすぐ我に返り、ズーケンに声をかけつつ、コルバに他の方法がないのか、焦りの表情と共に問う。コルバは、深く頷いた。
「勿論じゃ。さっきわしが言ったのはあくまで一番効果があるというだけで、他に治療法がないわけじゃない。わしはただ、一番の近道を教えただけで回り道をしてもいいんじゃ。なんなら途中で治療法を切り替えたって構わん。どんな治療法であれ、本来のズーケンちゃんを取り戻す為とはいえ、時には逃げたくもなるかもしれん。じゃが、それでもかまわん。無理もない上、無理する必要もない。時には休んでも構わんし、焦らずゆっくりちょっとずつ段階を踏んでいけば、どれだけ辛くとも時間がかかろうと、必ず良くなる。だから、どれが一番早く治るかというより、どれが一番自分に合うか、それを一番に考えて選んでくれ」
想像しただけでも想像を絶するような苦しみを味わうだろう近道に愕然とするズーケン親子に、コルバは諭す。一つの方法や近道にこだわり、治療を急ぐ必要はない。たとえ遠回りになったとしても、少しずつだとしても確実に治療を進めていく道もあると。ズーケンはコルバから一度視線を外すも、すぐに戻す。その目は先程よりも少しだけ、強い意思を感じた。
「先生…ありがとうございます。母ちゃんも…。でも、僕はやっぱり、今すぐにでも病気を治したい。それがどれだけ辛い道だろうと、僕は、自分の中の怖い記憶と戦います。戦って…絶対勝ちます。僕の為に心配をかけて、僕が元気になって戻ってくるのを待っててくれる人達がいるんです…。だから、先生の力を、貸してください」
「…」
ズーケンのか細い声から出た言葉と、まだ恐怖を拭いきれない目には、自身のトラウマに勝ち、本来の自分と、皆との日常を取り戻すという力強い決意と、という思いの強さが籠っていた。アティラはその姿を涙ぐんだ目で見守り、コルバは真正面から捉え、固く頷いた。
「分かった。お前さんの確かに受け取った。お前さんの戦い、わしも喜んで手を貸そう。だがなズーケンちゃん。これはズーケンちゃんだけの戦いではなく、わしの戦いでもあり、ズーケンちゃんのお母さんやお父さん、家族の戦いでもあるんじゃ。皆で一緒に、ズーケンちゃんの怖い記憶に勝とう。お前さんがトラウマに飲み込まれそうになったら、わしがお前さんを救い出す。ここなら安全じゃ。もうお前さんが味わった恐怖も苦しみも味わうこともない。じゃから、安心して治療に専念してくれ」
「…ありがとうございます」
恐怖に飲み込まれそうになっても、コルバがついている。治療への不安は大きいが、コルバがいることへの安心感もまた大きかった。ズーケンは、マニヨウジへのトラウマと一緒に戦ってくれるコルバに感謝の意を込め、ズーケンは深く頭を下げた。
「あの、先生…私達は、親はどうすればいいんですか?私達がズーケンの為に出来ることって、何かないんですか?私達親は、見ていることしか出来ないんですか?」
息子がこれから過酷な治療に臨むかもしれないのに、自分達親は何も出来ないのか。息子の為に何かしてあげたいという思いと焦燥感に駆られるアティラに、コルバは言葉をかける。
「お母さん。ズーケンちゃんは今、心の深い傷によって以前のズーケンちゃんではなくなってるかもしれません。この変化にはご両親も戸惑いや不安を感じておられるかと思いますが、それを一番感じているのはズーケンちゃん自身です。心の傷によって、時にはズーケンちゃんもいつもの自分ではいられない時もあると思います。心の病気を患うと、それまでの自分とは大きく変わってしまうことも多いのです」
「…」
コルバの言葉を受け、アティラは思い返すと、思い当たる節があった。ズーケンはボンベエ盆地での一件以来、どこか落ち込んでいるように見え、口数も減り、怒りっぽくなったように感じていた。
「ですが、たとえズーケンちゃんがどう変わろうと、今のズーケンちゃんをちゃんと受け止め、この先ズーケンちゃんに何があっても、あなた達は変わらず今まで通りズーケンちゃんの傍にいて、ずっと味方でいてあげればいいんです。ズーケンちゃんは不安定な心を少しでも安心させ、ズーケンちゃんの心を、安心させてあげるには、和らぐ筈です。で、合ってるかズーケンちゃん?正直な気持ちを聞かせてくれ」
自分に何か変化があったとしても、周りは変わらず、今まで通り接してくれること、それが一番嬉しくて、一番安心するのではないか。コルバは考えていた。しかし、本人に聞いてみないと分からない。果たしてズーケンもそうなのか、コルバはズーケンに問う。ズーケンは、ゆっくり頷いた。
「確かに、今の僕は、今までの僕じゃないって思ってるのは事実だし、それで皆に迷惑かけてるなって、心配かけちゃってるのは、分かってました。でも、どうしたらいいのか分からなくて、ずっと一人悩んでたけど、結局何も考えられなくて…」
心に深く刻まれた傷に毎日苦しみ、恐怖の記憶に脳と心を何度も支配される度に、何故これ程過去のトラウマが何度も蘇るのか、自身の身に何が起きているのか、ズーケンには何も分からず、何も考えられなくなっていた。
「でも、先生の話を聞いてると、その通りだって思いました。僕は、父ちゃんや母ちゃん、友達の皆に何かしてほしいわけじゃないけど、皆には僕みたいにならないでほしい。僕がどれだけ苦しんでても、皆が僕みたいに苦しまず、今まで通り元気で笑っていてくれれば、それだけで十分なんだって気付きました。それだけで僕は安心するし、治療も頑張れると思います。苦しむのは、僕だけで十分なんです」
「そっか…そうなんだね…」
たとえどれだけ自分が苦しみを味わおうと、みんなにはただ今まで通り、友達として、家族として一緒にいてほしい。ズーケンは自身を変えたものの正体を知り、自身の望みに気づいた。本来の自分を取り戻すこと、家族や友人達には、自身のような苦しみを一生味わうことなく、今まで通りただ傍にいてほしい。それだけだった。心の傷に苦しむ我が子の願いに、母アティラは涙を拭いながら聞き入れるのだった。
「そうか…。お母さん。聞いての通りじゃ。お母さんはズーケンちゃんの為に何かせずにはいられないかもしれませんが、あまり気負い過ぎる必要はないんです。ただズーケンちゃんの傍にいて、話をしたり、ご飯を作ってあげたり、今まで彼の為に頑張ってきたことを今まで通りしているだけで、いつもの通りのお父さんとお母さんでいてあげれば、ズーケンちゃんはそれだけで安心するんです。んで、お母さんも何か困ったことがあったらご主人や周りの人に頼る。ズーケンちゃんやお母さん達が、わしを頼ってここに来てくれたように。わしも、それでいいと思います」
「…そうですね。私も夫も、なるべくいつもの通り、今まで通りの自分でいようと思います…」
息子の為に出来ることは何か。その答えを息子の本音と医師の言葉によって見つけ出したアティラは、心が一気に軽くなったように感じた。トラウマによって変わってしまった息子が求めていたのは、変わらないものだった。息子の為に何かせずにはいられない思いは残ったままだが、息子の為に変わるのではなく、息子の為に変わらない。自分達が今まで通り接するだけで、息子の為になるならそれでいい。アティラは、大事な息子の為に出来ることをしたいという思いの強さより、大事に思う息子の気持ちだということを再認識するのだった。
「因みにですが、頑張れ、みたいな言葉は却ってプレッシャーになってしまうことがあるんです。まあ心の病気に限った話ではないんですが、心の病気を抱えている場合はより注意が必要です。まあズーケンちゃんはいつも頑張ってると思いますし、お母さんやご主人もそうでしょう。ただ、ズーケンちゃんが治療を頑張ってきたら、それを褒めたり労ったりしてあげるのはいいかと思います」
「分かりました…」
アティラは溢れて止まらない涙と共に、何度も小刻みに頷く。コルバからの注意事項と助言、そして労いを有難く受け止め、気をつけるべきことは細心の注意を払いながら、傷つきながらも戦い続ける我が子に寄り添い続けることを決めたのだった。
「そして、最後に聞くがズーケンちゃん。ズーケンちゃんと一緒に治療に頑張るのは、わしでいいか?」
「え?」
予想だにしなかった問いに、ズーケンはその意図が理解出来ず呆気に取られる。しかし、コルバの顔は至って真剣だ。
「他の病気もそうじゃが、心の病気の場合医者との相性がより大事になってくる。もし、ズーケンちゃんがわしと合わなそうなら、他の医者を紹介することだって出来る。わしみたいな、こうガサツでガツガツくるのが苦手な子もおる。それが間違ってるとは思わんし、他の医者に変えられてもわしは何とも思わん。むしろ、それがズーケンちゃんの為になるなら、わしは喜んでズーケンちゃんを他の医者に託す。だから、ズーケンちゃんの正直な思いを聞かせてくれ」
ズーケンは人一倍他者に気を遣い、相手の顔色をよく見ている。もし自身との相性の無さを感じていたとしても、コルバ自身の機嫌や気持ちを考慮し、本心を隠すかもしれない。しかし、ここで気を遣われては今後の治療に大きく影響してくる可能性もある。たとえ相性が悪いと思われてもズーケンの本音を聞き出し、合わないならきちんと言葉にしてもらわなければならない。ズーケンが自身に気を遣わないよう、彼自身を最優先させるよう、コルバは本心をぶつけた。
「僕は、コルバ先生のままがいいです。むしろ、僕はコルバ先生が一番いいと思っています。コルバ先生は、誰も信じられないような僕の話をちゃんと聞いてくれて、僕と向き合ってくれて、僕のことを信じてくれました。だから僕は、僕は勿論、友達や家族だけじゃなくて、僕のことを信じてくれる先生の為にも、治療を頑張りたいんです。だから先生、よろしくお願いします」
彼の瞳から穏やかさを、言葉には自身を思う優しさと自身の力になるという思いの強さを感じた。遠慮なく紛れもない本音を明かしたズーケンは最後に、コルバに頼み込むように深く一礼した。本心を語った我が子の姿に、母アティラは涙ぐんだ目でじっと見つめるのだった。そして、ズーケンの返事に嘘偽りないことを肌で感じ取ったコルバは、安心したようにふぅと息を吐くと、力強く頷いた。
「そうか。ズーケンちゃんがそう言ってくれるなら、わしは喜んでズーケンちゃんの力になろう。お母さんは、わしでよろしいですかな?」
「ええ、勿論です。是非、息子をどうかお願いします」
アティラもまた、コルバに深い信頼を寄せていた。彼になら、安心して息子を託せる。アティラは深々と頭を下げる。それにつられるかのように、先程深々と頭を下げたズーケンも、再び深くお辞儀するのだった。親子揃って首を垂れる二人を、コルバはまあまあと諭しながら頭を上げさせる。礼儀正しさに関心する一方、人に頭を下げさせるのは、少々苦手なのだ。
「お二人の思いは、しかと受け止めました。では、ズーケンちゃんとお母さん、もしかしたら長い戦いになるかもしれません。ですが、どれだけ時間がかかろうと、治療を施せば必ず良くなる病気です。ズーケンちゃんは、無理せず焦らず向き合い、お母さんとお父さんはどうか辛抱強く、温かく見守ってあげてください」
「分かりました…」
「先生…よろしくお願いします…」
辛い治療になる上、長い時間がかかるかもしれない。そのことを再認識した上で、ズーケンとアティラは改めて決意するのだった。その後3人は、今後の治療について話し合った。まずコルバはズーケンに、トラウマのフラッシュバックによる過呼吸の発作を抑える「呼吸法」を伝えた。次に、コルバによる治療は、ズーケンがトラウマを想起させるもの避けている状況やトラウマとなっている記憶を繰り返し、時間をかけて話し、トラウマによる情動を軽減させる、地球では持続エクスボージャー療法と呼ばれるものが選ばれた。コルバはズーケンに最も効果があり、彼にとって最も過酷になると見ていたが、ズーケン本人の、一日でも早く日常を、何より自分自身を取り戻したいという強い思いを尊重した結果だった。それに伴い、治療開始日は明後日となった。アティラやコルバはもう少し間を空けることも勧めたが、ズーケンの意思は固かった。しかし、ズーケン自身は今も脳裏に渦巻く恐怖の記憶と真正面から向き合うことに不安と緊張を抱いていたが、自身の身を案じる隣にいるアティラのような家族や、今は目を合わせることすら叶わないバウソーを始め友人達を思う気持ちが、今の彼を奮い立たせ、突き動かしていた。
かつて親友達と力を合わせ、怨霊との戦いを制したズーケン。しかし、その中で圧倒的な力を持ったマニヨウジへの恐怖と、自身の目の前で親友達が次々と蹂躙され、その場にいた全員の命が奪われることへの絶望を味わい、その心に生涯癒えることのない傷を負った。その後遺症によって戦いが終わった今も苦しみ続けている。平和を守り抜いた少年が取り戻した筈の日常を蝕み、その後人生をも歪ませかねないトラウマに打ち勝つ為の、ズーケン、ズーケン親子の戦いは、ここから始まる。




