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恋のエンジン  作者: 水野
8/25

その8

 お店の看板は赤さびでくすんでいた。汚れた素地の上には『鈴木商店』とあった。通りに面した壁はガラス張りになっており、中が良く見える。色も形もさまざまな二輪車が、金属製の外装で陽光を反射していた。

 レジの近くで、多田が店員さんと話していた。店員さんが何かを言い、多田が楽しそうに笑う。ずいぶん親し気な様子だ。その後ろでは、鳥羽さんが緊張した面持ちで多田と店員さんの顔を交互に眺めていた。

「やっと来たか」

「学校で禁止されてるだろ」

「されてない」

 多田は断言した。

「現代を生きる若者が古い規則に縛られてるのはもったいないな」

 店主は顎髭を蓄えたガタイのいい男だった。まったくその通りだと多田が同調する。会社員の先輩と後輩はこんな感じだろうかと思った。

「じゃ、これメットにつけるからな」

 多田は僕に何か手渡した。小さなトランシーバーみたいだ。

「インカムだ。電源を入れてメットの上からつける。耳に当ててちょっと聞いてみろ」

 言われるままに電源をつけて耳に当てる。

『聞こえるか?』

 デジタル変換された多田の声がイヤホンから聞こえる。

『聞こえてるよ』

 呟くような声は鳥羽さんだった。

『準備はいいな』

 ひときわ野太い声が鼓膜を震わせた。店員さんは僕の肩を掴んだ。

「準備ってなんですか」

「これから試乗するんだろ」

 僕は顔を上げた。鳥羽さんの顔は困惑を通り越し、恐怖の色を浮かべつつある。

「多田、なんでバイクなんだ」

「風を感じれば嫌なことも吹き飛ぶ」

 滅茶苦茶な理論だ。

「鳥羽さん、だったか、こいつが乗りたいだけなんだ。無理することはない」

 店長、鈴木さんは鳥羽さんへは優しさを見せた。

 鳥羽さんは小さく首を振った。

 口を一文字に結び、湧き上がってくる恐怖を胸の奥で押しとどめる。その目は決意と期待が入り混じって奇妙な色を帯びていた。

「無理なんてしてません」

「多田は乗れるな。じゃあ、君のほうは」

「三木です」

「三木は多田の後ろがいいか?」

「僕は鈴木さんの後ろを希望します」

 予想外の返事だったらしい。鈴木さんは僕と、多田と、鳥羽さんの顔を順番に見た。

「多田は嫌です」

「お前なあ」

 多田はすぐさま突っ込んでくる。鈴木さんは面白そうに笑った。

「三木の意向はわかった。多田、もちろん運転は大丈夫だろ」

「一年経つのずっと待ってたんすよ。ちょうどよかった」

 二人乗りは免許を取ってから一年は禁止されているんだ、と多田は言う。

「免許なんて取ってたのか?」

「去年取ったよ。校則でも禁止されてない。それに担任の許可だって取ってるんだ、必要もないのにだ。万全に万全を期してる。後は事故りさえしなければ」

 事故、の二文字を耳にした鳥羽さんは震えた。大丈夫だって、と多田は気楽な様子だ。

「ただ、バイク通学は禁止されたんだよ。不自由な立場だよ俺たちは」

 鈴木さんは店内からバイクを外に運び出した。多田は別の一台を引いていく。

 僕はヘルメットをかぶってバイクのそばに立った。

 お腹の底に響くようなエンジンの鼓動が始まった。アロマキャンドルなんかとはわけが違う。内燃機関の音。インカムがないと会話なんてできないわけだ。

 鳥羽さんはおずおずと後部座席に跨った。多田がアクセルを回すと、エンジンはひときわ大きなうなりを上げた。

 鳥羽さんは、グラブをはめた手をそっと多田の肩に置いた。鈴木さんがその手を取った。そして、多田のベルトのあたりに再配置する。腰のあたりが一番安定するんだ、とバランスの取り方を指導した。

「しっかり握っとけよ」

 鳥羽さんはヘルメットをかぶったまま頷いた。大きな頭は重くて動かしにくそうだ。

 多田の片足が地面を離れた。エンジンが振動し、車輪が地面を掴んで車体が動き出す。鳥羽さんは肩を緊張させ、多田の腰のあたりを強く握った。

 鳥羽さんは緊張しきっていた。一方の多田は口笛でも吹きだしそうな上機嫌だ。

 僕の後ろに乗っても鳥羽さんはなんとも思わないだろう。それと同じで、鳥羽さんが後ろに乗っても多田は何も感じない。人の不幸はすれ違いの累積だ。

 ゆっくりと加速し、公道の流れに乗る。二人の姿はあっというまに遠ざかる。ぶうん、というエンジンの音も徐々に遠くなって、聞こえなくなった。

「三木はこれでいいのか」

 鈴木さんは、多田と鳥羽さんの走り去った方向をずっと眺めていた。

「何のことですか」

 質問の意図がわからない。鈴木さんはやれやれとかぶりを振った。

「俺たちも行くか」

 大型のごついバイクだ。渡されたヘルメットを着ける。顔をぎゅうぎゅうに圧迫されて妙な感じだ。グラブをつけ、鈴木さんの後ろに乗る。鳥羽さんがしていたのを真似して、鈴木さんのベルトのあたりを握る。インカムを通じて、行くぞ、と鈴木さんが伝えてくる。車体はぐっと加速して、スピードを増していく。多田と鳥羽さんを追いかける。

 インカムからは、先を行く二人の会話も聞こえてくる。

『鳥羽は大丈夫か?』

 鈴木さんが呼びかける。

『わ、私は平気です』

『三木は怖がってませんか』

 多田が言う。冗談とはいえちょっとむっとする。けれど鳥羽さんが小さく笑ったのが聞こえれば、それでいいと思ってしまう僕にはプライドの欠片もない。

『鈴木さんの後ろは多田の一千倍は安定感があるよ、心配すんな』

『乗ったことないだろお前』

 交差点の直前で、見覚えのあるバイクとヘルメットが見えた。多田と鳥羽さんだった。多田の後ろに並ぶ。鳥羽さんは、安心した様子で多田に掴まっていた。

『多田。ずっと南行くぞ。初めていったとこだ』

『了解っす』

 多田と鈴木さんは旧知の友人みたいだ。僕とは違う世界に足を踏み入れていた。鳥羽さんが惹かれたのは、こういうところかもしれないと思った。僕にはできないことだ。

 住宅街を抜けると、周囲に田圃の広がる広い土地に出た。見晴らしがいい。鳥羽さんが声をあげた。

 道は川沿いに沿って緩く蛇行する。河口は海につながり、海岸沿いに風力発電のプロペラが見える。鈴木さんはハンドルを切る。付近には、灰色の巨大な建物が並んでいた。

『工場地帯なんだ。ここを抜けたら、またすぐに海が見える」

 建物の群れがふいに途切れた。左手から光が差し込み、開けた視界の向こうから冷たい風が吹いてくる。

 目の前に、砂浜と海が広がった。圧倒的な量の水が陽光を反射して輝いていた。海と空の交わるはるか遠くに浮かぶ船舶はが黒い煙を巻き上げていた。

『あの船もエンジン積んでるだよな。これよりでかいやつ』

 僕は足元でうなりをあげる小さな金属の塊を意識した。インカムの向こうから返事がする。

『ただでかいだけじゃない。あっちのはディーゼルエンジンつってな、シリンダ内の燃焼の考え方が全然違う――』

『多田くん黙って走って』

 鋭い声にインカムは沈黙した。てっ、と聞こえたところを考えると、多田は鳥羽さんに殴られるか蹴られるかしたんだろう。

 鳥羽さんは、ファミレスにいる時とは打って変わって楽しそうな様子だった。僕のいない間で、多田は鳥羽さんに何を言ったんだろう。知りたい。けれど、それは僕が聞くことではない。

 鈴木さんはスピードを落とした。防波堤のすぐそばにバイクを止める。多田と鳥羽さんは、防波堤に上がって海を眺めていた。鳥羽さんは、僕と鈴木さんに気が付いてこちらを振り向いた。

「三木くんも来なよ」

「僕はこっちから見てるよ」

 何言ってんだ、と、鈴木さんが僕の背中をどついてきた。僕は鳥羽さんのことが気にかかって海どころではなくなっていたけれど。

 防波堤に上がる。一段高い場所から眺めると、視界いっぱいに空と海が広がる。自分の中で考えていたいろいろなことが、巨大な空間に吸い込まれていくようだった。

「海を見てるとさ、人間なんて宇宙のチリさえ動かせないちっぽけな存在だなって実感するよな」

 多田がしみじみと怖いことを言う。

「こいつは、学校でもこんなことばっかり言ってるのか?」

「平常運転だなって感じます」

 僕が言うと、鳥羽さんは笑った。

「笑うなよ、せっかくここまで連れてきてやったのに」

 多田の文句に、鳥羽さんはまた笑い声を大きくする。

「風を感じたらいろいろ吹き飛んだよ」

「本の礼だ」

「じゃあ、またお礼を返さないと」

 鈴木さんは苦笑した。

「三木の友人は詩人ばっかりなのか」

 僕はこらえきれずに噴き出した。

「この二人は例外です」

 

 僕らはお店に戻って解散した。多田と鳥羽さんは、以前よりずっと打ち解けていた。時折どちらからともなく僕に話を振ってきたけれど、明らかに僕は邪魔ものだった。

 自室に帰った後も落ち着かなかった。鳥羽さんの思いは叶うだろうと思った。

 彼女の幸福は僕の幸福だと思えるほど僕は善人じゃない。思い切りベッドに倒れこむ。胸の内にこもった妙なもやもやを、僕のくたびれた布団はまともに受け止めてくれなさそうだった。

 寝返りを打つと、ポケットの中に固い感触がした。インカムだ。ツーリングが終わった後、鈴木さんは僕らからインカムの回収を忘れていた。

『明日の昼にでも、俺に返してくれよ』

 多田からの返事が戻ってきたのは、夕食と風呂も終えて床に就く直前だった。鳥羽さんとずっと話でもしていたんだろうか。

 僕は着信をそのままにした。なかなか眠れなかった。

 翌日のお昼休み、多田は教室にいなかった。また、部室で何か妙なものを組み立てているのかもしれない。部室に向かう。

 ポケットの中にあるインカムの感触を確かめる。と、間違えてスイッチを入れてしまった。ざざ、とノイズに混じって話し声が聞こえてくる。

『俺も中学のときは嫌なこと言われてたんだ』

 僕は息が止まりそうになった。

『なんつーか、人とわいわい騒ぐのが苦手なのも、ひとつの個性なんだ。悪いことじゃない。性格なんて相対的なものだ。俺は、今の鳥羽でも十分いいと思う』

 昨日の話の続きだ。今すぐ電源を切るべきなのに、それどころか僕はスピーカーから流れてくる音声に耳を澄ませていた。

『私はまた助けられちゃったよ。もうひとつお願いしていいかな』

 何かと多田が問う。スピーカーの向こうで、鳥羽さんが息を吸い込んだのわかる。

「私、多田くんのことが――」

 僕はインカムの電源を切った。その先は聞いてはいけないと思ったからだ。

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