その9
日常にぽかりと大きな穴が開いたようだった。
今まで自分を突き動かしていた原動力がなくなった。
受験生だ。浮ついた情事にうつつを抜かしている暇などない、と思っても、僕とてつい最近までうつつを抜かしていたからそんな言い訳もできない。
いい勉強になった。古典の悲恋和歌が涙なしに読めなくなるだろう。
教室を出てまっすぐ歩く。廊下は三方向に分かれる。右の渡り廊下を通れば図書室、左に曲がれば部室棟、まっすぐ行けば下駄箱。僕は寄り道せず家に帰ることにした。廊下の反対側から、別のクラスの生徒が歩いてきた。
「多田くんのところにはいかないんだ」
声を掛けられた。僕は立ち止まった。廊下の白線を挟んで向かい合う。田中だ。
少し垂れた目はけだるげだ。一方で黒目がちの瞳は存在感を放っていて、全体として明るい印象を受ける。鼻立ちはすっと通って、頬から顎にかけてのラインは違和感のない自然な形だ。美人、の二文字が頭に浮かぶ。
「そんなことしてる場合じゃないんだ」
「ひどいなあ、久しぶりに話す元クラスメートなんだから、もうちょっと楽しそにしてくれてもいいじゃない」
僕は返事をしなかった。田中は、愛らしい笑みを浮かべながら毒塗りの槍で胸を突いてくるような奴だった。
彼女は自分が他人からどう見えているのかわかっていた、僕は、なんとなくその神様めいた態度が苦手で距離を置いていた。
苦手な人に対する一番適切な態度は、嫌うのでなく関わらないことだ。
「じゃあ僕は帰るよ」
「鳥羽さんを慰めてあげなくていいの?」
鳥羽さんの名前が出てきてどきりとした。田中は、表情を変えないままじっと僕の顔を凝視していた。
綺麗な顔を前にしていると、人物の評価を見誤る。相手をしたら駄目だと思う。けれど鳥羽さんへの関心が先に立った。
「なんで鳥羽さんなんだ」
「私、鳥羽さんと仲良しなんだよ。本の趣味も合うし」
わざとなのか、白を切るように関係ない情報を入れてくる。
「田中が私用で書物を開くやつだとは思わなかった」
「書物を開くようなやつだと思われないほうがずっといいよ。じゃあ、私はこれで」
僕の脇をするりと過ぎていこうとする彼女の細い肩を掴んで、すぐ離した。
「二人とも似てるよね。凄くわかりやすいところとか」
田中は何が言いたいんだろう。
僕は今すぐ図書室に行きたい気分だった。けれど、田中にそ悟られるのは癪だった。
「じゃ、私は職員室に寄って帰るよ」
僕らは別れた。田中は職員室のほうへ、僕は下駄箱に向かってまっすぐ歩く。田中の姿が十分に離れたところで、僕は元来た道を引き返した。職員室の扉が閉まっていることと、田中が近くにいないことを確認してから図書室への階段を駆け上がった。
階段を上り切る、と、陰から誰かが飛び出してきた。ぶつかりそうになって止まる。
すみません、と声を掛けようとして言葉を失った。
「職員室に行く前に図書室にも用事があったのを思い出してさ、ごめんごめん」
田中は今日一番の笑みを浮かべると、軽い足取りで階段を降りていった。
余計なことを考えるのは思うつぼだと思って、僕は頭の中から、ひらりと宙を舞う田中のなめらかな黒い髪をかき消した。
図書室には相変わらず利用者の姿がない。
カウンターに座った鳥羽さんはいつもと変わらない様子だった。首だけを回して僕のほうを向く。表情の変わらないは、ちょっとだけ怖かった。
「運命に弄ばれたよ」
彼女は両手で支えていた本をカウンターに置いた。読めなくても手元に置いておくのがくせになっているのかもしれない。
「聞くよ」
口を一文字に結び、頬が持ち上がる。泣きそうになるのをぐっとこらえているように見えた。
「私、先週借りたインカムを返し忘れちゃってて」
鈴木さんは僕らから機械を回収するのを忘れていた。
鳥羽さんはポケットからインカムを取り出した。今も僕に向かって投げつけてきそうだ。
「間違って電源をつけたら多田くんとつながった。多田くんも電源入れてたんだ。こんな偶然さ、運命だと思わない? 運命が私に行けって言ってるんだって勘違いしても止むを得ないよね」
鳥羽さんの声はしりすぼみになった。
「私は多田くんのことをナメてたのかもしれない。多田くん相手ならきっと行けるって思ってた。私の価値はそこまで高いほうじゃないかもしれないけど」
「僕はそう思わないけど」
僕の決死のアピールを鳥羽さんは無視した。
「多田くんならきっと私と釣り合うか、それともちょっと私のほうに傾くと思ったんだ。そんな傲慢なことを考えていてうまくいくわけがないよね」
「自分で自分のことを馬鹿だって思える奴は、たぶん本当の意味での馬鹿じゃないんだよ」
「よく覚えておくといいよ三木くん。神様は運命と見せかけてときどき、トラップを仕込んでくるって」
夕焼けの明かりが図書室に濃い影を作る。僕は近くの椅子に座った。鳥羽さんはずっと俯いたままだった。
すん、と鼻をすする。
「悪いのは多田だ」
鳥羽さんは顔を上げた。目が少しだけ赤くなっている。
「鳥羽さんの魅力に気づかなかったあいつがどうかしてるんだよ」
僕は鳥羽さんの肩を掴んだ。相手が鳥羽さんじゃなかったら思い切り揺すっていたかもしれない。
「聞いたのか? 多田に」
「聞く? 聞くって何を」
「鳥羽さんの申し入れを断るだけの正当な理由があいつにあるのか?」
「多田くんは、その……」
言いにくそうに口をもごもごさせる。僕は鳥羽さんにさらに詰め寄った。
「あいつは、鳥羽さんになんて言ったんだ?」
鳥羽さんは顔を上げ僕から目をそらした。
「……って」
「なんだって?」
鳥羽さんは小さく息を吸った。
「気になっている人がいるって」
僕の行動は思いと矛盾している。鳥羽さんにしくじって欲しいと思いながら手伝った。鳥羽さんはうまくいかなかった。僕が望んでいた結果なのに、嬉しいと思えないのはどうしてだろう。
「そいつは誰だ?」
「言えないって」
「鳥羽さんには知る権利がある」
「ないよ」
「知らないと先に進めないんじゃないか」
僕には、多田の意中の相手が思い当たらなかった。
「あいつの周りに女の影なんてないだろ」
「……私もそう思ってたんだけど」
「敵の姿がわからないとどうしようもない」
「敵って……」
「諦めるのは、せめて相手がわかってからでいいじゃないか」
弱気になっている鳥羽さんを見ていると、慰めたいよりもなぜか苛立ちが募ってくるのはどうしてだろう。
鳥羽さんは納得しかねるという表情だった。けれど、彼女だって希望があるならそれを信じてみたいはずだ。
「多田くんは言いたくないみたいだった」
鳥羽さんは小さく息を吐いた。落胆を通り越して力の抜けたような表情。僕は言った。
「それなら僕らで調べればいいんだ」




