その10
多田の日常に女子が入り込んでくるのは想像しがたかった。僕は翌日、多田の教室まで様子を探りに行った。
「どう?」
鳥羽さんは僕の背中をつついた。教室の片隅に多田の姿があった。
「嫌じゃなかったのか」
「やっぱり気になるというか」
鳥羽さんとて自分の興味を抑えられていない。
「多田はいつもあいつらといる」
多田は、数人の男子生徒と机を囲んで弁当をつついている。
「女子と関わりのある人には見えないね」
「鳥羽さん意外とひどいこと言うな」
鳥羽さんはきょとんとしていた。自覚のある悪意と、自覚のない悪意はどっちが罪深いんだろう。
「三木くんとはいつもどんな話してたの」
「小学校のときはカードゲームとか漫画、中学校のときは数学と理科がプラスされたな。高校になったらゲームとか漫画が消えて、パソコンとか数学とか物理の講義を、僕が一方的に聞かされることになった」
ある特定分野に関する飛び抜けた知識と、その代価として神様に持っていかれたある種の常識。どこかで報われる日は来るのかもしれないけれど、角砂糖量産工場を生きるにはちょっと辛い性質だ。
「いかにも多田くんっぽいなって思ったけど……」
やっぱり鳥羽さんはちょっとだけ多田を馬鹿にしているかもしれない。
「それがいいよね」
そんなことを言われても困る。
「とはいえ彼も思春期真っただ中の高校生だ」
「三木くんがそれ言うんだ」
鳥羽さんは僕と話しているときだけは冷酷になる。
「意中の相手は多田の近くにいると推定していいだろう」
僕の自信はないが、田中なんかは人間観察から推定できるかもしれない。鳥羽さんはどうだろう。
多田は目の前に座った男子生徒と熱心に何かを話している。お弁当に目を落とし、時々携帯をいじり、また前を向く。時折、窓から外を見たりするけれど、中空に誰かが浮かんでいるはずもない。
昼休みは無為に過ぎていく。教室の前にじっと立つ僕と鳥羽さんは、廊下を行く生徒に怪訝な表情を向けられ続けていた。
ずっと多田を見張っているのは現実的じゃない。後は、科学部の幽霊部員の誰かか。
と、僕は科学部での一件を思い出した。
「あいつ、図書館の近くにいたことを知られて、焦ってた」
「でも、私の自転車を直してるときは普通だったよ」
「知り合いに知られたくないことだったのかもな」
「まさか秘密の恋人が……」
「他人より知り合いに知られたくないことなんて、いくらでもある」
「例えば……?」
「恋人、かな」
僕の想像力も貧困だった。
「他人に知られてもいいことだとすると犯罪行為ではないよね」
「あいつはそんなことしないよ」
「ごめんごめん。言ってみただけだよ」
「あいつとすれ違ったのはいつのどの場所だ」
鳥羽さんは市立図書館そばにあるコンビニの名前を挙げた。時間は読み聞かせが終わったすぐあと。
「読み聞かせは毎週同じ時間にやってる?」
鳥羽さんは頷いた。
多田の行動が、鳥羽さんの申し出を断った理由とつながるかわからない。けれど、何か秘密があるのは間違いないと思う。
「張り込みの必要があるかも」
と、鳥羽さんはなんだか楽しそうだった。
同じ週の土曜日、僕はまた市立図書館にいた。僕が窓際の席に座って宿題を広げた時には、もう読み聞かせの子どもはいなかった。
「今週の当番は私と違うし」
鳥羽さんは僕の向かいに腰を下ろした。衝立で仕切られた向こうに、頭のてっぺんだけがちょこんと見えた。窓の外には例のコンビニが見えた。
「やっぱり気になるんじゃないか」
「私はいつも通り、静かに読書するために座っているだけだから」
鳥羽さんは単行本を机に立てた。仕切りの向こうにあるから表紙は見えない。僕はノートに宿題を書きつけ、鳥羽さんは黙々と本のページをめくる。
静かな時間はすぐに終わった。
鳥羽さんが、あっ、と小さく声をあげた。僕も外を見る。多田だ。慌てて階下へ降り、駅舎を出る。
明滅する信号が赤に変わった。多田はとっくに横断歩道を渡り切り、道を折れて建物の影に姿を消した。
「あの日も、多田くんはここを通ってきたよ。帰り道だったのかも」
走って気分が高揚したのか、信号を待つ鳥羽さんは駆け足だった。
「僕よりもやる気じゃないか」
多田に気づかれては意味がない。
信号が青になった。僕は鳥羽さんを落ち着かせつつ多田の後を追った。
「もう遠くに行っちゃったかな」
ビルや商店、居酒屋が並ぶ雑多な通りだ。細い道が分かれ、曲がり、ちょっとした迷路みたいだ。
「まさか居酒屋に行ってるわけじゃないだろ」
「でも多田くんは焦ってたんだよね」
「未成年飲酒とか喫煙」
あ、と鳥羽さんは考える。
「それはちょっと駄目かも」
「ちょっとどころか法律違反だ」
狭い通りを抜けると広い道に出る。それでも車がぎりぎりすれ違えるくらいだ。人通りも少ない。
「いた」
多田の後ろ姿が遠くに見えた。
僕らは電柱やお店の看板の裏から裏へ飛び移りながら、多田に近づいた。
「帽子とサングラス持ってくればよかった」
鳥羽さんは呟いた。こういう時、顔が隠れていないのは確かに不安だけど、それだとかえって怪しい感じがする。
多田は、小さな建物に入っていった。自動ドアをくぐって多田の姿が見えなくなる。僕らは駐車場に止めてあった車の裏から顔を出した。
僕は、多田の後をつけてきたことを後悔していた。
「悪かった」
鳥羽さんは首を振った。
「多田くんのこと、私は本当によくわかってなかったんだと思う私も思ってたよ」
白い清潔な建物は病院だった。内科でも外科でも皮膚科でもない。表に掲げられた看板には『鈴木メンタルクリニック』とある。人混みから外れた目立たない場所にある理由もわかる。
多田は、心を治療するための病院に通っていたのだ。