19. 二人の問答
────思考が吹き飛んだ。雑念、後悔、絶望、それら全てが些事と思える出来事が目の前で起こった。一瞬でクリアになった頭の中で、それでもなんとかして今起きていることを必死に整理する。
俺は確かに見た。数分前、彼女は右腕を圧し潰され、腹に大きな孔を空けられた。そして行き場のない血液は身体を循環せずに孔から吹き出し、乾いた地面に赤の華を咲かしていた。
それは誰の目から見ても紛れもなく致命傷だった。どんな奇跡も、どんな魔術にもそれを救うことは不可能に等しいはずだった。
なのに、それなのに。
「そんな間抜けな顔を向けるなよ。腹がまだ治りきってないから笑ってしまうと痛んでしまうんだ」
彼女────テンは、息を吹き返していた。
「────お、お前、死んだんじゃ!?」
「眷属の生命力を舐めるなよ? 頭と血が残っていたら再生くらいできるさ」
驚く俺に動じず、ふん、と誇らしげにテンは鼻を鳴らした。
事実、テンの欠けた腹は元通りになっており、破れた紫紺の着物の陰から薄肌が見えている。右腕からささくれたように突き出した骨もいつの間にか欠け落ちていて再生していて、貫かれた頬は何事もなかったかのように綺麗に治っている。
最上級の魔術でさえ不可能に程等しかった致命傷の数々は、信じがたいことに彼女自身の生命力によって全て修復されていた。
……まずい。頭の中が追いつかない。まだ処理し切れてない出来事が山のように積み上がっているのに、肝心の演算機は両手を上げてとうに諦めている。
それでもパンクした頭をフル回転して、ようやく一つの質問を紡ぎ出せた。
「なんで、生きているんだ?」
「なんだ、そんなことも分からないのか。私の原動力はあくまで血だ。血があったから今ここにいるんだ。でも、こればっかりは賭けだったけども」
「……血?」
事の重大さと対照的に、テンはあくまでも冷静な口ぶりだった。
「ああ。獰猛化していた時の記憶はないからこうなることを見越していたかは分からないけど、あの時の私はヒュドラの肉を喰いながら戦ってたらしい。お陰で血は十分に蓄えられてて、身体の再生が追いついてくれたんだ」
「……と、言うと?」
「言ってしまえば野生の勘だな。獰猛化の私と今の私の意識ははっきり違う。意識下にいるか、無意識下にいるか、と分けられる。これから先のダメージを予測して血を蓄えていたのは無意識下の私であって、今の私が影響できる領域じゃない」
「……そうか」
思考のキャパシティーを超えてしまってたのをすっかりと忘れていた俺は、相槌をうつだけで精一杯になっていた。
獰猛。血。肉。無意識。勘。辛うじて捉えた語群も意味をなさずに頭の中を漂い続けている。これ以上聞いたら脳内が破裂してしまう。
しかめ面を浮かべ続けていた俺を察してか、テンは説明の口を止めた。
「……いや、この話はまたゆっくりとしよう。今するべきことじゃない。それよりも先に確認すべきことがあったな」
その代わり、厳しい目線をと共に上を指差した。
「……あれはなんだ?」
「……俺たちが戦っていたヒュドラだ」
その至極真っ当な疑問に対し、俺はありのままの事実を口にすることしかできなかった。
強烈な溶解液による刺激臭とほのかに漂う生の熱気から察するに、確かにこの蛇は生きている。いつでも食べられる状態にあるはずだが、それでもこいつは俺らを食べようとするそぶりを見せるだけだ。
「この状況はどうなっている? 何でお前は食われていないんだ?」
「俺が知りたいくらいだ。今まで戦ってきた中でこんなケースは見たこともない」
「……このヒュドラは生きているのか?」
「生きているのなら俺を喰っているはずだ。でも、やつの体は倒れ込まずにいるのだから死んだとも思えない」
「……なら、お前はなんでここに留まっているんだ。最悪を想定して出来る限りその場から離れるのが得策のはずだ」
「その時は、その、気が動転していた。確かに俺はすぐにこの場から離れるべきだった。反省している」
矢継ぎ早に投げかけられてくる質問に、俺は歯切れの悪い回答を返す。否、歯切れを悪くせざるを得ないのだ。
何せ、俺は聞かれたくなかった。彼女からの質問を出来るだけ曖昧に答えて、数分前の俺の酷い有様を悟られたくなかった。
────殺してくれ。俺は負けたんだ。
ゼノン=アタナシウスの声で、あの言葉が頭の中で反芻される。呆れるほど鮮明なその記憶は俺の胸を的確に蝕んでいく。
悟られるな。気付かれるな。俺はこんなにも弱い人間なのだと。民の平和を求めながら、それでも人を殺すことを良しとする腐った人間性を持っているのだと。
よりにもよって、唯一の仲間であるテンに失望されることは、断じてあるべきことではないのだ────
「────はっきり答えてくれ。お前は何故、この死地から離れていないんだ」
答えたくない。気付かれたくない。
顔を俯け、彼女の痛いくらいの視線から逃れようとする。
「お前と私が今生き残っているのは奇跡だ。百戦錬磨の剣士はここに留まるという選択をする訳がない」
嫌だ。やめてくれ。核心をつかないでくれ。
奥歯をギリ、と噛み締め、テンからの口撃を必死に耐える。
「口を開いてくれ、ゼノン。お前はなんで、剣を投げているんだ」
目を瞑る。もう何も見たくない。心も、自分も、世界も、彼女も。
許されるのなら全てから逃げ出して、温かい毛布にくるまって、もう今日のことは忘れようと一つ小さく呟いて眠りに────
「────分かった。お前の口から言えないのなら、私がはっきりと言ってやる」
目を開く。身体中にけたたましく心音が鳴り響く。
張り裂けそうな胸を押さえつけて、膝の上で横になっている少女の方へと向く。
その顔は今まで見たことがないほどに険しかった。
「『俺は負けたんだ』って言って、諦めていただろ」
鋭い視線が、俺の弱り切った心を射抜いた。




