8. 三人の家族と一人の吸血鬼
────私は肉が好きではなかった。
父と母と三人で山奥の荒屋にずっと住んでいたため、肉を目にする機会は父の狩ってきた動物が捌かれる時だけ。
私が街に降りるまで、きちんと加工された肉を見たことがなかったのが原因だったのだろう。
私がよく目にしていた肉とは、あのように綺麗に切り落とされたものとは程遠かった。
下処理が十分でなく赤の血に塗れ、体の部位も関係なく切り落とされた柔らかい温かな何かが、私にとっての肉だった。
肉を捌くその場面を見た幼い頃の私は、余りの怖さと嫌悪感で泣き出してしまったらしい。
見た目とそのトラウマも相まって、母の料理はどれも好物だったが、唯一肉料理だけは箸が進まなかったことを覚えている。
街に降りてからこのことを知ったのだが、動物の血抜きの前にまず体を冷やさせるのが一番らしい。理由はよく分からないが、街の肉屋のおじさんはその方が臭みが取れると話してくれた。
父はそれすらも知らず、あろうことか血抜きの手際も非常に悪かった。家の陰でこっそりとその血抜きを見ていたことがあるが、思い返してみれば動物の体からは十分な血が出ていなかった。
ぽとぽとと、小さな赤の溜まりが吊るした動物の下にできる程度で、肉屋で説明された手順とは程遠かった。
それでも父は満足そうに、「美味しい肉にありつけるな」と汗を拭いながら下手くそな血抜きを進めていた。
母も父と同じように笑顔を浮かべながら、「久しぶりのお肉ね」と父の手伝いを熱心に頑張っていた。
その思いを無碍にすることが出来なかった私は、食卓に出された生臭い肉を口へと運び、「美味しいよ」と味わいもせず喉に流し込んでいた。
大好きな父と母のためなら、大嫌いな肉を食べるくらいは我慢できていたのだ。
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ある日の夕暮れ、橙の空に浮かぶ朧げな太陽が段々と沈みゆく頃。マフラー毛皮の羽織りもので身を包み、昼下がりから狩りに出かけていた父が帰ってくる。
いつもは鹿か鴨。あまり調子の良くない時は小さな兎を土産にして家へと戻る。
しかし、その日の成果はいつも以上のものだった。
一メートル程か、手では持てずに麻縄で背に括り付けられた茶黒色のそれは、私が今まで見たことない動物だった。
「今日は運が良かった。こんな生活をしていてイノシシにありつけるとはな」
イノシシ、と呼ばれた背にある動物は今までのものとは違い、その顔には未だ生の息吹が感じられた。
その顔が妙に怖くて、私は思わず目を逸らしてしまう。
「今日はイノシシ? 頑張ったのね」
父の帰りを迎えに、母は急いで台所から家の前に出てくる。
「いや、僕は特に何もしてないんだ」
「……どういうことなの?」
「見てくれ。こいつの首に何か咬痕があるだろ」
首を傾げる母に、父は背負ったイノシシを地面へと下ろして首元を見せた。
二本の牙で咬まれたのだろうか、そこには痛々しい二つの穴が遺されていた。更には首元から胴に向かって伸びる乾いた血の痕もあった。
「誰かに咬まれてから逃げ出したけど、血が足りなくなって倒れてしまったみたいだ。そこに僕は通りがかっただけさ」
父はあはは、と苦笑いを浮かべながら頭を掻く。
「それでもお手柄よ。今日は奮発して料理しなきゃ」
母は腕まくりをしながら愛用の短刀を手に持つ。
血抜きと肉を捌く作業が始まると直感した私はそそくさとその場を立ち去ろうとする。
「なぁ、テン。お前も十四なんだ。そろそろお肉が怖い、だなんて言ってられないぞ?」
逃げ出そうとする私に向かって、父は笑顔でイノシシを指差す。
その言葉は私への優しさからなのだろう。それでも、私にとっては逆効果だった。
「……肉は嫌い」
そんな父に背を向け、私は家から駆け足で離れる。
当時の私は血抜きがお粗末だったとは知る由もなく、ただ自分の落ち度だと思い続けていた。
大好きな父と母が丹精込めて用意してくれた肉を美味しいと思えない自分が嫌だった。
それを含めて、私は肉が嫌いだった。
そんな時、決まって行くある場所がある。
家裏の山を少し登り、樹木が立ち並ぶ山道を抜けた先にそこはある。
人の手が行き届いてない山であるため、当然整備された道ではなく所々に巨木が倒れていることなんてザラだった。
普通の人ならそこで引き返すだろうが、普段から山で暮らしているおかげか人より身体能力が高く、その倒木を物ともせずに駆け上がって越えていく。急な坂道や登り坂などは特別に辛いとは思わなかった。
家からおよそ十分くらいだろうか、段々と樹木が少なくなっているとその場所が見えてくる。
木漏れ日はいつしか消えてなくなり、代わりに青い月光が私を照らし出す。
父と母以外の人を知らず、自然とともに生きてきた私は人に飢えていた。気軽に話しかけたい。両親に聞かれたくない話をしたい。そんなことを思ううちに、一つの友達に出会った。
森を抜けたその先には断崖絶壁。
そこには人が二、三人ほどで埋まるであろう小さなスペースがあった。
崖に腰を下ろして脚を宙へと放り投げる。
目の前には東の空に幽かに浮かぶ月。
私と同じ、いつも一人ぼっちな彼。
友達であろう人は、少し前に西の空に沈んでいった。だから小さい頃から私が喋り相手になってあげていたのだった。
「……今晩は。今日は少し寒いな」
小さい頃からの習慣であったためか、十四になっても目の前にいる月に話しかけてしまう。
当然、相手からの返事はこない。
それは分かり切っている。それでも、他愛のない何かを話したくなってしまう。
「今日私がここに来るってことは分かるよな。今日のご飯はお肉だ」
青い月下、苦笑いを浮かべながら虚空に話しかける。
「私はお母さんの作る料理が嫌いなわけじゃない。私の舌が受け付けないだけだ。それがとても嫌なんだ」
肉の話は何度目だろうか。覚えてないほど小さな頃からこの話をし続けていると思う。
それでも目の前の儚気な友達は嫌な顔せずに聞いてくれる。
「……それに、今日の動物は何か怖かったんだ。いつも無理して食べてるけど、今日のはあんまり食べたくない。残してもお母さんとお父さんは許してくれるかな?」
受取手のない質問は、いつしか崖から吹く風に流されて消えて行く。返答は待てど暮らせど来ず、幽かな月はただ宵闇に浮かぶだけ。
それでも、私は満足だった。心の中にあるぽっかりと開いた空洞が埋められた気がした。
人を知らない私は、いつしか一人で生きていける技量を得ていたのだろう。
「……ありがと。少しだけ気が晴れた」
一言礼を言い残し、私は唯一の友達に背を向けた。
早足で山を駆け下りる。一通り話し終えた後に家に帰れば、丁度夕飯の支度ができている頃だ。
倒木を飛び越え、木の上を伝いながら山を走り抜けていく。もうすぐ家が見えるところまで来ているはず。
遅れては二人に心配されてしまう一心でいつも帰り路につく。二人は私がどこかで魔獣に襲われてしまったら、と思えば気が気でないらしく、いつも食卓を囲みながらそのことを注意される。
その度に私は「必ずここ帰ってくるから」と笑顔で返している。
私が帰らないことはない。だから、二人が居なくなっていることの方が、私は心配なのだと────
「────え?」
灯が漏れ出す荒屋にようやく着く。しかし、そこには異臭が漂っている。
血生臭い、肉の臭い。おかしい。この頃には血抜きを終えているはずなのだが。
「……終わって、ない?」
家の前には吊るしたままのイノシシが放置されていた。そいつの下には乾いた血が赤の大きな丸を描いている。
血抜きは終わっているはずだ。ならば、何故下拵えを終えた材料が放置されているのか。別の料理に変更したのか。
しかも、家の中からは何の音すらもない。まともな壁ではない荒屋からはどんな些細な音でも聞こえて来るはずだ。
「……っ、お母さん! お父さん!」
嫌な予感がする。身体に悪寒が走る。
息を吸うたびに胸が苦しくなる。どれだけ呼吸を抑えようにも、逸る気持ちがそれを許さない。
家へと駆け寄り、玄関と引き戸を勢いよく開く。
いつもなら台所にいる母が目に入るはず。
勝手に何処かへ行った私を私を笑顔で母はいつも出迎えてくれる。そして台所の奥の畳の部屋には、父が小さなテーブルに並べられた食事を目の前にして、私の帰りを待ち続けていてくれている。
私はそんな大好きな二人に向かって「ただいま」、と────
「────────ぁ」
その空間に足を踏み入れた瞬間、私の身体はぴきり、と冷えて固まってしまった。
比喩ではなく、呼吸が一瞬だけ止まった。
「…………え?」
台所の調理場に覆いかぶさる様にして倒れ込む男。腹からはだらりと大量の血が溢れていて、家の床を赤く染め上げている。
恐る恐る、うつ伏せている男の顔を覗き見る。
触れた顔にもはや熱はない。冷え切ったその何かは鼻から血を垂れ流し、虚な目を浮かべ続けている。
例えその顔が変わり切ろうとも、雰囲気で伝わってしまう。
その顔は疑いようもなく、父だった。
「……ぁ、あ、お父さ────────」
「────────黙れ、小娘」
心の底からの叫びは、誰かの一声で喉の奥に引っ込んでいく。
「全く。我の御前で醜態を晒すな」
奥の畳の間には一人の何かが立っていた。
黒いローブを靡かせ、充血しているかのような紅の眼でこちらを見つめる。
艶やかな黒髪をオールバックにし、清潔感を辺りに漂わせる。
しかし紳士が着るであろう黒で統一されたスーツには、汚らしい血と肉がこびりついていた。
人の形をしたその者は血色は非常に悪く、肌は薄い水色に染め上げられている。
あれは人なのか。
少し惑うほど、その男は人間味に溢れていた。
「……だ、誰?」
干からびたその喉から声が出るとは思わなかった。
しまった、と思わず口を手で覆ってしまう。
「誰、と申すか。この我に向かって」
鋭い眼は私を凍りつかせるには十分だった。思わず背筋を伸ばし、筋肉が強張ってしまう。
その様子を見て何やら満足したのか、その男は血に塗れた口角を少し上げた。
「……まあ良い。そう怖がることではない」
ばさ、と黒のマントを広げてこちらへと向き直る。
その時になってようやく、目の前の何かが人ではないと確信できた。
閉じた口からはみ出ている血牙。人より少し潰れている鼻。
なにより、私を見つめている眼。
彼の瞳に私がどう映っているか、対等な生物として見られているか分からないほどの侮蔑の眼だ。
「我こそ宵闇を統べるヴァンパイアが第一王子、ノインである」
男の高らかな口上は、冷ややかな宵闇へと響き渡った。