紋章図形 2 具象図形 4 ~ あなたは紋章のフレンズなんだね
昼休みになって鞄を開き、僕は呆然とした。
弁当箱が無い。
忘れたのか。
いや、そんなことは……。
いつまでも頭を抱えているわけにも行かず、僕は食堂へと向かった。
食堂は和気藹々とした雰囲気で、つまり、人が多すぎた。
その活気で、逆に食欲が失せる。
先に席を取っておこうと思い、僕はできる限り人の密度が低い場所を探した。
食堂の隅にお誂え向きの場所を見付け、僕はノートの切れ端に"予約済み"となぐり書きした。
「珍しいな」
顔を上げると、早乙女が定食を乗せた盆を持って立っていた。
「隣、いいか?」
「え? いいけど。それじゃ、席取っておいてくれないかな」
「いいけど。そうだ。俺、食堂の無料食券、余ってるから奢ってやるよ」
「マジで?」
早乙女は笑顔で僕に食堂の定食を無料で買える食券を手渡した。
僕が共産主義国の食料配給みたいな食堂の列に加わろうとした時、別の方向から声がかかった。
「……星宮=クン」
顔も知らない女子学生たちに挟まれて、エリス会長が立っていた。
「……お探しでしょう?」
エリス会長が僕に差し出したのは、見慣れた細長い弁当箱だった。
「え? ちょっと? どういう……」
僕が困惑しているうちに、食堂に流れていたクラシック曲が止まった。
そして、代わりに流れてきたのは洗練されたクラシックとは程遠い、古臭さの漂う洋楽だった。
♪ He's not the first (彼は一番の腕利きじゃない)
♪ Not number one (彼は一番でも)
♪ But not the worst (ビリでもない)
♪ He's just the second best secret agent in the whole wide world (世界で2番目の腕利き秘密諜報部員)
何の曲なのか知らなかった。
隣を見ると、早乙女はしたり顔で頷いている。
「何なんだよ」
「『裏切りのサーカス』っていうスパイ映画で流れる曲」
「サーカス?」
「英国諜報部がケンブリッジ・サーカスにあったから、サーカスって呼ばれてたんだよ。英国諜報部員が、自分たちの中にいる二重スパイを探し出すって内容。その中で、英国諜報部員たちがクリスマスパーティを開いてる最中にこの曲が流れるんだ」
何がどうなっているのか、その曲が何を意味しているのか、僕は理解していなかった。
周囲を見ると、食堂にいる何人かの学生が僕に目を向けているのに気付いた。
まさか、僕が裏切り者ということか?
何とも言えない居心地が悪さに包まれる。
僕の手元に弁当箱を残したまま、エリス会長はいつの間にかいなくなっていた。
僕は大きく溜息をついて、食堂を離れた。
要するに、僕は信用されてないってことじゃないか。
その日は世界史概論の授業に出ようかどうか迷った。
エリス会長が何を企んでいるか知らないが、あんな扱いはあんまりだ。
しかし、行かなければ逃げたようで格好がつかない。
僕は意を決して、デザイン科の校舎に入った。
「星宮先輩! 待ってましたよ」
入口のすぐ傍にいた桜庭が声をかけてくる。
彼女の対応もだいぶ自然になってきたように思える。
僕は今日の昼休みにあったことを桜庭に尋ねてみることにした。
「桜庭さん」
「何ですか?」
「裏切りのサーカスって知ってる?」
「知ってますよ。ゲイリー・オールドマンが主演の。面白い映画ですよね」
「その映画で、二重スパイはどうなるの?」
「えー? 星宮先輩、まだ見てないんですよね。ネタバレになっちゃうじゃないですか」
桜庭は悪戯っぽく笑って答えをはぐらかした。
自分で見たほうが早いようだ。
チャイムと同時に教室に入ると、今回はエリス会長がいなかった。
一条先輩はいつもと変わらない笑顔で僕たちを迎えた。
「一条先輩。エリス会長は?」
「お腹が痛いって言って保健室に行ってるわ」
それは仕方ないとして、と言いながら一条先輩は資料を用意し始めた。
資料には奇妙にデフォルメされた動物らしき図柄が描かれている。
「具象図形の3回目はパワーアニマル、その他の動物、そして怪物について!」
伝統のパワーアニマルたちは中世の間、騎士道のアイデンティティにそぐわないものとして、プラスの評価を与えられなかった。
一見して強そうに見える動物や怪物は、楯ではなく兜飾りには採用されることで、その存在をアピールすることになった。
パワーアニマルたちは馬上騎馬試合から消えはしなかったが、彼らを採用した紋章は稀だ。
貴族の狩りに現れる熊、狼、猪、鹿は敬意の対象とされたが、紋章学においてはライオンや鷲のような大きな役割を果たすことはなかった。
森の王である熊はザクセン人やアングロ・サクソン人の間では英雄の象徴だったにも関わらず、キリスト教の影響で人気は落ちた。
熊の毛皮に身を包み、戦闘に身を投じる狂戦士はまさに闘争の象徴である。
しかし、キリスト教ではその存在を粗野な悪しき力を持つもの、そして熊を悪魔の獣だと見なした。
さらにライオンの人気が熱を帯び、熊を紋章学に取り入れる余地は無くなった。
その後、十五世紀末になって、ようやく熊は紋章に現れ始める。
その姿は前足を前に伸ばした立ち姿で、時には頭部のみを描くこともあった。
彩色は黒に限定され、舌と爪は赤色である。
紋章記述では熊の雌雄は区別されないが、中世末期には熊の性器を強調するように描く場合があった。
以下はベルリン市の紋章。
狼はインド、ヨーロッパ語族のすべての神話で極めて重要な動物だ。
しかし、狼もキリスト教において次第に不人気な悪役を押し付けられるようになった。
楯に登場するのは他のパワーアニマルよりもさらに稀である。
十五世紀末からはファミリーネームから紋章を表す「洒落紋章」において、ようやく狼は登場する。
彩色は概ね黒色だが、銀色や赤色の場合もあった。
以下はドイツのグロース・イルゼーデの紋章。
猪は勇猛に戦う獣として中世初期には人気だったが、宮廷文化ではあまり人気がなかった。
しかし、狩猟の獲物として人気があり、狩人にとって危険な敵として、凶暴さが肯定的にとらえられ、紋章に取り入れられた。
フランスの英雄叙事詩では「猪の心」という表現は「勇猛果敢な男」を示し、「獅子心」に匹敵する異名となった。
ピエトロ・ダ・エボリの『皇帝の栄誉に捧ぐ書』では皇帝ハインリヒ6世のシチリア遠征でディボルト・フォン・シュヴァインスポイントが登場する。
彼は家名をもじった洒落紋章として、猪を楯に掲げる姿で描かれている。
とはいえ、やはり猪も異郷の猛獣ほどの人気はなく、宮廷文化においては泥土や汚濁と関連付けられた。
楯に現れる猪は立ち姿で、彩色は黒色。
近世になると、猪の頭部だけを紋章に描くこともあった。
その場合は首から血を流し、胴体から引き千切ったような図柄だった。
以下はドイツのエーバーバッハの紋章。
鹿は古くからシンボルとして用いられた動物であり、不当に虐待された主人公を表す。
あるいは魂の獣となって、主人公を狩りへと誘い、逃げるふりをしながら彼岸へと導くなど、特殊な伝統を具現している。
こうした死のイメージに対して、キリスト教では鹿に肯定的な評価を与えている。
だが、紋章で鹿はごく散発的にしか登場していない。
最古の鹿の紋章は十三世紀、1220年以降のものだと推定される。
鹿は狩猟の対象であり、受け身の役割しか与えられなかったので、騎士には好まれなかったのではないかと考えられる。
紋章の鹿は4足で歩く姿だが、跳ねる姿や立ち姿の場合もある。
近世になると草を喰む、用心するなどの姿勢が追加された。
紋章での登場頻度に対して、好戦的な印象を与える動物として兜飾りでは好まれた。
紋章の図形としては枝角だけで描かれることもある。
以下はフランスのラオン=オー=ボワの紋章。
鴉と白鳥もパワーアニマルである。
白鳥は好戦的な動物として、積極的に兜飾りに用いられた。
しかし、長期にわたって貴族専用だった白鳥の紋章の数は少ない。
彩色についてはほとんど白色(銀色)と決められていた。
嘴と脚部は通常、赤色だが、新しい紋章では黄色になる場合もある。
以下はポーランドの国章。
ケルト=ゲルマン民族の間では、狼と同じく鴉も高い評価を得ている。
ギリシャ神話のアポロンに相当するケルトの太陽神ルグは鴉の神、戦場の女神バズムは雌鴉の姿で現れる。
ゲルマン人にとっても鴉は神と関連がある。
神に世界中の出来事を伝える二羽の黒鳥がフギンとムニンと呼ばれた。
しかし、異教徒に崇拝されたことと、黒い翼から、キリスト教の教会は鴉を敵と見なし、否定的な評価を下した。
一方で、1170年にはスコットランドのコーベット家の紋章には鴉が描かれたという資料がある。
これもやはり家名をもじった洒落紋章とみなされている。
ドイツでも同じように、鴉の名と関連のある家門(ラーヴェンシュタイン、ラーベンスベルク)が鴉を用いた。
鴉も白鳥と同様に自然の姿に従って黒色に彩色される。
以下は旧ダブリン州の紋章。
また、人工の動物として、12世紀にマートレット、ドイツ語ではメルレッテという謎の鳥が描かれた。
この小柄な鳥の名前はフランス語ではクロウタドリの雌を表し、マートレットはイングランドではアマツバメを意味する。
マートレットは13世紀に脚を、近世には嘴も取り除かれた。
身体の一部を失ったことから、怪我をしたキリスト教徒のシンボルとして十字軍の兵士が用いたと言われるが、真偽は不明である。
不明な出自、不完全な姿、そして人工の鳥であるにも関わらず、マートレットは鷲に次いで人気がある図柄だった。
複数羽が同時に描かれ、帯を細かく区切る模様としてよく用いられる。
以下はアランデル家の紋章。
ペリカンは教会関係者の間で人気を博した。
その姿は嘴で自らの胸を突き、その血を雛の餌にするというものである。
だが、中世の紋章学では大きな意味を持っていない。
以下はルーマニアのベネサトの紋章。
他にも鶏、鶴、コウノトリ、孔雀、ガチョウなどの鳥が稀に紋章に登場する。
同様に鷹もまた中世では稀な紋章獣である。
宮廷文化において、鷹は自由に空を飛び回り、どの貴婦人にも縛られない恋人のシンボルとしてしか認められなかった。
そして、騎士にとっては人間に飼いならされ、ただ従う生き物だった。
どちらかと言えば、鷹は主人の紋章を描いた布を身体に取り付けられる側の動物であり、従って紋章の図形に採用されることはなかったのである。
鷹と同じ理由で、馬も紋章ではなかなか見られない。
だが、宮廷文化で重要な動物であり、騎士にとっても自分の一部のような動物が、何故、紋章に取り入れられなかったのは謎である。
あまりにも重要すぎて、騎士個人を識別するのに役立たなかったとも考えられる。
兜飾りとして上半身を棹立ちさせた姿で用いられた。
以下はニーダーザクセンの紋章。
雄牛も中世の紋章では珍しい。
雄牛の全身を描くことはあまりなく、代わりに冠を被って正面を向いた頭部を、黒色で彩色することが多い。
以下はメクレンブルクの紋章。
魚は紋章学ではバーベルと呼ばれ、二匹の魚が背を向かい合わせた姿で描かれる。
種類を分けられた魚としてはカワカマスが存在する。
尖った頭となだらかに伸びた胴部を持ち、バーベルとは明らかに異なる。
スイス西部のプラロマン家は十四世紀中葉から、銀色の骨だけになったカワカマスを紋章に用いた。
以下はフィンランドのウーシカウプンキの紋章。
さらに、海洋哺乳類という分類が存在しなかった時代の産物として、イルカも魚に分類された。
イルカは魚の王と見なされたが、「海豚」と称されるように、その姿は極めてアンバランスなものである。
頭が大きく、鱗で覆われた胴部は短い。
イルカは身体を曲げて右向きの側面図で描かれ、頭部と胴部は区切られている。
眷属を従える王を表し、王冠を被るものも多い。
以下はフランス王太子の紋章。
この他に駱駝、像なども早期から紋章に取り入れられたという。
また、ビーバーは洒落紋章の中で登場する。
紋章学という動物園の中で、中世の騎士が選ぶ動物の幅はかなり狭かったようだ。
彼らのアイデンティティを表せる猛獣は、ライオンと鷲という、2種に偏っていた。
動物の種類が大幅に増えたのは、洒落紋章を使う者が増えたり、動物自体の存在が新たに明らかになったりしたからだった。
動物から怪物に移る前に、一条先輩は一旦、話を中断してジャスミンティーを飲み始めた。




