ゼノンだって緊張する相手がいる
「・・・迷い人の少年に関する真偽を確かめに。彼は十年前から姿が変わらないと報告を受けていますが」
百合はしばらくヨシュカを見つめ、そしてそっと視線をそらした。彼女から視線をそらすことは珍しいので、ヨシュカも、そしてゼノンも驚いてわずかに目を瞠る。
「驚くほどの引きこもりなの。ずっと特殊な結界の中に居たから体の時間が止まったようね。大丈夫よ、今はちゃんと時間が進んでいるわ。会いたいというのならば、夕刻までお待ちなさい」
ヨシュカは百合を見つめ、また胃の辺りを強く抑えた。
「あの、何をたくらんでいるのです」
その疑問に、百合の整った眉が片方はねた。
「“わたし”が、あなたに対して何をたくらむというの」
「素直すぎて気持ち悪いです」
「あなたも大概正直な子ね。ともかく、会いたいなら勝手にしないさい。でもあの子を今の王都に連れて行くことは許さないわ」
毅然と言い放った女に、とうとうヨシュカが椅子に座ったまま背を丸めた。
「す、少し休憩にしましょう」
「・・・ゼノン。わたくしにいつものお茶を。その子にはハーブティーを持ってきて頂戴」
「はっ」
それまで存在を消していたゼノンは、返事をして静かに退出した。部屋から出た瞬間不自然な形で扉にしがみ付いていた男と目があったが、彼は何も見ていないという態度で言葉を発しないまま歩き出した。
男も、とりあえずまた扉に耳を付けた。
「それにしても、あなたには王都の神殿長という立場は荷が重いようね」
「そんなことはありません」
咄嗟に返事をするが語尾は弱い。
「南の方でも行ってみたらどうかしら。心身ともに解放されるわよ」
「恐ろしいことにしかならないような気がするのでしばらく結構です」
「そこは素直に可愛い返事をなさい」
「お断りします」
しばらく二人の間を沈黙が支配した。
「・・・あなた、どうしてこんな場所へ来たの?」
「いくつか理由はあります。この度の東の件もそうですし、南の件も。そして今、北が騒がしいようです」
「却下よ」
「まだ最後まで言っていません! 安心してください。行けなんて言いませんから」
慌てていいつのる男を、百合が胡乱げにみた。
「では、どういうつもりなの」
「・・・心配なのです。あなたを求める者があまりにも多い気がして」
時折うめきながら、それでもヨシュカは優しい声で言う。百合はそっと息を吐き出して足を一歩前に進めた。
「ここに居る限りは、安全よ」
だから安心して帰りなさい。そう言うと、彼女はそっとヨシュカの傍により、白い手で背中をさすった。暖かい手に緊張がほぐれていくようだった。
「今あなたがここに来ることは、あまり良いことではないわ」
「わかっています。でも、どうしてもイーズの件を確認しておきたかったのです」
「イーズの件は任せるわ。興味がないの」
「そういうわけには・・・彼女の扱いはこちらでも困っています。どうにかしてください。あれでは、神々を崇めているのかあなたを崇めているのかわかりません」
神殿内に、新興宗教が入り込んだようになっているらしい。彼の胃痛の原因はここにもありそうだ。
「どうにかしたら、あなたの立場が危なそうね」
「勘弁してください・・・」
ううぅ、と本格的に蹲ると、しばらく起き上がらなかった。
ヨシュカ・ハーンがやってきたことは、あまり歓迎できる状況ではなかった。彼の立場上、王都を簡単に離れることは許されない。だのにやってきたのには様々な思惑があってのことだ。
しかし、西の神殿は静寂を好む。彼がやってくるということは、その護衛のために多くの他人が入り込むという事であり、西のプリーストやプリーティアは、口には出さないが早く出て行ってほしいという空気が出ている。
もちろん、百合やゼノンも。
「同じ神殿なのに、どうしてこう地域差があるのでしょうか」
「気候も人も歴史も違うのだから、一つの国とはいえ地域差があるのは当然よ」
呆然としてヨシュカは呟いた。それにすかさず百合が言葉を返す。
「私は未だかつて、同じ立場の相手にかしずかれたことも、かしずいたこともありません」
「あなたと同じ立場の人間なんて存在しないでしょう」
桜色の爪を丁寧に整えるのは、別のプリーティアだ。穏やかな顔をして、まるで愛しい我が子の髪を撫でるかのごとく、百合の爪をやすりで整えていた。
「ゼノンはもう少し丁寧になさいませ。爪の形があまり美しくないわ」
「はっ、申し訳ありません」
彼女はおっとりと笑いながらダメ出しをし、ゼノンもそれに対して生真面目に謝罪した。
「・・・・なぜ、爪を整えているのです」
「まあ、神殿長様。これは名誉なお役目ですのよ。当番制なのですが、なかなかに競争率が高くて・・・私、この日を心待ちにしておりましたの。あらゼノン、足の爪を整えてくださいませ。あとで私がチェックしますからね」
「はっ!」
いつになくゼノンが緊張した面持ちで頷いた。
「・・・一応ききますが、ここでの彼の立場は」
「つまらないことは気にしないのが長生きのコツよ」
百合は長椅子に腰かけ、右側にプリーティアを、足元にゼノンを侍らせている。二人とも真剣な表情で彼女の爪を整えており、ヨシュカの顔など見るつもりもないようだ。
「何故、爪なのですか」
「爪の乱れは心の乱れ。常に美しく整えなければなりません。ゼノン、終わりましたら香油を持ってきて」
「はっ!」
何度か顔を合わせたことのあるヨシュカにしてみれば、会えば会うほど理解できなくなる男。それがゼノンだった。
二人はヨシュカに対して、声をかけるな邪魔するなという雰囲気を醸し出し、百合も何も言わない時間が続いた。
収まったはずの胃痛が再発しそうだ。
「皆さま、夕食のお時間でございます」
しばらく経つと、一人のプリーストが静かな声で告げてきた。
ホッとしたように息を吐き出した若き神殿長を見て怪訝そうに首を傾げた。




