第10話:黄金の街の嘘、あるいは誠実な拳
交易都市バザールの喧騒は、暴力的なまでの熱を帯びていた。
大陸中から集まった多種多様な種族、荷馬車の車輪が石畳を削る音、そして客引きたちの枯れた叫び声。そのすべてが混ざり合い、湿り気を帯びた熱風となって街の通りを吹き抜けていく。
ガウェインは、三倍の重力を維持したまま、人混みを裂くようにして歩いていた。彼の周囲三メートルには、不可視の重力障壁が展開されており、ぶつかろうとした酔っ払いや強引な商人が、まるで見えない壁に弾かれたかのように不自然な軌道で遠ざかっていく。
「……はぁ、っ、はぁ……。し、師匠。ここ、魔力汚染はないはずなのに、魔法都市より疲れます……。人が、人が多すぎます……っ」
ガウェインの背嚢の裾を掴んだセレスが、今にも泣き出しそうな顔でついてきていた。
彼女はガウェインに叩き込まれた「衝撃の固定」を無意識に発動させ、群衆による物理的な接触を拒絶しているが、精神的な摩耗は限界に近い。何より、聖教会の静謐な環境で育った彼女にとって、この「欲望の煮凝り」のような街の空気は毒に等しかった。
「……若いの。人が多いのではない。……無駄な動きをする『雑音』が多いだけだ。……いちいち感傷を抱くから疲れる。……周囲の人間を、ただの動く障害物として計算しろと言っただろう」
ガウェインは足を止めず、市場の中央へと進む。
並べられた商品――異国の香辛料、怪しげな魔導具、宝石。セレスは時折、その煌びやかな品々に目を奪われそうになるが、ガウェインの冷徹な一言がそれを遮る。
「……あれは原価の四倍だ。……あっちの魔石はひび割れを幻術で隠している。……この街で『誠実』を探すのは、泥沼で金貨を探すよりコスパが悪い」
そんな二人の前に、ひときわ派手な身なりの青年が立ち塞がった。
仕立てのいいシルクのシャツを着ているが、どこか落ち着きがなく、その瞳は常に獲物を探すように細められている。青年――トビアスは、ガウェインの重装鎧と、後ろに控える聖女らしきセレスの姿を見るなり、極上の営業スマイルを浮かべた。
「いやぁ、これはこれは! お目が高い、実に堂々とした風格をお持ちだ! 旦那、そして麗しき聖女様。……もしや、伝説の『聖剣』の物語をご存知ではありませんか?」
「……聖剣だと?」
ガウェインが足を止めた。
その瞬間、彼が踏みしめた石畳が「ギチッ」と微かな悲鳴を上げたが、トビアスはそれに気づかない。彼は懐から、仰々しいベルベットの布に包まれた、錆びた鉄の破片を取り出した。
「これこそが、三十年前に伝説の勇者が魔王軍の幹部を討ち果たした際に折れた、聖剣グラムの真の欠片! 本来なら王国の国宝ですが、我が家系が密かに守り抜いてきた逸品です。……今なら、旅の安全を祈願して、金貨わずか十枚でお譲りしましょう!」
トビアスの芝居がかった口調に、セレスが「えっ、聖剣……!? これがあの伝説の……」と身を乗り出す。
だが、ガウェインの反応は違った。
彼は無言でトビアスの手元にある「鉄の破片」を覗き込み、鼻で笑った。
「……ほう。三十年前の聖剣か。……にしては、錆の浮き方が新しいな。……昨夜、裏通りの鍛冶屋のゴミ捨て場から拾ってきたばかりのような、瑞々しい錆だ」
「な、何を仰いますか! これは由緒正しい歴史の重みが……」
「……重み、だと?」
ガウェインが、その鉄屑を掴もうと右手を伸ばした。
トビアスが止める間もなく、ガウェインの指先が鉄片に触れる。
重力魔法『不動の枷』――一点加圧。
ガウェインが指先にほんの一瞬だけ、自分にかけている加圧の十倍の重力を集中させた。
パキィィンッ! という、乾いた音が市場に響く。
伝説の聖剣の欠片(と称されたもの)は、ガウェインの指先で呆気なく粉々に砕け散り、ただの赤錆びた砂となってトビアスの手のひらから零れ落ちた。
「あ……。あ、あぁ……。僕の、僕の金貨十枚が……っ」
「……不純物だらけの安鉄だな。……若いの、嘘を吐くならもっと『重み』のある嘘を吐け。……軽すぎて、指の運動にもならん」
ガウェインの冷徹な一言と、周囲に漂い始めた圧倒的な圧迫感に、トビアスは初めて「ヤバい相手」に手を出したことを理解し、その場に膝をついた。
黄金の街バザール。
欲望と嘘で塗り固められたこの街に、ガウェインの「本物の重み」が投じられた瞬間だった。
粉々に砕け散った鉄屑が、トビアスの震える手のひらからさらさらと零れ落ち、石畳の隙間へと消えていった。
市場を埋め尽くしていた喧騒が、ガウェインから放たれた一瞬の「圧」によって、凍りついたように凪いでいる。周囲の商人たちも、事態を静観するように視線を逸らし、関わり合いになるのを避けるべく、そそくさと店仕舞いの準備を始めた。
「あ、あう……。僕の……僕の、今月の生活費が……」
「……絶望する暇があるなら、吐き出せ。若いの、お前、この程度の小細工に誰の許可を得ている。……この街の『旧知』が、こんな安い嘘を許すほど耄碌したとは思えんがな」
ガウェインは三倍の重力を維持したまま、トビアスの胸ぐらを無造作に掴み上げた。
三倍の加圧を背負うガウェインの腕力は、その自重を支えるために異常なまでに発達している。トビアスの身体は、大人一人の体重など存在しないかのように、宙へと持ち上げられた。
「ひぃっ、ひぃぃ……! 助けて! 悪かった、悪かったですおじさん! いや、旦那! 暴力はよしてください、バザールは自由貿易の街でしょ!?」
「……自由と放縦を履き違えるな。……俺の時間は高いぞ。一秒ごとにお前の指の骨を一本ずつ、重力で『整理』してもいいんだがな」
「や、やめて! 言います! 全部言いますから!」
トビアスは顔を青ざめさせ、しがみつくようにして言葉を紡ぎ出した。
彼のような小悪党が、なぜこれほど大胆に「勇者の聖剣」などという、調べればすぐにバレるような大嘘を市場のど真ん中で売っていたのか。その裏には、バザールの利権を強引に書き換えつつある、新たな勢力の影があった。
「『黄金の盾』……冒険者ギルドだよ。最近、この街に乗り込んできた、成金どものギルドさ! あいつらが、自分たちの権威を高めるために『英雄の遺物』を市場に流通させろって、僕らに命令してるんだ!」
「……黄金の盾? 聞き覚えのない名だな。……ギルドというからには、相応の実力者が揃っているのか?」
「実力……? ハッ、あいつらにあるのは金と見栄だけさ! だけど、あいつらは自分たちを『伝説の勇者の正統な後継者』だって自称して、街中に自分たちの、その……バカでかい石像まで建てやがったんだ。逆らう奴は『不敬罪』で多額の罰金か、ギルドに雇われた荒事師にボコボコにされる。……僕だって、借金のかたにこんなインチキをやらされてるんだ!」
ガウェインの隣で、一部始終を聞いていたセレスが、憤りに顔を赤くして一歩前に出た。
彼女の手は怒りで震えており、聖印を握る指先に僅かな魔力が集まっている。
「……信じられません! 英雄の名前を、そんな金儲けの道具にするなんて……。本物の勇者様たちが、どんな思いで戦ってきたと思っているんですか! 師匠、こんなの放っておけません! 私たちの誇りにかけて、懲らしめてやるべきです!」
「……誇り? 若いの、何度も言わせるな。……そんな食えんもののために魔力を消費するのは、コスパが最悪だ。……俺が興味があるのは、この小悪党が吐いた『実力はないが金と見栄はある』という部分だけだ」
ガウェインはトビアスを地面に放り捨てると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
彼にとって、英雄という称号は、血と泥にまみれた過去の残滓に過ぎない。それを飾ろうが、売ろうが、本来はどうでもいいことだ。
だが、その「偽物の重み」が、彼が訪ねようとしている旧知の商人の商売を邪魔しているのだとしたら、話は別だった。
「……おい、トビアス。お前、その『黄金の盾』の本部を知っているな?」
「えっ? あ、ああ……。街の中央広場にある、一番悪趣味な金ピカの建物だけど……まさか、乗り込むつもり!? 無理だよ、あそこにはゴーレムまで配備されてるんだ!」
「……ゴーレムか。鉄屑が増えるだけだな。……案内しろ。俺の旧知が、その金ピカの連中にどれだけ迷惑をかけられているか、確認しに行く」
ガウェインは、再び歩き出した。
一歩ごとに石畳に刻まれる、深い、確かな重量音。
セレスは「待ってください!」と追いかけ、トビアスは腰を抜かしたまま「死ぬ、絶対死ぬよ……」とうわ言のように繰り返しながら、二人の背中を追うしかなかった。
黄金の街の嘘。
それを剥ぎ取るための、本物の「重圧」が、バザールの中心部へと動き出した。
ギルド本部へと続く市場の裏通り。表通りの華やかさとは対照的に、そこは建物の影が深く落ち、湿ったゴミと饐えた生活臭が漂う場所だった。
ガウェインは三倍の重力を維持したまま、周囲の「ノイズ」を一切遮断して歩みを進める。その後ろを、トビアスが怯えたように、セレスが憤慨した面持ちで付いてきていた。
突如、細い路地の奥から、乾いた打撃音と、低く掠れた悲鳴が聞こえてきた。
見れば、そこには数人の男たちが一人の老人を壁際に追い詰め、荷物をぶち撒けていた。男たちは「黄金の盾」の紋章が刻まれた安っぽい胸当てを付け、自称・英雄ギルドの末端であることを見せびらかしている。
「……あ、あの、この薬は病の孫のために、必死に金を貯めて……」
「うるせぇよ、ジジイ! この街で商売するなら『英雄保護税』を払うのが筋だろうが! 払えないなら、その命で払ってもらうしかねぇなぁ!」
男の一人が、老人の痩せこけた顔面を乱暴に踏みにじろうとした。
その瞬間、ガウェインの横を「風」が通り過ぎた。
「やめなさい! そんな恥ずべき行い、私が許しません!」
セレスだった。彼女はガウェインの制止を待たず、聖印を掲げて路地のど真ん中へと飛び出した。
ガウェインは足を止め、深く、重苦しい溜息をついた。
「……やれやれ。これだから、感情をリソース(資源)だと思っていない若造は。……コスパが最悪だと言ったそばからこれか」
「師匠! 見て見ぬふりなんてできません! トビアスさん、今のうちに老人を!」
トビアスは「ひっ、巻き込まないでよ!」と叫びながら、物陰に隠れてガタガタと震えている。
ならず者たちは、突如現れた美しい聖女を品定めするように眺め、下卑た笑いを浮かべた。
「おぉ、威勢のいい姉ちゃんだな。黄金の盾に歯向かうってのか? いいぜ、税の代わりにその身体でたっぷり慈愛を分けてもらおうじゃねぇか!」
男たちが抜剣し、セレスを包囲する。
セレスは怯えながらも、ガウェインに教わった『固定』の魔力を指先に込めた。だが、実戦経験の乏しさと怒りによる乱れで、魔力の練り込みが甘い。
彼女が助けを求めるようにガウェインを振り返った時、ガウェインは冷徹に、指先を小さく動かした。
重力魔法『不動の枷』――指向性加圧。
「……ひゃんっ!? お、重い……っ! し、師匠、何をするんですか!」
ガウェインはセレスを助けるどころか、彼女一人の周囲にのみ、さらに二倍の重力負荷を上乗せした。
合計で常人の五倍近い重圧がセレスの肩にのしかかる。彼女の膝がガクガクと震え、路地の石床がミシリと沈んだ。
「……自分の尻は自分で拭えと言ったはずだ。……若いの、お前がその『善意』を通したいなら、五倍の重力下で、なおかつその老人の周囲の空間を『固定』し続けろ。……それができなければ、老人も、お前の誇りも、ここでまとめてゴミ袋行きだ」
「師匠……ひどい……っ、あ、あがががっ!」
ならず者たちが、チャンスとばかりにセレスへ襲いかかる。
セレスは押し潰されそうな重圧の中で、必死に自分の魔力を爆発させた。
自分を守るためではない。背後にいる、動けない老人の周囲の空気を「固定」し、不可視の壁を作るために。
(止まれ……! 私の身体はどうなってもいい……! でも、このお爺さんだけは、絶対に触らせない……!)
パキパキ、と。
セレスの喉から、血の混じった魔力が吐き出される。
ならず者の剣が、老人の手前で目に見えない「硬い空間」に阻まれ、火花を散らした。
「な……なんだぁ、この壁は!? 女、何をした!」
「……集中を切らすな、セレス。……一ミリでも固定が揺らげば、お前の魔力ごと奴らの刃が貫通するぞ。……五倍の重圧の中で、お前の『質』がどこまで保つか、見極めてやる」
ガウェインは、一歩も動かずにそれを見守っていた。
冷酷に見えるが、これは彼なりの合理的な「実戦訓練」だ。
守るべき対象がある時、自分の限界を超えてなお魔力を固定し続ける執念。それこそが、将来的に魔王軍の幹部と対峙する際に、彼女の命を繋ぎ止める唯一の鍵になることを、彼は知っていた。
「うぅ……あああああぁぁぁぁぁッ!!」
絶叫と共に、セレスの魔力がさらに硬度を増す。
ならず者たちの武器が、空間の固定によって弾き飛ばされ、彼らの腕に凄まじい反動が襲いかかった。
ガウェインは、その光景を不機嫌そうに、しかし僅かに満足げな瞳で見つめながら、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「……はぁ、はぁ、っ……。し、師匠、酷いです……。死ぬかと思いました……」
路地に倒れ伏したならず者たちを背に、セレスは壁に手をついて激しく肩で息をしていた。先ほどまで彼女を押し潰していた五倍の重圧は、ガウェインが指を鳴らした瞬間に霧散したが、酷使された神経の痺れはまだ全身を苛んでいる。
ガウェインは助けた老人がお礼を述べるのも待たず、不機嫌そうに大通りへと戻り始めた。
「……五倍の負荷で十秒の維持か。……三流から、ようやく『使い物になる二流』への入り口に立ったな。……若いの、感謝するなら自分の生存本能にしろ。……俺の重力に耐えきれなかったら、お前は今頃肉の塊だったぞ」
「それでも……! もう少し、言い方があるじゃないですか……っ!」
セレスは毒づきながらも、ガウェインの背中を追った。その後ろを、トビアスが「信じられない」といった表情で、ガウェインから距離を置いて付いてきている。
やがて、バザールの中央広場に面した一角に、周囲の歴史ある石造りの建物とは明らかに浮いた、悪趣味なほど金装飾で彩られた巨塔が現れた。
これこそが、自称・勇者の後継者たちが集うギルド『黄金の盾』の本部である。
門前には、これまた豪華な鎧に身を包んだ門番たちが数人、暇そうに槍を弄びながら立っていた。
「……おい、トビアス。ここだな」
「あ、ああ……。そうだけど、本当に入るの? 見てよあの門番。あいつら、金で雇われた腕利きの冒険者だよ。……僕みたいな小悪党が行けば、門前払いで袋叩きだ……」
「……安心しろ。お前はただの置物だ。……俺は、旧知の安否を確認しに来ただけだ」
ガウェインは、三倍の加圧を維持したまま、悠然と門へと歩み寄った。
彼の身なりは、長旅で煤けた古い鎧と、手入れはされているが古臭い無骨な剣。どこからどう見ても、金に困った老いた旅人にしか見えない。
門番の一人が、ガウェインの歩みを遮るように槍を突き出した。
「おい、じじい。ここは『選ばれし英雄』の集う聖域だ。小汚い冒険者が迷い込む場所じゃねぇ。……慈悲が欲しけりゃ、裏通りの炊き出しにでも並んでな」
門番の冷笑。隣の男も、セレスの美しさに下卑た視線を送りながら鼻で笑った。
ガウェインは足を止めず、低い、地の底から響くような声で返した。
「……英雄、か。……若いの、お前、その槍の持ち方はなんだ。……重心がわずかに右に寄っている。……見栄のために金メッキを厚く塗りすぎたせいで、武器としての均衡が死んでいるぞ。……そんなもので俺の足を止められると思っているのか?」
「あぁん? なんだと、この老いぼれが……!」
門番が逆上し、槍の柄でガウェインの胸元を突き飛ばそうとした。
だが、その槍がガウェインの鎧に触れる寸前――空気が「ミシリ」と音を立てて爆ぜた。
ガウェインは一歩、踏み込んだだけだった。
三倍の重力を乗せた一歩。
彼が足を踏み下ろした瞬間に発生した局所的な重力波が、門番たちの足元の石畳を直径二メートルにわたって数センチ陥没させた。
「ひ、ひぎゃっ!?」
門番たちは、まるで見えない巨人に頭を抑えつけられたかのように、その場に膝から崩れ落ちた。
重い鎧が地面に叩きつけられ、派手な金装飾が甲高い音を立てて剥がれ落ちる。
「……挨拶がなっとらんな。……道を開けろ。……俺の計算では、あと三秒でお前たちの股関節が自重に耐えきれなくなって折れるはずだが。……それでも立ち塞がるか?」
ガウェインの瞳に宿る、圧倒的な「質」の暴力。
門番たちは、目の前の「老いぼれ」が放つ異常な威圧感に、失禁せんばかりの恐怖で顔を白くし、這いつくばったまま道を開けた。
「……行くぞ、セレス。……トビアス。……無駄な時間を食った。……コスパを考えれば、ここから先は『最短距離』で行く」
ガウェインは、歪んだ鉄の門を、指先一つ触れずに重圧だけで押し開き、黄金の館の奥へと歩を進めた。
門を抜けた先には、広大な円形の中庭が広がっていた。
そこは、外の喧騒が嘘のように静まり返り、代わりに人工的な魔力の拍動が空気を通じ、肌にチリチリとした不快な刺激を伝えてくる。
広場の中央、一段高くなった壇上には、高さ五メートルを超える巨大な英雄像が鎮座していた。
それは、伝説の勇者の立ち姿を模したとされる、過剰なほど煌びやかな彫像だった。
全身を金箔で覆い、手には光り輝く大剣を構えている。しかし、ガウェインの鋭い観察眼は、その輝きの下に隠された、無数の魔導回路と関節部の油の匂いを即座に捉えた。
「……ひぃっ、出た! あ、あれですよ! ギルドの自慢、魔導守護像『黄金の英雄』! あれが動き出したら、街の衛兵だって手出しできないんだ!」
トビアスが柱の影に隠れながら、歯を鳴らして叫ぶ。
ガウェインは立ち止まり、その巨大な像を、品定めするように下から見上げた。
「……なるほど。外装を金で塗り固め、内部に擬似神経を張り巡らせた自律型のゴーレムか。……若いの、お前にはあれがどう見える?」
「えっ、あ、えっと……。すごく、大きいです。それに、威圧感が……。私たちが戦った亡霊公とは違う、物理的な圧倒的な重さを感じます」
セレスは聖印を握り直し、反射的に自身の周囲を『固定』の魔力で薄く覆った。
その直後、像の頭部に埋め込まれた二つの魔石が、不気味な紅い光を放った。
「――不届き者が。我ら選ばれし英雄の聖域を、泥靴で踏み荒らすか」
像の足元、中庭の奥にある大扉が開き、十数人の重装歩兵を従えた男が現れた。
男は絹の外套を羽織り、自尊心の塊のような表情でガウェインを見下ろしている。このギルドの長にして、偽りの英雄譚を売り歩く黒幕の一人。
「……お前が、このゴミの持ち主か」
「ゴミだと? これは古の術式を現代に蘇らせた、究極の防衛機構だ! 貴様のような無作法な老いぼれには、神罰としての『重み』がふさわしい。……起動せよ、黄金の英雄!」
男の命令に従い、五メートルの巨像が「ズ、ズゥゥン……」と大地を揺らして動き出した。
金箔の関節が擦れ合う耳障りな音が響き、像が構えた大剣が、太陽の光を反射してガウェインの視界を焼く。
だが、ガウェインは剣を抜くことさえせず、ただ不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……究極? 笑わせるな。……重心が右足の駆動系に寄りすぎている。……外装の金のせいで排熱が追いつかず、内部の魔力回路が既にじわじわと焼き切れているぞ。……おまけに、これほど巨大な質量を支えるのに、足首の関節が標準の石像と同じ規格とはな。……設計者の顔が見てみたいものだ」
「何……!? 貴様に何がわかる! 叩き潰せ!」
巨像が咆哮にも似た駆動音を上げ、大剣を垂直に振り下ろした。
数トンの質量に加速が加わった一撃。回避しようとしたトビアスが腰を抜かし、セレスが「師匠!」と叫ぶ。
ガウェインは、一歩も動かなかった。
彼はただ、自分にかけ続けている『不動の枷』の出力を、左足の裏にだけ集中させた。
ドォォォォンッ! と。
大剣がガウェインのすぐ隣の石畳を粉砕し、激しい土煙が舞い上がる。
しかし、ガウェインはその衝撃波の渦中に立っていながら、髪一筋さえ揺れていなかった。
それどころか、剣が叩きつけられた衝撃で「右側に傾いた」巨像の足元を、彼は冷徹に見据えていた。
「……ほら見ろ。……無駄に重いだけで、一撃を放った後の制御が計算に入っていない。……若いの、よく見ておけ。……これが『見栄』という名の、最もコスパの悪い質量の末路だ」
ガウェインの指先が、空中で微かに、鋭く動いた。
巨像が振り下ろした大剣が石畳を爆砕し、飛び散った破片が弾丸のような速度で中庭を駆け抜ける。
トビアスが頭を抱えて悲鳴を上げ、ギルドの歩兵たちがその破壊力に歓喜の声を上げる中、ガウェインだけは静止した彫像のように、その場から一歩も動いていなかった。
「……セレス、配置に付け。ここから先は、お前の仕事だ」
「えっ、あ、はい! 準備はできています、師匠!」
セレスはガウェインの意図を察し、即座に両手を広げて魔力を展開した。
彼女が狙うのは巨像ではない。巨像を取り囲む広場全体の「空間」だ。
ガウェインは不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと自身の右拳を握り込んだ。
「いいか。これから俺が、この金ピカのゴミの『重心』を一点に集める。……お前は、この像が崩壊する際、一欠片の破片もこの中庭の外へ出すな。……もし街路に瓦礫が飛んで民間人に被害が出れば、お前の今日の晩飯は抜きだ」
「わ、わかってます! 絶対に、一粒の砂も逃がしませんっ!」
セレスの瞳が蒼く輝き、中庭の四隅を起点とした巨大な『固定』の障壁が形成され始める。
ギルド長はそれを見て「何が破片だ! 叩き潰せと言っているだろう!」と顔を真っ赤にして叫ぶが、巨像の動きは目に見えて鈍っていた。
「……気づかないか。……俺がこの場に立った瞬間から、お前の大事な人形には、既に『十倍の重圧』がかかっているんだぞ」
ガウェインの足元から、同心円状に広がる漆黒の重力波。
彼は巨像の攻撃を避けていたのではない。剣を振り下ろさせることで、その巨体の全荷重を、最も脆い右足首へと誘導していたのだ。
ガウェインが右拳を低く構え、自分にかけている『不動の枷』を極限まで圧縮する。
「……見栄を張るなら、せめて重力に勝てるだけの骨を組むことだ。……消えろ、金ピカ」
ガウェインが、踏み出した。
衝撃波で空気が弾け、一瞬にして巨像の懐へと潜り込む。
放たれたのは、拳。
魔力を込めた打撃ではない。ただ、巨像の構造的な弱点に向けて、自身の重力を一点に「転移」させただけの、冷徹な物理の解答。
メキメキメキッ! という、金属と石が同時に砕け散る絶望的な音が響き渡った。
ガウェインが打ったのは、巨像の膝関節。
ただでさえガウェインの重圧で自重の限界を迎えていたその箇所に、決定的な衝撃が加わった。
五メートルの巨体が、まるでスローモーションのように内側から崩壊を始める。
過剰に重い金箔の外装が、自身の重さに耐えきれず、ひしゃげながら剥がれ落ちていく。
「……今だ、セレス! 止めろッ!」
「はあああああぁぁぁぁぁっ!! 『全面固定』!!」
セレスが叫び、全魔力を放出した。
中庭の空間が、一瞬にして透明な琥珀に閉じ込められたかのように硬直する。
砕け、四方八方へ飛び散ろうとしていた数トンに及ぶ瓦礫の雨が、空中でピタリと停止した。
ガウェインはその瓦礫の隙間を、悠然と歩いてギルド長の方へと向かう。
背後では、停止した瓦礫がセレスの魔力制御に従い、静かに、一点の塵も外へ漏らさずに中央の壇上へと積み重なっていく。
「な……なな、なんだ、貴様は……。私の、最高傑作が……指一本で……」
「……お前の傑作とやらが、いかにコストに見合わない欠陥品だったか、理解できたか? ……さて。ゴミ掃除は終わった。……次は、お前たちが不当に溜め込んだ『帳簿』を見せてもらおう。……俺の旧知が、お前たちのせいでどれだけ損害を被ったか、きっちり計算させてもらうぞ」
ガウェインの低い声が、静まり返った中庭に響く。
引退勇者の誠実な拳。
それは、偽りの英雄譚を粉砕し、隠されていた街の腐敗を暴き出すための、最初の「重み」だった。
ガウェインは恐怖で腰を抜かしたギルド長を見下ろし、不機嫌そうに鼻を鳴らした。




