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最強の引退勇者、合理性を極めすぎて自分を重力で縛り上げてしまう〜隠居先を探す旅なのに、歩くだけで魔王軍が平伏する件〜  作者: 寝不足魔王


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第9話:歩法の極意、あるいは静寂の行軍

 魔法都市アイゼンガルドの夜明けは、浄化されることのない紫色の霧を白く染め上げるだけで、陽光の温かみを感じさせることはなかった。

 ガウェインは宿代わりに使っていた崩壊した礼拝堂の入り口で、自身の背嚢のベルトを念入りに締め直していた。三倍の重力を維持したままの彼の肉体からは、早朝の冷気を裂くような熱気が立ち上っている。


「……あぅ、あががが……っ。し、師匠、待ってください、身体が、身体がまだ井戸の底にあるみたいに重くて……」


 礼拝堂の奥から、ボロボロの修道服をなんとか整えたセレスが、足をもつれさせながら這い出してきた。

 昨夜、亡霊公レイス・ロードとの死闘で『固定』の魔力を絞り出した彼女の身体は、魔力欠乏と筋肉の極限状態により、立っていることさえ奇跡に近い状態だった。


「……五分遅い。……若いの、俺の旅に同行すると決めたのはお前だ。……引退間際のおっさんの歩速に合わせられないなら、今すぐその聖印を捨てて、教会のぬるま湯に浸かりに戻れ」


 ガウェインは振り返りもせず、冷淡に言い放つ。

 セレスは涙目で鼻をすすりながらも、ガウェインの背嚢の端をギュッと握りしめた。


「い、行きません! 教会には、もう戻らないって決めたんです! ……あんな、教本を読んでお祈りするだけの毎日なんて、もう、真っ平です……っ」

「……ふん。口の減らんガキだ。……ならば、お前のその『覚悟』を物理的に繋ぎ止めてやる」


 ガウェインが指先を小さく振った。

 瞬間、セレスの細い腰と、ガウェインの左手首との間に、不可視の「歪み」が生じた。

 重力魔法『不動の枷』――連結・重力鎖。

 セレスは突如として、自分とガウェインが、見えない一本の鉄鎖で繋がれたような、異常なまでの拘束感に襲われた。


「ひゃぅっ!? な、なんですかこれ、身体が……勝手におじさんの方に引っ張られる……っ!」

「……俺と、お前の間の重力を一方通行に固定した。……俺が歩けば、お前は嫌でも引きずられる。……お前の意志など関係ない。……これは、お前が『遅れる』という無駄を排除するための、最も合理的な処置だ」


 ガウェインはそう言い捨てると、迷いのない足取りで魔法都市の瓦礫の道を歩き出した。

 どしん、どしんと、三倍の重圧を伴うガウェインの一歩。

 連結されたセレスは、ガウェインが踏み出すたびに、暴力的な力で前方へと引き倒されそうになる。


「あ、あがががっ! 待って、早いです、早すぎます! 私、転んじゃいますぅっ!」

「……転ぶ暇があるなら、その『固定』の力を使え。……自分の身体に伝わる衝撃を、空中に固定して殺せ。……それができなければ、お前はこの魔法都市を抜ける前に、全身の骨が粉砕されて終わるぞ」


 ガウェインの言葉は、相変わらず慈愛の欠片もない。

 だが、その不器用な重力鎖は、セレスがこの呪われた都市で迷い、魔力汚染の霧に飲み込まれないための、文字通りの「命綱」でもあった。


 引退勇者の背中が、朝霧を切り裂いて進む。

 背後で悲鳴を上げながら、それでも必死に地面を蹴り、見えない鎖にしがみつく少女。

 

 魔法都市アイゼンガルド。

 数多の魔導士が挫折し、怨念の苗床となったその場所を、二人の歪な師弟は、かつてないほど「重厚な」足音を響かせながら去っていく。

 ガウェインの左手に繋がれた重力鎖は、まるで新しい世界の重みを測る天秤のように、ピンと張り詰めていた。


「あぐっ、うぅ、あがぁぁぁっ! 待っ、待ってください、身体がバラバラになっちゃいますっ!」


 瓦礫の山を越え、都市の舗装路へと出たところで、セレスの悲鳴は一層高く響き渡った。

 ガウェインの歩みは、一切の容赦がない。三倍の重力を背負う彼の脚力は、一歩ごとに数メートルの距離を瞬時に稼ぎ出す。その速度に「重力鎖」で強制的に連結されているセレスは、まるで暴走する馬車に引きずられている子犬のような有様だった。


 ガウェインが踏み出すたびに、不可視の鎖がセレスの腰を強引に引き寄せる。その瞬間、彼女の細い肉体には数倍のGがかかり、内臓がせり上がるような衝撃が襲う。


「……若いの、騒ぐ体力が残っているなら脳を動かせ。……俺の歩みに合わせようとするな。……俺が作り出す『衝撃』そのものを、お前の魔力でその場に固定しろと言っている」

「そんなこと、できるわけないですっ! 私、歩くだけで精一杯、なのに……ひゃんっ!」


 セレスの足が、瓦礫の角に引っかかった。

 普通ならそのまま無様に顔から地面に叩きつけられるはずだが、連結された重力鎖が彼女を容赦なく前方へ引きずり出す。転倒する暇さえ与えられない。宙に浮いた状態で、さらに強烈な加速が彼女の身体を襲う。


「……チッ。無駄が多い。……いいか、魔力は『出す』ものじゃない、『置く』ものだ」


 ガウェインは歩速を緩めない。だが、彼の周囲に展開されている重力圏の波形が、微妙に変化した。

 ガウェインは自身の重力魔法をセレスの足元へと僅かに漏らし、彼女の靴と地面の間の重力を一瞬だけ増大させた。


「……今だ。足が地面に触れる瞬間、お前の魔力をその『接点』に叩き込んで固定しろ。……滑るから転ぶ。揺れるから酔う。……なら、一歩ごとに世界を止めてしまえばいい」


 セレスは涙を拭う暇もなく、ガウェインの言葉を咀嚼そしゃくしようとした。

 合理的であること。

 無駄を省くこと。

 師匠が掲げるその哲学を実践するには、今の彼女にはあまりにも余裕がなかった。だが、やらなければ身体が壊れるという切実な恐怖が、彼女の眠っていた本能を呼び覚ます。


(地面に、魔力を置く……! 滑らないように、世界を、止める……!)


 次の一歩。ガウェインに引き寄せられる衝撃が腰に伝わった瞬間、セレスは足の裏に全神経を集中させた。

 

 ――固定ストップ

 

 パキ、と。

 見えない氷が張ったかのように、彼女の足元で事象が停止した。

 滑りそうになった足首が、セレス自身の魔力によって空中に「固定」される。その固定点を支え(ピボット)にすることで、彼女はガウェインの牽引力を、自分を前方へ飛ばす「推進力」へと変換することに成功した。


「……あっ、今、一歩……ちゃんと歩けました……っ!」

「……ふん。ようやく赤子のハイハイから、小鹿の足取りになったな。……だが甘いぞ。……衝撃を殺すだけでなく、その『反作用』を次の踏み込みに活かせ。……魔力の消費を三割削れるはずだ」


 ガウェインはそう言いながら、さらに歩速を上げた。

 連結された鎖は、今や拷問の道具ではなく、師から弟子へと「技術」を直接流し込む伝送路と化していた。

 ガウェインが踏み出し、重力が揺れる。セレスがそれを捉え、自身の力で固定し、次の一歩へ繋げる。

 

 二人の歩調が、僅かに、しかし確実に噛み合い始めた。

 魔法都市を覆う不浄な霧が、二人が生み出す「重圧と固定」の旋風によって、道を開けるように左右へ割れていく。

 

「お、おじさん……! 私、なんだか、世界が止まって見えます……!」

「……集中しすぎて三半規管が麻痺しているだけだ。……浮かれるな。……この歩法を維持したまま、あと三時間は止まらんぞ。……コスパを考えれば、昼食ランチの時間までに荒野を抜けたいからな」


 セレスの叫びは、もはや悲鳴ではなく、必死に食らいつこうとする戦士の呼気へと変わっていた。

 ガウェインの背中は、相変わらず岩壁のように厚く、冷たい。

 だが、その重苦しい背中に引きずられながら、セレスは生まれて初めて「自分の足で、望む場所へ向かっている」という、奇妙な高揚感を抱いていた。


 魔法都市アイゼンガルドの不浄な霧を抜け、二人がたどり着いたのは、赤茶けた岩肌が剥き出しになった乾燥地帯だった。

 ガウェインはようやく重力鎖を解き、街道から少し外れた岩陰に腰を下ろした。ドスン、と地響きに近い音を立てて彼が座り込むと、周囲の砂埃が重圧に押されて円状に広がっていく。


「ひ、ひゃあああ……っ、死ぬ。今度こそ、本当に魂が抜けちゃいました……」


 セレスは鎖から解放された瞬間、干物のように地面に這いつくばった。

 数時間に及ぶ『超高速固定行軍』。一歩ごとに空間を固定し、ガウェインの重圧を殺し続けた彼女の魔力回路は、酷使された機械のように熱を持ち、指先は小刻みに震え続けている。


「……五分の休息だ。若いの、その無駄に長いベールを枕にする暇があるなら、魔力の残渣ざんさを吐き出しておけ。……体内によどみを残すと、明日の朝、魔力酔いで内臓をぶちまけることになるぞ」


 ガウェインは無造作に背嚢から水筒を取り出し、喉を鳴らして水を飲んだ。

 彼は休んでいる間も、三倍の加圧を解かない。むしろ、周囲の魔力汚染を警戒し、重力の障壁をより密に張り巡らせていた。


「……ねぇ、師匠。どうして、そんなに急ぐんですか? 魔法都市を抜けたんですし、もう少し……こう、聖女と騎士の旅らしく、景色を愛でたり、困っている人を助けたりする余裕があってもいいと思うんです」


 セレスは泥に汚れた顔を上げ、不満げに口を尖らせた。

 彼女が聖教会で教わってきた『英雄譚』の聖女は、常に弱者に寄り添い、慈愛の光を振り撒きながら、優雅に旅を続ける存在だった。ガウェインのような、泥と汗と効率だけに特化した行軍は、彼女の理想とは対極にあるものだった。


「……景色を愛でる? その間に魔物に囲まれたら、お前は景色と心中でもするのか? ……困っている人を助ける? 善意を振り撒くのは勝手だが、その『対価』を計算したことはあるか?」

「対価……? そんなの、お礼の言葉だけで十分じゃないですか。困っている人を救うのに、損得勘定なんて……っ」


 ガウェインは、水筒を置いて、セレスを冷徹な瞳で射抜いた。


「……いいか、セレス。戦場において、最も恐ろしいのは敵の刃じゃない。……計算できない『善意』だ。……お前が一人の行き倒れを救うために魔力を消費し、時間を空費すれば、その間に本来防げたはずの別の悲劇が起きる。……お前が救った一人が、実は魔王軍の密偵だったらどうする? ……その一人の『ありがとう』の裏で、村一つが燃えることになる。……それでもお前は、慈愛を語れるか?」


 セレスは言葉に詰まった。

 教会の説教壇では決して語られることのない、戦場の冷酷な二択。

 ガウェインの言葉は、彼女がこれまで美しいと思っていた『正義』の化けの皮を、無慈悲に剥ぎ取っていく。


「……私は、それでも……。誰も助けないよりは、誰かを助けて後悔する方がマシだと思います。……だって、そうしなきゃ、私たちは何のために魔法を使えるんですか!」

「……俺たちが魔法を使えるのは、目的を遂行するためだ。……俺の目的は、隠居先を見つける前に魔王の首を落とし、世界の重みを少しだけ軽くすることにある。……そのためのリソースを、通りすがりのセンチメンタリズムに割く余裕はない。……お前が抱えているその甘い毒は、いずれお前自身を、そして隣に立つ仲間を殺すぞ」


 ガウェインは立ち上がり、背嚢を背負い直した。

 三倍の重力が、再び彼の周囲の空気をピリつかせる。


「……若いの。慈愛を否定はせん。だが、それを振るいたいなら、まずは自分を支える『土台』を鋼のように固めろ。……他人に分け与える余剰が出るまでは、お前の善意はただの『無能の撒き餌』だ」


 セレスは唇を噛み締め、黙って立ち上がった。

 ガウェインのリアリズムは、冷たく、あまりにも世知辛い。

 だが、彼がそうして自分を厳しく律し、感情を削ぎ落としてきたからこそ、今の「最強」があることも、彼女は理解し始めていた。


「……わかりましたよ。今は、黙ってついていきます。……でも、いつか私が、おじさんの理屈をひっくり返せるくらい強くなったら……その時は、絶対に美味しいジャガイモでも奢らせてやりますからね!」

「……ふん。ジャガイモの味は土地による。……まずは、次の目的地までその細い脚が保つかどうかを心配しろ。……五分の休息は終わりだ。行くぞ」


 荒野に、再び重厚な足音が響き始める。

 ガウェインの背中は、夕陽を背負って巨大な影を大地に落としていた。

 その影は、セレスの理想を飲み込むほど暗く、しかし、この過酷な荒野で唯一信頼できる道標のように、先へと伸びていた。


 荒野の岩肌が鋭さを増し、迷宮のように入り組んだ峡谷へと差し掛かった。

 ふと、ガウェインが右手を挙げ、無音の合図を送る。三倍の重力を背負う彼の挙動は、その重量に見合わぬほど滑らかに静止した。


「……ここからは、お喋りは厳禁だ。呼吸も最小限にしろ。……『大耳蝙蝠イヤー・バット』の営巣地だ」


 ガウェインの声は、もはや吐息に近い。

 峡谷の見上げるような断崖には、無数の小さな穴が開いており、そこから不気味な超音波の残響が絶え間なく降り注いでいた。

 この変異種は、視覚を完全に退化させた代わりに、砂粒が落ちる音さえ捉える異常な聴覚を持っている。群れに気づかれれば、数千の音速の牙が、逃げ場のない峡谷で標的を肉片に変えるだろう。


「……いいか。一歩でも音を立てれば、俺がお前の喉を直接『固定』して、一生喋れなくしてやる。……脅しではないぞ。……コスパを考えれば、群れを相手にするより、お前一人を黙らせる方が遥かに安上がりだからな」

「っ……!?」


 セレスは両手で自分の口を抑え、激しく首を振った。

 ガウェインの瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。彼は既に、自身の重力魔法を「周囲の音を吸い込む」ための極小の真空層として展開し、一歩踏み出すたびに靴が岩を叩く振動を、重圧によって強制的に無効化キャンセルしている。


「……歩け。……ただし、自分の体重が岩を叩く衝撃を、お前の『固定』で殺しながらだ。……昨日の訓練の応用だ。……地面に触れる瞬間、音が発生する前の『振動』をその場に繋ぎ止めろ」


 ガウェインが先行する。

 彼の歩みは、もはや幽霊よりも静かだった。三倍もの重圧を大地に刻んでいるはずなのに、砂埃一つ舞わず、石が擦れる音一つしない。物理法則そのものを、重力の力で黙らせるベテランの神業。


 セレスは、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、最初の一歩を踏み出した。

 右足が岩の表面に触れる直前。彼女は自身の魔力を、足裏と岩の「境界」へと流し込む。

 

 ――固定サイレンス

 

 カツン、という音が鳴るはずの瞬間。

 セレスの魔力が、空気の震えが広がる前に、その振動を「固定」した。

 音のない世界。

 だが、その一歩を維持するためには、全身の毛穴から血が吹き出すような集中力を必要とする。

 少しでも魔力が揺らげば、固定は解け、死を招く騒音が峡谷に木霊するだろう。


(……集中。……止めて。……振動を、私の魔力で、固める……っ!)


 上空では、大耳蝙蝠たちが不穏に羽ばたき、巨大な耳を四方八方へと向けている。

 一匹でも「異物」を察知すれば、それは連鎖的な殺戮の始まりとなる。

 セレスは、ガウェインの背中だけを見つめた。

 彼が歩いた後の空気には、重力によって押し潰された「静寂のわだち」が残っている。彼女はその轍をなぞるように、一歩、また一歩と、死の迷宮を進んでいった。


 峡谷の中ほどまで来た時、レオが教わったあの「木の棒」よりも遥かに重い、極限の緊張が彼女を襲った。

 足元の小石が、僅かに重心移動で揺れたのだ。

 セレスは瞬時に、その石そのものの時間を止めるかのように魔力を叩きつけた。

 

 パキ、と。

 彼女の脳内だけで響く、事象の固定音。

 石は動かず、音は生まれなかった。

 

 ガウェインが僅かに首を巡らせ、セレスを一瞥した。

 その視線には、「今の対処は及第点だ」という、微かな肯定の色が混じっていた。


 一時間の行軍。それはセレスにとって、魔王城まで歩くよりも遥かに長い苦行に感じられた。

 ようやく峡谷の出口が見え、空気が開けた瞬間。

 ガウェインは足を止めず、さらに数キロ先まで無言のまま進み続け、ようやく「音を立てても良い場所」にたどり着いた。


「……ふぅ。……九十分の集中か。……若いの、鼻血が出ているぞ。拭いておけ」

「……ぷはぁっ! し、死ぬかと思いました……! おじさん、あんなの、人間がやることじゃありませんっ!」


 セレスはその場に座り込み、酸素を求める魚のように口をパクパクとさせた。

 だが、その疲労困憊の表情の裏に、彼女は確かな手応えを掴んでいた。

 音さえも「固定」できる。

 自分の不器用な魔力が、世界の法則の一部を封じ込める力を持っている。

 その実感が、彼女を内側から強く、重く、変えようとしていた。


「……音を殺すことができれば、次は光を殺す。……合理的な隠密とは、存在そのものを世界から切り離すことだ。……若いの、次の授業の準備はいいか?」

「……おじさん。……鬼。……悪魔……っ!」


 毒づきながらも、セレスはガウェインの背嚢を掴んで立ち上がった。

 峡谷の向こう、荒野の終わりには、次なる混乱の舞台――商人の街の巨大なシルエットが、陽炎の中に揺れていた。


「……音を殺すことができたなら、次は『光』だ。若いの、覚悟はできているな」


 峡谷を抜け、視界の開けた荒野に出たところで、ガウェインは足を止めることなくさらなる無理難題を突きつけた。

 セレスはまだ、先ほどの無音行軍による精神的な疲労から回復しきっていない。鼻血を拭った袖は汚れ、肩で息をしている状態だ。


「ひ、光……? まさか、透明人間になれとでも言うんですか? そんなの、高位の幻術師でも難しいって教本に……」

「教本の話はもういい。……合理的に考えろ。光とは直進する波だ。ならば、その波を捻じ曲げて背後に逃がせば、観測者にとってそこには『何も存在しない』ことになる。理屈は単純だ」


 ガウェインが指先をひらつかせると、彼の周囲一平方メートルの空間が、陽炎のようにゆらりと歪んだ。

 三倍の重力をさらに局所的に圧縮し、光の屈折率を強制的に操作する重力魔法の応用。だが、ガウェイン一人の魔力では、移動しながらこの精密な歪みを維持し続けるのは、あまりにも燃費が悪い。


「……だが、俺が重力で光を曲げても、空間が流動的だとすぐに像が崩れる。……そこで、お前の出番だ。セレス、俺が歪ませた『空間の座標』そのものを、お前の魔力でその場に固定しろ」

「えええっ!? 空間を固定……!? そんな、形のないものをどうやって……っ」

「できるはずだ。お前はさっき、音という『震え』を固定した。ならば空間という『容れ物』を固定するのも同義だ。……いいか、俺の重力に合わせて魔力を薄く、広く展開しろ。……俺とお前を包む、透明なまゆを作るイメージだ」


 ガウェインは有無を言わせず、セレスを自分の至近距離まで引き寄せた。

 二人の距離が近付くと、ガウェインの常時加圧されている三倍の重圧が、セレスの肌を直接ピリピリと焼く。

 

「……展開するぞ。集中しろ。一ミリでも固定がズレれば、像が歪んで逆に目立つ『不気味な塊』になるからな」


 ガウェインが重力魔法を編み上げる。

 二人の周囲の景色が、まるで水中にいるかのようにぐにゃりと歪み、背後の岩肌の模様が前面へと回り込んでくる。

 セレスは、吐き気をもよぼすような空間の変質を必死にこらえ、その歪みを逃がさないよう魔力を放出した。


(止まれ……止まれ、止まれ……! この歪んだ形のまま、世界に張り付いて……!)


 パキ、と。

 彼女の脳裏で、空間が凍りつく手応えがあった。

 ガウェインの重力が生み出した「光の屈折」を、セレスの固定魔法がキャンバスの上の絵の具のように定着させる。

 二人の姿は、荒野の岩肌と完全に同化し、数メートル離れれば熱心な観察者でさえ見落とすほどの完全な迷彩へと昇華された。


「……ほう。及第点だ。……このまま歩くぞ。固定を解くなよ。……解けば、即座に俺の重力がお前を押し潰すことになる」

「し、師匠……これ、すごく、疲れます……っ。脳みそが、沸騰しそうで……」

「……沸騰する前に歩け。……合理的な隠密とは、敵に気づかせないことではない。……敵の認識そのものから、自分たちの存在を抹消することだ」


 透明な「影」となった二人は、日中の荒野を音もなく進んでいく。

 途中で遭遇した魔物の群れも、彼らのすぐ横を通り過ぎながら、そこに獲物がいることにすら気づかなかった。

 ガウェインの重圧が足音を消し、セレスの固定が姿を消す。

 

 それは、引退勇者がかつての戦場で、数千の魔王軍をたった一人で突破するために編み出した、孤独で、徹底的に効率化された生存術の極致だった。

 セレスは、限界に近い意識の中で、ガウェインの背中の大きさを再認識していた。

 この人は、ずっと一人で、この孤独な透明な世界を歩いてきたのだ。

 誰に称賛されることもなく、ただ目的のために。


「……おじさん。……おじさんは、寂しくなかったんですか? こんなに、誰にも気づかれないように歩いて……」

「……寂しい? そんな非合理な感情を抱く暇があるなら、一歩でも先へ進む方がマシだ。……それに、今は横でうるさく鼻血を出している奴がいる。……寂しがる余裕など、あるわけがないだろう」


 ガウェインの言葉は相変わらず不機嫌だったが、迷彩の隙間から漏れる彼の魔力は、セレスの消耗を支えるように、不思議と穏やかな重みを保っていた。


 陽炎の揺らめく荒野の果て、地平線の境界を塗りつぶすように、巨大な石造りの尖塔と幾重にも重なる天幕の群れが姿を現した。

 交易都市『バザール』。

 大陸中の物資と欲望が集まり、金貨の音さえあれば魔王の首でさえ売り買いされると嘯かれる、混沌の象徴たる街である。


「……ふぅ、ようやく着いたか。想定より三十分の遅れだな。若いの、お前の集中力が途切れて迷彩が三回揺らいだせいだぞ」


 ガウェインは都市の入り口から少し離れた岩陰で、ようやく術式を解いた。

 空間の歪みがパッと霧散し、二人の姿が現実の世界へと書き戻される。セレスはもはや言葉を返す元気もなく、その場に膝をつき、激しい眩暈めまいを堪えるように自分の頭を抱え込んだ。


「あぅ……っ、世界が……回ってます。師匠……私、もう、一歩も、動けません……」

「……勝手にしろ。俺は一人で市場へ行く。……だが、そこに転がっていれば、通りがかった奴隷商人に拾われて、今頃どこぞの鉱山で一生『固定』の魔法を使って石を積み上げる生活になるだろうがな」

「うぅ、鬼、悪魔、超重力おじさん……っ! わ、わかりましたよ、歩けばいいんでしょ、歩けば!」


 セレスは涙目で立ち上がり、ガウェインの背嚢の裾に縋るようにして、ふらふらと歩き出した。

 街の門を潜ると、そこは暴力的なまでの熱気に満ちていた。魔法都市の静寂や荒野の孤独とは正反対の、人間と亜人が放つ体臭、家畜の鳴き声、そして何より「金」を巡る強烈な執着心が渦を巻いている。


 ガウェインは人混みを裂くように進む。彼の周囲三メートルには、無意識のうちに重圧の障壁が展開されており、ぶつかろうとした酔っ払いや荒事師たちが、理由もわからず弾き飛ばされていく。


「……さて。まずはこの『名刺』の持ち主を探すか」


 ガウェインは背嚢の奥から、色褪せた、しかし重厚な彫金が施された銀の板を取り出した。

 それはかつて彼が、ある若き商人に「いつか俺の名が必要になったら使え」と渡した、もう一つの護符だった。


「……師匠。それって、エルナさんに渡したのと同じものですか?」

「似たようなものだ。……昔、魔王軍の補給路を断つ作戦の最中、食料を横流ししようとしていた度し難い小悪党を拾ってな。……死なない程度に合理性を叩き込んでやったら、今やこの街のギルドを牛耳る大物になったという噂だ」


 ガウェインは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 彼にとって、かつての教え子たちが立派になるのは、自分の「指導」が間違っていなかったという証明に過ぎず、再会に感動するような情緒は持ち合わせていない。むしろ、貸しを作った分、今回の旅の物資を安く買い叩くことしか考えていない。


 だが、ガウェインの鋭い感覚が、街の喧騒の中に「不協和音」を捉えた。

 大通りの中心。着飾った冒険者の一団が、一人の老人を囲んで罵声を浴びせている。

 その冒険者たちが掲げる旗印には、どこかで見覚えのある、不自然に煌びやかな「英雄像」の紋章が刻まれていた。


「……ふん。英雄の安売りか。……若いの、お前の言う『慈愛』を発揮するチャンスかもしれんぞ。……もっとも、俺にはコスパの悪い騒ぎにしか見えんがな」


 ガウェインは冷ややかに言い捨てると、再び重い足取りで雑踏の中へと消えていった。

 引退勇者の休息の地探し。その次なる障壁は、魔物でも亡霊でもなく、人間が作り出す「偽りの理想」という名の泥沼だった。


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