032 2026年4月23日(木)_01 飲み会~お給料、増えたみたいです~
4月23日。
4月21日の騒ぎから、ほんの少しだけ時間が経った朝。
片桐一葉は、通勤前に最寄りの銀行で口座を確認して、固まった。
「……おきゅうりょう、てどり、さ、さんじゅうななまんえん!!!???」
声が裏返った。
隣で記帳していたおばちゃんが、びくっとして一歩引いた。
一葉は慌てて会釈したが、おばちゃんは「い、いまの子は元気だねぇ……」みたいな顔で距離を取って去っていった。
一葉は、ひとりで勝ち誇ったように鼻歌を鳴らす。
これだ。
危険な部署だろうが意味不明だろうが、給料が強ければ正義だ。
そう思いながら、文翔館の地下へ降りた。
そこで、正義が一度ひっくり返る。
見慣れない顔が、増えていた。
武田さん。委員長みたいな立ち姿。
今田さん。インテリ眼鏡。
槌谷さん。ゆるふわ系。
しかも、会った瞬間。
三人そろって、敬礼した。
「えっ」
一葉は反射で笑顔になり、右手にはカバンがあるから左手で敬礼した。
すると三人が、同時に変な顔をした。
「……あ、左……」
一葉が小声で言い訳しかけたところで、背後から若林が早足でやってきた。
「ごめんね!この子、そういう訓練、受けてないの。ほんとにごめん!」
武田たちは、気まずそうに姿勢を戻す。
今田は眼鏡の位置を直し、槌谷は「いえ……」と柔らかく笑った。
一葉は若林を横目で見る。
「どういうことよ」
若林は、声を落とす。
「……今日から、あなたの扱いが正式に切り替わったの。後で説明する。とにかく、今は来客対応が先」
「え、でも若林さん聞いて!お給料金額がさ、あり得なくて――」
「ちょっと待って。今日は忙しいの」
その奥で、早川真が、ものすごくかわいそうな目で一葉を見ていた。
仕事しろ父親。
さらに奥。パーティションの向こう。
外人がいる。八人くらい。
スーパーの寿司を大喜びで食べている。
わりと、かわいい。見た目だけなら修学旅行生の集団みたいだった。
「え……なにあれ。あの人たち、なんでここで寿司……」
若林は答えない。答えない笑顔をした。
そこへ、もうひとり、ぬるっと現れる。
テレビで見た顔。
渡部とかいう国会議員。
用途不明金でいつも突っ込まれてる人。
一葉の中のネット知識が、余計なことを言う。
「うわ、ほんものだ……」
渡部は、軽く周囲を見回し、一葉にだけ目を止めた。
「片桐君。一昨日は……助かった。今日は歓迎の場にしよう」
「え、歓迎会?いや、私、今日もExcelとにらめっこだと思って――」
「今日は違う。関係者が揃う。区切りが必要だ」
一葉は、勢いで口を開きかけた。
「でも私、お給料の金額が――国に怒られないですか?」
言ってから気づく。
国会議員に聞く話じゃない。
若林が、顔を手で覆った。
「片桐ちゃん、それは……」
その瞬間、斎藤智也が、書類の束を抱えてきっぱり割って入った。
総務・会計担当の、あの斎藤係長だ。
「片桐さん。給与の件は、こちらで説明します。議員に聞く話ではありません」
一葉は、首が縮む。
「……ですよね」
斎藤は、声を落として淡々と続ける。
「今朝の入金は、通常の給与に加えて、21日深夜の緊急対応分が合算されています。具体的には、時間外勤務手当と、箝口令関連特殊勤務手当の一部です」
「……え、じゃあ、間違いじゃないの?」
「金額だけ見ると誤解しやすいですが、計算上は成立しています。ただし、内訳の確定がまだなので、今月分は仮の精算も混じっています」
一葉は、じわっと不安になってきた。
「返せって言われたりしませんよね……?週刊誌とか、SNSとか、燃えたり……」
斎藤はため息をついた。
「燃える燃えない以前に、口座残高で騒ぐのはやめましょう。まず、給与明細を見てください」
「……はい」
そこへ、渡部が一歩前に出て、軽く頭を下げた。
「片桐君。混乱させたのは申し訳ない。だが、手当の扱いが変わるのは事実だ。君はもう、通常の事務職ではない」
一葉は反射で言い返した。
「いや、私、県職員なんで!国会議員に謝られる筋じゃ――」
「その通りだ。謝る相手は、県の責任者だ」
渡部は苦く笑って、若林と児島の方を見た。
児島は、湯呑でコーヒーを飲んだまま、一言だけ。
「今日から、あなたの肩書きが変わるの」
一葉は、瞬きした。
「……肩書き?」
斎藤が書類を一枚めくる。
「片桐さんは、4月23日付で“特殊車両運用”に加え、“搭乗適合者としての訓練対象”に入っています。そこで、来月か再来月から、手当が上乗せになる可能性があります」
「……それが、“パイロット手当”?」
若林が小さく頷いた。
「ただし、すぐには出ない。訓練開始と、辞令上の区分が揃ってから。順番があるの」
一葉は、納得しかけて、急に現実が戻ってきた。
「……え、でも金額、どんくらい増えるんですか」
斎藤は、言い方を選びながら、数字を置いた。
「一般に表に出る手当名称ではありません。外形は“特殊勤務手当”の上積みとして処理します。想定している月額は、基本部分が5万5千円。加えて、出動や緊急対応が発生した月は、実績に応じて加算」
一葉の目が、金額に吸い付く。
「ご、5万5千……」
「ただし、これは“支給されれば”の話です。あなたが、次も座るなら、の話」
その瞬間、一葉は変な汗をかいた。
座る。
あの中に。
あの卵くさい、鉄と油と古い機械の匂いの中に。
一葉は、乾いた笑いを漏らす。
「……なるほど。命がけの手当ってことですね」
若林が肩をすくめる。
「そう。だから敬礼されたの。あなた、今日から“そういう人”扱い」
一葉は、寿司をむさぼる八人の方を見て、ぽつりと言った。
「……あの人たち、かわいいけど、もっとヤバい人たちなんですよね」
児島が、湯呑を置く。
「ええ。ちょっと説明できないけどそうね。」
一葉は深呼吸して、最後に確認した。
「じゃあ今朝の三十七万円は、通常給与プラス、特殊部署の危険手当と時間外で、来月か再来月からはそこにパイロット相当の上乗せが来る、と」
斎藤が頷く。
「そうです。県の慣例としても、手当は条例・規程の枠に落とし込みます。勝手に配れません」
一葉は、ほっとしたような、残念なような顔をして言った。
「……間違いだったら良かったのに。いや、良くないけど。お金は欲しいけど、燃えるのはイヤです」
若林が即答する。
「燃えるのは怪物だけで十分」
渡部が、静かに締めた。
「歓迎会は、その“現実”を共有するための場だ。君がここにいる意味を、今日中に理解してもらう」
一葉は、思わず真顔で返した。
「……え、今日中?定時で帰れます?」
児島と若林が、息ぴったりに言った。
「無理」
一葉は、天井を見上げた。
「……公務員のクオリティ・オブ・ライフって、どこ……」
---
地下ドック。
天井の高い空間に、白い照明が何列も走り、パーティションで区切られた“仮設の会場”が広がっていた。
中央には長机。
その上に、ずらりと並ぶ仕出し弁当。
包み紙には、山形市内でも名前を聞けば誰でもうなずく老舗料亭の印。
蓋を開けた瞬間、湯気と一緒に、出汁と炭火の香りが立ち上る。
一葉は、思わず言った。
「……これ、県の予算で出していいやつですか?」
斎藤が即座に答える。
「“会議用弁当”です。規程上、問題ありません」
「便利な言葉だな……」
横には、日本酒の瓶が何本も並び、地元ワイナリーの赤と白。
さらに、冷えた“本物のビール”。
缶じゃない。瓶だ。
一葉は、目を細めた。
「……ここ、秘密基地ですよね?宴会場じゃなくて?」
若林が笑う。
「秘密基地だからこそ、ちゃんと食べるのよ。明日も生きるために」
そこには、全員がいた。
人事表に載っていたメンバー全員。
児島、若林、斎藤、鎌田、早川、多田、佐藤。
武田、今田、槌谷。
顧問席には、石原、青山、三浦、山倉、大沼。
そして、渡部と、そのすぐ後ろに立つ秘書兼SP。
さらに、少し離れた場所に――
寿司を食べていた八人と、黒衣の浮雲。
浮雲は壁にもたれて、腕を組んでいた。
視線だけで、場を見ている。
渡部が、軽く咳払いをする。
「形式張った挨拶は省こう。今日は“共有”の場だ。昨日から今日にかけて、ここにいる全員の立場が変わった」
一葉は、弁当を開けたまま固まる。
「……ご飯、食べていいやつですか?」
若林と児島が、同時に言った。
「食べなさい」
一葉は、ありがたく箸を取った。
ひと口。
「……死ぬほどうまい」
鎌田が、ガンダムの話をする前の顔で頷く。
「だろ。ここは、最後の晩餐に使うって決めてる店だ」
「縁起悪っ」
笑いが起きる。
空気が、少しだけ、ゆるんだ。
一葉は、酒瓶の列を見て、ぽつりと聞いた。
「……これ、仕事中ですよね?」
斎藤が淡々と答える。
「公式には“情報共有会”です」
「また便利な言葉……」
日本酒を注ぎながら、児島が言う。
「片桐ちゃん。これからの話を、ちゃんと噛み砕いて説明するわ」
一葉は、背筋を伸ばした。
「はい。生き残りたいので」
児島は、微笑んでから、真顔になる。
「あなたはもう、“守られる側”じゃない。“守る側”に足を突っ込んだの」
若林が続ける。
「辞めることはできる。今なら。でも、昨日見たものは、たぶん、一生ついてくる」
一葉は、弁当の煮物を見つめる。
「……転職、考えてたんですけど」
石原が、低く言う。
「考える権利はある。だが、知ってしまった以上、どこへ行っても“関係者”だ」
一葉は、ため息をついた。
「公務員、コスパ悪すぎません?」
その流れで、ぽろっと口を滑らせた。
「……ていうか、これ、プライベートどうなるんですか?」
箸が止まる。
「結婚とか、できなくないですか?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
児島と若林が、完璧にハモった。
「「クソ旦那とは別れた!」」
場が、凍る。
八人の外国人組が、一斉に浮雲の方を見る。
浮雲は、口に含んでいたビールを吹き出し――
「嘘だ!!!!!!!!!!!!」
盛大に絶叫した。
「ま、待ってくれ……!」
パニックになりながらも、若林を見る。
「……待っててくれなかったのか?」
若林が、腕を組む。
「二十六年よ?」
児島が、淡々と追撃する。
「冷蔵庫の中身、全部腐るくらいには」
八人の仲間が、口々に言う。
「普通だろ」
「二十六年は長い」
「俺なら三年で無理だ」
「いや一年だ」
浮雲は、頭を抱えた。
「……初めての…彼女だったのに……」
山倉が、肩を叩く。
「だから、初恋は実らないものだ。」
一葉は、その光景を見て、ぽつりと呟く。
「……なんか、思ってたより、人間くさいですね」
児島が笑う。
「ちょっと安心したわ。昔のまんま。」
渡部が、静かに話を戻す。
「片桐君。君に伝えておくべき事実がある」
一葉は、背筋を伸ばす。
「はい」
「君は、象徴になった。意図せず、だが確実に。山形ロボが“誰かを選んだ”という事実そのものが、国内外で意味を持つ」
「……炎上、します?」
斎藤が即答する。
「します。すでに心配していますし、対処もします」
「ですよね……」
渡部は続ける。
「だから、ここにいる。県、市、国。その境界線の上に、君がいる」
一葉は、ビール瓶を見て、言った。
「……それ、飲んでいいやつですか?」
若林が、にやっと笑う。
「いいわよ。ただし――」
児島が、同時に言う。
「自己責任で」
一葉は、瓶を手に取る。
「私、そんなに強くないですよ?」
浮雲が、ぼそっと言う。
「それ、強い人の言い方だ」
一葉は、ぐいっと一口飲んだ。
「……うま」
誰も知らなかった。
この瞬間が、
この課にとって、
最初で最大の地雷だったことを。
若林が、斎藤に小声で言う。
「……片桐ちゃん、酒癖って――」
斎藤は、首を振る。
「人事資料に、ありません」
児島が、なぜか、嫌な予感の顔をした。
「……ない、っていうのが、一番怖いのよ」
一葉は、もう一口飲んで、笑った。
「なんか今日、人生、加速してません?」
その言葉を合図にするように、
地下ドックの夜は、
静かに、そして確実に、
次の“地獄”へと進み始めていた。
一葉は、三本目の瓶を見つめていた。
「……これ、“山川光男”って絵がかわいいから、カロリーゼロですよね?」
若林が吹いた。
「どこにそんな理論があるのよ」
「だって、山形のお酒だし、このおじちゃんかわいいし。ご当地補正。ゼロカロリー」
鎌田が、そっと目を閉じる。
「……今どきお笑い芸人も使わない……」
一葉は、ぐいっと飲んだ。
そして、
眼鏡が、光った。
浮雲が、即座に察する。
「……嫌な予感がする……」
児島が、眉をひそめ思わず昔の呼び名で呼ぶ。
「平輔、何が――」
一葉は、机に両手をついた。
「はいっ!」
全員が、びくっとする。
「この部署、効率悪すぎません!?」
沈黙。
八人の外国人組が、同時に箸やフォークを止める。
「まずですね!」
一葉は、どこから取り出したのか、
自分の給与明細を掲げた。
「この金額、危険手当とかパイロット手当とか、名前が多すぎて、もはやゲームのステータスなんですけど!
“攻撃力+30”“防御力+50”みたいな書き方、やめません!?」
斎藤が、額を押さえる。
「……正式名称です」
「だったら、“残業耐性+∞”もつけてください!」
若林が、笑いをこらえきれず、むせる。
一葉は、次に、鎌田を指さした。
「鎌田さん!
机の上にガンダム並べてる場合じゃないです!
あれ、絶対、機密文書の上に足乗せてますよね!?」
鎌田が、慌ててフィギュアをどかす。
「の、乗せてない!横だ!」
「誤差です!」
浮雲が、ぼそっと言う。
「……悠より怖い。」
一葉は、今度は、渡部の方を向いた。
「あと、議員さん!」
秘書とSPが、一斉に一歩前に出る。
渡部は、手で制した。
一葉は、にっこり笑う。
「“非公式”って便利な言葉ですよね。
なんでも“非公式”って言えば、後でなかったことにできる」
場の空気が、一瞬、張る。
渡部は、ゆっくりと頷いた。
「……耳が痛い」
一葉は、ふっと真顔になる。
「でも」
少しだけ、声が低くなる。
「昨日、あそこにいた人たち、
“非公式”じゃ、生き返らないんですよ」
静かになる。
一葉は、続ける。
「だから、ちゃんと、残してください。
書類でも、記録でも、誰かの記憶でも」
児島の目が、わずかに潤む。
若林が、鼻をすする。
浮雲は、目を伏せた。
一葉は、そこで、また元のテンションに戻る。
「――というわけで!」
ぱん、と手を叩く。
「この課の正式スローガン、決めましょう!」
「やめなさい!」
児島と若林が、同時に叫ぶ。
「“勝ち取ろう!残業代!!”とかどうですか!?」
八人の戦鬼が、口々に言う。
「強い」
「それは強い」
「確かに日本は異常だからな」
早川が絶望的な顔で娘を見つめる。
「……どうしてこう育った……」
一葉は、ふらっと椅子に座り込む。
「……あー、やば……頭、ぐるぐるする……」
若林が、肩を貸す。
「ほら、水」
「なますて……」
児島が、静かに言う。
「片桐ちゃん」
一葉は、ぼんやり顔を上げる。
「はい……」
「あなた、覚えてる?」
「……なにを?」
「今、言ったこと」
一葉は、少し考えて、にやっと笑う。
「……全部」
場が、ざわつく。
浮雲が、目を細める。
「……最悪だな、それ」
一葉は、親指を立てる。
「記憶、消えないタイプなんです。
だから明日、たぶん、死にます。社会的に」
若林が、肩を落とす。
「……ああ、もう。完全にうちの課の人間だわ」
渡部が、小さく笑った。
「安心しなさい。
ここにいる全員、もう何度か“社会的には死んでいる”」
一葉は、天井を見上げる。
「……仲間入り、ってやつですか」
児島が、静かに答える。
「そう。ようこそ」
地下ドックの照明が、わずかに明滅する。
遠くで、山形ロボの待機システムが、低く唸る。
一葉は、その音を聞きながら、目を閉じた。
「……明日、普通に出勤ですよね」
若林が言う。
「ええ。Excelとにらめっこ」
「絶対二日酔いですよ?」
「公務員だから」
一葉は、笑った。
「……ブラックすぎる」
浮雲が、静かに言う。
「でも、悪くないだろ」
一葉は、少しだけ考えてから、頷いた。
「……まあ」
「守った街で、普通に生きられるなら」
地下の夜は、ゆっくりと更けていく。
その上で、何も知らない山形の街は、
今日も、いつも通りの明かりを灯していた。




