レリィ・ウォーカー 四
レリィ・ウォーカー 四
レリィが部屋に閉じこもってから三日目。まだ日が昇る前に、それは起きた。
「いやあああああああああああああああああ!!!」
家中に響き渡る悲鳴に目を覚まし、跳ねるように俺はベッドから飛び起きる。その声の主は、間違いなくレリィだった。でも、あんなに鬼気迫るような悲鳴は聞いたことがない。
彼女の部屋の前にたどり着くと、俺は部屋の戸を叩く。
「レリィ! どうした!? 大丈夫か!?」
何度も呼びかけるも返事はない。何が起きたのかもわからず、いてもたってもいられなくなって、俺は彼女の部屋のドアを開ける。
「レリィ!」
部屋に入ると、彼女の姿がすぐに目に入った。しかし、その姿は今までに見たこともないほどに異常だった。
頭を抱えながら、部屋の隅に逃げ込むようにへたり込んでいる。その上、まともに眠れなかったのか、目の下には隈ができていて、少し離れていても分かるほどに大きく震えていた。
「いや、いや、いや。いやだいやだいやだ……いや……」
「レリィ、大丈夫か? どうしたんだ?」
彼女に駆け寄って、俺は問いかける。しかし彼女はまったく俺に見向きもしない。俺は彼女の意識を自分に向けるために、彼女の肩をつかんで軽くゆする。
「レリィ、俺だ! ソルだ。わかるか? 大丈夫、ここにはみんないる。大丈夫だから、何があったのか教えてくれ」
「あ、あ……」
彼女の視線が、俺の手に。そして、俺の方に顔を向け、目が合う。
瞬間。
「いやあああああああああ!!! いやだああああああ!!!」
突如彼女は錯乱し、手足をがむしゃらに振り回す。めちゃくちゃに振り回された手は、壁や椅子、机にぶつかり流血する。当然それは俺にもぶつけられる。
「落ち着けレリィ! 暴れたら危ないから!」
「いやあああ! 触らないでええええ! 触るなあああああ!」
俺は彼女の手を掴んで叫ぶ。
「大丈夫だから! ここにはレリィを傷つける奴はいないから!」
「いやだ! 放して! 触らないでよお! あああああああ!!!」
「レリィ! 俺を信じてくれ! 大丈夫だから!」
「信じられない! 男なんか! 信じられるもんかあああ!!!」
一瞬、その言葉で俺は彼女の手を握る力を緩めてしまった。直後、顔面に少女の拳が叩きつけられる。
俺はそのまま彼女の手を離して、数歩下がる。
レリィは今まで見たこともないような表情を浮かべていた。
怒り、憎しみ、悲しみ、困惑、軽蔑、罪悪感、嫌悪、後悔、恐怖。
すべての負の感情がごちゃまぜになったような、そんな表情をしていた。
「ちょっと、どうしたのよさっきの悲鳴!? ……レリィ? それにソルも、どうしたの?」
後ろからウルの声が聞こえる。でも、何も頭に入ってこない。理解できない。それぐらい、今のはショックだった。
レリィに信じてもらえなかったのが。信じてもらえていなかったのが。
「……ごめんな、レリィ……」
惨めだった。彼女を奴隷から解放して、それですべてが解決していたような気になっていた。そして彼女が自分に心を開いてくれていると、思い上がっていた。
彼女のことを碌に知りもしないで、知った気になって。
彼女が俺を怖がっているなんて、ちょっと考えればわかりそうなものなのに。彼女の言葉に甘え、優しさを利用して、俺は。
「ごめんっ……!」
俺は部屋を駆け出す。この状況で俺がとった行動は、逃避だった。目の前の嫌な現実に、思っていたのと食い違った世界から、逃げ出すことだった。あの頃と同じだった。
情けない。本当に。それも含めて、本当に。
ごめん。
「……それで、おめおめと逃げてきたってのか? 後のこと全部ウルに任せて、ぶん投げてきちゃったのかよ、兄ちゃん」
「……笑いたきゃ笑えよ」
「笑えないよ。あんまりにも意気地なし過ぎて笑えない」
ベッドの上に座る俺を、椅子を揺らしながらあきれ顔で見るウィリアム。騒ぎを聞きつけて起きてきたら、ウルに俺の様子を見に行くように言われたらしい。
俺は鼻血の手当てをしながらウィリアムの言葉に耳を傾ける。
「兄ちゃんは優しすぎんだよ。そんなのガツンと一発叱ってやればいいじゃん」
「ウィリアム。問題はそこじゃないんだよ。そんなに簡単な話じゃない。彼女の……レリィのトラウマに関する部分なんだ。男である俺は、彼女に干渉するべきじゃないんだよ、やっぱ」
俺の反論を黙って聞いていたウィリアムだったが、少し不機嫌そうに目を細める。
「トラウマ云々に関しちゃ、おいらはよく知らねえけどさ。でも、世話してもらってる側なんだから我慢しろよ、っておいらは思うんだけど。我慢ならないなら外に出て一人で生活してみればいいんだよ。食い物と寝床があることのありがたさをちっともわかってねえや」
どうやらウィリアムの不満はレリィに向いているようだ。しかし、それも仕方ないのかもしれない。
ウィリアムからすれば、レリィという存在は話しかけても返答もなく、まったく得体のしれない少女でしかない。しかしそれは彼女が男性恐怖症だからという理由があるのだけど、それすらもウィリアムは最近まで知らされていなかった。
「そう言わないでくれ。レリィのことについては、仕方ないことなんだ。誰だって、ああなるよ。むしろ、今まで正常だったことが異常だったんだ」
「そういうもんかね。そんなことないと思うけどなあ、おいらは。なんていうかさ、あいつからは感じ取れないんだよ」
壁面を睨み付けながら、ウィリアムはもごもごと喋る。
「……何を?」
「……強くなろう、っていう気持ちをさ。別にトラウマ抱えて苦しむことを悪く言うつもりはないよ。むしろ同情するし乗り越えるための協力も惜しまないつもりだ。……けどさあ。兄ちゃんみたいに強くなろうっていう気持ちが感じられないんだよ、あの子からは」
「そんなこと……」
「ないって言いきれるのかい、兄ちゃん? 兄ちゃんの前ではニコニコしてたみたいだけど、それ以外の人とは一切しゃべらないんだぜ? そりゃまあ、おいらは少し乱暴だったし、嫌われててもしょうがないかなとは思ってるけどさ。あいつがまともにしゃべってるところ見たことないぜ、おいら? 男性恐怖症とやらを何とかしようって気持ちがレリィにあるなら、それこそ色々実践しててもいいと思うんだけど。おいらじゃなくとも、ガルドのおっちゃんとかを話し相手にしたりしてさ」
ウィリアムの言うことも、わからなくはない。けど、人には人それぞの感性ってものがある。ウィリアムはレリィの気持ちを全部わかってやることなんてできないし、俺だってそうだろう。レリィの感じ方と、俺たちの感じ方は違う。だから、たとえ同じような経験をしていても、乗り越え方やそれにかかる時間は違う。そういう意味では、簡単に自分の価値観で彼女の本心を推し量るべきじゃないだろう。
「それはウィリアムの考え方であって、あの子はあの子なりに頑張ってるよ」
「ふーん。まあ、兄ちゃんがそういうならそうなんだろうけどさ。なんか、おいらから見ると、わけわかんない子なんだよ。なんも話してくれねえし。まともにかわした会話も、最初の頃の言い合いの時だけだし。あの時は芯の通った強い女だなと思ったんだけどさあ……」
そうなのだ。本来であれば、彼女は強い子だ。
お世辞でも過剰評価でもなく、彼女は強い。自分自身のトラウマを乗り越えることができないでいるのに、俺のトラウマを軽くするために尽くしてくれた。
誰かのために、何かしてやりたいと思える、優しい子なんだ。なのに……俺が男だったばっかりに……。
「……ん? ……そうか!」
「どうした、兄ちゃん。なんかひらめいたのか?」
「……ああ、閃いた。必殺の名案をな」
「必殺でどうするんだよ。……で、その名案ってのは?」
俺はベッドから立ち上がり、ウィリアムに宣言する。
「俺が女になればいいんだ!」
「……え」
「だってそうだろう? レリィは男だから怖い。なら、俺がもし女だったら彼女に怖がられずに、そばにいてあげることができるはずだ。どうだ、名案だろ?」
俺はウィリアムに嬉々としてその案を語る。が、ウィリアムはため息をついて頭を抱えるだけだった。
「どうした?」
「どうしたじゃないよ、いろいろ突っ込みどころはあるけど、どうやって女になるつもりなのさ? 女装しただけでなんとかなるとは思えないんだけど」
「どうやって、って切るに決まってるだろ」
「……は?」
「あーでも切るのに良い場所がないか。風呂場で切ったら悲惨なことになるし……」
「待て待て待て待て! まって! 兄ちゃんお願いだから待って!」
抜身のナイフを持ってトイレに向かおうとする俺を、ウィリアムががっしりと抱き付いて止める。
「早まるな兄ちゃん! それだけはだめだ! やばいって絶対! 後悔するって!」
「ええい、放せウィリアム! 俺は『姉ちゃん』になるんだ! 後悔なんてあるものか!」
「イカレてんじゃねえのか!? 落ち着けってばあー!」
ウィリアムの体からは想像もできないような怪力で俺は押さえつけられる。どうして邪魔をするんだよ!
「なんでダメなんだ!」
「よくわからないけど、絶対だめだ! おいら明日から兄ちゃんのこと、姉ちゃんとか呼びたくない! とにかくだめったらだめだ!」
不毛な言い争いは長いこと続き、それはガルドが仕事から帰ってくるまで続いた。
帰ってきたガルドに、俺は思いっきりぶん殴られたけど。