第1話 起きない父と眠らない線香
一本の線香の存在が、私の中の常識を全否定する。
一年経っても燃え尽きることのなかったその線香は、
まるでパパを失った私達の時間を奪うように、静かに煙を揺らしていた。
始まりは一年前――
私が小学五年生の冬休み明け。
学校から帰り、リビングへ入った私は、いつものように声をかけた。
「パパ、ただいま」
返事はなかった。
パパは夜仕事することも多くて、昼間に寝ている姿は、珍しくなかった。
だからその日も疲れて寝ているんだ、と思っただけだった。
私はランドセルを置き、宿題を始めた。
しばらくして玄関の扉が開いた。
帰ってきたのは小学一年生の弟、はるま君だった。
「パパ!パパ!起きて!約束のゲームしよう!」
はるま君は、いつものようにパパへ飛びついた。
何度も体を揺する。
私はため息をついて言った。
「疲れて寝てるんだから、やめてあげなよ」
それでもはるま君は辞めない。
「いや~だ~、昨日約束したもん!」
その瞬間だった。
パパの体が。
ソファから――。
ずるり、と滑り落ちた。
「……え?」
パパは、まったく動かなかった。
嫌な予感なんて言葉じゃ足りない。
胸の奥が一瞬で冷たくなり、耳の奥で自分の心臓の音だけが響いた。
息ができなくなる。
「パパ!」
「パパ! 起きて!」
「起きてよ!起きてよ!」
私とはるま君は、必死に体を揺すった。
名前を呼んだ。
何度も。
何度も。
パパの体を激しく揺する。
でも、返事はなかった。
いつの間に帰宅していたママが、リビングに駆け込んできた。
すぐに救急車を呼ぶ。
家の中は、突然慌ただしくなった。
でも、私たちにできることはなかった。
ただ泣き叫ぶことしかできなかった。
泣きながら、私は救急車へ乗り込んだ。
検査した医者が言うには、パパの心臓は止まっていた。
脳波は正常、血液も循環している。
心電図や心音、心臓の動きだけが確認出来ない。
医者たちも理解できなかったらしい。
「ありえない……」
それだけを繰り返していたのを覚えている。
帰宅した私は、ふと何かに引かれるように、仏壇を見た。
煙を上げる線香を見て、パパが祈っていたのかなと思い消そうとした。
しかしそれは何度消そうとしても、何事もなかったように白い煙を上げ続けた。
誰が何をしても消えない。折ることも出来ない線香は、
この世界に存在してはいけないものに思える。
風を送っても。
水をかけても。
土に埋めても。
火の中へ投げ込んでみても。
魔法も超能力も存在しない世界で、
そこにあり続けることが、
この世界の絶対的な法則だとでも言うように煙を上げ続けた。
そんな異常な存在感を放つ線香は、
いつしか当たり前のように、この家に溶け込んでいった。
そして今、六年生になった私はリビングで、動画を眺めながら朝ご飯を食べていた。
「行ってきま~す」
はるま君が気怠そうにランドセルを背負い先に家を出る。
夜は誰よりも早く寝るのに、朝はいつもしんどそうだ。
「ゆうな!」
突然、ママの怒鳴り声が響く。
「いつまで食べてるの!」
ママの怒鳴り声に飛び上がり、慌ててランドセルを背負う。
仏壇の線香に手を合わせる。
なぜ線香に手を合わせるのか。
何か宿っていると思っているのか。
何か感じているのか。わからない。
でもママも私もはるま君も、なぜか必ずこれをする。
「行ってきます!」
あれから一度も目を覚まさないパパにそう声をかける。
パパがどうして目を覚まさないのかは、今でも誰にも分かっていない。
そして勢いよく家を飛び出し走る。
これが、私のモーニングルーティンだ。
いきなり背中を押されて転んだ。
「アホゆうな~遅刻すんぞ~」
いつもからかってくる男子だ。
ほんと子供なんだから。
「しおりん、おはよー!」
三年生の頃からの親友、しおりんに声をかけ、一緒に学校へ向かう。
「ゆうなちゃん!膝から血が出てるよ!」
そう言いながらしおりんが絆創膏を張ってくれる。
いつも世話を焼いてくれてお姉ちゃんみたいだ。
「またやられたの?私が言ってあげるね!」
「大丈夫だよ~。本当に困ったら自分でやり返すよ~」
それからたわいもない話をして校門をくぐる。
そこで同級生に殴られるはるま君を見かけた。
はるま君が殴られる瞬間、胸の奥が凍った。
次の瞬間、私は駆け出していた。
「やめなさい!」
飛び蹴りを食らわせると、悪ガキは校門前で派手に転んだ。
頭をぶつけた相手を見る余裕なんてなかった。
怒りで、自分でも止められなくなっていた。
そのまま馬乗りになって、平手打ちを繰り出す。
手を振り上げた瞬間、パパの顔が脳裏に浮かんだ。
一瞬躊躇したが怒りが勝ってしまった。
泣いてる相手を殴るなんて最低だって思う人もいるだろう。
でも、私の弟を殴るような奴なら話は別だ。
「ゆうなちゃん、やめて! やめて!」
しおりんとはるま君に腕をつかまれ、ようやく引き剥がされる。
「次に見つけたら、ぶっ飛ばしてやる!」
「ゆうなちゃん! 冷静に! そんなこと言っちゃダメ!」
しおりんに怒られ、ようやく頭が冷えた。
またやってしまった。
「あんたがやり返さないからでしょうが!」
胸の奥に渦巻く怒りを、はるま君にぶつけてしまった。
殴られても蹴られてもやり返さないはるま君に、苛立っていたのも事実だ。
でも言い過ぎだ、悪いのははるま君じゃない。
はるま君は一瞬だけ私を見る。
何か言いたそうな顔をした。
でも、すぐに目をそらした。
「……別に」とつぶやくと、一人で歩いていった。
私の記憶の中のはるま君は、すぐ手が出る乱暴者だった。
だからこそ、友達に好き放題やられている今の姿が、どうしても気に食わなかった。
ママや私を殴ろうとしては、パパに怒られて泣いていた。
手がかかる弟だったけれど、それでも今みたいに黙って殴られる子じゃなかった。
あの頃のはるま君は、どこへ行ってしまったんだろう。
教室に入るなり、
「おはよ~!」
元気よくあいさつしながらランドセルを開けた瞬間、
しまった!ふでばこがない……。
はるま君に借りようと、二年生の教室へ向かった。
はるま君の教室の前に差し掛かったところではるま君の怒鳴り声が聞こえる。
「なんでお前にやらなきゃいけないんだよ!」
「やり返しもできねぇ弱虫が逆らうのか?」
同級生がはるま君の胸ぐらをつかんだ。
でもはるま君はひるまない。
明らかに同級生の方が威圧されている。
止めに入ろうとして、思わず息をのんだ。
「俺は人を殴らね~だけでお前が怖いわけでもいいなりになってるわけでもね~ぞ」
とはるま君が詰め寄る。
教室が静まり返る。
怖いとかじゃない。
空気が震えてる。
喉が焼けるように熱い。
毛が逆立つような圧に、ゲームに出てきた死の呪文を思い浮かべた。
相手もその眼光に気圧されたのか、
それ以上は何も言わず、その場で座り込んだ。
昔のはるま君が少しだけ戻ってきた気がして、私は嬉しくなった。
ん? 弟が乱暴者で嬉しいなんて、おかしいか。
自分でそう思って、思わず笑ってしまう。
それにしてもすごい迫力だった。
あんな目をしたはるま君を、私は見たことがなかった。
殴らないだけで、変わったわけじゃなかった。
私は、はるま君のことを何も知らないのかもしれない。
そのことが妙に気になったまま、自分の教室へ戻った。
授業が始まり、名前を書こうとして――
「……あ」
筆箱のこと忘れてた~!
「また忘れたのか」と苦笑しながら先生に鉛筆を貸してもらう。
はるま君はいつもパパに暴力は駄目だって怒られてた。
それでもはるま君はかっとなるとすぐ殴る子だったんだ。
暴力をふるわなくなったのは、あの日からだったのかもしれない。
そういえば、夜更かししなくなったのもあの日からだったかもしれない。
帰宅すると、いつものように線香に手を合わせる。
パパへ「ただいま」を言って、今日のはるま君の様子をパパに話し始めた。
はるま君が殴られても殴り返さないこと。
「殴らない」と決めたこと。
でも、弱くなったわけじゃないこと。
言い返すことはちゃんとできること。
今日あったことを、思い出せる限り全部話した。
「また暴力をふるってしまったんだ」
「暴力ふるう子になっちゃったよ。パパ怒るかな?」
はるま君に「暴力は駄目だ」と諭すパパを毎日見ていたのに、私は悪い子だ。
「悪い子だけど…後悔はしてないよ。はるま君は私が守るんだ」
パパには内緒ごとはしないと約束してたから、私はなんでも話した。
「ねえパパ、これ覚えてる?パパと一緒にクレーンゲームで取ったキーホルダー。
学校行くの嫌だったけど、これをお守りに学校行けるようになったんだ」
涙がキーホルダーに落ちた。
「……パパ」
呼んでも返事はない。
分かっている。
分かっているのに。
「パパ……」
涙は、止まらなかった。
気が付くとはるま君が隣で立っていた。
涙を流しながらパパを見つめている。
ああ、はるま君も戦ってるんだ。
姉弟仲良く支えあっていたつもりだったけど、
パパのいない日々を孤独に戦っている。
私はパパの首に掛かってる胸元のお守りに手を伸ばした。
「パパと一緒に祈ってた頃のこと覚えてる?」
私がそう言うと、はるま君は小さくつぶやいた。
「父さん?」
はるま君の声に反応するように、
かすかに線香の煙が脈を打った。
まるで――
止まっていた時が動き出したように思えた。




