後編
三曲ほど歌えば、あとの時間はフリーになる。たまに続けて歌わされることがあるが、今日はそんな雰囲気ではなさそうだ。
四肢のラインをはっきりと見せる漆黒のカクテルドレス。その上に絹のショールを肩に羽織り、彼女はステージから降りる。常連客に愛想を振りまきながら、彼女はカウンター席に進む。バーにはまだ縁遠そうな年頃の少女がそこに座っていた。
頬を膨らます少女の隣に彼女は腰掛けた。顔にかかったアッシュグレイの髪を手でのけながら。
「可愛い顔が台無しよ、リトルロゼ?」
女性にしては低めなハスキーボイスが、赤いルージュが塗られた唇から流された。
リトルロゼは横目で彼女を見て、カウンターに顎を置く。
「だってぇ、マスターがお酒はまだ早いって言うんだもん」
拗ねた姿は普通の子供に変わりない。その様子を微笑ましく思いながら、歌姫はリトルロゼの背を撫でた。
「そうね、一人前のレディだったらこんなお行儀の悪い姿勢で座らないと思うわよ?」
途端にリトルロゼの背中が跳ねるように伸びる。クスクスと声に出して笑えば、少女は赤い顔でこちらを向いた。
「モーガンまで。もうっ、こう見えても私は十八歳なんだからね!」
「あら。もうそんなに経つのね。私も年を取ったわ」
そういうモーガンの容姿は衰えておらず、逆にリトルロゼと出会った当初よりも女の色気が増している。それを愛想と化粧の腕が上達しただけだ、とモーガン自身は思っている。
逆に、四年前から変わらずに強い感情を持ち続けるリトルロゼこそが、彼女は羨ましく思う。
そんなモーガンの思いなど知らずか、リトルロゼはカウンターに差し出されたナッツの詰め合わせをほお張っている。まるでリスだ。吸血鬼である彼女は新鮮な血液以外は食糧にはならない。なので今、腹に収めているナッツ類は後で吐き出すことになる。勿体ないと思うが、それを止める権利はモーガンにはない。お互いにそこまで踏み込んだ関係ではないからだ。
モーガンはアルコール低めのカクテルを頼む。バーテンダーが踊るようにシェイカーを振るう。
「今日はお食事はしないの?」
食事は吸血行為のことだ。モーガンはモンド経由にリトルロゼにあてがわれた餌である。
リトルロゼがモーガンの勤めるバーにやってくるのは、大体が食事目的だ。極たまに、別件で来たりもするが。
今夜のリトルロゼはモーガンの申し出に首を振った。
「ちょっとモーガンに聞きたいことがあるの」
そうしてリトルロゼは詩を諳んじた。喧騒まみれたバーの中でも、少女の声はモーガンの耳にきちんと届いた。
「モンドも洒落たこと言うわね」
「だってモンドさまですから」
自分のことのように、リトルロゼは薄い胸を張った。相変わらずこの忠誠心の深さにモーガンは敬服する。彼女にとって親鳥であるモンドこそがこの世の全てなのだ。
「モーガンは、この答えって何だと思う?」
硝子珠のような大きな目を向け、リトルロゼは首を傾げた。その目と、同じ色のラピッド・アイを一口だけ含むとモーガンはリトルロゼの方に体を向けた。
「ねぇ、リトルロゼ。もし、誰かがモンドを譲ってくれと言ったらどうする?」
「絶対いや!」
瞬時にリトルロゼは答えた。モーガンは質問を続ける。
「じゃあ、モンドよりも綺麗な人が貴女の前に現れたら、貴女はどうする?」
「モンドさまよりも綺麗な人なんていないよ」
あくまでまっすぐにリトルロゼは答えた。その顔に迷いの色など無い。そのことをモーガンはしっかりと確認してから、言った。
「だったら、それが【答え】なんじゃないかしら」
* * *
急がなければ。タイムリミットまでもう少しだ。
すっかり薄まった夜風を切りながら、リトルロゼは疾走する。
駆け足なら、幼い頃から誰にも負けたことは無い。このままのスピードなら、なんとか間に合いそうだ。安堵の笑みを浮かべた時、リトルロゼの顔に何かがぶつかった。続いて、尻に痛みが走る。
「いっつ……」
「だ、大丈夫か」
すぐに手がさし伸ばされた。その手を掴み、リトルロゼは立ち上がる。骨ばっていて大きな手だ。故郷の長兄の手に似ていた。
「痛いところはない?」
おしりが痛いです、と素直には言えずリトルロゼは首を振る。
すると、大きな手の主は安心したのか目を細めた。その表情が彼のくすんだブロンドの髪と重なって、まるで大型犬みたいだとリトルロゼは思った。
「こんな遅い時間に出ていたら危ないよ」
「ごめんなさい。すぐに帰りますので」
リトルロゼの正体を知らない青年は、心配そうな目を彼女に向けている。
しばし沈黙した後、彼は膝を屈めてリトルロゼに目線を合わせる。
「良かったら家まで送っていこうか?」
有り難い申し出だったが、リトルロゼは首を振った。彼が悪人では無いことは、その人の良さそうな外見で分かる。
だが、夜明けまであと少しまで差し迫っている。朝日は吸血鬼にとって猛毒だ。のんびりしていたら、二度とモンドに会えなくなってしまう。
「ここからすぐ近くなので、大丈夫です」
「本当かい? でも……」
リトルロゼは精一杯の笑顔を浮かべて、青年の手を握る。
「お気持ちだけで十分ですよ! 本当に大丈夫ですので」
青年は少し困った様子だったが、納得したのかリトルロゼの手を離した。それでも目線はリトルロゼに合わせたままだ。
「気をつけるんだよ。何かあったら、大声を出すんだよ?」
「はーい!」
威勢の良い返事を残して、リトルロゼは夜の街を再び走り始めた。
青年はその後ろ姿を見守っていたが、やがて見えなくなるとすぐ近くの建物に向かって足を進める。
手には大きなトランクケース。
目指す先は、古ぼけた教会。
錆付いた屋根の上の鐘が、月明かりを浴びて鈍く光っていた。
* * *
寝室の扉を開けると、モンドが薄く笑って出迎えてくれた。
「おかえり、僕のリトルロゼ。答えは持ってきたかい?」
「はい!」
天幕付きの豪華なベッドの端でモンドは腰掛けていた。その前までリトルロゼは歩を進める。
「では、答えあわせだ。リトルロゼ。それは夜空に輝く星に勝るもの。詩人が込めた言の葉よりも重いもの。どんなに高く積まれた現金よりも尊いもの」
リトルロゼはその先の文章を紡いだ。
「そして、誰もが欲しがるもの。例え口ではどんなに否定していても──」
「それは──何?」
手を伸ばせば触れれる距離まで二人は近づいた。お互いの表情がここでなら、はっきりと分かる。
両手を祈りの形に組み、リトルロゼは答えた。
「それは、愛です。モンドさま」
ピクリとモンドの細い眉が動いた。かまわずリトルロゼは続けた。
「愛は何よりも耐え難いものです。どんな宝石や言葉よりも。例え神さまに禁じられたものだとしても」
モンドは何も言わない。息をすることすら、忘れてしまったかのように。彫刻のようにたたずむ彼を、リトルロゼは信心深い信者のように見つめた。
「だって、愛する気持ちは誰もが求めているものなのですから」
沈黙が訪れる。
十秒──、一分──、さすがに三分が過ぎるとリトルロゼは不安になる。
もしかしたら、間違っていたのか?
肩を落とすリトルロゼの耳に、モンドの息が漏れる音が聞こえた。音はだんだん大きくなり、やがて笑い声へと変化する。ついには彼は腹を抱えんばかりに笑い立てる。
「モ、モンドさま?」
リトルロゼが知る中で、ここまでモンドが笑ったのは初めてだ。
一体、どうしたのだろうか。
「やっぱり君って、最高だね!」
そう言うなり、モンドはリトルロゼを抱き寄せた。突然の出来事だったため、リトルロゼは小さく悲鳴を上げてしまった。もう動かないはずの心臓が跳ねたような錯覚まで覚えてしまったほどだ。
そんなリトルロゼをモンドは強く強く抱きしめた。額にかかった亜麻色の髪を払い、そこに音を立てて口付けをする。
「僕が思ってた以上におもしろい答えを持ってきたね!」
熱い抱擁にくらくらしながらも、リトルロゼは疑問を口に出す。
「え……えーと、それはさっきのが不正解ってことですか?」
「いや、正解でいいよ。あー、可笑しい。こんなに笑ったのは久しぶりだ」
モンドの口ぶりからすると、どうやら彼が想定していた回答とは違ったようだ。
でも、まぁいいか。愛する人がこんなにも喜んでくれたのだから。
口づけされた個所をリトルロゼはそっと押さえた。その部分だけが熱をこもったかのような錯覚がする。
「ボーナスも貰っちゃったし」
「ん、何か言った?」
首を振って、リトルロゼはモンドの背に手を伸ばす。小さな腕だと彼を包みきれない。それが少し悔しい。
「さて、もう夜明けだね。今日はもう休もう」
「はい、モンドさま」
ベッドの天幕をまとめていた紐を外す。わずかな風を立て、ベッドの中は外界から遮断された。
広いシルクのベッドの上を、二人で横になる。モンドの柔らかい手が、慈しむようにリトルロゼの頬を撫でる。リトルロゼはその感触を逃さないよう、しっかりと目を閉じる。何度も頬を撫でられているうちに、じわじわと睡魔が襲ってくる。
眠りに落ちるその瞬間、リトルロゼの耳元でモンドがささやいた。
「おやすみ、僕のリトルロゼ──」
夜明けを告げる教会の鐘の音が、遠い空の向こうで響いた。
* * *
愛する父に抱かれながら、少女は瞼を落とす。
柑橘系の香水は、父のお気に入りだ。
華奢な胸に低い鼻を擦らせて、少女は眠りに落ちる。
闇は消え去り、光が世界を照らす。少女がもう二度と見ることの無い風景がやってくる。
だが、彼女の顔に後悔の色は無い。
愛する人と生きる世界こそが、彼女にとって美しくも輝かしい人生に違いないのだから。
【了】
昔書いた吸血鬼ものです。
いくつか書き上げているので、少し手直しをしてUPしていこうと思っています。書き切れなかった設定もあるので、それも今後話にしていきたいです。
最後まで読んでくださってありがとうございました。