落下
終わりだった。
空は血を流したように赤く染まり、その裂け目からは巨大なプリズムが幾重にも浮かんでいる。
大地は悲鳴を上げるように波打ち、城壁は崩れ、黒雲の間を埋め尽くす無数のワイバーンが空を覆い尽くしていた。
その中心。宙に浮かび、腕を組んだ一人の男が世界を見下ろしている。
圧倒的な魔力。絶望そのものを形にしたような存在。
男の前には、何千もの重騎兵と術師たちが最後の防衛線を築いていた。誰もが理解している。もう勝てない、と。
男が、ゆっくりと手を上げた。
空のプリズムが一斉に輝きを増す。
世界が砕かれる、まさにその瞬間――。
「どいてどいてどいてぇぇぇぇぇぇっ!!」
場違いな悲鳴が響き渡った。
全員が反射的に空を見上げる。空間に開いた光の扉から、一人の少女が猛烈な勢いで落下してきていた。
「止まれないぃぃぃぃ!!」
少女はそのまま、世界を滅ぼしかねない超巨大プリズムへ一直線に激突した。
空気を揺らす猛烈な轟音。
そして――パリン。
術師たちが数百年かけても傷一つつけられなかった破滅の結晶が、まるで安物のガラス細工のように砕け散った。
「え?」
誰かが呆然と声を漏らす。
少女は勢いを殺せないまま、次のプリズムへと飛び移っていった。
パリン。パリン。パリン。
水切り石のように空中を弾け跳ぶたび、破滅の結晶が次々と崩壊していく。
「止まってぇぇぇぇぇ!!」
半泣きなのは、世界を救っている本人だけだった。
ここで初めて、空に浮かぶ男の表情が動く。
「……何者だ」
直後、空を埋め尽くしていたワイバーンの群れが一斉に少女へ襲い掛かった。
「ええええ!? 蛇!? トカゲ!? いやぁぁぁぁぁ!!」
顔を蒼白にした少女は、ただ無我夢中で手にした杖をぶんぶん振り回した。
それだけだった。
たったそれだけで、迫っていた数百、数千のワイバーンたちが肉片となって空中ですべて四散した。黒い雨となって地上へ降り注ぐ。
静寂。
敵も味方も、誰一人として目の前の状況を理解できなかった。少女本人ですら理解していない。
「ひぃぃ……なんで追いかけてくるのぉ……」
涙目で空を逃げ回る少女は、ついに宙に浮かぶ男の真正面へと飛び出してしまった。
世界を終わらせる魔王。全ての元凶。絶望の化身。
男が無言で手を伸ばす。空間が軋み、大陸すら消し飛ばす極大魔法が発動しようとした、その瞬間――。
「なななな何!? 怖いぃぃぃ!!」
ドガーン、と天を裂く白雷が男を撃ち抜いた。
直撃。一瞬で黒焦げになった世界最強の魔王は、そのままポトリと地上へ落下していった。
沈黙。少女は呆然とその落下を見送る。
「……助かった?」
誰も答えなかった。答えられる者がいなかった。
少女が地上へ着地する。その瞬間、世界が静止した。
気付けば大地が一直線に裂け、地平線の彼方まで巨大な亀裂が走っていた。違う。裂けたのは大地ではない。惑星そのものだ。世界が二つに割れていた。
海が裂け目に落ち、山脈が崩れ、重力が狂って全員の体が宙に浮く。
誰もが死を悟った。その崩壊の真ん中で、少女は軽やかに言った。
「やばっ」
次の瞬間。
全てが、何事もなかったかのように元に戻った。割れた大地も、崩れた山も、狂った空も、死んだはずの生物すらも。
「……あ。やっちゃった」
静寂。少女は周囲の視線に気付く。
何千人もの兵士、何百人もの術師。全員が口をぽかんと開けて彼女を見ていた。
少女の顔から一気に血の気が引く。一歩、また一歩と下がる。どう見ても不審者だった。
「ご、ごきげんよろ、よろしゅう……皆さん。い、いい天気ですね」
空はまだ真っ赤だった。
「ああっマズイ!」
次の瞬間には、少女は脱兎のごとく走り出していた。
「ちょっと待て!」「女神様!」「天使様はどちらへ!」
「なんで追ってくるんですかー!!」
少女の後ろから、数千の軍勢が目を輝かせて追いかけてくる。
その光景を、崩れた防衛線の後方から爆裂団の男が呆然と眺めていた。
「……おい、誰か説明してくれ」
「説明できる者がいれば、とっくにしている」
老軍師が力なく答える。
「なんか全員、顔色悪くないか?」
「お前も見ただろう。空が、大地が、世界が……」
声が重なり、もはや収拾がつかない。爆裂団の男はしばらく困惑したように群衆を眺め、それから猛スピードで遠ざかっていく少女の背中を見つめた。
「女神様ぁぁぁ!」
「なんでぇぇ!」
振り返った少女は、全員が狂信的な笑顔でついてきているのを見て悲鳴を上げた。
必死で走り続け、やがて地形が変わる。荒野が終わり、眼下に深い霧が立ち込める断崖が現れた。少女は崖の手前でギリギリ立ち止まる。
「よかった……ここまでは来ないはず――」
「「「女神様がお立ちになった!!」」」
地鳴りのようなどよめきが迫ってくる。
「崖か」「崖だ」「あれはきっと……」「導きに違いない!」「我が身を捧げ――」
「ダメだダメだダメだダメだ!!」
少女が振り返った瞬間、兵士たちが迷いのない晴れやかな顔で、次々と崖下へダイブを始めていた。
「やめてぇぇぇぇ――!!」




