第101話 顧問の天職
政策会議から三日後の朝。ユアンは厨房で味噌汁を仕込んでいた。
ゼクスがカウンターに座り、テオバルトが焼き魚をつまみ、ヴェルナーがおかわりを待っている。いつもの光景だ。ユアンは椀を並べながら、今日の予定を頭の中で整理していた。午前は医療区画の視察。午後は地方評議会の設計会議。夕方からは教育制度の詰め。やることは山ほどある。
そこへ、ベリルが厨房に入ってきた。手に羊皮紙の束を持ち、眼鏡の奥の目が少しだけ申し訳なさそうに揺れている。その表情を、ユアンはもう覚えていた。何か言いにくいことを頼む時の顔だ。
「ユアン。少し、いいか」
「ああ。ちょうど味噌汁ができたところだ。飲むか」
「……もらおう」
ベリルは椀を受け取り、一口すする。それから、意を決したように口を開いた。
「すまない。また、地方の巡回を頼みたい」
厨房が、しんと静まり返った。ゼクスの箸が止まり、テオバルトが顔を上げ、ヴェルナーが椀を持ったまま固まっている。ユアンは、味噌汁の鍋を火から下ろしながら、静かに聞き返した。
「また、というと」
「前回の巡回で、各地の問題は見えてきた。だが、まだ手が届いていない地域がある。北の山間、東の離島、南の湿原。そこには、リリスノアの名前すら届いていない。聖遺物の残存も確認されている。……お前でなければ、対処できない」
「なるほどな」
「本来なら、統括顧問として国に残るべきだ。お前の役職は、もう現場の人間じゃない。だが」
「ベリル。俺は構わない」
ユアンは、あっさりと言った。ベリルが、少しだけ面食らった顔をする。
「……いいのか。お前は、国の仕事も抱えているんだぞ」
「ああ。でも、俺の天職は治癒だ。偉くなっても、そこは変わらない。それに、地方を回ることで見えてくることもある。前回の巡回で、どれだけ多くの問題を発見できたか。国政に反映できたか。現場を見ることは、国の仕事にも繋がる」
「……お前は、本当に」
「それに、巡回の間の国政なら、お前とゲンマとドルガで回せるだろ。俺の意見が必要な時は、念話で連絡くれればいい。医療区画の運営は、ルーチェが育成したスタッフがいる。教育制度の詰めは、エルナが手伝ってくれる。……俺がいなくても、国は回る」
「お前、自分の重要性を、もっと自覚しろ」
ベリルは、深いため息をついた。だが、その口元は、わずかに緩んでいた。
「わかった。では、巡回を命じる。期間は、三ヶ月。行く先は、ベリルがルートを組む。……エルナ、ルーチェ、フィアも、同行しろ。これは命令だ」
「「「はい!」」」
三人の返事が、厨房の外から聞こえた。いつの間にか、エルナ、ルーチェ、フィアが入り口に立っていた。どうやら、話を聞いていたらしい。
「お前たち、いつから」
「最初からにゃ。ベリル様が厨房に入ってきた時から、ずっと聞いてたにゃ」
「フィアさん、声が大きいですよ。……でも、まあ、聞こえていました」
「私も、当然同行するわ。ユアン一人で巡回なんて、危なっかしくて見てられない」
「お前たちな」
ユアンは、苦笑いを浮かべた。だが、その顔には、確かな安堵があった。三人がいてくれる。それだけで、どんな旅も怖くない。
「わかった。じゃあ、準備をしよう。三ヶ月分の荷物と、各地への手配。それから、医療区画のスタッフへの引き継ぎ。やることは山ほどある」
「手伝うわ」
「私もです」
「あたしは、ルートの確認をしてくるにゃ。ベリル様、地図を貸してほしいにゃ」
「ああ。これだ」
ベリルが羊皮紙を渡す。フィアは、猫耳を立てて、真剣に地図を覗き込んだ。
「にゃー。北の山間、東の離島、南の湿原。けっこう、遠いところばかりにゃ」
「だからこそ、お前たちの力が必要だ。……ユアン。一つだけ、忠告だ」
「なんだ」
「今回は、前回よりも長期の巡回になる。途中で、各国の情勢も変わるかもしれない。何かあれば、すぐに連絡しろ。……そして、無理はするな。お前が倒れれば、この国は終わる」
「わかってる。でも、ベリル。俺は一人じゃない。エルナも、ルーチェも、フィアもいる。それに、テオバルトさんも、今回は同行してくれるって言ってた」
「……そうか。なら、安心だな」
ベリルは、そう言って、厨房を出ていった。ユアンは、残った味噌汁を椀に注ぎ、四人分の朝食を用意する。
「さあ、食べよう。今日も、忙しくなるぞ」
「「「おー!」」」
四人は、厨房のテーブルを囲んだ。ゼクスも、テオバルトも、ヴェルナーも、それぞれの席で朝食を取っている。いつもの光景だ。だが、ユアンは思った。この日常が、もうすぐ旅立つ。三ヶ月の巡回。その間、この厨房に立つことも、ゼクスに味噌汁を出すことも、しばらくはない。
「ゼクス。しばらく、味噌汁、飲めないな」
「……ああ」
「ちゃんと、誰かに作り方を教えておくよ。お前のことだから、俺がいないと味噌汁を飲まないだろ」
「……うるさい」
ゼクスは、椀を置き、そっぽを向いた。だが、その耳は、少しだけ赤かった。
「テオバルトさん。旅の準備、頼めるか」
「ああ。老骨に鞭打って、お前たちの護衛を務めよう」
「ヴェルナー。お前は、城に残って、医療区画の警備を頼む。フィアが抜ける分、人手が足りなくなる」
「わかりました。必ず、城を守ります」
「ありがとう。……さあ、行こうか」
ユアンは立ち上がった。三人も、それに続く。厨房の外は、快晴だった。城門の向こうに、広い空が広がっている。三ヶ月の巡回。癒やすべき人は、まだまだたくさんいる。それは、張り合いのあることだった。
(俺は、回復術師だ。偉くなっても、それは変わらない。誰かを癒やす。それが、俺の天職。……さあ、行こう。仲間と一緒に)
ユアンは、力強く歩き出した。その背中を、エルナ、ルーチェ、フィアが追いかける。テオバルトも、その後ろに続いた。
新しい巡回が、始まろうとしていた。




