32 『宿と剣』
外の光は見えないが、もう夕方になっている。
クコの持っている懐中時計、《世界樹ノ羅針盤》で時間を確認した。
もう夕方の五時半だった。
この懐中時計は魔法道具であり、懐中時計と羅針盤の機能を有する。磁場が乱れているわけではないが、この迷宮で羅針盤は役に立たない。ここでは時間さえわかればいい。
「今日は出発が早かったし、そろそろ休息しよう」
シャハルバードがそう言って、サツキたちはこの日の活動を休止した。
サツキは尋ねた。
「進捗はどうですか?」
「すでにだいぶ進んでる。明日の朝早くに出れば、二時間としないでラドリフ神殿に着くだろう」
「二時間ですか。ありがとうございます」
「シャハルバードさんがそう言うなら間違いないな。さすがはシャハルバードさんだよ」
と、クリフが腕組みしてうなずく。
「では、今日はしっかり休まないといけませんね」
クコがにこやかに声をかけるだけで、空気が明るくなる。こうして早めに休むことで、もし騎士たちが休まずやってきて追いついても、こちらは戦う体力満タンで臨める。
休憩するタイミングとしてはベストだ。
あとは、このあと食事を取って、二十二時から睡眠時間とし、それ以降を二時間ごとに各組が見張りをすることとした。サツキとクコが最初の二時間、零時から二時をシャハルバード、二時から四時をナディラザードとクリフ、四時から六時をルカとフウサイ、そんな割り振りである。
明日は早朝六時に起床し、三十分後には出発予定とした。
この日の夕刻。
ミナトは休みなく馬を走らせた末、とある小村にたどり着いた。
木々の茂る、小さなオアシスを抱えた村である。
ずっとまっすぐ一本道であった。そのためメイルパルト王国を抜けるまでは迷うことはない。
スラズ運河を越える手前に、この小村はある。メイルパルト王国の国境にほど近い街や村はあと二つしかなく、この小村で見つからなければ、ケイトに出会える可能性がいよいよ低くなる。
サツキの言っていた街だろうか。
街並みを見て歩く。
そう簡単にケイトが街を歩いているとも思えないが、見逃さないように気をつける。しかし見つからない。馬が頑張って走ってくれていたとしても、まだ追いついていないかもしれない。
宿の前を通りかかる。
「ミナトさん。どうも」
そこで、声をかけられた。
名前を呼ぶ声。
当然、ミナトの顔と名前を知っている人物である。
それがだれなのか。
考えるまでもなく、ミナトにはすぐわかった。
ケイトである。夕日に照らされた顔を向けてみて、彼がケイト本人だとミナトは確認した。手紙まで書き置きながら自ら呼び止める姿はスマートでケイトらしさがあった。往生際の悪さがまるでない。
「これは、ケイトさん。ここにいらしたとは」
穏やかな面持ちで、ケイトはミナトを見つめる。
「やはり、やってきたのはミナトさんでしたね」
「ええ。局長殿から拝命されたんです」
「さすがはサツキさん、手回しが早い」
「さて、どこへ行きましょう?」
「はて、どこ?」
ケイトには、ミナトの言わんとするところがわからなかった。今から自分は斬られるはずではないか、それがどうしていっしょに旅に出ようという調子なのか、ケイトは困惑するとともに、目の前の少年がやっぱり不思議な少年に思えた。
「晴和王国は、ステキなところですよ。僕に知人は少ないですが、武賀ノ国と建海ノ国には友人と言ってよい人たちがいます。天都ノ宮へゆけばいくらでも仕事があるし暮らしには困りません。晴和の四季の変化などは見事なものです。毎年見ていても飽きない」
「ああ」
と、ケイトにもやっとミナトの意図がわかった。この少年は、自分を逃がそうとしているのだな、と。
ケイトは夕暮れに染まる空を見上げた。
「ミナトさん、アルブレア王国に行ったことはありますか?」
「いいえ。今回の旅が、初めての海の外です」
「ボクの故郷であるアルブレア王国の夕日はね、こんなに大きくなかったような気がするんですよ」
「はあ」
「気持ちの問題もあるのかな。心が小さくなっている……」
急に話題が変わったような会話になったが、ミナトには、なんとなくもう、ケイトの意志がわかってしまった。
――この人は、覚悟を決めてしまわれた。
描いていた希望は、砂上の楼閣だったらしい。
ミナトは宿へ視線を移す。
「雰囲気のいい宿ですね。今夜は泊まりましょう」
ケイトは驚く。
「ミナトさんは、いいのですか?」
「ええ。僕が局長たちと合流するのは、タルサ共和国ということになっています」
「そうですか」
あまりに自然体で昨日とまるで変わらぬ接し方をする不思議な少年を前に、ケイトはふと聞いた。
「剣のことは、聞かないのですか?」
「失念していました。見ませんでしたか」
とぼけ方に愛嬌があって、ケイトはおかしくなってきた。見たもなにも、盗んだのは自分なのだし、知らないはずがないではないか。
「宿にあります」
「ありがとうございます」
「いいえ」
本当は、ケイトは剣を盗んだあと、どこかへ捨てていけと命じられていた。しかもそれは、ソクラナ共和国で遭遇した米李芥淫怒府という騎士の独断であり、本来のケイトの仕事ではない。士衛組を抜けてアルブレア王国へ戻って来い、というのもブロッキニオ大臣の命令でさえなかった。それでも、ケイトには確認のしようがない。一方的に手紙を送ることはできても、手紙を受け取るには士衛組の目を盗む必要がある。そのため、ケイトから情報を送ることはあっても、ケイトに通信が届くことはない。元々、アルブレア王国に到着するまで、士衛組の情報を送り続けろと言われていただけなのである。それが、ヌンフの独断で方針が変わった。
――ヌンフさんに、クコ王女の剣を捨てろと命じられた。しかし、クコ王女が悪い人間に操られているのでもなく、心清らかなままだと知って、ボクはできなかった。
だから、剣を盗んだはいいが、捨てられずに宿に置いていた。
悩んだ末にそんな行動を取り、まだ思い詰めたようなケイトであったが、ミナトは余計なことは聞かず歩き出した。
「では、宿に入りましょう」