7. 初めてのキャッチャー
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練習も後半に入り、グラウンドではシート打撃の真っ最中。
兄の敬は復帰初日ではあったが、毎日の祥倫寺での朝稽古を続けていたお蔭で、思っていたよりも身体は動けていた。
とはいえ、すぐに本格的なピッチングが出来る筈もなく、ノックを受けた後はマウンドに上がらず、グラウンド脇のブルペンで軽めの投球練習をしていた。
――あ、愛だ。
体力作りのメニューを済ませてきたのだろう、愛がグラブを持ち、外野の後ろへと駆けて行く。
多分これから、外野を抜けていった打球の、ボール拾いをするのだろう。
硬球もバットも持った事がないバリバリの初心者なのだから、当然の待遇ではある。
おそらく野球部の体力作りメニューは女子にはキツい内容だったと思うが、愛は疲れた様子もなく、敬に向かって手を振っている。
折しもバッターボックスには、主将の清水さんが右打席に入った。
正捕手で守備の要、バッティングでもクリーンアップを担う、チーム指折りのスラッガーである。
――やっぱ、スイングの質が違うなあ。
打席に入るなり、良い当たりを幾度もかっ飛ばしている。
「意外にボール、キレてるでねえの。カーブも投げてみっか?」
敬とコンビを組んでいる一年捕手、土屋要がボールを返しながら言ってきた。
「うーん、そーだなぁ……じゃあ、まず二、三球くらい」
そんな遣り取りをしている間に、グラウンドからワッ、と歓声が上がった。
左中間を破った打球を、ボール拾いの愛が、ツーバンくらいでナイスキャッチしたらしかった。
「お前の妹、なかなかやるな。今の逆シングルで捕ってたぞ」
愛はどこにボールを投げれば良いのかキョロキョロしていたが、やがて声を掛けてくれたレフトに、笑顔で普通に送球した。
次の打球は、たまたまだが敬もしっかり見ていた。
今度はセンターの頭を越す、大飛球。
「ああ、こりゃホームランだな」
「相変わらず、すげえ飛ぶなあ、清水さん」
練習ではお馴染みの、清水さんのホームラン。
センターも追うのを諦め、打球をボール拾いの愛に託した。
すると愛がほぼ最短距離でセンターまで走って行き、走りながらグラブを伸ばす。
「おいおい、まさかだぜ」
土屋が呟くまでもなくこの瞬間、グラウンドの誰もが同じ思いで、ボールの行方を見守った。
愛が落下点に向かって、ほぼ全力疾走だろう、走り込んでいった。
「愛ちゃん頑張れっ」
「捕れるぞっ」
しかしボールは、背中を向けたまま差し出したグラブに当たって、下にポロンと落ちた。
愛、もう少しの処で背面キャッチ失敗。
しかし落下点には到達していたので、グラウンドの面々からはわずかな歓声が上がった。
「あーっ、惜しいなあ。グラブの土手に当てちまったかなあ」
土屋がわずかに天を仰ぎ、ふたりは再び投球練習を始める。
「それにしても愛ちゃん、センス良いなあ。敬より素質あるんでねーの」
「あーっ。ひでえこと言うなあ」
笑顔で投球練習を続ける敬だったが、想像以上の愛のプレーに、内心では舌を巻いていた。
*
練習が終わり、雑用を手伝っている愛に、二年マネージャー山浦志乃さんが声を掛けてきた。
「愛ちゃん、あんた凄いねー。ほんとに初心者?」
「え――でもフライ捕れなかったし、ボールふたつ後ろに逸らしたし……」
「なーに言ってんの。監督だって褒めてたよ、見かけによらず運動神経あるな、って」
山浦さんの魂からは、裏表のない賞賛を感じ取った。
――失敗しても死なないどころか、褒められる世の中って、良いな。
愛は嘗てシーナだった頃の、ちいさな砦での防衛戦を思い出していた。
砦の壁を越し、雨霰と降り注ぐ炎球。
魔法使いのアーレンが水のカーテンで防いだが、それをかい潜って飛んで来た炎球をアラン、リト、シーナの3人が、防御力増強の掛かった両手でキャッチしまくった。
あれを取り落としたら砦は火の海で、全員黒焦げだっただろう。
「グラブで捕るのって、難しいですね。素手で捕る方が、私得意だったかも」
「怖ろしい事、平気で言うわね――ちょっと待った愛ちゃん、ボール、グラブのどこで捕ってたの?」
「えっと、手のひら、ですが……」
「あちゃあーっ」
山浦さんがおでこをペシンと叩いて、やれやれといった表情をする。
「そんなとこで捕ったら、捕りにくいに決まってるでしょーがっ。何のためにグラブに網が付いてると思ってんのっ。網の部分でボール捕るのよっ」
「あっ、なるほどぉ、納得しました。だからあんな形してるんですね」
「ったくそんなの、野球のイロハのイよ。そんなんであれだけ捕ってたって、逆に凄いけどね……」
「ちょっと、染矢くん!」
山浦さんがいきなり叫び始めた。
「はい」
「あっ、愛ちゃんも染矢だったね――敬くん、ちょっと顔貸せっ!」
「えっ、僕、なんかしました?」
「敬くん、愛ちゃんに野球の基本、きちんと教えてあげなくちゃダメでしょ。愛ちゃん今日、ずっとグラブの土手でボール捕ってたのよ」
「え――えええええっ? 愛、今朝のキャッチボール、きちんと捕ってたよね……」
「さあ、どーだったかなあー」
山浦さんが敬を、ギロリと睨み付ける。
「そーめーやぁー」
突如、怒りの感情が山浦さんを覆い尽くしたので、愛は少なからず慌てた。
「ひえっ、ごめんなさいごめんなさい」
「いやだから、今のソメヤも愛ちゃんの方じゃなくてね……あー、調子狂うなあ」
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もうすぐメンバー発表。
31人の選手たち――今日入部したばかりの愛も含まれる――はレギュラー獲得、またはベンチ入りを目指すべく、全体練習後も個人練習に勤しんでいる。
田舎の県立高校、ナイター設備はないので、日が暮れるまで、やるだけの事をやっておきたかった。
そんな中で、敬は投球練習のクールダウンも兼ねて、愛とキャッチボールをしていた。
「何だかんだで練習に付いてこれたな、えらいぞ愛」
「えへへー」
体力作りの時に、ちょこちょこ治癒で回復していたのは内緒である。
――やっぱ、センスあるよな。
愛が投げてきたボールを受け捕りながら、敬は思った。
グラブの知識を得てからは、敬のボールをしっかり捕れているし、そこから投球までの動作も無駄がない。
まだ痛い目に遭ってないせいかも知れないが、硬球をまったく怖がる様子がない処も、良い。
これなら近日中には、守備だけなら普通に練習参加も可能じゃないか、と思わせるほどの出来であった。
敬がボールを投げようとした処で、愛がいきなりしゃがみ込んでグラブを構えた。
言うまでもなくキャッチャーの構えだ。
「お兄ちゃん、いつもみたいにピッチャーで投げてみて。私、捕るから」
にこにこしながら、とんでもない事を言う。
「愛、調子に乗っちゃいけないよ。プロテクターもマスクも付けないで、投げられるわけないだろ――だいたいキャッチャーはグラブ使わないよ、キャッチャーミットが必要なんだ」
「え、そーなの――でも私、お兄ちゃんのボール捕りたい。キャッチャーやりたいよぉ」
「愛。わがままも大概にしなよ――」
「まあ、良いんじゃねーの?」
横から口を出してきたのは、主将の清水さんだった。
「やらせてみなよ。何事も経験、てヤツだ」
「えっ、でも、愛はマジで初心者なんですよ……」
「じゃあ、愛ちゃんの初めてを、兄貴のお前が奪ってやれ。痛くないよう、優しくしろよ」
聞きように依らなくてもかなり卑猥に感じたが、愛は幸いにも、きょとんとこちらを見ているだけだった。
そこからキャッチャー陣のチームワークが、ちょっと凄かった。
「土屋、お前のミットと装具、愛ちゃんに貸してやれ」
「ウッス、よろこんでぇー」
清水さんと土屋、二年生捕手の依田さんが、目にも止まらぬスピードで、愛にプロテクターとレガースを取り付け、ヘルメットとマスクを被せ、ミットを嵌めさせて、もうすぐ日が暮れようかというブルペンにちょこんと座らせた。
「愛ちゃん、どうだ? フル装備の感想は」
「はい、重くて、動きづらいです……」
愛の本音は、少し違っていた。
(くっ、さぁーい……)
特に、さっきまで土屋が着けていたヘルメットとマスクが、汗やら男の体臭やらで、わずかだが眩暈を起こすレベルだった。
えいっ、浄化。
愛は周りに気付かれないよう、魔法で臭いをそっと消し去った。
*
しかしここからの清水さんは、丁寧でしかも大真面目だった。
「いいか、キャッチャーってのは、ただボールを捕れば良い、てもんじゃないんだ。ピッチャーにどんだけ気持ち良く投げさせるか、それを考えて受けなくちゃダメだ」
「はい――具体的には、どうすれば良いですか?」
「ピッチャーはキャッチャーのミット目掛けて投げるんだ。だからミットをピッチャーに向けて、ここに投げて来いって目印を作ってやる――それが基本の基本だ」
「ええと、こうですか?」
「もうちょっと左肘を上げろ……そうそう、この位置だ。なかなか筋が良いな」
そして清水さんは、ブルペンの向こうに居る敬に向かって、大声で叫んだ。
「いいな、成功しても失敗しても、一球きりだ。敬、ど真ん中にストレート、七分くらいの力で投げてくれ」
――ああ、どうしてこんな事に……
敬はそう思いながらも、ピッチャーの習性で、愛が構えるミットに意識を集中した。
薄暮のブルペンに、ミットがこちらを向いて『投げて来い』と敬を誘っている。
――変なプレッシャー、掛かるなあ。
この場面、万が一暴投しようものなら、卒業しても延々言われ続けるだろう。
しかし愛の構えは、的がはっきりしていて、兄の贔屓目を抜いても投げやすそうだった。
なるようにしか、ならないな。
雑念を捨てた敬はセットポジションから右脚を踏み出し、ボールを持った左腕を振り下ろした。
白いボールがキュルキュルと回転しながら、愛の元へやって来る。
――これが、お兄ちゃんのボール。
ミットを動かす必要はなかった。
ボールは愛の構えた位置に、寸分違わず、パシンとちいさな音をたてて収まった。
「ナイスキャッチ、ナイスピッチ!」
「ど真ん中のホームランボールだったな」
「いや、良い回転してたから、打ち損ね狙えるずら。運が良ければだけど」
――七分の力で良い、て言ったの、清水さんじゃないですかぁ。
言われ放題だったが、取りあえずボールをコントロール出来た事に、敬は安堵の吐息を漏らした。
「どうだった? 初めてピッチャーのボール受けた感想は」
「えー。一度だけだと、よく分かんないです」
しかし、立ち上がってマスクを外した愛の表情は、心なしか晴れやかだった。
「おおーーーっ!!」
突然、愛から装具を受け取った土屋が、頓狂な叫び声を上げる。
「何なんだよ、要ぇ」
「いやぁ、愛ちゃんの被ったマスク、すっげえ良い匂い、するんですよぉ」
――え。浄化って、そんな効果あったっけ。
「一回被ったくらいで、そんなわけねーだろ……あ、ほんとだ。めっちゃ良い匂い」
「おい、ヘルメットも良い匂いするぞ。女子って、すげえなあ」
キャッチャーマスクやヘルメットをくんくん嗅いでいる男子野球部員の姿は、ある意味異常である。
「あーっ、マジで良い匂いっ」
「依田さん、返してくださいよ、それ俺んですから」
彼らの奇行を見つめる愛の姿は、遠目から見てもドン引きしていた。
「愛ちゃん。俺のも今度、被ってくれよ」
「えーっ。えーと……」
清水さんからの申し出にも、明らかに困っている。
「ま、いいか……ボールを全然怖がってねえとこが、気に入った。愛ちゃん、モノになるかどうかは別として、明日からは基本、俺たち捕手陣と一緒に練習するぞ。キャッチャーの事、いろいろ教えてやるから」
「あ――はいっ、よろしくお願いしますっ」
思わぬ事からキャッチャーとしての市民権を得た、愛であった。