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5. さよなら軽音部



 長野県立古諸(こもろ)高校。

 県内では唯一の音楽科がある高校であり、合唱や吹奏楽では毎年県代表になっている。

 普通科は古めの校舎だが、音楽棟は最新の設備を誇り、グランドピアノだけでも校内に48台もある。


 その一台から個性的な音色が響いていて、その音を頼りに音楽科の若い女性教師、外浦とうら奈緒美なおみは部屋へと入っていった。

「ちょっといいかしら、染矢さん」

「はい」

 ピアノを弾いていた愛は、指を止めて振り返る。

 古諸高は制服がなく、愛は襟なしの長袖シャツにジーンズという、シンプルな恰好だった。


 愛は普通科の生徒で、本来ならば音楽棟に縁はない。

 しかしプロのジャズピアニストだった母直伝のピアノは本物で、軽音楽部に入って早々、愛のピアノにファンが何人か出来た――ここに居る外浦先生も、そのひとりだった。




「染矢さん。軽音部辞めるって、どういう事? いじめとか、何かあったの?」

 ――ああ、外浦先生、軽音部とは無関係の人なのに、私を引き留めに、わざわざ来てくれたんだ……

 外浦先生はピアノで音大まで行った人で、教師をやってはいるが、県内でもピアニストとしてそこそこ将来を嘱望されている。

 そんな人にピアノを認められた事もそうだったが、外浦先生の優しさが何よりも嬉しかった。


「いえ、いじめとかはありません」

 軽音部の中でもジャズをやりたい愛の存在は異色で、入学してからのわずかな期間、ずっとソロで活動していた。

 ピアノをやっている生徒のほとんどがクラシック志望で、交流もほとんどなく、従っていじめは起きようがなかった――陰では楽譜も読めないくせに調子に乗ってるとか、ラインで遣り取りされているのは知っていたが。


「なら、どうして……」

「私、野球部に入るんです」

 外浦先生は信じられない、という風に首をぶんぶん振った。

「それも、聞いた。いったいほんとに、どーしてなの? ピアノ辞めちゃうの?」

「いえ、辞めません。少しでも良いから毎日、これからもピアノには触るつもりです。私はピアノと野球、両方やりたいんです」




「うーん……正直ピアノに野球は絶対合わないと思うんだけど……でも辞めないなら……」

 愛の自宅に本格的なグランドピアノがある事も、外浦先生は知っている。

「でもそれなら愛ちゃん、なおさらだよ? 野球部と軽音部、兼部してたって構わないんじゃない?」


 外浦先生は、愛のピアノを初めて聴いた瞬間、その音色に驚かされた。

 愛が事故に遭って転生する前の、話である。

 ――この子は、ダイヤモンドの原石だ。

 そう確信した外浦先生はそれ以来、何かと理由を付けては愛のピアノを聴きにやって来て、それとなくアドバイスもしてくれる間柄だった。


 これまでジャズしか弾いてこなかった愛にとって、外浦先生の教えてくれるクラシックの技法は、新鮮で刺激的だった。

 そういう意味では、外浦先生は第二の、愛のピアノの師匠とも言える。

 無償で差し伸べてくれるその手を、自分から離してしまう事に、後ろめたさを感じないわけではない。


「えっと――ごめんなさい。私、野球はまったくの初心者なんです。一から始める事の難しさは、ピアノで嫌と言うほど分かってるつもりなので……高校では野球をとにかくやりたいんです、ほんとごめんなさい」




「やだ」

「――えっ?」

「やだやだやだ、絶っ対、やだ。愛ちゃんのピアノが聴けなくなるなんて、あたし堪えられない」

「ナオちゃんセンセ……」


 ああー……この人からピアノ取ったら、ただの子どもだ。

 生徒である愛の前で、恥ずかしげもなく駄々をこねる外浦先生を見て、愛はほとほと困り果てた。

 外浦先生ほどのピアニストが、普通科の愛に肩入れしているせいで、音楽科生徒からの嫉妬を買っている事さえ、きっと気付きもしないのだろう。


 そして転生から戻って来た今や、先生よりも愛の方が、多分人生経験は豊富である。


「仕方ないですね……」

 愛は優しく微笑むと、再びピアノを弾き始めた。

 ――音楽馬鹿を黙らせるには、やっぱり音楽がいちばんね。




 まず前奏部分で、愛はサプライズを行った。

 異世界で教えてもらった民謡を、曲に上手く繋げられるよう編曲して、弾いてみたのだ。


「う……」

 愛の目論見通り、半分ベソをかいていた外浦先生は黙り込み、愛のピアノに傾聴した。

 ――ナオちゃんセンセなら、ここの世界とは少し違った、独特な音列とコード進行に興味を持ってくれるよね。


 少し長めの前奏が終わり、本曲のメロディに入る。

 曲目はスタンダードナンバー、『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』。

 愛にとっても、思い出の曲だ。




 実は愛、既にジャズピアニストとしてデビューを果たしている。

 ちいさなライブハウスで、母が中心になって活動していたピアノトリオのセッションに、一度だけゲスト参加させてもらったのだ。

 これが結局、最初で最後の母娘共演になった。


 そこで演奏したのが、愛がどうしてもとわがままを言って弾かせてもらった『ワルツ・フォー・デビィ』、それとこの曲だった。


 結論から言うと『ワルツ・フォー・デビィ』は選曲失敗だった。

 ジャズピアノの詩人ビル・エヴァンズの専売特許とも言える曲で、アレンジの余地がほとんどなかったからだ。

 それでも母たちは、愛のために可愛らしいスイングで、愛のソロへと繋げてくれた。


 一方『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』も、サッチモことルイ・アームストロングのボーカル&トランペットのど定番が存在するが、メロディラインに隙間が多く、こっちの方が遥かに自由度が高かった。

 母、ベース、ドラムのソロに続いて愛のソロ。

 正直言うと曲の流れを壊さないよう弾くのにいっぱいいっぱいだったが、当時にしては健闘したと自負している。


 あの頃の緊張と興奮、そして歓びは、もう戻って来ない。




 ピアノソロの場合、この曲は左手が命だ、と愛は解釈している。

 左手の低音パートで、脈々と連なる『素晴らしき世界』を表現する必要があるからだ。


 ――お母さん、ありがとう。

 ほんとに、ほんとに、ありがとう。

 お母さんが厳しく優しく仕込んでくれたピアノのお蔭で、今こうして、私の居場所がある。

 ピアノを通して、心を伝え合う会話が出来る。


 お母さん。

 もっともっと、ピアノ教えてもらいたかったな。

 もっと一緒に、セッションしたかったな。

 連弾でコンサート、やってみたかったな。


 お母さん、聴いてる?

 私、ちょっとは上手くなってるかな。

 少しは褒めてもらえるかな。


 ありがとう、お母さん。




 外浦先生は愛のピアノを聴きながら、雷にでも撃たれたかのようにふらふらと歩き、脇の椅子にストン、と腰掛けた。


 ――いったい何、この子。

 初めて聴いた時から、この子は、愛ちゃんにしか出せない音色を持っていて、才能の片鱗は確かに感じていた。

 一ヵ月のブランクは隠せないし、技術はまだまだ粗いけど、それは問題じゃない。

 ――音の深みが、豊かさが、半端なく増している。

 こんなわずかな期間に、驚くべき進化を、この子は遂げている。




 愛は徹頭徹尾、バラードの曲調を崩さなかった。


 素晴らしき世界。

 異世界では常に、命の危険と隣り合わせだった。

 それでも人々は必死に生き、瞳を輝かせ、生きる歓びを全身に受け止めていた。

 なんて、素晴らしい世界。


 この、素晴らしき世界。

 命の遣り取りは直接ないけど、ここ現し世でも、闘いは常に存在する。

 闘いに敗れ、心が死んでしまう人も居る。

 これは命がなくなるより、ある意味残酷かも知れない。


 お父さん、お母さんの命を奪った、この世界。

 行く処も失い、古諸に辿り着いた私たち。

 保護者になってくれた浩輔さんに『訳ありの子どもなんか引き取って』となじった古老が居たらしい。

 私たちが原因で、ただでさえ少ない檀家がさらに減った、とも聞く。


 私は、生きているよ。

 お兄ちゃんと私は、生きているよ。


 そして、アラン。

 まだ逢えない、顔も名前も知らない、私の愛する人。

 私はこれから、あなたに逢いに、あなたの元へ、歩き始めるよ。


 素晴らしき世界。

 素晴らしき世界。

 なんて、素晴らしい世界。


 ホワット・ア・ワンダフル・ワールド。




「えっ……えっ……えーん、えーん…………」

 曲が終わり振り向くと、外浦先生がハンカチ片手に号泣していた。


「ぐすっ……やだよぉ……愛ちゃん、ピアノ辞めちゃダメだよぉ……」

「いえ、だから、ピアノは辞めないって――」


「あたしが、楽譜の読み方教えたげるから……英語も、勉強しようよ……アメリカ行こうよ……愛ちゃんだったら、バークレー音大行って、本場のジャズ吸収して、そんで……」

「ナオちゃんセンセ――」


 ――ああ。ナオちゃんセンセの言ってる『ピアノ辞めるな』は、一日12時間くらい弾いて、ピアノ一本の生活を送りなさい、という意味だと初めて気付いた。

 しかし、アランに逢うという目標がある今では、それは出来ない相談だ。


「ナオちゃんセンセ、ごめんなさい。私、高校の間に、どうしてもやっておきたい事が、出来たんです」

「――それが、野球、てこと?」

「はい」


 外浦先生は、全然泣きやんでくれなかった。

「うん……分かった……野球がダメだったら、いつでも、戻っておいで……あたし、待ってるから……」

「はい、その時はよろしくお願いします」

 言葉とは裏腹に、愛が軽音部の扉を再び叩く事はないだろうし、この音楽棟でピアノを弾く事も、ほとんどなくなるだろう、半ばそう確信していた。




 だから――ナオちゃんセンセ、これでお別れです。

 短い間でしたが、本当にありがとうございました。


 泣きじゃくりながら退室する外浦先生の背中を見届けながら、愛もまた涙をぽろぽろ流していた事に、ようやく気付いた。


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