40. お兄ちゃん救出作戦
新章突入。
野球はしばらくお休みになります。
*
ここは倉庫だろうか、分厚いコンクリートの壁に囲まれた、だだっ広い空間に、資材やら段ボール箱やらが積まれている。
拉致された敬は、転移魔法でここに連れ込まれた際、したたかに抵抗を試みたせいで、眠らされてしまった。
今は椅子に縛り付けられ、その上から緞帳のような厚手の布で、足首の辺りまでぐるぐる巻きになっている。
椅子に固定された敬の前に豪奢なソファが置かれ、紅いバスローブを身に纏った黒髪の若い女性が寝そべって、気怠げに敬を眺めていた。
未成年のようにも見える幼げな顔立ちだが、その姿は妖艶で、どこか禍々しさを感じる。
女性は長い黒髪をゆっくりと掻き上げながら座り直し、ソファの前でひざまずいた男に視線を落とした。
ひざまずいた男はアニキと呼ばれていた若頭、そして黒髪の女性こそが、異世界では魔王の右腕と呼ばれた女、リーファであった。
リーファがアニキを真っ直ぐ見下ろして、口を開く。
「ふうん。お前以外の奴らみんな、この子の妹にやられた、てわけね」
「はっ、ひとり連れてくるのがやっとで――も、申し訳ありません」
アニキが頭を垂れたのは、謝罪の意味だけでなく、リーファの右脚がアニキの左肩にずしり、と置かれたからだった。
盛大にはだけたバスローブから、形の良い太ももが露わになる。
「お前たちには、わたしのマナを分けてあげた筈よね」
「はっ、そのとおりです」
「それが妹ひとりにほとんどやられて、わたしがお前に付与した転移魔法がなかったら、兄のほうだって連れて来られなかった」
「――返す言葉もございやせん……」
唇を噛みしめながら、アニキが頭をなおも垂れる。
武闘派で知られた暴力団の若頭とあろうものが、こんな小娘に刃向かえないのは、屈辱以外の何物でもなかった。
しかし組長の家族を人質にとられるという、もっとも卑怯な手段で脅されていては、リーファの駒となって動くしか道はなかった。
「いいよ、わたしの認識がちょっと甘かったんだ。魔族のマナを授かったお前たちが、むざむざ人間にやられるなんて、思いもしなかった……で、その妹ってのは何者なんだい? そいつきっと、普通の人間じゃないよ」
「はっ、染谷愛、例の証拠を持ってトンズラした公安の娘でして……ううっ」
「そんなことはもう分かってるよ、この役立たず」
リーファは右脚にわずかに力を入れただけだったが、それでもアニキの肩がめきめきと音を立てて、顔が苦痛に歪んだ。
「ま、いいわ。敬だっけ、この子が目を覚ましたら、妹が何なのか口を割らせなさい」
「はっ」
「証拠と引き換えの大事な人質だからね、殺すんじゃないよ」
「はっ、分かりやした」
「それじゃあわたしは、ちょっと遊びに行ってくるよ」
「…………」
にやりと笑ったリーファの、好色そうな顔を見上げたアニキは、咄嗟に目を背ける。
「あーあ、連れてきたのが妹の方だったら、わたしも楽しめたんだけどなあー」
アニキの噛みしめた唇から、つっと血がこぼれた。
リーファの表情を察するに、また組長の一人娘の処だろう。
この化け物が相手では、箱入りのお嬢様がどんな目に遭わされているのか、分かったものではなかった。
だがアニキの立場では、意見することさえも叶わない。
「いって……らっしゃいやせ……」
バスローブを残して、転移魔法で消え去ったリーファにかしずきながら、かろうじて声を絞り出した。
*
「おい、始めるぞ。早くしろ」
倉庫に残されたアニキが、携帯で連絡を取ってすぐに、別室で控えていた構成員たちが、バタバタと走りこんで来る。
「遅えぞ、この野郎」
「へいっ、すいやせんっ」
理不尽な言いがかりではあったが、リーファの悪意ある命令を矢面に立って受け止めているアニキに、文句を言える筈がなかった。
縛り付けられたまま眠っている敬の椅子を、構成員ふたりに抑えさせ、アニキがぽきぽきと指を鳴らしながら近づいていく。
「殺さなきゃあ何やってもいい、てお達しだ。徹底的にやるぞ」
「へいっ」
「いつまでっ、呑気に寝てやがんだよっ」
邪悪な笑みを浮かべたアニキが、リーファから受けた仕打ちの鬱憤を晴らそうと、握り拳を作って、敬の頬目掛けてパンチを繰り出す。
だがその右ストレートは、敬に届く事はなかった。
ビシッ。
アニキのパンチが横凪に払われたかと思うと、ぼおっと白い光が敬との間に割って入ってきて、やがてくっきりと人間の形となった。
現れたのは、長い銀色の髪をなびかせた、絶世の美女。
そして一糸纏わぬ姿で、アニキを真っ直ぐ睨んでいた。
以前のアニキなら、何が何だか分からず「痴女かよっ」とか叫ぶ処だが、リーファに組を乗っ取られ、顎で使われている今では、一瞬でほぼすべてを理解した。
――この女はリーファと同じ、異世界の人間。
転移魔法を使って、ここまで瞬間移動してきた。
そして銀髪の美女から放たれる神々しいまでのオーラは、きっとアニキやリーファと対極の位置に立っている者であろう。
「お兄ちゃんに、何するのっ」
彼女がすかさず繰り出した掌底を鳩尾付近に受けながら、アニキの頭はカシャカシャと目まぐるしく計算を始めた。
女性の放った掌底とは思えないほど、その衝撃は凄まじく、アニキの身体は後方数メートル先まで吹き飛ばされ、凄い音を立てて段ボールの山にめり込んだ。
「このヤロー、何てことしやがるっ」
「やっちまえっ!」
野太い怒号が倉庫に響き渡る。
「待てーっ! この女に、手ぇ出すなっ」
色めき立つ構成員たちを制止したのは誰あろう、掌底を食らって悶絶したアニキだった。
そしてよろよろと美女の元へ近付くと、ガバッと土下座した。
「お願いしますっ! 俺たちを、この組を助けてくだせいっ!」
白いオーラを盛大に放出しながら、戦闘態勢に入っていた美女は、突然の土下座に戸惑い、拳の振り下ろし処に困惑の表情を見せていた。
「えっ……ごめんなさい、状況が全然飲み込めてない……それにどうして私、シーナになってるの?」
転移魔法を使った影響なのか――それ以外に原因は考えられないが――愛はシーナに、その姿を変えていたのだった。
*
「おい、この方に何か、着るものを」
シーナの前に跪いた状態で、アニキが指示を出す。
「へいっ」
「ありがとう――やだこれ、リーファが着てたでしょ」
構成員のひとりが紅いバスローブを渡すと、シーナは美しい顔をわずかに歪めた。
『浄化』
その手から放たれた魔法により、バスローブは薄いピンクへと色を変えた。
バスローブに袖を通すシーナの前で、アニキは訥々と、組が陥っている悲惨な状況を訴え始めた――もちろん自分に都合の悪い事は全部隠して、である。
以前から昵懇にしている権力者の依頼で、裏の仕事をしていた事、1ヵ月前に突然現れたリーファに組を乗っ取られた事、少なからぬ構成員が人間では無いものに変えられ、組長の家族を人質に取られ、いいようにこき使われている事、などなど。
「お兄ちゃん――この子を攫ってきたのも、リーファの命令?」
「はい。正確には、とある方からの依頼ですが……組長を通してそっち方面にパイプを作り、政治の中枢に入り込む。つまり最終的に日本を乗っ取るのが、あの女の狙いだと思いやす」
組の乗っ取りは、踏み台に過ぎない。
目的を果たしたら、組ともども、蟻のようにひねり潰される。
リーファの手駒として働きながら、アニキはそれを実感していた。
「日本征服――リーファならそこまで、やりそうね……」
シーナになった愛は、跪いたアニキに背を向け、敬を縛り付けていた縄をほどいて、ぐったりした敬を抱き上げている最中であった。
そしてアニキに向き直ると、その澄んだブルーの瞳でまっすぐに見つめた。
「リーファは、斃す。斃さなくちゃ、この国がヤバいよね」
「……! ありがとう、ございやすっ!」
再び平伏しようとするアニキを、シーナは冷たく見つめたままだった。
シーナには、アニキの魂が見える。
自分さえ、この組さえ助かれば良い。
そのためにシーナを利用する魂胆が透けていたし、その魂もどうしたらここまで汚れられるのかと思うほど、汚れきっていた。
「――ねえ。この子のお父さんに、お母さん……椎名夫妻を殺したの、あなたたちだよね?」
「…………」
下を向いたまま応えないアニキ。
シーナもそれ以上、問い質そうとはしなかった。
「リーファは、斃すよ。それは約束する」
「……」
「でもあなたたちの事情は、まったく別の話。闘いになっても、あなたたちに一切の配慮はしないから、そのつもりでいて」
「…………」
そう言うが早いか、シーナと敬の身体が、ぼおっと白銀のオーラに包まれた。
転移魔法を使おうとしているのは明らかだった。
そしてふたりは、その着衣を残してすっかり消え去った。
「舐め……やがって……」
アニキはひざまずいた姿勢のまま、鬼の形相でその様子を見送った。




