39. シーナを待ちながら
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あの日から川田さん――清司はまだ川田誠という偽名を使っていた――は週1回程度で連絡を取ってくれ、差し障りのない近況報告が道雪たちの元へ届いた。
「愛ちゃんの野球部、勝ち進んでるって」
「羨ましかねー」
校名やら何回戦かは教えてくれないが、最低でも三、四回は勝っていて、宮崎県ならベスト4である。
しかしある日、亜蘭がスマホ片手に、とことこと道雪の元へやって来た。
「ねえドーセツ。愛ちゃんの学校、これじゃなかと?」
折しも道雪はトレーニングの真っ最中で、逆立ち腕立てをしていた。
やっぱり元勇者、大した身体能力だと亜蘭は感心する。
「今見た方が、良かか?」
「別に後でもいいけど――ほれ」
亜蘭はしゃがみ込み、スマホをくるりと反転させて道雪に見せた。
「うんしょ、うんしょ」
スマホを見ながらも道雪は、逆立ち腕立ての手を休めない。
「どう、見える?」
「うーん、集中出来ん。スマホは逆立ちしながら見るもんじゃ、なかなぁ」
何やら頬を赤くして、1セット終えた処で道雪がゴロンと転がり、胡座をかいて亜蘭からスマホを受け取る。
スマホの記事は、長野県大会準々決勝。
好投むなしく松本商に負けた古諸のピッチャー、敬をピックアップしていた。
「ほおー、松商相手に九回2アウトまでノーノーっち、凄かねえ」
「マツショウて、強かの?」
「ああ、俺でも知っとる名門じゃ。夏の甲子園にも出てた」
「へえー」
抱きかかえるような体勢で、亜蘭が道雪の背中に寄り掛かり、右肩からひょっこり顔を出す。
亜蘭の頬が道雪の顔にぴとっとくっ付いて、ここまで密着されると少し暑苦しいが、良い匂いがするし、文句を言うとさらにきつく抱きしめてくるので、何も言わない。
「この敬さん――同学年だがら敬くん、かな――が愛ちゃんのお兄さんやち、思うよ」
「そめや、けい……苗字が椎名じゃなかけど」
「あんた、川田さんの話、聞いとらんかったん? 愛ちゃん養子になった、ちゅーてたでしょ、苗字違ってもおかしくなか」
「おー、そーか、亜蘭びんた良かぁ」
「ドーセツがあんぽんたんなんでしょ」
そう言って亜蘭が頬をすりすりしてくる。
言ってる事は明らかな悪口だが、亜蘭の嬉しそうな様子を見ると何も言えず、道雪は記事を読み進めた。
「ご両親、亡くしとるんか――母親が有名な、ジャズピアニスト……練習試合では、同学年の妹とバッテリーを組む事もしばしば……」
「ね? お母さんピアノ凄かったし、この妹ちゅーのが愛ちゃんだよ、きっと」
「――だなっ」
道雪も確信を持って肯いた。
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「長野県の――古諸高校っち、どけあっとかね」
「古諸高校は古諸にあるっち決まっとる。古諸なる古城のほとり……」
「なんね、それ」
「昔の人が書いた詩だよ。フジムラなんとか、て人」
「亜蘭はなんでも良く知っとるなあ」
「さて長野県、どう行きゃ良かとかね」
道雪がよっこらせと立ち上がり、背中に張り付いた亜蘭を引き摺りながら、卓袱台に向かう。
「亜蘭、のさんから離れんね」
「いやー」
傍から見ると完全なバカップルであるが、亜蘭に多分そんな自覚はない。
やれやれ。
引っ付き虫に拍車が掛かった亜蘭を背にして、卓袱台に腰を下ろした道雪が、古諸までの道程を調べ始めた。
しかしこの調べ物、亜蘭の方が遥かに詳しかった。
「まず名古屋まで出らんならね」
「ううん、東京。新幹線の方が早かよ」
「えっ、東京まで新幹線で来っと?」
「違うよぉ。羽田まで飛行機で来て、東京駅から新幹線。軽井沢か佐久平で降りんの」
こうして調べてみると、単純な移動時間だけで7時間以上、片道の旅費が少なく見積もっても4万円は掛かる事が分かった。
このうち3時間が串馬―宮崎空港の移動時間で、如何に串馬が陸の孤島か、分かる結果である。
「――ドーセツ?」
「…………」
腕組みして黙ったまま、検索結果をじっと見ている道雪。
「ドーセツ、愛ちゃんに逢いに来っと?」
「……せっかく出来っようになった野球、やめたくはなか」
しばらくして口を開いた道雪の、それが応えであった。
これからシーズンオフ、大きな大会はないとはいえ、野球部の練習は続く。
ついでながら高校の授業だってある。
はるばる長野まで行く時間もなければ金もない、その現実をふたりはつくづくと噛み締めた。
「卒業して働けるようにならんと、逢いに来れんかねえ……」
「せめてバイトが出来ればねえ……」
ふたりして深い深いため息を吐いた。
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野球部では、道雪にちょっとした変化が生じていた。
「ドーセツお前、本格的にピッチャーやってみんか」
泊里監督がある日、そんな事を言い出した。
「ピッチャーすか? 俺、ストレートしか投げられんですよ」
元々地肩は強いし、足腰も細かい動きはまだまだだが、ある程度しゃんとしてきた。
今のコンディションなら、常時130km/hを越えるストレートをストライクのゾーン内に投げられ、クセ球なのでみんな打ちにくい、と言ってくれる。
だが、それだけの話である。
これからどれだけ頑張っても、短い高校生活の間で、道雪が本由さんのような変化球を投げられるようにはならないだろうし、ストレートと付け焼き刃の変化球でどうにかなるという、甘い考えは持っていない。
「いっちゃが、いっちゃが。お前はストレートだけで、充分勝負になっど」
だが監督は、はっきりと断言した。
「ドーセツ、指見せてみい――おおー、マメだらけじゃなかか」
これは野球選手にとって褒め言葉である。
練習後の素振りは毎日欠かさなかったし、さらには指立て逆立ちに逆立ち腕立てで、リストや指先を丹念に鍛えてきた。
泊里監督が改めて、道雪の右手を取りまじまじと見つめる。
「やっぱりなあ。ドーセツの指先、まっこち硬かね。まるでサイのおケツじゃあ」
確かに道雪の両手指は、尖端部が見事に角質化していて、爪がもうひとつそこにあるようだった。
「監督。モノの硬さちゅーのは、おケツで測るんですか」
「ああ、古今東西、そう決まっちょる」
いやそんなの、聴いた事ない。
突然、監督が真面目な顔になった。
「ドーセツ。ピッチャーやる時、どんな握りで投げてる?」
「俺は野手ですから、いちばん投げやすい握りにしてます――こげん感じで鷲掴みッス」
渡されたボールを右手に取り、握り方を監督に見せた。
「だな。それでなドーセツ、ちっとで良かから、ボールに全部ん指を立てるようにして握ってみろ」
「こう、っスか」
「おお――忘るっとこじゃった、この指とこの指、縫い目に掛けらるっか」
「はい、出来ます……こいで投ぐっとですか?」
「いつものストレートで良か。投げらるっか?」
「やってみます」
道雪は右手でボールをくるくる馴染ませながら、ブルペンへ向かった。
バッテリー陣とは既に話がついていたらしく、いつもコンビを組んでいる木花ではなく、正捕手の田吉さんが構えている。
「ドーセツ、バッチ来ーい」
田吉さんがミットをバシバシ叩きながら、しゃがみ込む。
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「いつも通り、いつも通り」
口の奥でもごもご繰り返しながら、道雪が投球モーションに入る。
道雪のピッチングは至ってシンプルだ。
足腰をしっかり使って、右腕を振る。
シュッ。
ボールの握りを少し変えたせいか、リリースの瞬間わずかな違和感はあったが、ほぼイメージ通りに投げられた。
しかしそうして投げたボールは、予想していたよりも伸びがなかった。
球速は130km/h前後といった処で、道雪の最速には程遠い。
しかも道雪の生命線であった重そうなクセ球ではなく、ボールの回転もまったく掛かってない――というより、ほぼ無回転のまま、ミットに向かって行った。
うんにゃ待てよ、無回転?
回転のないボールはミットに近付くにつれて、縦に横に揺れ始め、ベース手前でストーンと大きく落ちた。
あまりの変化に田吉さんのミットも追い付かず、プロテクターにドゴンと当てて、前にこぼす。
「よっしゃああああっ」
「思った通りじゃああああっ」
捕球ミスにも関わらず、傍で見ていた木花と泊里監督が、揃ってガッツポーズをした。
「すげーっ。みんな見たけ? 今の変化」
ミスした張本人の田吉さんまでが、立ち上がって両腕を突き出している。
「ドーセツ。お前が今投げたの、ナックルじゃ」
呆気に取られた道雪に向かって、泊里監督が親指を立ててニカッと笑う。
「俺が……ナックルを……」
どうやらカチンコチンに硬くなった指先のせいで、ちょっと変えただけでナックルとほぼ同じ握りになっていたらしい。
道雪の魔球、高速ナックル誕生の瞬間であった。




