第5話 いつか、鏡の向こうで
あれから四年が経った。
私は今、22歳。大学3年生で、教育学部に通っている。
将来は国語の教師を目指している。文芸部で書いていた小説は、大学の文学賞で佳作を取った。あのとき悠真がくれた勇気が、今も私の原動力になっている。
悠真は26歳。
小さな出版社で編集者として働いていると、SNSで知った。
彼の担当した本が書店で平積みされているのを見かけたときは、胸が熱くなった。
私たちはあの雪の日の喫茶店以来、一度も連絡を取っていなかった。
「ちゃんとこの世界で生きていこう」という約束を守るために、敢えて。
でも、運命は時々、優しいいたずらをする。
今年の冬、私は教育実習で母校の高校に戻っていた。
ある土曜日の午後、文化祭の準備を手伝っていると、校門の近くで一人の男性と目が合った。
高橋悠真だった。
彼は驚いた顔をした後、ゆっくりと近づいてきた。
スーツの上にコートを羽織った姿は、すっかり社会人らしくなっていた。でも、あのときの優しい目は変わらなかった。
「……佐藤あかりさん?」
「はい。高橋悠真さん。」
私たちは校舎の裏にある、誰も来ないベンチに座った。
冬の風が冷たいけど、不思議と寒くなかった。
「教師を目指してるんだって?」
悠真が先に口を開いた。
「ええ。国語です。生徒に『自分の言葉で生きて』って教えたいんです。
……ある人に教えてもらったから。」
悠真は照れくさそうに笑った。
「僕は編集者になったよ。君が書いてくれた続きみたいな話を、世の中に届けたいと思って。
あの三日間が、僕の人生の分岐点だった。」
私たちはお互いの四年を、少しずつ話した。
失敗したこと、泣いたこと、嬉しかったこと。
スワップが起きたあの日を境に、二人の人生が静かに、でも確かに変わったことを。
やがて会話が途切れたとき、悠真が静かに言った。
「不思議だよね。
一瞬だけ体が入れ替わっただけで、こんなに人生が変わるなんて。」
私は頷いた。
「鏡の向こうにいたもう一人の自分が、
私に『ちゃんと生きなさい』って教えてくれたんです。」
雪が、ひらひらと舞い始めた。
悠真がコートのポケットから小さな本を取り出した。
彼が編集した、新人作家の短編集だった。
タイトルは『鏡の向こうの私』。
「これ、君に最初の一冊を贈りたい。
……実は、モデルは少しだけ、あの時の君なんだ。」
私は本を受け取りながら、目頭が熱くなった。
「ありがとう。
私も、いつか自分の本を出せたら……そのときは、絶対に悠真さんに編集してほしいです。」
悠真は優しく微笑んだ。
「約束だね。」
別れ際、私たちは軽く握手をした。
大きな手と、小さな手。
四年前とは、ちょうど逆だった。
「また、どこかで会いましょう」
悠真が言った。
「ええ。今度は、ちゃんとこの世界で。」
私は校門まで彼を見送った。
雪が降る中、悠真の背中が遠ざかっていく。
私はそっと、空に向かって呟いた。
「鏡の向こうにいたあなたへ。
ありがとう。
私は今、ちゃんと生きています。」
雪の粒が、キラキラと光って落ちてきた。
人生は、時々不思議な鏡を用意してくれる。
そしてその鏡は、いつか必ず、
私たちを強く優しい大人へと変えてくれるのだと、私は知った。
-完-




