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第十一話 あなたは一人じゃありません

コメント欄が消えて、三日が経った。

三日間、空は静かなままだった。

声をかけても、見上げても、何も返ってこない。

慣れようとしているが、慣れられない。

朝起きるたびに天井を見て、何もないことを確認して、小さくため息をつく。

その繰り返しだ。

体に異常はない。

食事も、少しずつ戻ってきた。

ただどこか、世界の色が薄い気がした。

父からの追加の書簡は届いていない。

王都の状況がどうなっているかも、今は知る術がない。

コメント欄があれば何か教えてもらえたかもしれないが、今は頼れない。

レインハルト団長は、そんな私の様子を黙って見ていた。

何も言わず、何も聞かず、ただいつも通りの場所にいる。

その存在だけが、この三日間で変わらないものだった。

四日目の朝、雨が上がった。

久しぶりの晴れで、庭のバラが雨粒をまとって光っている。

私は外へ出たくなって、ショールを羽織って庭へ降りた。

遅い朝の光が、草の上に斜めに伸びている。

花壇のバラを一輪ずつ確認しながら歩いていると、後ろで砂利を踏む音がした。

団長が少し離れた場所に立って、庭の外へ視線を向けていた。

しばらく、二人とも黙って庭にいた。

 

「団長」

 

「はい」

 

「……退屈ですか」

 

「先日も聞きましたね、それは」

 

「答えが変わったかと思いまして」

 

団長は少し黙ってから言った。

 

「変わっていません」

 

それだけだった。

私は花びらに触れながら、小さく頷いた。

バラの手入れを終えて、木陰の椅子に腰を下ろした。

庭の向こうに、遠く山の稜線が見える。

晴れた日のアルト村は、本当に美しい場所だと思う。

コメント欄があれば、今頃何か言っているだろうか。

『晴れた!』とか、『バラきれい』とか、そういう他愛ないことを。

胸の奥がじくりと痛んだ。

 

「エリシア様」

 

団長の声がした。

少し近い。

顔を上げると、団長が傍らに立っていた。

いつもより幾分か距離が近い気がして、私は少し目を見開いた。

 

「少し、よろしいですか」

 

「……はい」

 

団長は木陰の端に立ったまま、視線を遠くへ向けた。

山の方を見ているようだった。

しばらく何も言わない。

珍しいことだ。

この人はいつも、口を開くときには言うべきことが決まっている。

迷うような間を置くことは、あまりない。

やがて、静かな声が来た。

 

「君が空に向かって話す理由は、私にはわかりません」

 

私は息を止めた。

 

「独り言だと言われれば、そうかもしれない。勘だと言われれば、そうかもしれない。ただ……」

 

団長の言葉が、一瞬、止まった。

 

「君が苦しんでいたことだけは、分かります」

 

静かな言葉だった。

責めているわけでも、問い詰めているわけでもない。

ただ、見ていた、という事実だけが、そこに置かれた。

私は俯いた。

喉の奥に、何かが詰まっている気がした。

婚約破棄の夜から今日まで、色々なことがあった。

公開の場で恥をかかされ、田舎へ送られ、刺客まがいの来客があり、コメント欄が消えた。

そのすべてを、それなりに乗り越えてきたつもりだった。

でも、「苦しんでいたことは分かる」と言われた瞬間に、ずっと張っていた何かが、ゆっくりと緩んだ。

 

「……団長は、ずっと見ていたのですか」

 

声が、少し掠れた。

 

「護衛の職務ですので」

 

「職務だから、ですか」

 

「……職務だから、というだけでもありません」

 

団長の声が、わずかに低くなった。

私は顔を上げた。

団長はまだ遠くを見ていた。

その横顔は、いつも通り整っていて、いつも通り表情が薄い。

なのに今は、何かが違って見えた。

耳の先が、ほんの少しだけ赤い。

 

「君が……エリシア様が、誰も見ていない空に向かって話すとき、私には何も見えなかった。聞こえなかった。だから何も、できませんでした」

 

「……」

 

「それが、ずっと気になっていました」

 

気になっていた、という言葉の重さを、私はしばらく測りかねた。

騎士として、護衛として、気になっていたのか。

それとも、別の意味で。

聞けなかった。

聞く勇気が、今の私にはなかった。

代わりに、別のことを言った。

 

「……コメント欄、というものがあったのです」

 

団長が初めてこちらを向いた。

 

「空中に、文字が浮かぶのです。私にだけ見えて、私に向かって、色々なことを教えてくれたり、励ましてくれたり」

 

「……」

 

「信じられなくて当然ですが、本当のことです。婚約破棄の夜から、ずっとそこにあって……三日前から、消えてしまいました」

 

団長は何も言わなかった。

否定もしなかった。

ただ、静かに私の言葉を聞いていた。

やがて、短く言った。

 

「それが、なくなって、寂しいと」

 

「……はい」

 

素直に認めた。

認めたら、目の奥が熱くなった。

泣かない、と思っていたが、今日ばかりは難しそうだった。

こらえようとして、こらえきれなくて、視界がにじんだ。

団長が一歩、近づいた。

かけてくれた言葉は、難しいものではなかった。

 

「あなたは一人じゃありません」

 

それだけだった。

ただ、それだけだった。

でもその言葉が、今の私には、どんな慰めより真っ直ぐに届いた。

涙が一粒、頬を伝った。

急いで袖で拭ったが、間に合わなかった。

 

「……すみません、みっともないですね」

 

「みっともなくはないです」

 

「泣いているのに?」

 

「泣く理由がある人が、泣いているだけです」

 

またシンプルな言葉だった。

この人の言葉は、いつもシンプルで、でも妙に核心に届く。

私は袖で目元を押さえながら、小さく笑った。

 

「団長は、慰め方が上手ですね」

 

「そういう評価は、初めて受けました」

 

「そうでしょうね」

 

二人とも、小さな間を置いた。

笑い声というほどでもないが、会話の中に温度が戻った気がした。

庭の木が、風に揺れる音がした。

バラの香りが、淡く漂ってくる。

 

「エリシア様」

 

団長が、もう一度名前を呼んだ。

 

「何ですか」

 

「その、空中の文字が戻ったとしても、戻らなかったとしても」

 

一瞬の間があった。

 

「私はここにいます」

 

私は顔を上げた。

団長はまた遠くを見ていた。

横顔が、夏の朝の光を受けて、少しだけ柔らかく見えた。

何も言えなかった。

言葉を探したが、見つからなかった。

だから代わりに、静かに頷いた。

それで十分だった。

その日の夜、窓辺に座って外を眺めていると、空にかすかな光が見えた気がした。

目を凝らすと、白い粒子が集まって、消えて、また集まりかける。

まだ文字にはならない。

でも、何かがそこにある。

 

「……待っています」

 

小さく、空に向かって言った。

返事は来なかった。

でも今夜は、昨夜より少しだけ静寂が軽かった。

団長の言葉が、耳の奥でまだ温かかった。









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