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第十話 コメント欄封鎖

異変は、朝から始まっていた。

いつもなら起き上がった瞬間に流れてくるコメントが、その日は妙に少なかった。

少ない、というより、途切れ途切れだった。

文字が浮かびかけて、途中で消える。

まるで遠くの声が、風に遮られて聞こえなくなるような感じだった。

 

「……おはようございます」

 

天井に向かって声をかけてみた。

 

『おは……』

 

文字が途中で消えた。

胸のあたりに、小さな不安が生まれた。

朝食の席では、いっそう薄くなっていた。

マルタさんが「今日は雨になりそうですね」と話しかけてきても、コメントは何も言わない。

団長が向かいで黙々とスープを飲んでいる様子を見ても、あれほどうるさかった文字列が現れない。

空白が、妙に広い。

 

「団長、今日の予定は」

 

「午前中に敷地の見回り、午後は村の外れの確認です。エリシア様は室内に」

 

「わかりました」

 

コメントがなければ、会話はこんなに短く終わるのだと、改めて気づいた。

午前中、書斎で手紙を書いていると、父からの急ぎの書簡が届いた。

開くと、簡潔な文字が並んでいる。

「王都にて不穏な動きあり。詳細は追って。当面、別邸より出ぬように」

不穏な動き、とは何か。

追って、という言葉は、今すぐには説明できない状況だということだ。

コメント欄があれば、何か教えてもらえたかもしれない。

そう思ってから、今日のコメントの様子を振り返った。

見上げてみると、何も浮かんでいない。

完全に、消えていた。

 

「……?」

 

声をかけてみた。

 

「皆様、聞こえますか」

 

返事がない。

白い光の粒子すら、見当たらない。

あの、いつも賑やかで、うるさくて、核心を突いてくる文字列が、跡形もなく消えている。

書斎がひどく静かに感じた。

午後になっても、コメントは戻らなかった。

庭に出て空を見上げても、何もない。

ただの青い空があるだけだ。

いつもと同じ空のはずなのに、まるで別の場所のように見えた。

団長が見回りから戻ってきた。

 

「エリシア様、顔色が優れませんが」

 

「少し、頭が痛くて」

 

嘘ではない。

頭の痛みというより、頭の中が静かすぎて逆に重い、という感覚に近い。

 

「本日は早めに休まれますか」

 

「……そうします」

 

部屋に戻り、窓辺の椅子に座った。

外は曇っていて、川の音だけが遠く聞こえる。

コメントが消えてから、まだ一日も経っていない。

なのにこれほど落ち着かないのは、なぜだろう。

もともと、あれが現れるまでは一人でいた。

婚約破棄の夜も、田舎へ向かう馬車の中も、一人だった。

一人でいることは、慣れていたはずだ。

なのに今は、静寂が痛い。

自分がいつの間にか、あのコメント欄に随分と頼っていたのだと気づいた。

情報だけではない。

困ったときに「どうするの?」と聞いてくれる声。

落ち込んでいるときに「元気出して」と流れてくる文字。

何か良いことがあれば「よかった!」と喜んでくれる存在。

そういうものが、突然消えた。

夕食はほとんど食べられなかった。

マルタさんが心配そうにしていたが、頭痛を理由に早めに退席した。

廊下を歩いていると、後ろから足音がした。

 

「エリシア様」

 

団長だった。

 

「食事が少なかったようですが」

 

「食欲がないだけです。ご心配なく」

 

「……何かあれば、言ってください」

 

短い言葉だったが、団長の声には、いつもより低く落ち着いた響きがあった。

私は立ち止まって、少し俯いた。

何かある、といえばある。

でも「頭上の謎のコメント欄が消えて孤独です」とは言えない。

 

「ありがとうございます。ただ……少し、慣れないことがあって」

 

「慣れないこと」

 

「ずっとそこにあったものが、突然なくなると……こんなに落ち着かないものなのだな、と」

 

抽象的な言い方だったが、嘘ではない。

団長はしばらく黙っていた。

廊下に、雨の音が聞こえてきた。

いつの間にか降り始めていたらしく、窓を叩く音が静かに響く。

 

「……私には、詳しい事情はわかりません」

 

団長が口を開いた。

 

「ただ、エリシア様が何かを失ったように見えるのは、分かります」

 

私は顔を上げた。

団長は廊下の窓の方を見ていた。

雨粒が窓ガラスを伝って流れていく。

 

「急ぎでなければ、焦らなくていいのではないですか」

 

「焦らない、ですか」

 

「なくなったものが戻るかどうかは、今夜わかることでもないでしょう」

 

随分と静かな慰め方だ。

でも、この人らしいとも思う。

大丈夫ですよ、と根拠なく言われるより、よほど落ち着く。

 

「……そうですね。今夜はもう、休みます」

 

「おやすみなさい」

 

初めて、団長にそう言われた気がした。

部屋に戻り、ベッドに入った。

天井を見上げると、当然、何もない。

いつもなら何かしらのコメントが流れているこの視界が、今夜は完全に空白だ。

目を閉じた。

雨の音が続いている。

川の音も混じっている。

静かな夜だ。

コメントのない夜がこれほど長く感じるとは、思わなかった。

眠れないまま時間が過ぎて、ふと考えた。

コメント欄を消そうとしている誰かがいる、ということだ。

自然に消えたのではないと思う。

あれだけ安定して現れていたものが、突然消えるには理由がある。

父の書簡にあった「不穏な動き」と、無関係ではないかもしれない。

黒幕、という言葉をコメント欄が以前に流したことがあった。

そのとき私は深く追わなかったが、今になってその言葉が浮かんでくる。

誰かが、意図的に動いている。

そしてその動きの一つが、コメント欄を封じることだったとしたら。

目を開けると、天井は相変わらず空白だ。

でも今は、ただの空白ではなく、誰かが塞いだ空白に見えた。

 

「……必ず、戻ってきてください」

 

誰に言うでもなく、天井へ向かって呟いた。

返事はなかった。

雨の音だけが、窓の外で続いていた。








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