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第一話 婚約破棄、生配信開始

その夜の舞踏会は、完璧だった。

少なくとも、最初の一時間だけは。

私――エリシア・フォン・ベルナーは、侯爵家の令嬢として相応しい礼節と笑顔を携え、大広間の隅に立っていた。

ドレスは淡い金色。

髪は丁寧に結い上げ、耳元では母の形見の小さなイヤリングが揺れている。

王城主催の春季舞踏会は、三百名を超える招待客で埋め尽くされ、シャンデリアの光が床の石畳をあたたかな橙色に染め上げていた。

美しい夜だと思う。

社交の義務さえなければ、もっと素直にそう感じられただろうけれど。

隣には婚約者――ユリウス・クロード・アルベルタ王太子殿下がいた。

背が高く、金の髪を揺らして、いかにも「私は主役です」と言わんばかりの笑顔で貴族たちの注目を集めている。

正直に言えば、この方は少々……いえ、かなりナルシストだ。

ただ、それも王族として磨かれた所作の一部と解釈すれば、まあ許容範囲……と言い聞かせてきた。

五年間。

婚約してから五年間、ずっとそうやって折り合いをつけてきた経緯がある。

今夜もそのつもりだった。

宴もたけなわという頃合いに、ユリウス殿下が不意に私の手を離した。

違和感を覚える間もなく、殿下は広間の中央へと歩み出る。

楽団の演奏が止まった。

招待客たちの視線が一点に集まり、大広間にしんと静寂が落ちる。

殿下の横には、見慣れない令嬢が立っていた。

赤みがかった栗色の髪に、緑の瞳。

どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべている。

殿下が口を開いた。

 

「皆さん、今宵は特別なお知らせがあります」

 

広間が静まり返る。

 

「私ユリウスは、エリシア・フォン・ベルナーとの婚約を、本日をもって解消いたします」

 

……は?

頭の中が、一瞬、真っ白になった。

聞き間違いではないか、と思う。

春季舞踏会に三百人が集まる場で、公開で、突然に、婚約破棄を宣言された。

じわじわと現実が追いついてくる。

追いついた瞬間、私の全身から血の気が引いた。

まずい。

これは、まずい。

貴族社会において、婚約破棄はただの恋愛問題ではない。

家と家の契約の解除であり、ベルナー侯爵家への影響を政治的損得も込みで高速計算し始めた私の脳内を、何かが割り込んできた。

ふわり、と。

文字が、空中に浮いた。

 

『はい炎上』

 

私は目を疑った。

目の前の空中に、白い光の粒子が集まって、はっきりと文字を形成している。

幻覚か、と思ったが、あまりにも鮮明だ。

しかもその文字は流れていった。

次の文字が続く。

 

『王太子の株、大暴落です』

 

ど、どういうこと――?

続けてもう一文字。

 

『令嬢かわいそう』

 

私は思わず口元を手で覆った。

文字が、浮いている。

空中に。

他の誰も気づいていない様子で、招待客たちはざわめいているが、皆の視線は殿下に向いたままだ。

見えているのは私だけらしい。

意味がわからない。

全くもって、意味がわからない。

ユリウス殿下は構わず続けた。

 

「エリシアとは性格的な不一致があり、互いの将来のために別の道を選ぶことが最善と判断しました。彼女には何の非もありません」

 

何の非もありません、と言いながら三百人の前で突然婚約破棄するのが最善の判断、という論理が全くわからないが、今はそこに突っ込む余裕がない。

空中に文字が浮かんでいるのだから。

 

『ざまぁまだ?』

『待機勢いる?』

『いるいる』

 

複数、いる!?

コメントが増えている。

明らかに一人ではない。

複数の誰かが、何かを書き込んでいる。

私の頭上の空中に。

足元がふらついた。

婚約破棄のショックと、謎の空中文字のダブルパンチである。

この状況のどちらを優先して混乱すればいいのか、判断に迷う。

殿下の隣に立つ令嬢が一歩前へ進み出た。

 

「皆様、初めまして。シェリル・ド・マーテルと申します。ユリウス様とは、以前よりお付き合いをさせていただいておりました」

 

ざわ、と広間が揺れた。

「以前より」という言葉の意味を、貴族たちは素早く読み取る。

つまり、婚約中に。

つまり、そういうことだ。

私の胃が静かに痛んだ。

 

『あっ、これ完全にアウト』

『王太子終わったな』

『シェリルさんも共犯じゃん』

 

流れるコメントが、私の感情を先取りするように核心を突いてくる。

そうなのだ。

「以前より」が本当なら、これはただの婚約破棄ではない。

婚約中の背信行為だ。

理性がようやく動き始めた。

怒りと、悲しみと、羞恥と、困惑が渦を巻いている。

ただ、三百人の前で取り乱すわけにはいかない。

ベルナー侯爵家の娘として。

父が積み重ねてきた信頼と誇りのために。

私は深く息を吸い込んだ。

背筋を伸ばし、顔を上げ、笑顔を作る。

崩れそうな笑顔だが、崩れるよりはましだ。

会場の中央まで歩いた。

三百の視線が、今度は私に集まってくる。

 

『来た来た!』

『主人公動いた!』

『どうするの?』

 

うるさい。

今それどころではない。

 

「ユリウス殿下」

 

声が震えていないか確認しながら、私は口を開いた。

 

「ご宣言、確かに承りました。ベルナー家として、改めて書面にて手続きをさせていただきたく存じます。本日は……突然のお知らせに驚きましたが、殿下のご決断を尊重いたします」

 

精一杯だった。

本当に精一杯の言葉だった。

殿下は少しだけ目を見開いた。

感情的に叫ぶか泣き崩れると思っていたのか、あるいは抵抗を見込んでいたのか――どちらにせよ、私の反応は計算外だったらしい。

 

『あ、これ令嬢の株が上がる奴』

『大人対応すぎる』

『むしろ王太子の方が空気読めてなくて草』

 

「草」というのは何のことかわからないが、全体的にコメント欄が私を応援しているのは伝わった。

伝わったが、本当に今はそれどころではない。

踵を返そうとした、その瞬間。

 

『あ、窓際の人、記録魔道具を使ってる』

 

……え?

思わず視線だけを動かした。

窓際に立つ壮年の貴族が、懐からこっそりと小型の円盤型器具を取り出している。

記録魔道具だ。

宴席での無断使用は礼儀に反するが、それよりも――この場面を、誰かが意図的に記録しようとしている。

なぜ?

 

『証拠を残したい人がいるみたいですね』

『これ後で問題になりそう』

 

コメントが教えてくれる。

問題になる、か。

確かに。

婚約破棄を公の場で一方的に宣言し、「以前より」交際していた相手を傍らに立てたこの場面が記録されれば、後日の法的手続きにも使えるかもしれない。

有利な情報だ。

私は視線を戻し、何事もなかった顔を保った。

 

「本日は、これにて失礼いたします」

 

一礼。

背を向けた。

歩いた。

広間の出口へ向かいながら、ひたすら歩いた。

 

『退場かっこいい』

『拍手したい』

『令嬢、絶対幸せになってほしい』

 

コメントが次々と流れる。

頭上を流れる光の文字が、夜の星のようにきらきらとして、なんだかひどく場違いで――それなのに、どこか温かかった。

人目のなくなった廊下に出た瞬間、私はようやく壁に手をついた。

膝が笑っている。

手が震えている。

目の奥が、ひどく熱い。

泣かない。

ここでは泣かない。

 

「……なんですの、これは」

 

空中に向かって、思わず呟いていた。

コメント欄を見上げながら。

 

『お疲れ様でした』

『ゆっくり休んでね』

『次回も待ってます』

 

次回!?

次回という概念がある!?

私はそのコメントを見て、思わず笑ってしまった。

笑えた自分に少し驚く。

笑えるような状況では全くないのに。

今夜、私は公開の場で婚約を破棄された。

五年間の婚約が、たった一夜で終わった。

恥をかかされたと言っても語弊はないだろう。

なのに私の頭上では、どこかの誰かたちが――異世界人なのか、未来人なのか、はたまた神様なのか――好き勝手なことを書き込みながら、妙に私を応援している。

意味がわからない。

本当に、まったく、意味がわからない。

でも不思議と、一人ではない気がした。

廊下の窓から夜空を見上げる。

星が出ていた。

 

「……皆様は、いったい何者ですの」

 

誰に言うともなく、そう問いかけた。

コメントは。

 

『それは秘密です☆』

 

……秘密。

私はもう一度だけ笑って、夜風の中でひとり立ち尽くした。

長い夜が、始まったばかりだ。









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