08
「……先生が?」
呆然と落とされたシアの声に、リリシアは沈痛な面持ちではいと小さく頷いた。渡したばかりの袋を持つ手に力がこもる。視線を落とし、薄く口を開いたままシアはなにも言わなかった。リリシアはそれを見て僅かに眉尻を下げ、目線を外す。
ノイマンがリリシアの元に来たのは昨日朝早くのことだ。
この領に迫ってきている魔物の大群。その存在はリリシアも聞き及んでいた。ここ数日帰ることのないファデル、難しい顔をしたエーデリア、その様子を窺い主に振りかかる厄を払うこともできない己の力不足を恥じ悔いながら、出来ることなどこれだけだと仕事をこなしてきた。その魔物の大群の討伐に、ノイマンが駆り出されたというのだ。
つい二日前のこと、エーデリアに呼び出されたノイマンはその魔術の腕を買われ、教鞭をとる仕事から一時離れることを依頼された。その内容がファデルがいる最前線への派遣。
騎士団はほぼ壊滅状態。なんとか戦線を保っている、というような状態だ。魔術を使えるだけにとどまらず、治癒魔術も使える者、それも魔力量がケタ違いとくれば喉から手が出るほど欲しい状況だった。エーデリア本人が行くことが出来ればそれが何より好ましい。だが当然、領主が、それも騎士でもないものが最前線へ出ることは褒められたものではない。そも、彼女に何かあれば誰がこの状況に対処するのか。ノイマンは話を聞く前に、心苦しそうなエーデリアの顔を見てその話を受けた。二十一個の指輪の入った袋をリリシアに託し、「お嬢様に謝罪をお伝えしていただければ」と苦笑して邸を出て行った。
話を聞いたシアは黙ったまま俯いている。リリシアはそれを見て胸が痛むのを感じた。ここ最近ノイマンとシアの距離が今まで以上に近くなったことを、近くで見ていたリリシアはわかっている。シアのリリシアに対するものとも、エーデリアに対するものとも違う親しげな言動。それとノイマンの柔らかな表情。少しと言わず思いこみの激しい性格をしているリリシアから見たそれはまるで兄妹の様で、密かに喜んでいたのだ。
それなのに、とリリシアはまたシアから視線を逸らし、悲しげに顔を歪めた。
「私に出来ることってなにもないのかな」
ぽつりと聞こえた小さなひとり言にリリシアが顔を上げると、シアは苦笑していた。彼女の中で様々な思考が巡ったことを悟りながら言葉を待つリリシアに、シアはふ、と力を抜くように息を吐き袋を見つめた。そうしてリリシアを見上げると、にっこりと笑う。
「リリシア、私、今日は裏庭で遊んでいるから、なにかあったら呼びに来て頂戴」
急に満面の笑みを向けられ目を丸くしたリリシアにそういうと、袋を持ったまま部屋を出て行ってしまった。アストラに「行くよ」と声を掛ける後ろ姿は振り向くこともない。横を通り抜けていく黒猫がリリシアを見上げ、一度だけ鳴いた。
「結界は敷いているよ。安心して試すといい」
「うん、ありがとうアストラ」
深呼吸をひとつ。嵌めたばかりの違和感の残る指をその指輪の上から撫で、閉じていた目を開けた。
いつから結界なんてものが使えるようになっていたのかは知らないが、アストラはシアの後ろで暇そうに草を尻尾で叩いている。その小さな音を聞きながら、心の内でよしと頷いた。
魔力を練る。もう難しいことではない。けれどそれを道具を通して行うのは初めてのことで、教えてくれるノイマンもいない状態に少し不安はあった。見つめる指輪に魔力が通っていくのがわかる。じわりと慣れない感覚を探り探りで進め、ようやっと指輪の表面に魔力が到達したのが見えた。魔力が目で見えるものでよかったと言わざるを得ない。
表に出てきた魔力を刻まれた魔法陣の中に流し込んでいこうとするけれど初めてだからかうまくいかず、表面をまるっと覆ってしまった。違う、と一度魔力の供給を切れば、滲んでいた魔力が空気に霧散していく。指輪から魔力が抜けたのを確認して、再び繰り返す。引いた魔法陣の線からあふれてしまう。
細く、多すぎず、均等に、溝からあふれないように。
意識すればするほどうまくいかなくて、ため息をついて草の上に座り込んだ。そのまま後ろに寝転がり尻尾をぱしぱしと動かしているアストラを見れば、その尻尾が額を叩く。
「ええ、なんでえ」
思わず額を押さえてそう零せば、アストラは猫の大きな目を細めて斜に構えた。尻尾が大きく揺れて地面を叩くのについ目を向けてしまう。
「一度表面に出すのをやめてみるといい。あまりを削り取ることは出来ないのだからあとから埋め込むのではなく、指輪の溝をコップの淵だと思いながら注いでみろ」
「コップの淵」
言われ、顔の前に手を掲げ指輪を見つめる。この魔法陣に魔力を押し込めるのではなくて、注ぐ。その感覚もいまいちよくわからないが、言われた通りじっと観察しながら溢れないように慎重に、ゆっくりと魔力を練っていく。指輪の中が魔力で満たされたのを感じながら、表にあふれてこないように、ゆっくりと。
ぷくりと、水滴のように魔力が表に出てくる。一度そこで動きを止め、脳裏にコップを思い浮かべて均等に、平らに、水面が上がるように少しずつ魔力をこめていく。ぴったり、とはいかないがすべての溝が埋まったところで魔力を止めてみれば、一番ましといえる出来になっていた。
「ありがとうアストラ。この感じで練習してみる」
「そうか。とはいえ魔力を指輪に満たす必要はないのだから、最終的には魔法陣に魔力を通すことができるようになるといい。満たす分だけ魔力の無駄だ」
「はい、その通りで。面目ない。頑張ります」
ぱしぱしと尻尾で数度地面を叩いたアストラはシアの返事を聞くと目を閉じた。興味がないのかもしれない。退屈でしかたないのだろう。けれどシアはこの練習を早急に終わらせて使えるようになりたいのだから、アストラには悪いが出来るようになるまで遊んではやれない。いや、いつも遊んであげるというよりもシアで遊ばれているような気もするが。
何度も何度も繰り返す。指輪を見つめ、魔力を通し、水平に保った魔力をそっと押し上げるような感覚で。水平に保ってそのまま押し上げるだけの練習に切り替えたり、それができるようになったら目を瞑ってもできるように練習したり、そうしてその回数が重なるにつれアストラの尻尾の音は聞こえなくなっていった。
木の中は目では見えない。だから感覚で探るしかないのだ。目を瞑ったまま、ようやっときれいな水平が保てるようになった魔力をゆっくり指輪の中で押し上げていく。アストラは目を瞑ったシアの手、その指に嵌められた道具をじっと見つめていた。
じわり、じわり、と溝のそこから魔力がにじみ出てくる。それは掘った土から水が出てくるように静かで、ゆっくりと。
「そこまで」
アストラのその言葉を合図にシアは目を開けた。魔力はもう動かしていない。見れば、指輪の溝がぴっちりと張り付くように魔力で満たされていた。
「できたね」
「そうだな」
達成感はあった。けれど思っていたより大きな感動はない。きちんとシアが魔力を込めて刻んだ魔法陣になじんだのか、魔力が安定しているのがわかる。供給を止めて指輪の中の魔力が霧散しても、溝の中の魔力はそのまま形を保っていた。
深呼吸をする。ドキドキと高鳴る胸を押さえて、シアはゆっくり指輪をはめた手を上げていった。拳を作るようにして目の前の、なにもない宙にコンと、軽くノックをするように魔法陣を捺す。
「でき、たね」
「そうだな」
シアの目の前、魔法陣は、淡い光を放ちながらそこに浮いていた。
ぶわり、とシアの中でなにかが弾けた。汗が出るような、けれどなにも出ていなくて、鳥肌が立つような、けれど肌は落ち着いていて、不思議な感覚だ。
「できた」
小さく再び呟く。アストラはもう返事をするのも飽きたのか瞬きをするだけで、それを視界に収めながらもシアは震えた。達成感、と、感動だろう、これは。
「できっ、たー!」
両手を上にあげ、ばったりと後ろに倒れる。宙に浮いていた魔法陣は意識を逸らしたからか霧散したが、それを気にせず再び指輪に魔力を通した。ポン、ポン、ポンと宙にいくつもの魔法陣を捺していく。ロケット鉛筆のような感覚だ。楽しかった。呆れたような目でアストラが見ているのに気づいてはいたが、楽しくてやめられない。何度も何度も繰り返していると、とうとう尻尾で叩かれた。
「いてっ」
「しつこい。魔法陣が置けたなら、次は魔術の施行だろう」
「そうだけどぉ、アストラはやったことないからこの楽しさがわかんないんだよ。今度ロケット鉛筆触らせてあげる。部屋にあるはずだから」
「ロケット鉛筆……約束したぞ」
「はいはい」
興味深そうに呟いたアストラが念を押してくるのに適当に頷きながら、再び魔法陣を宙に押した。風の魔法陣だ。
「逆巻け!」
特に意味はないがつい両手を上げて叫んでしまった。その途端魔法陣が光り端から風に巻き込まれるように消えていく。一瞬で小さな竜巻のようになったその風に髪の毛とスカートを押さえながら呆けていると、その竜巻はアストラの結界にぶつかって消えていった。
「できたな」
「できたね」
思わず手を差し出せば、アストラに尻尾でぺしりと返された。猫とのハイタッチは尻尾でする。なるほど。
思わずその手を見つめていれば、アストラが結界を解くのがわかった。思わず顔を上げればリリシアがこちらに走ってきている。手を振ろうとして、その顔が緊張に満ちていることに気が付いた。
「シア様! お邸へお戻りを!」
悲鳴のような声にシアは無意識に体をこわばらせた。
ノイマン一人が参加したところですぐに状況がよくなるとはエーデリアとて思っていなかった。当然だ。騎士団が三日粘ってまだ落ち着かないどころか、戦況は悪化していくばかり。それでもまだノイマンとその契約している妖精が参戦したことで、マシになった方だった。
落ち着かない戦況。届かない吉報。転送陣で運ばれてくる重体の騎士たち。日に日に疲弊していく騎士団からの連絡とノイマンの妖精から送られてきた映像を見て、エーデリアも戦線へ参加することに決めた。領主たるもの最前線に行くわけにはいかない、など、そう言っていられる状況ですらなくなってしまったのだ。王都からの増援はこない。もしあったのだとしても、これ以上まてる状況ではなかった。万が一エーデリアが命を落としたとしても、この領には娘のシアが残っている。まだ幼く、満足に領を治めることなどできないだろう。けれど心配はしていなかった。ライベルもいる。きっとエーデリアを支えてくれたように、一人で立てるようになるまでシアを支えてくれるに違いなかった。
シアがリリシアに連れられて邸の前に行くと、いつも着ているふわふわとした私服ではなく、ローブに甲冑が着いたような姿で邸の前に立つ母がいた。その姿を見てシアは息を呑む。ざわつく心を必死に抑えて、微笑むその足元まで向かった。
「必ず帰ると約束はできないわ。でも、できる限りのことをしてくる。待っていて」
そういうと優しく抱きしめてくれたエーデリアに、シアは声が震えないよう必死に喉に力を込めて「はい」と答えるほかなかった。シアとて、もうわからないとは言えない。これは魔物による蹂躙を止める戦争なのだ。言葉も通じず、感情も読めない。なんの意思の疎通もできない化け物との戦いだ。
リリシアが今にも倒れこみそうな顔でそれでも必死に立っている。夫を心配しない日はないであろう夫人が意を決して立ち上がっている。今も騎士団が命をとしてこの街を守ろうとしてくれている。そんな中で、家族を失う恐怖などで泣くわけにはいかなかった。
「勝ってきてください」
ぎゅうと強く抱きしめ返してシアがそういうと、エーデリアは僅かに目を見開き、次いで微笑んだ。必ず、と囁くように言ったかと思うとシアを話し、使用人の中でも戦闘の訓練がなされている者たちを連れて転送の陣に入り込んだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
手を振ったその瞬間には、すでにそこには誰もいない。この瞬きのようなほんの短い時間ですでにエーデリアたちは戦場へと入っているのだ。平和な世界から来たシアには想像もできない。けれどそれが犠牲のないものだなんてことも無邪気には信じられない。どれほどの血が流れるのか、考えるのすら恐ろしかった。
「シア様」
震えるシアの手をリリシアが握った。振り仰いだその顔が必死に笑顔をかたどっていることがわかって、シアはぎゅうと目を瞑り抱き着く。
「部屋に行こう」
「はい」
せめて、魔物の目的がわかればいいのに。そう思うけれど、それこそ魔物が言葉をはなしてくれなければ叶いもしない夢物語だ。
それから二日が経ち、状況は好転した。いや、好転、とは言い難いかもしれない。騎士団はほぼ壊滅状態、重体の騎士たちであふれかえり、回復魔術を使えるものも魔力が枯渇しかけておりもう動けない。副団長のトアレも重傷を負い、ファデルもまた同様だ。エーデリアの回復魔術があってこそそこでとどめられたようなもので、もう次の襲撃にはとてもではないが対応できない。それでもこの戦いが一時終結したのは、魔物たちが唐突に撤退していったからであった。この結果はひどく情けないものだろう。それでも戦線は保った。その事実こそが、一番重要だったのだ。
転げるように転送陣から現れた騎士の一人は、慌てふためくリリシアに治癒魔術の使えるものをありったけ訓練所へと叫び自身も訓練所へ走っていく。すでに領民たちにも知らされたであろう戦いの終わりは悲惨なものだったが、騎士団が街を守りきったその事実は領を沸かせた。
街中から少しでも医療知識のあるものや治癒魔術の使えるものが訓練所へと押し寄せる。シアもまた、邸の者たちとともにそちらへ向かっていた。魔力量だけは多いのだ、覚えたての魔術とてないよりかはよほどいい。
医務室に収めきれず訓練所のあちこちにシーツを広げただけのお粗末なベッドとよべるかも怪しい場所に寝かされる騎士の姿が見えた。自宅で休める場所があるものはそちらに行ったらしいが、それでもあふれかえっている。血の臭いがした。砂埃と、汗と、血の混ざった酷い臭いだ。それがこの街を守った結果のものだと思えば、シアはリリシアが口と鼻にハンカチを当ててくるのを拒み、進んだ。
リリシアに治癒魔術は使えない。当然医者でもない。リリシアがここに来たのは汚れ続けるシーツの交換や洗浄、動けない騎士たちの装具を外すしたりする手伝いのためだ。なにも治すばかりが医療現場ではない。しかし邸にいた治癒魔術が使える使用人は三名しかいなかった。つまりここで増員されたのはシアも含め四人だけ。いいやアストラも含めれば五人だろう。だがそれだけの人数で、これだけの騎士をどうさばけばいいのかシアにはわからなかった。そもそも、シアはここで何ができるのだろうか。
「シア様だ」
「こんなところに来させて、申し訳ねえ」
比較的傷の浅い騎士の二人が壁に寄り掛からされて座っていた。顔に覚えがある。ファデルとここに立ち寄った時にみた人たちだった。立ち上がれはしないのだろう。下に敷かれたシーツはすでに清潔なものではない。傷はふさがっていないのだろう。
「そんなこと言わないでください。大したことは出来ませんが、それでも私も力になりたいんです」
言いながら治癒魔術をかければ、彼らは動くこともできないくせに、にっと歯を見せて笑った。
「オレたちは傷も浅い。治してくれりゃ、ほかの手伝いに行ける。お願いしてもいいか?」
「もちろんです」
なるほど、浅い傷なら治癒魔術でも治せる。治癒魔術はあくまでも治癒を促進するだけ、ノイマンは確かにそう言っていた。であれば深い傷は医師に任せた方がいいのだろう。少しでも患者の負担が減るように、いくつもある小さな傷を少しでも治していく。それが今のシアにできることだった。
方針を教えてもらえたのか、とふと気づく。優しい人たちだ。急にこんなところにきてシアが混乱していることをわかっていたのかもしれない。
「あー、オレたちの自慢の団長はいい娘さんを持ったよなあ」
もう一人がぐっとかみしめるように目を瞑りそういうものだから、この人たちはこんな時でもそんなことを言うのかと目を丸くしてしまう。いいや、もしかすると緊張でガチガチになっているシアを気遣ったのかもしれなかった。
「オレもいつかこんな娘を持つんだ……」
「やめとけよ、おまえに嫁さんが来るとは思えない」
治癒魔術を使い始めたシアをしり目に、騎士たちが話し出した。それを聞きながらお嫁さんか、とシアは思わず考えてしまう。この領の中でなのか、それとも訓練所を出て王都でなのか、はたまた他領に就くのか。
「ばっか、それはもう美人の嫁さんが来るに決まってんだろ。お前の度肝を抜いてやる」
「剣ばっか振ってる上に国に命ささげてんだ、こんなオレらのとこに好んで来る嫁さんなんかいねーよ」
「おまえ悲しいこというなよ。そのうち運命の出会いがあるに違いねえぞ。信じて待てば勝ちは得られるんだ」
「運命の出会い」
「わっ笑うな! あるかもしんねーだろーが!」
「おまえじゃねえよ!」
「笑かすな! 傷に響く!」
「むしろ笑うな! オレは真剣だ!」
やいやいと頭上で交わされる会話にちょくちょく気を取られそうになっていたシアは、運命の出会い、と爆笑しだした騎士につられて周囲も笑いだしたのに目を丸くしてしまう。寝ころんでいた人が苦し気に呻きながら爆笑している。これは大丈夫なのだろうか。
気が付けばすっかり緊張の抜けている自身に気づき、シアはもう一人に治癒魔術をかけながら心の中で感謝した。
読んでくださりありがとうございます。




