02
「どう、して」
僅かに見開いた視界に映るのはエーデリア様の顔だけだった。無理にお母様と呼ばなくていいと私に言ったときのような、あの時と違って涙のない優しさと愛しさに満ちた柔らかな表情。
そっと頭を撫でる手も優しくて、けれど言葉が理解できないまま。
「どうして」
呆然と繰り返せば、エーデリア様は一度目を伏せた。
「ファデルとノイマン先生はあなたに言うつもりはないようだったけど、それこそあなたが知った時、傷ついてしまうと思ったの。あなたは知るべきだわ。あなたのせいではないという事実を」
そういって視線をあげたエーデリア様の目は真剣なものになっていた。私に気を使ってあなたのせいじゃないと言っているわけではない、ということなんだろう。
けれどそもそもの意味がわからない。だって魔物が集まってくるのは、私の魔力のせいだったんじゃないのか。それを感知できないようにしたんじゃないのか。なのに魔物がまだ来ている? それが私のせいじゃない? わけがわからない。
「混乱しているわね。大丈夫。ちょっと歩きましょう。執務室まで一緒にいってくれるかしら?」
大丈夫、と言いながら頭を撫でると立ち上がり、片手に書類を持ち直すと左手を差し出した。それを見て混乱したままその手を取る。エーデリア様は微笑むとゆっくり歩き出し、一緒に歩きだした私を見てさらに目元を弛めた。
「まず魔物だけど、あれからもどんどん数が増えて、さらに強力なものが混ざるようになったわ。けどそれはここ、シルラグルだけの被害ではなかったの」
「えっ?」
前を向いて話しだしたエーデリア様を見上げる。エーデリア様はまっすぐ向いたまま続けた。
「ユーオリアも被害にあっていたわ。リーレン・ブラヴァウトが上に報告はしてくれたと先生から話はあった。じき領民にも知らせるつもりよ。でもあなたの魔力は感知されないよう処置した上、ユーオリアも被害にあっている以上あなたは原因じゃないし、私たちと同じ、原因不明の現象の被害にあっているだけ。決して自分を責めないで。あなたは最初から、この件には関係がなかったのよ」
話しながら、頑なにこちらをみないエーデリア様は、お母様はなにを思っているのだろう。しっかりとした声で話すお母様の目は真剣なもので、恐らくこれは領主としての顔なのだ。あの日、魔物のことを知った日のような。
私は関係がなかった。それをそのまま喜んでいい事態でないことはわかる。むしろ私のせいだったほうがよっぽどましだったんじゃないだろうか。だって原因不明と言ったのだ。原因がわからないのでは対処のしようがない。応戦し続けるだけでは疲弊していくだけだ。街の人たちにも知らせようというほどなのだから、恐らく騎士団は、そろそろ保たない。
お父様が、ええい一々おをつけるのが面倒くさい。父様はまだピンピンしているように見えていたけど、それだって私に会う前に母様に治してもらっているのかもしれない。私に隠そうとしていたのならあり得ることだろう。
ちらりと横を歩く母様の顔を窺う。下ろされることのない目はもしかしたら先を憂いているのかもしれなかった。
「厳しいのですか? 街は危険にさらされる可能性がある、ということですか? 騎士団の被害は深刻ですか?」
無意識に握る手に力が籠る。母様は私の質問に視線を下ろすと、目を合わせて瞬かせた。それに首を傾げれば、一度視線を外し頷く。
「そうね。大分厳しいわ。騎士団もギリギリ、と言ったところね。負傷者が多すぎるの。私が怪我を治そうにも、治せる怪我にも限度がある」
厳しい表情でそういうと、けれどコロリと表情を変え微笑んだ。驚いて目を丸くすると、手をほどいてゆっくり頭を撫でてくれる。
「けれど街はまだ大丈夫よ」
目を瞬かせているとそういいながら手を繋ぎ直しまた前を向いた。
「いいえ、大丈夫、というのもおかしいわね」
どういうことかと見つめていれば、自分で言った言葉に首を傾げると視線を外して、考えるように口元に手をあてる。「ええと」と小さく零れた声に首を傾げると、私を見て笑った。
「簡単に言うと、街には結界が張られているの。この領主邸がこんなところにあるのは、そのためなのよ。この邸の下に稼働し続けている魔法陣がある。その魔法陣による結界が下の街を覆い守ってくれているの。それを保つことも私の、シルラグル領主の仕事のうち」
結界。まさかそんなものがあったとは。もしかして街の鐘の音がここまで届かないのはそれと関係があるんだろうか。先生にはそんなこと教えてもらえなかったけど、先生はこの領の人じゃなかったから知らなかったのかもしれない。
母様はまた表情を引き締め前を向いた。私もつられるように前を向いて、執務室のドアが近づいてきたことに気付く。
「だから少しだけ騎士団には休んでもらって、やり過ごせないか、とファデルと話し合ったの。正直街に魔物がたどり着いたことがあるとは聞いたことがないから、結界自体が保つかどうかは賭けになる。領民を危険にさらすことと変わりないわ。だからこそ、領民にも話して、了解を得てから、と決めたのよ」
随分と恐ろしい賭けだと思った。負ければ領民が危険にさらされる。何人も死ぬことになるだろう。けれどずっと張って来た結界だ。それが役立たずだなど、考えたくはない話だ。何より騎士団が壊滅すればそれこそ街は一巻の終わり。結界が保ってくれることに賭けるしか、今はないのだろう。
黙り込んでしまった私を見下ろし、繋いだ手を大きく振っていっそ陽気に歩き出したのは雰囲気を変えようとしてくれているのかもしれない。私はそんなに深刻そうな顔をしていただろうか。深刻な話であることに、間違いはないけれど。
その足が止まる。見上げれば、困ったように眉を下げ笑っていた。
「着いちゃったわね。送ってくれてありがとう」
ぱっと離された手を見つめる。母様は頭を撫でると「またあとで」と小さく手を振り、歩き出した。その揺れたスカートを、
「シア?」
掴んで、引きとめた。
動きを止めて大げさに振り向いた母様が、ぱちりと目を瞬かせる。それに自分の手の動きに自分で驚いていた私も目を瞬かせ、はっとして離す。誤魔化すように手を振るもなにを言えばいいのかがわからない。
「どうしたの?」
ゆるりと目を細め、目の前にしゃがんで目線を合わせてくれる。それを見て、なんだか気まずい気持ちになって目を逸らした。
ぴゃっと下ろした手をすり合わせ、視線を迷わす。その手を取って優しく撫でられ、そっと窺うように目を合わせた。
「……一緒にいても、いいですか?」
恐る恐る口にした言葉に、母様は目を丸くして驚いた様子を見せ口を開けた。言う言葉が見付からないのか、そのまま閉じられる。優しく握られる手をほどくとハッとしたようにまた口を開き、けれどその口が言葉を吐く前に強く握り直した。
「お邪魔にはならないようにしますから」
真っ直ぐ目を見つめておねだりをすれば、母様はこれでもかと言うほど目を見開き硬直した。この表情筋ではどんなおねだり顔になっているかわからないが、それでも効果はあったのか、それともドン引きされたのか。
動きのない母様にやはりまずかったかと目を逸らしたその途端、口から「ぐえっ」と漏れた。ぎゅうと書類を投げ捨てた母様の腕で抱き潰されたのだ。
両の目を瞑り「はー」とため息のように声を出しながらぎゅっぎゅと力を込められ、くの字に曲がった体に肺から押し出される空気のお陰で苦しくてたまらない。腕を叩いて解放を訴えようにも、拘束するように抱き締められているおかげでどうにもならない。精々が手のひらで自分のももを叩く程度だ。
「もうかわいい……なんでも言うこと聞いてあげる……」
私はこの行動に覚えがある。当然されたことがあるわけではない。脳裏に浮かぶのはアニメの登場人物がペットをぎゅうと抱き締めている姿だ。暴れるペットを構わず、ぎゅうと。こんなこと、現実でする人間がいるとは。しかもそれが母とは。
まずい。そろそろ命の危険を感じる。なんとか解放を、解放を。
うぐぐと胸に押し当てられる母様の頭、その頂を見つめると、母様の向こうにいつのまにかアストラが現れていたことに気がついた。必死に助けてと目で訴えれば、その小さな体でぴょんと、なんと体当たりをしたではないか。
「殺す気か」
変わらず平淡な声音であるように思えるのに、どことなく焦っているように感じたのはその行動ゆえだろうか。
驚きはしたがすぐに離された腕に思いっきり息を吸い込み噎せた。突然の攻撃に驚いたのだろうアストラを振り向いていた母様が、ぎょっとした顔で私を見てサアと顔を青くする。自分の行動を理解したのだろうか。行動する前に考えて欲しかったと思わないこともない。
慌てた様子で謝罪しながら背中を撫でる母様を私もなだめようとして、お互いわちゃわちゃと動く不思議な行動をとってしまった。ちょっとして呼吸が落ち着いたところで大丈夫だと言えば、おろおろと「本当に?」とか「ごめんなさい」とかいう母様に苦笑する。本当に大丈夫だとつたえ、ご一緒することになりました。
というわけで、現在執務室です。
ご迷惑にはならないようにする、と言った手前動き回るのもな、と部屋の隅で椅子に座っているのだけど、母様はちょいちょい振り向いて私を見ていた。明らかにお邪魔になっている。つい苦い顔をしてしまいそうにもなるが、母様がおろおろとしだすのでそうするわけも行かない。
なんだかこのたった十数分ほどで母様の印象がガラガラと崩れた気がするのですが、私はいったい何を体験しているのだろうか。
母様の向かう机の上にはお手紙と書類が積み重なっていた。それを一つ一つ手にとっては手元のノートらしいものになにかを書き込んだり、お手紙の返信らしいものを書いたりと忙しそうだ。だのにこちらを気にさせてしまって、我が儘を言わずにあそこで別れておくべきだっただろうかと思ってしまう。後悔先に立たず。とはいえスカートを掴んでしまったのは無意識だったので今時間が巻き戻ったところで変えられそうにもない。
そこまで考えて、思わず自分の手を見つめた。
なぜ、引き留めたのだろう、と。
なにか不安があったわけではない。聞きたいことがあったわけでも、寂しかったわけでも、ないはずだ。引き留める理由が自分でわからないのだから、それこそ引き留められた母様だって困惑するはずである。自分で気付けない何かがあるのだろうか。
首をひねったり胸を見下ろしたりしたところで答えは出てこないようで、膝の上で丸くなりゆらゆらと尻尾を垂らすアストラを撫でた。くすぐったかったのか耳が小さく二度動き、それにちょっと和んだ。
それにしてもあんまりにもこちらを気にするものだから、なんだかおかしくなってきてしまった。またも振り向いた母様が笑っている私を見てきょとんと目を瞬かせ、それを見てアストラを膝から下ろす。
「今は何をしておられるんですか?」
「え? ああ、今はね、今月の領民の収入を計算しているの。お給料を出してるのよ」
「お給料? を、領から出すんですか?」
思わず目を丸くした私に母様はくすりと笑み手招いた。横まで移動して覗き込めば、ノートには数字がいくつもかかれている。帳簿というやつだろうか。
「うちは少し特殊なのよ。領民は領の労働者として雇用されているの」
「労働者?」
「そうよ」
頷くと母様は机の隣の棚から本を一冊取り出した。これもなにかの帳簿のようだ。
「うちの特産品については覚えてる?」
「はい。ガラス細工ですよね。ユーオリアにお邪魔したときつけたお花のような」
開きながら聞かれた言葉に頷けば満足げに笑み、開いたページを指差す。私が見ていいものだろうかと思いつつ見れば、それは名簿のようだった。ガラス職人と一番上に書かれたそのページには人の名前が連ねてある。
「ここに名前が載っているのはガラスをつくる職人たちよ。この職人たちはシルラグルが雇っていて、成功報酬として領からお給料が出るの。働きに応じてってことね。この職人たち以外にもガラス職人が作ったガラスを細工する職人、その細工を使ってものをつくる服飾の職人、ガラス関連だけじゃなくて農家さんもそう。そしてそれらを売る小売業、飲食物の製造と販売。そういうあらゆる職業についている人は、全員シルラグルの従業員なの」
領民は従業員。なんだかあまりいい響きには聞こえない。
「どうしてそうなっているとかというと、ここが他とちがうところよ」
不穏なものを感じていた私に母様はウインクをひとつするとページをめくった。
書かれているのは私にはよくわからない数字たちだ。
「シルラグルは特産品であるガラス細工を売ることでなりたっているわ。他の領ほど裕福ではないの。そしてそのガラス細工を他領に宣伝することが領主の仕事でもある。そういった宣伝、交渉、他領への販売。それらの手間賃をガラス関連の職に就いている人の給料から引いて、残ったものを渡す。他の職に就いている人からは家賃のようなものだと理解してもらって税を引いているわ。ガラス職人からは貰わないのかというとそんなことはなくて、率を下げてやっぱり引いている。それらすべてを了解してもらって、この領は成り立ってるの」
驚いたし、よくわからなかったけど強制労働というような意味合いではないことはわかった。
あくまでも領主と領民という上下関係ではなく、雇用者と被雇用者ということだろう。
「いつかあなたも私のあとを次ぐことになる。シルラグルの特色は今からわかっていて損はないわ」
先を思ってか楽しげに笑った母様を思わず見つめてしまう。まるで私が継ぐことが決定しているかのような言い方だ。いや、このまま下に子供が産まれなければそうなるのだろうと以前にも思ったが、この先もう子供はできないかのような。
不思議そうに見つめる私に母様は首を傾げ「あ、」と口を開けた。手で隠した口元は次いで苦笑の形をとり、なぜか頭を撫でられる。
「そういえば、アングレアさんのところの兄妹と仲良くなったのだったかしら。ついさっきリリシアが勇んで報告に来たわ」
思わず「えっ」と驚きの声を洩らし、少しおかしそうに笑った母様から目をそらす。いやだって、報告って、もしかして今までもリリシアは私の行動を報告してたのかなと、ちょっと驚いて。
「そうね、あなたに兄弟はきっとうまれない」
微笑みながら目を伏せた母様に目を瞬かせれば、目を合わせて柔らかく笑んだ。
「シルラグルはずっとそうなの。みんなひとりっ子で、男の子が生まれたこともないのよ」
読んでくださりありがとうございます。