四 シルラグル領
「今日は行きたいところがあるの。いい?」
いつものように朝の支度のためやって来たリリシアは、私の言葉にきょとりと目を丸くした。笑って「決まりね」と首を傾げれば、リリシアは気を取り直してといった風に頷き膝を落とす。
「かしこまりました。どちらへお出かけで?」
そう言うと笑みを浮かべたリリシアに、口角を上げ悪戯な笑みを浮かべた。
「お友達を作りにいくの」
ココン、と木のドアノッカーを鳴らす。中から元気な声が「はいはーい」と聞こえ、足音が近づいてくるのがわかった。
「はいお待ちどー……あら、お嬢様じゃないか」
笑顔でドアを開け、こちらの姿を見るときょとんと目を丸くしたのはあの日家にかくまってくれたおばちゃんだ。アンナとトフィーのお母さんである。
午前に先生との授業は済ませ、お昼を取ってから街に出てきたのだ。
「こんにちは。遅くなりましたが、お礼に伺いました」
「はいこんにちは。お礼ってなんのだい?」
笑ってスカートを摘まみ小さく膝を落とすと、おばちゃんはそんな私とその後ろのリリシアを見て目を瞬かせ首を傾げた。言いながらドアを開けて招き入れてくれるおばちゃんの好意に甘えてお邪魔し、ドアを閉めてこちらに向き直った不思議そうな顔に改めて頭を下げる。
「あの日、家の中に入れてくださったので、そのお礼に」
顔をあげてそう言うとおばちゃんは一度視線を外し、合点が言ったというように「ああ」と頷いた。そうして苦笑を浮かべ、手をひらひらと振る。
「なんだ、そんなのいいのに。当然のことだよ」
「それでも嬉しかったし、助かったので」
首を振ったおばちゃんにリリシアが持ってくれていた紙袋を渡すと、「悪いね」と眉を下げながらも笑顔で受け取ってくれた。
一先ず今日の目的は達成だ。こうやって少しずつ接点を作り、あの二人と友達になっていきたい所存。今回はお礼という意味もあるけど、この先もお菓子を献上しに来るつもりだ。お菓子とか、使用人と同じ方法で懐柔しようとしてるって? 仕方ないね! これしか方法が思い付かないからね! 私だったらお菓子で釣られればイチコロだよ。えっあの人? いつもクッキーくれる人って、という具合である。完璧な計画だ。
満足して頭を下げ、また、と出ようとするとおばちゃんが待ったをかけた。動きを止めて見上げれば、おばちゃんは前にも見たカラリとした笑みを浮かべ、腰に手を当てる。
「今日はこの後も時間あんのかい?」
「え? ええ、一応」
首を傾げつつ答えると「ちょっと待っといで」と手で制し、クッキーの入った紙袋をテーブルに置いた。リリシアを見上げれば、リリシアも私を見て首を傾げている。視線をおばちゃんに戻せば階段に向かっていたが、上るわけではないらしい。手すりに手を掛け、上を見上げた。
「トフィー、アンナ。あんたたち今日暇だろう? ちょいと降りといで」
少しだけ声を張り上げた言葉に思わず口を押さえる。しまったそういう流れか、と。
「なに?」
「はーい」
だるそうな少年の声と明るい少女の声に口を押さえたまま眉を顰めそうになる。心の準備ができていない。
そりゃ友達を作りにとは言ったけど、友達のなりかたってどんなだった? あの日少しは打ち解けたような気はするけど、一日を占領するほどでは絶対にない。領主の娘だからと接待されるのは望むところではないし、どうしよう。
トントントンと軽快な足音が、床につく前に止まった。恐る恐る見れば、あの日怯えるように兄の影に隠れていた少女が階段の中程で私を見て目を見開いている。あちゃー、と顔が歪みそうになった。
遅れてやって来たゆったりとした足音もアンナの様子を見てか止まり、ひょっこりと腰を曲げて覗き込んできた。そうして僅かに目を見開くと顔をしかめ、逃げるように陰に戻っていく。足は見えたままだから、本当に逃げたわけではないようだ。
「なにしてんだいさっさと降りといで」
片眉を上げたおばちゃんの声にアンナがハッとしたように口を開き、戦慄かせだした。その顔が真っ赤に染まっていくのを見てまたあちゃーと顔が歪みそうになる。下手したら本当にあちゃーと言ってしまいそうだった。
「なんで、なんっ、な、えっ、え、え、お、おにっ、トフィー!」
「ちょっと、アンナ!」
急にわたわたと動き出しうろたえたかと思うと、踵を返し階段を上がっていってしまった。おばちゃんが驚いたような顔で階段を覗きこんでいるけど、足だけが見えるトフィーが振り返ったあたり、そのまま通り過ぎていってしまったのだろう。名前を呼んでいたのにどういうことだ。
思わず目を瞬かせていると、大きな溜息が聞こえた。おばちゃんでもリリシアでもない。ということは残されているトフィーだろう。彼はゆっくり階段を下りてくると、諦めたような呆れたような、複雑でいて力のない顔をしていた。読めないというべきだろうか。
「悪い。あーいや、です?」
頭を掻きながら突然謝罪したかと思うと、視線を斜め上に外し眉を顰めた。それに首を傾げ、ああと内心頷く。敬語を使いたいのかもしれない。トフィーはまた小さく溜息を吐くと、私を見て首を支えるのが面倒だと言わんばかりの動きで首を傾げた。
全体的に気だるげな雰囲気がするのはなぜだろうか。話し方は結構しっかりとしている気がするのに。
「あいつ、あんたが、あなたが帰った後は綺麗だとかお姫様みたいだとか煩かったんですけど、あんな性格なもんで、素直になれないみてえなんです」
「トフィーやめて!」
悲鳴が聞こえた。思わず階段の方を見れば、真っ赤な顔だけがひょっこりとこちらを、というよりトフィーを睨みつけていた。面倒そうに振り向いたトフィーがひらひらと手を振り、おばちゃんを見る。
「母さんはとりあえず、畑行ってきなよ。俺いるし、アンナもそのうち出てくると思うし」
「そう? じゃあ行ってくるわ。ごめんなさいねなんのお構いも出来なくて。息子たちと遊んでやって」
おばちゃんはトフィーの言葉に目を丸くすると、私たちを見て申し訳なさそうに眉を下げた。それに慌てて首を振る。
「いいえ! 突然お邪魔したのはこちらですし、申し訳ありません」
おばちゃんはそれに「いいのいいの」と笑って手を振り、エプロンを外して「それじゃ」と家を出て行った。トフィーと共に「いってらっしゃい」と手を振りつつまさか本当に行ってしまうとはと内心驚く。領主の家のものとはいえ、他人を二人も家に入れているのにいいのだろうか。
ちらりと玄関を見ていたトフィーを見れば、むこうもこちらを見た。思わず動きを止めればその目がふいと逸らされ、以前も座らせてもらった食卓だろう席に案内される。
「えっと、あの、本当に突然ごめんなさい。長居するつもりはなかったのですが」
「いいって。母さん結構強引だし、あんなだけどあいつも喜んでる」
あとについて行きながら背中に言えば、トフィーは振り返りもせず階段を指さした。アンナの顔はすでに引っ込められ、階段に座っているのかお尻から下、曲げられた足だけが見える。気になるけど、出てくるのは恥ずかしいと言ったところだろうか。それに思わず笑うと、トフィーに椅子を引かれ、礼を言って座った。リリシアは私の後ろに控えたままだ。トフィーも座る気はないのか私の横に立ったままである。なんだが居心地が悪いんですが。
ところで私よりも背が高いけど、彼は一体いくつなんだろうか。アンナが同い年だと言っていたはずだから、お兄さんである以上それよりは上だろう。
「アンナ、そろそろ降りてきたら? お菓子貰ったよ」
「い、いい」
おっ、お菓子は効果的らしい。なかなかに興味を引かれていそうな上擦った声だ。作戦は間違ってはいなかったとみていいだろう。肝心の本人が下りてこないけど。
トフィーとも友達になれるのならなりたいところだが、彼はどうにも表情が読みづらい。何を考えているのかさっぱりわからないのだ。無表情とは違うが力が抜け過ぎなのである。ご機嫌を取ることが友達への道ではないけれど、ここまでわからないとなかなか付き合いづらそうだ。
あっ、無表情だった私が言えることじゃなかった。結構顔動くようになったから今は違うけども。
「あいつお菓子作りが好きだから、こういうの好きなんだ。ちょうど昨日あいつが焼いたのあるけど、食う?」
「えっそうなんですか? よければ、是非!」
台所の棚を親指で指しながら言った彼に、つい手を合わせて上機嫌になってしまった。なんてこった、こっちが懐柔されてしまうぞ。まあこっちは元から柔らかくさせられるような態度なんてないんですけどね!
頷いた私に小さく笑うと台所に向かった彼に、もしかして最初からそのつもりで座らなかったんだろうかと思った。っていうか今さらだけど、敬語なくなってるね? 親の前でだけのやつだったか。まともな敬語が話せない私に言えたことじゃないけどとってつけたような「です」だったもんね。
アンナは自分の話題が出たからかあわあわと手を暴れさせている。たまにお尻を浮かせている当たり手作りお菓子が出てしまうのを阻止したいのかもしれない。照れ屋なようだし、わからないでもない。
片手にコップを三つとお皿を持って戻ってきたトフィーはコップの一つを私の前に置き、お皿をテーブルの中央に置いた。クッキーだ。まごうことなく。五歳が作ったとはとても思えない出来である。
ファデルさ、まじゃなくて、お父様も五歳児はもっと動けると思ってた的なことを言っていたし、この世界の五歳児は私の基準で考えるとおかしいのかもしれない。もっとこう、せめて小学校に上がった後くらいな技量じゃないだろうか。
「すごいですね。おいしいそう」
「食べてやってよ。家族以外の感想聞いたことないだろうし」
「感想、は、求められてもまともなことは言えないかもしれませんけど、遠慮なく!」
お皿に並ぶのは渦巻きになっているものとチェッカー、あとドライフルーツのようなものが埋めてあるクッキーだ。普通に缶に入れて売られていても可笑しくない見た目をしていた。その中から黄色と白の渦巻きになっているものを手に取り、「いただきます」と口に放り込む。
「!」
おいしい!
あり過ぎず、かといってなさ過ぎない程良い甘み。白がプレーンで、黄色はなんだろう。少し酸味のある甘さがベリー系の果物の様だ。歯触りはサクサクしているのに口の中でほろりと崩れた。おいしいよこれ!
呑みこみ、コップのコーヒーを少し飲んでからトフィーを見た。食べている顔から丸わかりだったのかもしれないが、トフィーは頬杖をつきながら口角を少しだけ上げて私を見ており、ならばと階段からこっそり覗き見ていたアンナを見る。びくりと震えた姿に笑いかけた。
「とっても、とってもおいしいです! こんなお菓子が作れるなんて、すごいですね!」
言えば、アンナは目を丸くした後数瞬固まり、目を瞬かせた。首を傾げ「ほんとに?」と小さな声で呟かれた言葉に頷き、椅子から立ち上がる。階段の下まで小走りで向かえばアンナは私を目で追って、おばちゃんみたいに手すりに手を掛けて見上げるとぽかんと口を開けた。
「本当です。あなたのお菓子はとてもおいしい」
笑えば、アンナは息を呑むように肩を竦めた。口を両手で隠すとまた顔を真っ赤に染め、視線を迷わせるとゆっくりと体から力を抜く。その様子を見守っていると、赤い顔のままぎこちない笑みを浮かべた。
「あ、ありがとう。うれしい……です」
結論から言おう。アンナはちょろかった。
決して悪い意味じゃない。というか私にとってはとてもいい結果だ。まさか初日にこんなに仲良くなれるとは思っていなかった。だがあまりよろしくない点もある。
「あ、あの、あのね、こっちはルツの実が入ってるの。お、おいしい?」
止まらない餌付け……!
なんとアンナが作ったお菓子というのはあれだけにとどまらなかったようだ。次から次へと出されるお菓子に私は溺れそうである。トフィー、ぼーっと見ていないで助けて欲しい。
「それで、こ、こっちがアットを使っていて、」
止まらない説明と止まらないお菓子を進めてくる手。リリシアも背後でおろおろとしているのがわかる。わかるよその気持ち。好意だけどそろそろ私限界だもんね。お夕飯食べられる自信ないもんね。お腹がはち切れちゃう!
「アンナ、そろそろ終わりにしといたら? なにも今日全部食べてもらわなきゃいけないわけじゃないんだから」
「あっあっそうだよね、うん。あのね、えっと、これ、気に入ってくれたなら、その……」
そろそろ限界だ、と次の手を断ろうと口開くと同時、トフィーがアンナの肩をぽんと叩いた。はっと正気に戻った様子のアンナはぴゃっと手をひっこめ、視線を落として迷わせる。指をもじもじとすり合わせながらちらちらと私を見ていた。申し訳ないことに何を言いたいのか察すことができなくて首を傾げれば、トフィーがひらひらと手を振る。
「気に入ったなら持って帰ってくれていいって。うちはこいつが毎日作るから、お菓子は有り余ってるし、貰ってってよ」
誤算というやつである。ある意味結果オーライだが、アンナが毎日こんなにお菓子を作るというのならお菓子の差し入れは逆効果だったかもしれない。今日だけで済んでよかった。切実に。気付かずにいやがらせをしてしまうところだったかもしれない。
「よろしければありがたく、頂いて行きます」
笑って頷くとアンナがほっとしたように胸をなでおろし、それを見ながらコーヒーを一口。トフィーは気がきく。このコーヒーはミルクだけで、砂糖はちっとも入っていないのだ。こうなる未来が丸でわかっていたかのよう。
「アンナさんは本当にお菓子作りが好きなんですね。そうやって打ちこめるものがあるのって、すごいと思います」
ふふ、と思わず漏れた笑みに口元を隠せば、アンナは目を見開いた後顔を真っ赤にして俯いてしまった。馬鹿にしたわけじゃなかったんだけど、言い方が悪かったかしら。
「とりあえず今日はもう帰りなよ」
急に席を立ったトフィーが私たちの持ってきた紙袋の中身をアンナのお菓子と入れ替える。それを渡され、思わず目を瞬かせてしまった。
「そろそろ雨が降るし」
「え?」
袋を受け取りつつ言われた言葉に顔を見上げる。トフィーは変わらぬだるそうな力の抜けた顔で窓の外を見ていた。つられるように外を見てみるが、眩しいほどに晴れているように見える。
「お、お、おにい、えっと、トフィーの言うことは当たるから、その、は、早めに帰った方が、いいと思う、よ」
トフィーの隣に立ったアンナにまで言われ、リリシアを見上げた。リリシアも困惑した様子で、でもそう言うのなら、と笑みを浮かべた。
「それでは失礼させていただきます。お邪魔しました」
頭を下げてそう言えば、アンナが何故かまた私を見つめ、トフィーが頭を掻いた。首を傾げれば「それさ」と一度視線が外される。
「次来る時はその言葉遣いと、あと服、汚れてもよさそうなのにしてきてよ」
「言葉遣いと、服? ですか?」
目を瞬かせれば、トフィーはゆるく口角を上げて「そう」と頷いた。
「ですとかますとか、いらないし。むしろ失礼なのって俺たちだろ。こんなのに使わなくていいよ、敬語とか。それにアンナの友達になったんだし」
「……トフィーさんは、友達になってくれないんですか?」
おっと、なにかを間違ったようだ。トフィーは笑顔を消すとむっつりと口をへの字に曲げてしまった。「帰った帰った」と背中を押され、慌ててついてくるリリシアと共に家の外まで出されてしまった。
「じゃ」
「トフィーはて、照れてるだけだから、気にしないで!」
ひらひらと力なく手を振ったトフィーが戸を閉めるその隙間から、アンナがぎこちない笑顔でそう言った。目を丸くすると、閉まった戸の向こうでキャンキャンとアンナの声が聞こえてくる。喧嘩でもしてるのだろうか。
アンナはどうやら、家族以外にはああなってしまうらしい。おばちゃんにも元気に返事をしていたしそういうことなのだろう。内弁慶、というやつだろうか。かわいいと思ってしまうのは私より背があるとはいえ小さな女の子だからか。
「いいご兄妹でしたね」
「うん」
「また来ていいとおっしゃられていましたね」
「うん」
「次は、お一人でお邸を出られてもいいんですよ。もちろん出先は領内だけですが」
またうん、と頷こうとして、はたと動きを止める。隣を見上げれば、リリシアはどこか寂しげに目を細め笑っていた。
「当然ではありませんか。シア様は私などに許可を取らずともいいお方なのですから。なにも常に私と共にいる必要などございません」
思わず口を大きく開けて反論しようとして、なにを言えばいいのかわからなかった。ユーオリアでの失敗は覚えている。使用人に貴族が簡単に声をかけるべきではないのだと帰ってから教えられた。門を開けた彼に声をかけることは、ましてお礼などをいうのは侮辱に値するのだと。
シルラグルは、お母様もお父様も当然のように邸の使用人に声をかける。だから私が知らなかったのは仕方のないことなのだと言われたし、私もそれは納得した。
「シア様は、私などお気になさらずともいいのです」
リリシアに傍にいてもらって、私がどれだけ救われていたのかをリリシアは知ってるのだろうか。昨日のあのピクニックからどうにも余所余所しい。まるで距離を取ろうとしているかのように。
さっきまであんなに晴れていた空に灰色の雲がかかりだした。
そんな空を見上げたリリシアに向き直り、両手を取る。ぱちりと瞬きをして私を見下ろす目をしっかりと見返せば、気まずげに逸らされた。
「リリシア。私はなにも、あなたやお母様たちのご機嫌をとるためにあなたといるわけじゃないのよ。あなたといるのが好きだからあなたといるの。あなたにとってもし私が邪魔だというのならそれは否定しないけど、そうでないのなら、そうやって距離を置こうとしないで頂戴」
じっと、リリシアの茶色の瞳を見つめる。逸らされていた目が見開かれ私を捉えるのを見て笑った。
「私、お父様もお母様も好きよ。でもそれだけじゃなくて、リリシアのことも大好きなの。私にとってはね、リリシアも家族なのよ」
リリシアは息を呑むと、一拍置いて目を閉じた。一度深呼吸をして、その顔をゆるりと柔らかな笑みに変える。
「私も、シア様が大好きですよ。邪魔だなんてことあるはずがないではありませんか。むしろ、私の方こそお邪魔なのではないかと思っていました。シア様にはいらぬ心労をおかけしてしまったようですね」
思わず目を丸くしてしまった。なんと、リリシアの方が自分を邪魔だと思っているなんて考えもしなかった。ピクニックの時に何か思うところでもあったのだろうか。
何はともあれ、と笑う。えへへと照れくさくなりながら手を伸ばせばリリシアは躊躇うことなくその手を取り笑い返してくれた。
ぽつりと額に当たった雨粒に空を見上げ、二人して慌てて邸に戻ることになったが。
「本当に雨が降った」
リリシアとお風呂に入ったあと、前庭に向かうガラス窓に手をついて空を見上げた。どんよりと厚く垂れた雲から激しい音を立てて雨が降り続けている。外は煙ってしまっていて景色もよく見えない。
なんと、目覚めて一か月過ぎて初めての雨である。折角お風呂に入った後だというのになんとなく心がそわそわと浮足立ってしまう。このまま裸足で外を走り回ってしまいたかった。怒られるとわかっていてやるわけにはいかないけども。
そういえばアンナとトフィーのお母さんは畑に行くと言っていなかっただろうか。大丈夫なのかな。
「あらシア、そんなところでどうしたの?」
ぼーっと窓に張り付いて外を見ながら考えていると声を掛けられた。お母様だ。振り向けば小さく首を傾げて微笑んでいた。細い腕に書類の束を抱えており、方向からしてこれから執務室に向かうところだろうかと思いつつ向き直る。
「雨を初めて見たので」
「あら、そうだったかしら」
きょとんと目を丸くされたお母様は窓の外を見て目を細めた。
「そういえば、雨期も終わっていたものねえ」
呟くように落とされた言葉に私も目を細め、再び窓の外に向けた。
数拍、静かに時が流れるような沈黙。雨の音だけが響く空間はどこか心地が良かった。
「ふふ」
小さく笑い声が聞こえ、見ればお母様が口元を押さえて笑っている。首を傾げれば、「ごめんなさい」と笑いながら謝られた。
「雨が昨日じゃなくてよかったって思っていただけなのだけど、昨日のことで一つ思い出してしまって」
言いながら書類を脇に挟むと隣まで歩いてきて、肩に手を置く。その手がお風呂に入った私よりも温かくて、なんとなく心地いい。
じっとお顔を見上げれば目が合った。にっこりと、どこか悪戯な笑みを浮かべるとしゃがみ、ちょいちょいと顔を寄せるよう手招いてくる。口に手を添えたのでそっと耳を向ければ、
「ファデルはね、猫が怖いのよ」
そうささやいた。
「……へっ?」
思わず驚きの声を漏らせば、堪え切れないというように笑いながら顔を離す。私も再び目を合わせれば、「おかしいでしょう?」と愛しげに笑った。
「魔物の猫は平気なのに、可愛らしい猫ほどだめなの。だから昨日はね、アストラがついてきたらどうしようってオロオロしてたのよ」
かわいいでしょう、と言いたげな顔と声音に、なんだか私までおかしくなってしまった。やっぱりあの日お父様が引いていたのは猫が苦手だったからなのだ。魔物の猫というものがどういうものかはわからないが、それがよくてかわいい猫が駄目とは、一体どういうことなのか是非詳しく聞きたいところだ。猫と何かあったのだろうか。
くすくすと二人で顔を合わせて笑っていると、ふと笑みが消えた。決して険しい顔ではない。柔らかく私を見つめるその目は優しいものだ。私が笑いを納めると、そっと手を取った。
「あなたに話さなければならないことがあるの」
静かで穏やかな声。厳しくも、恐ろしくもない。だというのにその目を見つめる以外が出来ない、真剣な声音だった。
「魔物は、まだ来ているわ」
ザァザァと、雨の音が、うるさい。
読んでいただきありがとうございます。
↓用語説明
◇ルツ
デラウェア(葡萄)サイズの赤い実。ふさは小さめでひとつに30個ほどついている。実が少ないほどひとつひとつの甘味が増す。木になる。
干すと甘味が増すため、よくそうして食べられる。そのままでも食べられるが皮が渋い。
◇アット
黄色いラズベリーのような見た目。ものは全然違い粒々の中に種はない。粒々は中央の種についており、そいで実を食べる。アット用の種取り器が存在するくらいにはみんな食べる果物。
酸味と甘味がほどよいバランス。