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ひとつひとつ教えてもらいながら描き上げた魔法陣はやはり拙く、なんだか情けなかった。考えてみればテレビで文字を見ていただけで、私は前も上手な字はまだ書けていなかった。前のようにはサボらず、しっかり練習しよう。綺麗な字を書けたら先生に一番に見せて、あ、エーデリア様かファデル様のほうがいいかな。でもリリシアも……。書けた時に考えよう。
「描けましたね。ですが魔法陣はこれでは使うことができません、なぜかわかりますか?」
「魔法陣に魔力を伝える方法をまだ知らない、から、ですか?」
いきなり問われ戸惑うも答えれば、先生は笑って頷いた。正解らしい。先生はもう一枚紙を出すと今描いたものをどけ、私の前に置いた。思わず見上げれば、「もう一度描いてみましょう」と微笑まれる。やっぱり今のは汚かったから没とかなんだろうか。ちょっぴり落ち込むけどしかたないしかたない。
「魔法陣を描く際重要なのは魔力を込めることです。ただ描いただけでは落書きと変わりません。もう一度描いてみましょう。今度はインクを付けずに、魔力で」
ペンを構えてから首を傾げた。魔力で?
また先生を見ればこんな顔でも相当不可解そうに見えたのか、笑われてしまった。先生最近私で笑いすぎじゃないですか。気のせいですか。
「先ほど無属性魔術を行っていた時のように、魔力を操る感覚で魔力をインクに見立ててください。もちろんインクを付けていてもいいのですが、それよりはこちらの方が成果が見てわかりますから」
なるほど、魔力がインクか。つまり魔力を伝えるというより、魔法陣自体に魔力を込めるのね。でもそしたら描いただけで発動しないのかな。
疑問に思いながら頭の中で魔力はインク魔力はインクと唱えながら試してみるが、どうも紙に魔力がつかない。少し手で扇いだら煙のように掻き消えてしまった。
「そうですね……もしかしたら指で描いた方がやりやすいかもしれません。ペンの方がイメージしやすいかと思ったのですが」
はたと首を傾げつつ、ペンと手を見比べる。描くっていうイメージなら確かにペンの方がわかりやすいだろうけど、魔力を捻出するなら手から直接の方がやりやすいかもしれない。
どちらにせよやってみないと分からないわけだし、と人差し指で紙をなぞれば、ペンの時はいまいちよくわからなかった感覚が、いとも容易く感じ取れてしまった。たとえば直接水彩絵の具を手に取ったように、スーッと紙を撫で描こうと思うと、指の通った後にインクのように赤い線が引かれる。驚いて指を離せばそれはそのまま紙に残っていて、不思議な気分だった。いよいよファンタジーだ。いや、魔術なんていう時点でファンタジーなんだけど。
「その調子です。では魔法陣を描いてみてください」
満足そうに頷いた先生に頷き返し慎重に指を動かしていく。文字を書く緊張で少し線はガタついたが、なんとか描くことが出来た。
「ここまでくれば魔法陣を作動させるのは簡単です。動けと念じてください」
よくわからないまま、動け、と魔法陣を見つめる。するとなんと、味噌っかすのような火がぽふっと一瞬出たかと思ったら消えてしまった。
「……先生これは、私の字が汚いからでしょうか」
紙とともに消えた魔法陣を見つめていると、慌てたように首を振られた。
「今のは作動する魔術へのイメージを持っていなかったからでしょう。きちんと灯火を想像しましたか?」
聞かれ、あぁ、と思い返し納得。イメージが大事だって言ってたものね。なるほど、動けとしか考えてなかったから、魔法陣の文字だけの情報で動いた魔術の結果がこれってことか。案外難しいなぁ。
「もう一度試してみましょう。幸い魔力量はあるようですし、何度でも失敗できます」
先生それは私の腕を信用していない、つまり成功までの道のりが遠いと言っているんでしょうか。失礼な!
実際、成功したのは三回目だった。三度目の正直というやつかしら。
少し遠い眼をしそうになりながら、燃える火を見つめる。これが、燃えるイメージとともに魔法陣に動けと命じるのが中々に難しかった。適度に力を抜くのが大事だと学びました。
ふぅ、と息を吐き首をゆるく振る。先生は苦笑しながら見守ってくれて、それに笑いそうになりながら火を消した。ちなみに魔法陣を描いた紙は発動と同時に燃えて灰になっている。それでわかったのだけど、多分魔法陣というのは描いているときに込めた魔力が魔力の通り道になるのだ。つまり込めた魔力量は重要じゃないということ。むしろ書くためだけに魔力を込めまくるのは無駄だということかもしれない。なんといえばいいのか、魔術を使う魔力を流すための門、というか、それが魔法陣に込める魔力なのだ。
出した火で燃えたわけではない紙、という不思議な灰を見ながら、ふと、
「先生、この魔力のインクはインク壷とかに溜めて持ち歩くことはできないんですか?」
イメージしたのが水彩絵の具だったからかそう思いついて聞けば、先生は目を丸くして私を見た。すぐに難しい顔をすると、一つ瞬き。
「そうですね、少し見ていてください」
言うと先生は人差し指を紙の上に翳し、魔力を垂らし始めた。本当のインクのように魔力が落ちて行くのをなんだか感慨深い気持ちで見ていると、おかしなことに気付いた。
「溜まりません、ね」
そう、溜まらないのだ。紙に垂れた魔力はきちんと紙を染めたのに、一度落ちたシミから大きくならない。先生がちらりと私を見て指を少し横にずらせば、またシミは出来た。けどやっぱり大きくはならず、魔力が水溜まりのようになることはなかった。
「今見ていただいたように、魔力のインクは重なりません。溜まっていかないのです。一度魔力で染めるとその魔力が消えるまで、いくらそこに魔力を重ねてもすり抜けるように霧散していきます。ああ、描いた魔力を消す方法は簡単です、一度消そうと思えば消えます」
このように、と先生が紙を指差すので見れば、黄色のシミは空気に溶けるように消えて行った。さっきの、ペンで試した時の魔力のようだ。
「持ち歩くというのは考えたことがありませんでしたね。魔虜なら持ち歩くことはできますが、あれからインク状の魔力を作り出すことはできませんし。なるほど、ふん、面白い」
一人呟きながらまた何かをメモして、先生は笑った。何が面白かったのかはよく分からないが、まあ先生が嬉しいならそれでいいんじゃないだろうか。
「……嬉しい?」
「はい?」
ふと、引っ掛かって呟けば、先生が首を傾げた。それをまじまじと見ながら、私も首を傾げる。先生は不思議そうに私の顔を見ると何度か瞬いて、私はそうして、
「っあああああああああああああああ!」
(忘れてた! ターウ!!)
「先生ごめんなさいっ、ちょっと用事を思い出しました!」
慌てて立ち上がり、ぽかんと口を開けた先生を置いて駆けだす。アストラが悠々とついてくるのを視界の端に捕えながら、邸に駆け込んだ。
「リリシア! リリシア!」
まったくなんてことだ! 騒動ですっかり忘れてしまっていた! 自分の記憶力への信頼がガタ落ちした!
「いかがなさいましたか」
驚いた様子でやってきたリリシアに飛びつき、昨日の鞄はと聞けば、目を瞬かせながら「お部屋に置かせていただきました」と半ば呆然とした様子で返してくれた。それに礼を言いまた駆けだす。部屋に飛び入り、一度見回して椅子に掛けてある鞄を見付けた。柔らかく膨らんだ鞄にホッと息を吐き中身をれば、昨日のターウがすべて入っている。
「あぁ」
よかった。保存袋も破れることなく膨らんだままで、ターウを守っていた。
さて、問題はこれをすべての人に渡せるかどうかだ。今までの使用人の人たちの反応を見るに、私が話しかけても立ち止まってはくれないだろう。これを渡すとなると手渡しは難しい。ひとりひとりの部屋に置いてくるというのはありだろうか。怖がらせちゃわないかな。
「一言添えてはどうだ。昨日のお土産だとでも書いておけばいい」
とん、とテーブルに飛び乗ったアストラに言われて、それはいいと頷いた。ターウだけ突然自分の部屋に置いてあったら不気味だものね。
突然放置してきてしまった先生には申し訳ないが、アストラの助言に従いテーブルに置いてあった文字の書き取り練習用の紙と、ペンをとる。紙を何枚かに切り分けているとインク壷をアストラが器用に開けて、抱えた。
さて、何と書こうか。
手紙でも書くような気持ちで、少しドキドキしながらテーブルに向かった。下手な字だけど、ちゃんと読んでもらえるだろうか。
使用人の相部屋には誰もいなかった。時間も時間だから忙しいのだろう。それにほっとしつつドアノブに袋を掛け、逃げるように退散する。離れて角から窺うも、誰も出てくることもなければ入っていくこともなかった。さすがにドア越しに私だと悟りノックを無視した、ということはなかったらしい。胸をなでおろしながらそのまま移動する。ついた部屋の前に立ち止り、よし、と気合を入れた。
コンコン、と軽快な音を立てドアを叩く。はい、という返事の後少し間をおいてドアを開けたその人に、手に持ったものを全力で差し出した。高さの問題で、己の手で相手の顔が見えなくなるという欠点を発見してしまう。
使用人部屋を一周してからやってきたのはリリシアの部屋だった。リリシアはエーデリア様の部屋の隣に小さな部屋を持っていて、他の使用人とは扱いが違うようだ。使用人部屋だと空気の問題で行きにくいから、これはありがたい。
「……シア様?」
さっきといい慌ただしく驚く思いばかりさせてしまっているような気もするけど、仕方ないね!
「リリシアにプレゼントよ」
はい、とさらにつま先で立ちターウを差し出せば、リリシアははっとしたように一度中に戻り、何かを持って出てきた。
「私からも、シア様にプレゼントです」
私の手からターウを受け取ると何かを差し出してきて、見れば屋台のおじさんに最初に貰ったターウだった。そう言えば、それは私に頂戴と言ったような気がする。
冗談混じりの言葉を覚えていてもらえたことが嬉しくて、なんだか温かい気持ちになりながらそれを受け取った。
「ありがとう」
「いいえ。こちらこそありがとうございます、シア様」
優しく微笑みたおやかにお辞儀をしたリリシアに、私もお辞儀をし返した。「またあとで」と手を振りながら離れれば、角を曲がるまでしっかり手を振り返してくれていた。
さて次は、と考える前に、アストラの形を変えよう。なぜかと言えば、猫だと乗れないからだ。今リリシアにあげるとき、私は自分の上に突き出した手で相手の顔が見えなかった。これは由々しき問題である。先生に小鳥を見せたときにもやっていたんだから、実行する前に考えるべきだった。しかしいちいち椅子を持っていくわけにもいかない――そもそもずっと持って歩けるほど力はない――ので、これはもうアストラに乗るしかないだろうと。アストラは私の好きに姿を変えられるわけだから、これが一番の手だ。
「アストラ、大きな動物になって私を背に乗せてくれる?」
「背に? 君が乗るのか」
まんざらでもない様子で頷いたアストラをでは遠慮なく、とライオンの姿にした。目を開けて見た姿は予想より怖かった。真っ黒の毛並みに真っ黒な瞳。目の前の端正なその顔に思わず一瞬硬直して、すぐに気を取り直す。これはアストラだし、何より敵意のないその顔は存外可愛らしいものだった。惚れ惚れするような姿に大満足した私は「しゃがんでー」とせがみ、その背に乗る。歩きだしたアストラにどこに行くのかと聞かれ、エーデリア様の執務室だと答えた。
思ったより揺れも小さく、乗り心地はいい。ついた手の先は短いけど柔らかい毛が少しくすぐったい。これなら鬣は一体どれだけ気持ちがいいのだろうと手を伸ばして、小さいとは言え揺れる背中の上でなかなか手が届かない。危ないし、諦めるべきかもしれない。しまった、乗る前に満喫すべきだったな。
「着いたぞ」
呆れたような声音にもしかして私がしようとしていたことはもろばれだったのだろうか、と気恥ずかしい気分になりながら、平静を装いドアをノックした。軽い調子で「はいはい」と穏やかな声が聞こえドアが開けられる。リリシアの時と同じように、相手が私を認識する前にターウを突き出した。
「……あら、あら」
驚愕に目を見開いた数瞬の間の後、エーデリア様はターウを受け取りながら穏やかな笑みを浮かべた。それに笑い返す。エーデリア様が反応しないあたり、変わらず表情は変わっていないのだろうけど。
「その立派な獅子は、もしかしてアストラちゃんかしら」
ふふ、と笑いアストラの頭を撫でると、「これはどうしたの?」とターウを見て首を傾げられる。なんだか胸の奥がこそばゆくなって一度身じろいだ。
「昨日、街に行った時に見つけたんです。是非受け取ってください」
間違いなくトリルのターウをエーデリア様はきょとんと目を丸くして見つめると、ありがとうと抱きしめてくれた。柔らかな匂いにふと息を吐き、離れた腕にまた笑う。エーデリア様の笑顔はきれいだ。私もいつかこんな風に笑ってみたい。
「ファデル様は今日邸にいますか?」
「残念だけど、朝少し休んだだけでもう訓練所へ向かってしまったの」
眉を八の字にして言われ、慌ててぶんぶんと首を振った。想定内だ。ファデル様はあんまり邸にいないから。手紙もちゃんと用意してあります。問題なし。
「可愛らしい配達屋さんね。頑張って」
最後に頭を一度撫でて、エーデリア様は小さく手を振った。私もそれに振り返し、ファデル様のお部屋へ向かう。もちろん、勝手にドアを開けたりはしない。使用人部屋と同じようにドアノブにターウと紙を入れた袋を掛け、大きく頷いた。大変満足である。
「あとは先生だね」
乗ったままわしわしとアストラを撫でれば、くすぐったいと怒られてしまった。
「先生!」
中庭に戻ると、先生は私が置き去りにした時のまま移動していなかった。とても申し訳ない気持ちになる。もしかして今の今まで呆然としたいたのかと思うくらい、はっとしたように私を見た。途端ぎょっとしたように目を見開くと一歩後ずさり、ああ、と自分がライオンに乗っているのを思い出した。アストラだけど。
「驚かせてごめんなさい先生。これはアストラです」
言えば、先生は目を丸くしてまじまじとアストラを見る。ゆっくり近づいていけば訝しげに見てきた。なんだかちょっと面白い。エーデリア様の受け入れっぷりが凄かっただけで、これが普通の反応かもしれない。リリシアだったらどんな反応をしてくれただろうか。
「これ、先生にプレゼントです。昨日街に行ったときに買って来たんです」
先生の好みは分からなかったから最初に作ってもらったお花と同じものを作ってもらったのだ。それを差し出すと、先生は瞬きを繰り返して見つめた。
「お揃いですよ」
私のもう片方の手に握られたターウを見せれば、先生は困ったように笑う。その表情の意味が分からなくて首を傾げると、「困った」と小さな声で呟いた。もしかして甘いものは好きじゃなかったんだろうか。
「ありがとうございます、お嬢様」
眉を小さく下げながら、それでも先生は穏やかに、嬉しそうに笑ってお花のターウを受け取った。
読んでいただきありがとうございます。