13
服を着せ終わったのか髪が梳かれる感触がして、ちょっと気持ちがいい。エーデリア様に似たふわふわの髪は触っても気持ちがいいし、気に入ってる。キラキラしすぎない金色もお気に入りだ。
「そう言えばリリシア、鏡はないの?」
今朝の会話で気づいた質問をしてみると、リリシアの手が一度止まった。不自然なそれに首を傾げると、「ございますよ」と少し遅れて返ってくる。表情が見えないと思ったより分からないものだ、謎の間にさらに首を傾げた。
「さあ出来ましたよ」
誤魔化すように撫でられて、タオルを取ろうとしたら押さえつけられた。
「いけません。まだだめです。手をつないでいきますよ。着いたら外しましょう」
ぎりぎりまで冷やしてろってことね。アストラはどうするんだろう。確認したいけど見ることができない。アストラもリリシアがいる前では喋らないらしく、静かだった。もしかして静かなんじゃなくて部屋にいないとかじゃないよね。あ、でもそれならリリシアが反応するか。
手を引かれるままゆっくり歩きなれた廊下を進む。毎日毎日通っていれば日は浅くとも覚えるものだ。不安はなく普通の速度で進んで行けた。
「着きましたよ」
立ち止まって言われ、タオルを退かす。少しずつぬるくなっていたけど、ちゃんと冷えたのだろうか。
「ありがとうリリシア」
「いいえ、お気になさらないでください」
いえいえ本当に、朝からご迷惑おかけしました。
深々と頭を下げたい気持ちになりながら微笑むリリシアを見上げた。リリシアは手を離すとドアをあけ、「どうぞ」と促す。それに頷いて広間に入れば、エーデリア様とファデル様、それに先生がこちらを見た。
「あら、遅かったわね。なにかあったの?」
エーデリア様が少し心配そうな顔で聞いてきて、それに「いいえ」と首を振った。目について触れられないところを見ると、腫れは引いたようだ。そこまで酷いものでもなかったのかもしれない。
後から部屋に入りドアを閉めたリリシアに持ち上げてもらい、椅子に座る。隣の先生はなぜか私をじっと見ていて、それに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
聞くも、先生は不思議そうな顔で首を傾げるとなんでもないと首を振った。なんでもないようには見えなかったんだけど。
ファデル様は相変わらず先生を鋭い目で見ていて、なんだかなあと思ってしまう。いつも思うけど、だから心配しすぎでしょう。愛妻家も過ぎるとただの迷惑ってことなんだろうか。
「おはようございます」
にっこりと笑顔を浮かべて挨拶をすれば、三人どころかリリシア、さらに控えていた使用人まで驚いたような反応を見せる。よく私が笑うと芳しくない反応をもらうけど、なんでだろうか。もしかしてそんなに笑顔が酷いんだろうか。ガラスに映った自分の顔は悪くないものだったと思うから、顔の造形ではないはず。あっナルシストじゃないです!
「ええ、おはよう」
「おはよう」
逸早く我に返った様子のエーデリア様が微笑みながら挨拶をすると、ファデル様が慌てた様子で後に続く。隣を見れば、先生も「おはようございます」と返してくれた。
メイドさんたちも動きを再開し、台車を押してきたりお茶を配ったりと忙しなく動き始めた。考えてみれば私たちの後に食事を取るんだから、待たせて申し訳なかったな。
食事が終わるとメイドさんたちがお茶を入れ替え、奥に下がっていく。食後の団欒といった感じだ。
先生は最初の頃は慣れなかったのか食事が終わるとすぐに退散していたけど、今は慣れた様子でお茶を飲んでいる。気が付けば当り前のように家族の団欒に加わっている先生につい笑いそうになって、それで嬉しいと思っていることに気がついた。
お兄ちゃんが出来たみたいだ。
横顔だった先生は私が見つめているのに気づいたのか、こちらを向いて一つ瞬き。
「どうしました?」
その笑顔になんだか落ち着いて、昨日は半日いなかったんだよなあ、とぼんやり思う。「なんでもありません」と首を振って、私も大人しくお茶を飲んだ。
「ところでシア、その猫はどうしたの?」
唐突に、エーデリア様が小さく首を傾げて微笑む。はたと動きを止めると、私の膝の上にアストラが乗り上げてきた。え、ついてきてたの。
思わずリリシアを見上げれば、「本当に仲良くなられたのですね」だなんて微笑んでくる。リリシア、たまに抜けてるよね。言うべきはそれじゃないと思う。
「昨夜シア様が見付けたそうで、このように懐いているようです」
微笑みながらそう言ったリリシアにエーデリア様は「あらあら」と目を丸くすると手まねきをして、それにアストラが反応して立ち上がり向かっていく。テーブルの上を歩いて。
「ちょ、アストラ!」
思わず名を叫べば、立ち止まり振り向く。猫の顔からは感情なんてかけらも読めなかったが――いやもともとアストラは余り表情のないほうだったとは思う――特に何とも思っていなさそうだった。悪く思おうよその行動は。だってそこは食卓だよ。食事は終えた後っていったって、もの食べる場所土足で歩くなんてどうかと思う。
「なに、汚れはしない。問題はないさ」
言いながらさらに進んで行くものだから、つい顔を抑えて溜息をついた。アストラ、常識はあると思ってたのに。汚れないとかそういう話じゃなくて、いやそれもだけど、行儀悪いよ。
小さく息を吐いて諦めれば、アストラは悠々と向こうへ近付いていく。ふとエーデリア様を見ると、嬉しそうな顔で私を見つめていた。え、なんですかその顔。
思わず首を傾げれば、「もう名前を付けているのね」と微笑まれた。
「えっ、あ、いえ」
付けたんじゃなくて付いてたんです。
言おうにも意味が分からないだろうと思うと言葉に詰まり、なんだかばつの悪い気持ちになる。
「アストラちゃんというのね。綺麗な黒い猫。珍しいわ」
アストラはエーデリア様の手が届くか届かないかという距離で立ち止まると座り、じっとお二人を観察していた。ファデル様は猫が苦手なのか少し顔が引きつっている。さらに手招きされるも、アストラはそれ以上近づかなかった。
「さて、ここにいるためには何と言うのが一番だろうか」
突然アストラに言われ、首を傾げる。
と、いうか、そう言えばアストラ、というより猫が喋ってるのに誰も反応しない。もしかしてこの世界は猫が話すのが当たり前なの? 口も動かさずに? まさか過ぎる。このさきどんな生き物にあっても驚かない覚悟を持たなければならないんだろうか。
「ここにいるって、ずっと?」
なんのことだか分からず首を傾げれば、アストラが顔だけをこちらに向けた。尻尾がぱたん、と小さくテーブルを叩く。
「ああ、一人でいるのは退屈だから、君についていくつもりだ」
「――……」
思わずまじまじとアストラを見つめる。アストラも私を見続けている。つまりそれは、この邸で、猫として飼われるのを選ぶってことなんだろうか。
アストラがただの猫として生きていくの?
なんだか酷い冗談のようで、現実実がない。しっくり来なさすぎて何を言っているのかわからないくらいだった。
「本気?」
「本気だ。冗談は苦手でね」
「でも、私はいやだな。ずっと猫なアストラなんて。しかも飼い猫? 笑い話にもならないよ」
「なら説得するとしよう。それにこの場は丁度いい」
思わずぶすくれそうになる。なんだかアストラが勝手にポンポン決めてしまって、どういうことなのかよくわからない。
気付けば、私に視線が集中していた。驚いて見回せば、先生が「お嬢様?」なんて訝しげな顔で声をかけてくる。え、なんだろう。
「どなたと、会話しているんですか?」
「えっ」
慌ててアストラを見れば、アストラは顔を逸らして知らん振りした。ひ、ひどい! というか猫はやっぱりしゃべらないんじゃないか! えっまってアストラの声は聞こえないの? 私がへんな独り言言ってたってこと!?
いやあああ、と内心に絶叫が響き渡るも、うぐぐぐと何も言えず唸る。先生の困惑した表情が心に痛いです。
アストラを睨めつければ、すいと顔をこちらに戻した。
「とにかく、君はあの格好の私を思い浮かべてくれればそれでいい」
あの、というと、あの、だろうか。アストラの他の格好なんてあの一つしか知らない。機嫌は直らないものの不承不承頷き、困惑の視線が向けられる中目を瞑って思い浮かべた。
黒髪で、長さはどうだっただろう。肩を少し越すぐらいだっただろうか。目も黒で、肌は白っぽかった。顔は悪くなかったけど特別いいわけでもない、ちょっと綺麗めな方。小ぶりの鼻に、薄い唇。少しパッチリめの目と、子供らしくなく色づいていない頬。なんの飾り気もない白いワンピースに、足は裸足だった。うん、そんなだった。
頷いて目を開けると、テーブルの上には正座のような恰好で座るアストラがいた。アストラだ。正真正銘、猫じゃなくて、向こうにいたアストラだ。私に向いていた眼は気が付けばすべてアストラに向いていて、場は静まり返っていた。当然だ。私は目を瞑っていたけど、きっと目の前で猫が少女に変わったのだろう。どうして私は目を瞑らないといけないんだろうか。ちょっと変わる瞬間を見てみたい。
数瞬の後、エーデリア様もファデル様も、先生も勢いよく席を立ち距離を取った。それに呆然としていると、私もリリシアに抱きあげられ避難、そう避難させられる。アストラは静かに頭を垂れたままで、警戒の色の消えない周囲に私が戸惑ってしまった。
先生は杖を構えていて、ファデル様はなにかを探すように視線を巡らせている。エーデリア様も体を固くしているようだった。
「アストラ」
不安になって呼べば、アストラはゆっくりと顔を上げた。背中を向けられているから顔が見えない。エーデリア様とファデル様がさらに表情を厳しくしたのだけが見えて、一体どうなっているのかと戸惑う。
「あなた、どこの人かしら」
目を細くしたエーデリア様が問うと、アストラは立ち上がった。私と似たり寄ったりの背でも、テーブルの上で立てば随分と目線が高くなる。エーデリア様は追うように顔を上に向けていた。
どこの人、っていうと、どういう意味だろう。まさか迷子の子に家を聞いているっていうわけでもないだろう。スパイとか? もしかしてそういう疑いをかけてる?
「私はアストラ。はじめまして」
静かに、何だか場違いなほど普通の挨拶をした。私は少し拍子抜けしたけど、みんなはそうはいかなかったらしい。訝しげな表情をするだけで、芳しい反応はない。
「なにも敵じゃない。そうだな、私は妖精のようなものだ」
というか、今更ながら、エーデリア様たちにもその口調で行くんだ。
なんだか複雑な気持ちで見守っていると、「妖精?」と先生が呟く。先生を見れば、目を丸くしていた。私も驚いているんだけど。アストラって妖精だったの? いや、でもあくまでも妖精のようなものって言ってるし、たしかに妖精っぽいと言われればそんな感じもする、ような? 確かに何って答えられないし、誤魔化すにはその答えが一番なのかもしれない。嘘も方便というやつか。
「ここに住まわせてもらいたい」
平然と言ってのけると振り向いて、私を見る。思わず見返すと、こいこい、と手招きされた。呼ばれて行きたくとも、リリシアに抱きしめられてまして、と困って目で訴えれば、アストラは呆れたように溜息をつくと近づいてきて、先生がまた警戒の色を戻した。あっ、懐柔できそうだったのに、なにしてるの!
頭に浮かんだ考えに、懐柔って、とちょっと悪者になったような気がして落ち込んだ。
「私は君についていこう。私は君に力を貸そう」
言いながらテーブルから降り、芝居がかった仕草で私の前に跪く。リリシアが半身ほど下がるけど、私は目を丸くしてアストラを見つめていた。
「だが契約は結ばない。だが君に危害は加えない。主は君で、私は君に従おう」
物語の王子様みたいにこっちを見上げて、手を伸ばしてくる。なんだか言葉も仕草も、そのどれもが嘘くさくて、アストラに似合わないなと思った。
「格好ついてないよ」
笑って手を伸ばし返せば、アストラはおどけるように肩を竦めた。自覚済みか。
「ずっとその恰好でいるの?」
「いや、そのつもりはない。君の好きにすればいい。今は特に要望もない」
アストラは立ち上がると自分の体を見回して首を振った。頷くとそう言って、「さあ」と促してくる。突然言われてもなあ。うーん。好きな姿好きな姿。
「うさぎはどうでしょう」
「うさぎが喋ってもいいのなら」
うぐ、と言葉に詰まる。さっきの猫は最初から喋っていたから最初以外違和感はなかったけど、うさぎが喋るよと言われると微妙なものがある。
「別にその恰好のままでも問題はないんだよね?」
「恐らくな。だが、そうすると服を借りることになるんだが」
あ、そっか。それに裸足だもんね。黒髪黒目の日本人顔が私の服……似合わない。
思わず難しい顔をしてしまう。想像した絵を消してから、さっきの猫でいいんじゃないかな、と思った。なんかさっきだけで大分慣れてしまったし、さっき猫だったということは、私が猫にしたってことなんだろう、この流れだと。なら私は多分猫がいいんじゃないだろうか。もしかして猫飼いたかったのかな、私。
「うん、決めた」
一度目を閉じて、さっきの黒猫を想像する。ちょっと寂しいなと思って、鈴を一つ通したリボンを首に付け足しておいた。目を開けると想像通りの猫がいて、それに満足。
「なんだこれは」
言いながら前足で鈴をチリンチリン鳴らすアストラに「涼しげでいいね」といったら睨まれた。ような気がした。
「お嬢様、それは……」
アストラに視線を固定したまま先生がそう言って、「それは?」と首を傾げる。続きが分からなかった。
「その妖精は、つまりお嬢様を気に入った、ということですか?」
微妙な顔をして言う先生に、なんでそんな顔なんだろうと思いつつ、アストラを見る。妖精ってことに決まったみたいだけど、本当にそれでいいんだろうか。特に反応を見せないアストラにいいのか、と勝手に解釈して頷いた。先生はほっとした様子で杖を下ろすと、「いつ知り合ったんですか」と眉を下げて困ったような笑顔を浮かべた。
「えーっと、大分前です」
正確には私がお願いしたときだろうから五年前だけど、その頃私はこっちでも寝ていたわけだから、言っても意味が分からないだろう。あれ、でも先生も知ってるのかな。うーん、と内心首を傾げつつ、リリシアに下してもらってアストラを抱えた。猫って意外と重いんだね。
先生は一人納得しているようだけど、エーデリア様とファデル様は複雑そうな表情だ。それもそうだろうなあと思いつつ、だからと言って何を言えばいいのかもわからない。突然現れた不審なやつが自分の娘と寸劇しだしたのだから、困惑もするだろう。
「その妖精は、うちに住むということでいいのね?」
エーデリア様が若干硬い表情で聞いてきて、それに頷くと「そう」と微笑んだ。驚いていると、「シアの妖精ね」となんだか嬉しそうに呟く。いつも思うんだけど、エーデリア様は少し、というか大分、懐が大きすぎやしないだろうか。ファデル様を見てよ、まだ複雑そうな表情でアストラ見てるよ。
「ところでお嬢様は、その状態の妖精の声も聞こえているようですね」
近づいて観察するようにアストラを見る先生に「はい」と頷けば、私とアストラを交互に見た。この言い方だとやっぱり先生たちには聞こえていないんだろう。
「アストラ、どうしてか分かる?」
不思議に思って聞けば、「知らん」と返された。それもそうか。
「少し、私に話しかけるよう頼んでもらえませんか」
「先生? アストラはちゃんと言葉がわかりますよ」
どうして私伝手なんだ、となんだか変な言い方だなと首を傾げて言えば、先生は目を丸くし「そうですか」、と感心したように頷いた。嬉しそうな表情になにを考えているんだろうかと瞬きをした。妖精はロキシーさんがいるだろうに、不思議だ。妖精ってそんなに珍しいものなんだろうか。そんなことは言ってなかったような気がするんだけど……。言ってたっけ?
うろ覚えな記憶の自分にちょっと呆れながら、アストラを見た。
「ノイマン・ジグトレト、か。何度見ても、師にしては若い」
褒めてるのか貶してるのか、どっちとも取れそうな発言に顔が引きつりそうになる。先生が悪い方で取らないといいなと思って見れば、どことなくわくわくした様子でアストラを見ていて、あれ、と首を傾げる。これはもしかして……。
「アストラ、もう一回」
「そちらから望んでおいて無視とはな。聞け」
「その言い方はちょっと」
私の言葉で察したのか、先生は意気消沈した様子で「わかりました」とアストラを見つめた。何も聞こえなかったんだとそれだけでわかり、一方的に気まずい気分になりながらアストラを床に下ろす。自由にさせると歩く度小さくチリンと聞こえて、なんだか可愛かった。
「うるさいし邪魔だな」
言うが早いか、ばしーんっ、と猫パンチを鈴に加え、私を見てくる。それは消せっていってるのか。そういえばいいのに、もー、野蛮だなあ。
仕方なく鈴を消して、リボンだけにした。まだ不満そうに見てくるけど、それは譲りません。可愛いもん。
読んでいただきありがとうございます。