12
「それで、えーと、そう三回目にあった時はゆっくりお茶を飲みながらお話をしたわ。たくさんね。騎士団長って聞いていたからその話を出したら、お見せしますよ、なんてすぐに立ち上がって、張り切ってしまって、うちの近衛を全員倒してね、何度も頭を下げていたわ」
ファ、ファデル様はその、お茶目な人だったんですね。失敗がちょっと笑えないけど。近衛全員って、じゃあ誰がこの邸の警備したんだろう……。
「それでね、その日の最後にプロポーズしてくれたの。政略結婚なんて関係ない。陛下の命がなくとも君を選んだ。君にも私を選んでほしい。君が女王だとは聞いている。それでも構わない。君がいいんだ。愛してる。結婚してくれ。って。今でも一言一句覚えているわ」
頬を染め、うっとりと遠くを見ているようなエーデリア様に内心苦笑する。今の三日間のどこにそんなに惚れて惚れられる要素があったのかわからなかった。でも多分、そのなかで沢山の色々なことがあったんだろう。今語られたエピソードはきっとほんの一部で、二人の思い出にもっともっとたくさん素敵なものが詰まっているに違いない。だってこんなにも幸せそうに話すのだから。
「でもね、その日は近衛を全員倒してしまったから、彼がうちの警備をすることになって、また何度も謝っていたわ。かっこ悪いでしょう?」
おかしそうに笑うエーデリア様の頬はまだ紅潮していて、とてもじゃないがかっこ悪いだなんて思っていない様子だった。やっぱり、この二人は見ているこっちが恥ずかしくなるカップルに違いない。
「お二人が幸せそうで、私も嬉しいです」
朝からこんなのろけを聞くとは思わなくて心の準備は出来ていなかったけど、お二人の子供としてはとてもいい話を聞いた気がする。
言うと、エーデリア様も嬉しそうに笑って抱きしめてきた。突然のことに驚くと、優しく頭を撫でられる。包み込むように抱きしめられて、少し冷えたエーデリア様の手が心地よかった。
「シア、シア。愛しい子。元気に育ってくれてありがとう。本当にありがとう」
昨日に次いで腕を回す努力をしようと思っていたら囁かれ、思わず動きが止まってしまった。エーデリア様が愛しているシアは、本当に私でいいんだろうか。
――ああ、そう言えば、こんな大事なこと聞きそびれちゃった。
アストラに聞けないなら、誰に言えよう。これまでのことを教えてくださいだなんて。五年間の記憶がないんですだなんて。愛してもらっていただろうに。
宙に浮いたまま行き場をなくした腕を、気付かれないようにゆっくり、そっと下ろした。なんだか私には、抱きしめ返す資格なんてないように思えてしまった。
「今日があなたにとっていい日でありますように。あなたが幸福の中にあれますように」
頭にキスをして御祈りをされ、言葉に詰まる。ぴくりと体が震えて、気付かれてしまったようでエーデリア様は離れると心配そうな顔をした。
「シア、顔色が悪いわ。具合が悪いの? ごめんなさい、こんな朝方につき合わせて」
労わるようにやさしく頭を撫でられて、それに胸が痛くなった。一度目を瞑り、邪魔な感情を隅に追いやって、深呼吸。
「いいえ、大丈夫です」
笑って言えば、エーデリア様は目を見開いて私を見つめた。頭を撫でる手も動きを止めて、それに少し不思議に思いながら首を伸ばし、エーデリア様の頬にキスをする。
「今日があなたにとっていい日でありますように。あなたが幸福の中にあれますように」
御祈りを返し笑って締めくくれば、エーデリア様は目を瞬かせて「ありがとう」と、呆然とした様子で呟いた。
「どうかなさったのですか?」
あまりの様子に思わず首を傾げると、我に返った様子で私を見て、「いいえ」と首を振って笑った。それに私も笑い返すと、何故か小さく眉を寄せる。また首を傾げれば、苦笑して首を振った。
「今日はとうとう魔力が掴める方法というものを試すのでしょう? 頑張ってね。応援しているわ」
「ありがとうございます」
笑顔で手を振って部屋を出て行くエーデリア様に、私も笑顔でお礼を言い、頭を下げた。
「見ていていつも思っていたんだが、君は何がしたいんだ?」
ここにはいないはずの、アストラの声が聞こえた。目を瞬かせて、首を傾げる。視線を迷わせるが、ここは確かに現実だ。瞬きをしても変わらない、シアの寝室。まさか向こうにシアの寝室が出来てエーデリア様が現れた、なんてことはないだろう。
辺りを見渡すが、アストラの姿は確かに見えるはずもない。まさかの幻聴か、と思わず硬直していれば、「何をしているんだ」と背中を何かに突かれた。
「うひっ」
慌てて振り向き後ずさる。ずざざざっと勢いよく下がった片手がベッドから落ちそうになって止まり、ぐるぐる回していた目も止め呆然としてしまった。
黒猫、だ。
え、と顔を向け、窓が閉まっていることを確認する。ドアだってエーデリア様が開けるまでしっかり閉まっていたはずだ。猫が入ってこれるような隙間はない。だが見間違いではなかった。もう一度猫を見れば、人間臭く首を横に振る。
「何をしてるんだ」
誰もいないのに、また呆れたようなアストラの声が聞こえた。思わずまた辺りを見回して、正面の猫に視線を戻す。
もしかして、この猫なんだろうか。いいやその前に、アストラの声が聞こえることも、猫がいることも一体どういうことなんだろうか。
「……アストラ?」
「遅い」
溜息混じりのような呆れた声が聞こえるが、目の前の猫は斜めにこちらを見ているだけで――その目線がなんだか少し馬鹿にしているようにも見えるが――口も動いていない。やっぱり、猫が喋っているわけはなかった。
「どこにいるの?」
目の前の猫を警戒しつつ視線を迷わせれば、「目の前だ」と怒られ、ついでに猫パンチが飛んできた。ということはやっぱりこの猫がアストラなんだろうか。
半信半疑のままつんと人差し指で鼻を押すと、「なにをする」という声と共にまた猫パンチを食らわされた。地味に痛い。猫パンチはかわいいだけで痛くないってテレビで言っていたのに。
「なんで、アストラが、こっちにいるの」
思わずぽかんとしたまま聞けば、「来れた」とだけ返ってきた。なんだそれ。
「私だって知らん。君を寝かせて、消えたのを確認してから私もここに来たいと念じてみただけだ」
猫が首を傾げる。「そしたら来れた」だなんてあっさり続けるアストラに頭の中の混乱を見せてやりたかった。
「確かではないがそうではないかとは思っていたんだ。私があそこにいたのは、あそこの機能に恐らく関係しているんだろう。だが、あそこの機能が停止したと考えられる今なら、今まで出来なかったあそこを離れるということぐらいできるような気がした。実際出来た」
首を掻きながら「まあ、ここだけだろうが」、と続けられた言葉に、やっぱり意味が分からなくて首を傾げることもできない。軽くパニックだ。そんな私の前で猫はのんびりベッドに寝そべっていて、それにさらに訳が分からなくなりそうだった。
「なんっ、な、なんで? え、なんで?」
問い詰めたいことが頭にはほぼ同時にたくさん湧いてくるのに、口は一つのことしか話せないから言葉に詰まる。結局口をぱくぱくと動かすことしかできなくなっていた私が落ち着いたのは、アストラだと思われる猫に三回ほどパンチを食らわされた後だった。
「なんで猫なの? なんで口が動いてないのに話せてるの? いつからいたの? 何がしたいんだってなんのこと? どこに隠れてたの?」
「今私は猫なのか。これが猫か。あとで鏡があれば見せてくれ。口が動いていないことに関しては知らん。私は普通に話しているつもりだ。君の母親が部屋に入ってきた時にはいた。君が目覚めてすぐだな。両親に対する態度だ、何がしたいのかさっぱりわからない。寝台の下に隠れていた」
一気に聞くと、一気に返された。普通に話しているつもりといわれても猫の喉や口の構造って違うだろうから普通には話せないだろうし、そもそも口が動いていないし、どうやって声が出ているのかさっぱりわからない。あとさっきの全部見られてたってことか。というか何で隠れたの。
「鏡がある場所なんて知らないよ」
お風呂場にもそう言えば鏡はなかった。どこにあるんだろうかと首を傾げて、ある可能性を考えてしまった。無いとか言わないよね。
「まあ、今は鏡のことなどどうでもいい。それよりあれは何がしたいんだ? 抱きしめ返したいならそうすればいいのに、なぜ途中でやめる。躊躇うのは何故だ。何を葛藤している」
心底分からない、というように、訝しげなアストラの声にはっとして、思わず俯く。そうだ、今なら聞ける。聞きそびれてしまった、今の私には一番大事なこと。
「ねえアストラ。私、五年の間なにをしてたの?」
聞けば、猫は首を傾げた。馬鹿にするように全身をだらけさせて寝転がると、一度しっぽをぺん、と跳ねさせる。真剣に聞いているのに随分な態度だ。
「寝ていたといわなかったか?」
呆れた声に「そうじゃなくて」と返せば猫の顔が向けられる。それに思わず顔を引くと、また頭を投げだした。
「私、っていうより、シアの体かな。この体は、私が五年間眠っていた間どうなっていたの?」
今生きているんだから、当然五年間も生きていたんだよね? 生きていたなら誰が動かしていたの? その動かしていた誰かはどこへ行ったの? そもそもこれは本当に最初から、私の体だったの? 私が奪ったわけではないの?
落ち着かなくて、うっすら鳥肌のたった腕を自分を抱きしめるように抱え答えを待った。猫は静かにこちらを見ている。アストラの声は帰ってこない。どうして答えてくれないんだろう。
不安感に泣きそうになれば、猫が起き上がって座り直した。私を正面に見据え、たまにしっぽをゆらりと動かす。
「君は、変なことを考えているな」
真剣味を帯びた声に思わず震えれば、また猫がゆるく首を振った。猫に呆れられているようで、なんだか情けない。
「寝ていたといっただろう。君が寝ていた五年間、その体も寝てたんだ。生きてはいたが、そうだな、魂というのか? 君の魂はこちらに、いや、今はあちらか、面倒だな。とにかく、君の魂はあちらで寝ていた。魂の入っていない体が生きていたのかと聞かれれば知らないとしかいいようがないが、生命活動は維持していた。だが君が入っていないその体は笑わない、泣かない、話さない、動きもしない。誰に話しかけられても何も聞こえない。当然だ。認識するはずの中身が、意思が、心がそこにはないのだから」
「空っぽだった、ってこと……?」
言われ、自分で口にした言葉に愕然とした。つまり、私は生まれてから五年間、ずっと空の体をここに置いていたということか。私が寝ている間に誰かが動かすこともなければ、私がこの体を乗っ取ったわけでもない。聞きたかった答えを得て本来なら安堵するはずだった。けど、それだけで話が終わるわけがないことぐらい私にだってわかる。五年前は赤ちゃんだったはずだ。赤ちゃんが泣かず、笑わず、喋らず、話しかけても反応しなければ、そりゃあ――。
「シア様、リリシアです。起きていらっしゃいますか?」
コンコン、とドアがノックされた。気が付けば窓の外は青く染まっていて、そんなに時間がたっていたのかと思ったけど、日が昇るのは早いから実際はわからない。
「入って」
アストラを見つめたまま告げれば、リリシアが静かに入ってきた。目を向ければ猫を見て口を開け固まっている。そんなリリシアが押すカートには洗面のお湯やタオルが乗っていて、それを見ながら酷く悲しい気持ちになった。
――そりゃあ、使用人だって不気味がるに決まってる。
そんな赤ちゃんの相手をさせてしまったのだと、胸が締め付けられるような心地がした。
目覚めたあの日、まだ鮮明に覚えている。当然だ、まだ日なんて全然過ぎていない。
強く、強く、加減さえも忘れたように強く抱き竦められたこの体。エーデリア様の涙に濡れた瞳。あの時は知らなかった私の名前を何度も何度も、何度も呼びながら、泣きながら起きたのねと、おはようとかけられた声。私がフォークを握った時、リリシアだって相当驚いただろう。それこそ私が気付かないうちに走り出すほど。
あんなにも愛されているのに。こんなにも、愛されているのに。きっと空っぽのときだって、同じように強く強く愛してくれていただろう。なのにそれを受け取る人は誰もいない。全部全部通り抜けて、誰もいない空っぽの体に愛を注がせていたなんて。
ああ、そんなことってあるか。あっていいのか。
ジワリと熱くなった目頭に顔を覆えば、慌てたように名前を呼びながら駆けてくるリリシアの足音。そっと肩に添えられた温かい手に、とうとう涙が溢れてしまった。
「ごめんなさい」
どんな思いで見ていただろう。あの幸せな夫婦が、この優しいリリシアが、なんの反応もしない赤ん坊に、どんな思いを抱いただろう。それなのにこんなにも愛されていることが、酷く申し訳なかった。
顔を見るなんてできなくて、顔を覆ったまま謝ればリリシアは私を呼んで背中をさする。
「ごめんなさい……!」
そんな優しさも苦しくて、息が詰まって、震える声で謝りつづけた。
「落ち着きました?」
どれくらい経ったのだろう。背中を擦りながら顔を覗きこまれて、それに力なく頷いた。目が熱い。
「取り乱してごめんなさい。怖い夢を見たの」
また簡単に口から出た嘘に、さらに悲しくなりながら目を瞑った。心を落ち着かせようと深呼吸して、目を開ける。猫のアストラはベッドから降りて、窓の外を見つめていた。
リリシアは私の言葉を聞いて「そうですか」と優しい笑みを浮かべると抱きしめてくれて、「大丈夫ですよ」と、ぽんぽんリズムよく背中を叩いてくれる。また滲みそうになった涙を堪えて、目を瞑り体を委ねた。その瞬間手が離れたかと思うとあったかいものが顔に当てられて、驚く前に顔拭かれてるのかー、と納得。え、今のタイミングで?
思わず笑いそうになった。リリシアは結構肝っ玉が据わってると思う。
「目は冷やさないと腫れが引きそうにありませんね……」
目を開けると困ったような顔をしたリリシアがそう言って、「大丈夫」と返す。すると怒られてしまった。
「いいですかシア様。女人足るもの年齢は関係ありません。そんな目で人前に出るわけにはまいりません」
人差し指を立てて叱る姿に「そうね、ごめんなさい」といえば、「さてどうしましょう」と呟き考え込んでしまった。そろそろ朝食の時間だろう。こうしてゆっくりもしていられまい。
「リリシア、どうせ家族だけなのよ? 冷やすのは後でいいわ」
「いいえっ、先生がいらっしゃいます!」
あ、忘れてました。というか、お二方にだって泣いたのがばれたら恥ずかしいね。
「少々お待ちください」と言い残し部屋を出ていったリリシアを言われた通り大人しく待っていると、冷たいタオルを持ってきてくれた。熱を持った目元に押し当てられるタオルの心地よさに、まだ少し落ち着きのなかった気持ちが緩んでいくのを感じる。余裕が生まれると先ほどの失態を思い出し恥ずかしくなってしまった。まさかあんな風に泣いてしまうとは思わなかった。かっこ悪い上に情けない。
申し訳ないという気持ちは消えない。それでも今私はこうして生きているのだから、今からでいい。少しずつ思いを返していきたいと思った。具体的には、どうすればいいかわからないけど。
「ところでお嬢様、あちらの猫は……」
閉じた瞼とタオルのおかげで視界には映っていないが、リリシアは今アストラをガン見していることだろう。それに笑いそうになりながら、考える。アストラが何かというのは私もアストラも知らないから説明ができないし、ただの猫だといったら追い出されてしまいそうだ。かと言って、昨日はほぼずっとリリシアと一緒だった私が連れてきたというのも無理がある。いつ? って話になっちゃうし。
うーん、何と言ったものか。
「昨日の夜、窓を開けたら入ってきたの。仲良くなってしまって、一緒にいたのよ」
やっぱり、適当な嘘をついて誤魔化すしかないだろう。説明のしようがないし、信じてももらえなさそうだ。あまりにもその、現実味のない話過ぎて。
「夜に窓を開けたんですか? 何かあったらどうするおつもりです」
「大丈夫よ、すぐに窓は閉めたわ」
リリシアの試しなめる声に慌てて言えば、「しかし」といい募る声が聞こえ、朝からお小言なんて勘弁して! という気持ちで「大丈夫」と繰り返す。一拍置いて「そうですか」と気もそぞろな声で返してきた。おや、と思うものの、怪訝そうでも怒った様子でもないので多分大丈夫だろう。大方アストラが動いているのを目で追っているとか、そんな所だと思う。猫が好きなんだろうか。
「それより、朝食は大丈夫なの? もう大分時間も経ってしまったけど」
「ご心配なさらないでください。朝食まであと少しです。さあ冷やしながら着替えますよ! 私がすべてして差し上げますので!」
言うが早いか手を掴まれ、自分でタオルを抑えさせられた。服に手をかけられたのに気づいて、なるほど急ピッチで進めるのか、と少し強引に服を剥かれるのに内心溜息を吐く。最近はもう平気だけど、少し前は指がうまく動かなくて服を一人で着るのも難しかった。今は一人で着てしまうから、リリシアもつまらなかったんじゃないだろうか。だって今声が弾んでいたもの。
「わっ」
急に脇の下に手を差し込まれ持ち上げられる。驚いているとバサバサと音がして、肌寒くなった。リリシアには第三の腕があるんだろうか。両手で持ち上げているのにどうして服が退かせるんだろう。頭の中で構図を想像してみるがどうやっても第三の腕がないと出来ないように思えた。
ストン、と柔らかいベッドの上に戻されて、服を着せられる。少し冷えて身震いすれば、「すみません」と謝られた。
「いいのよ。時間を取ってしまったのは私だもの」
いつも服は温かいんだけど、私が泣いている間に冷えてしまったんだろう。逆にこっちが申し訳ない。折角温めて来てくれるのに。
チェストの中に服は入ってるけど、どうやらあそこから事前に出して用意しているみたいだ。多分予定に合わせて選んでるんじゃないかな。いつも服はリリシアが持ってくるものを着てる。おかげでコーディネートなどを自分で考えなくてすむから楽だ。ワンピースばかりだし、自分で選んでもそう困りそうなものもないのだが。
読んでくださりありがとうございました。




