06
訓練所についてみれば、なんだか慌ただしい様子で騎士たちが走り回っている。驚いて見ていると、リリシアも驚いたようで目を丸くしていた。すぐに我に返ると訓練所の中に入っていき、慌てて後に付いていく。勝手に入って大丈夫なんだろうかと思いつつ、角を曲がった先にあるドアへ入った。と、
「旦那様!」
リリシアが悲鳴のようにファデル様を呼んだ。
視線をたどれば、右肩から肘までを覆うように包帯がぐるぐると巻かれたファデル様がいる。処置をしたのだろうにじんわりと滲んで見える赤に眩暈がしそうになった。
怪我をしている。無事じゃない。日常から突然切り離されてしまったかのような、光景。
遠い、自分には関係のないことだと思っていた現実が目の前にある。魔物に怪我を負わされた人が現実に、私の目の前にいるのだ。
魔物と戦って、怪我をして、血が出てる。
急にそれが現実味を帯びて、息が詰まった。
「あ……」
どうすればいいか分からなくて、何を言えばいいのかわからなくて固まってしまう。リリシアとファデル様は何かを話していて、でもそれが私の頭に入ることはなかった。
現実だ。これが現実。ファンタジーな画面越しの物語じゃない。危険な世界で、危険な魔物がいて、それと戦う世界だ。傷は負うし、下手すれば死んでしまう世界。事故じゃない。病気じゃない。殺される世界だ。
ふるりと、体が震えた。恐怖を感じたのか、それとも違うのかわからない。始めての感覚だった。
痛くないはずはないのに、椅子にすわっただけのファデル様は包帯の巻かれた腕を平気で使っている。
「団長のお嬢さん、ですか?」
声を掛けられて、そこで初めて部屋にファデル様以外の人がいたことに気づいた。見上げればその人はにこりと笑い、しゃがんで私に目線を合わせてくれる。彼が間に入り、私にはファデル様とリリシアが見えなくなってしまった。だけどそれが今は良かったのかもしれない。呆然としていた意識が区切られ、目の前の人を見れた。
「驚かせてしまいましたか。私はトアレ。コルト騎士団副団長の、トアレ・アルフルドといいます」
トアレさん。様、だろうか。副団長ということは、ファデル様の次に偉い人ということか。次に強い人、かな。
「はじめ、まして」
突然のことに困惑しながら挨拶をすれば、トアレ様は目を僅かに見開いた。すぐにどこか悲しげな表情になったことに戸惑うと、すみませんと謝られる。
「団長に、あなたのお父様に傷を負わせてしまいました。副団長として、団長である彼を守ることも私の義務だというのに」
――この人は、何を言っているんだろうか。
命を懸ける仕事だ。普段がどうなのか私は知らないけど、義務だ、と言った以上この人が謝っていることももしかしたら当然のことなのかもしれないけど、でもそれはなんだか違うような気がした。
騎士団の仕事は、自分たちの身を守ることじゃない。ううんそれもあるかもしれないけど、一番はそこじゃないと思う。それが命を懸けるということなのでしょう。
今やっと現実味を帯びた命を賭すという事。それはたぶん理不尽で、どうしようもない暴力のようなものなんだろう。避けようとして避けられることなら、そもそも命なんて懸けない。避けて、安全な場所にいて、他を危険にさらしたくなんてないから、命を懸けるんだ。守りたいから命を懸けるんだ。
私には絶対に、できないこと。
「僭越ながら言わせていただきますが、ファデル様は、騎士として当然のことをして、傷を負ったのでしょう。ならそれは謝る必要のないことで、トアレ様もファデル様も、当然の行動を取った結果なら謝るべきではないのではありませんか。命を懸けた仕事で、常に無傷でいることなんてできるわけがありません。謝るのはおかしなことだと思います。謝罪をするということは、自分が何かを誤ったと認めることです」
トアレ様の目をしっかりと見返して言えば、瞠目される。大きく見開かれた目が私を映し、薄く開いた口も含め顔全部で驚いたことを表現しているようだった。
たとえ守りたくとも、命をかけていても、騎士様だって本当にその時になったら自分の命が惜しくなるかもしれない。でも生きているから、それは当然のことだ。生きていたいと願うのは罪じゃない。トアレ様がもし生き延びたくてファデル様を見捨てたのなら、仕方のないことだった。それでもそれは、多分違う。わざわざ謝るくらいだ。トアレ様は多分そんなことをしていないし、そんな状況にもなっていないだろう。トアレ様が抱いているのは罪悪感じゃないと思う。きっと責任感が強いんだ、この人は。だとしてもファデル様が負った怪我でトアレ様を責めるのは違う。トアレ様が謝るのも間違っていると思った。だからファデル様の娘である私がトアレ様を責めるのも、違うと思う。
じっと、奇麗な翠の目に見つめられるのは居心地が悪かった。思わず顔を逸らすと、トアレ様ははっとしたように私の前から退いた。「失礼しました」と言われ、それに首を傾げる。失礼したのは私だと思う。何もわからないくせに騎士様に偉そうなことを言ったのに。怒られるとばかり思ったから先に僭越だなんて使いなれない言葉を付けたのだ。
なにも知らない子供がよくもまあペラペラと、と代わりに自分を責めるように言葉が浮かんで、うぐ、と喉の奥で詰まったものが飛び出そうになった羞恥の叫びだと自覚しながら、「こちらこそ失礼いたしました」と言うだけいい逃げるようにリリシアの元に駆け寄る。ファデル様も私に目を向けて、なんだか情けない表情を浮かべた。
「守ってくれて、ありがとうございます」
そんなファデル様に言えば、目を丸くした後笑われた。なんだか嬉しそうだからいいものの、こんなちんちくりんが何を言っているんだと思われていたらと思うと穴に入りたい。でも言いたかったのだ。それはどうあろうと変わらない事実だから。
「シア、無事でよかった」
リリシアにファデル様の傍まで引かれると、頭を撫でられた。大きくてごつごつとした硬い手だ。先生とは全然違う手。驚けば、ファデル様は優しい笑みを浮かべて私を見つめていた。
なんだか今更、安心して泣きたくなった。
トアレ様に馬を出してもらい、腕以外にも怪我をしていたらしいファデル様は馬の引く荷台のような寝台に乗せられて邸まで帰ることになった。私はリリシアの乗る馬に乗せてもらい、横を進む。騎士団の人たちが何人も見送りをしていて、ファデル様は慕われているんだなあと実感した。
街の人たちにはファデル様が負傷したことは秘密なんだそうだ。不安を煽ってしまうからって。
「でも、やっぱり知らせるべきだと思う」
納得できない、とリリシアを見れば、リリシアはこちらを見たファデル様を見る。ファデル様は寝台からじっとこちらを見ていたかと思うと静かに「どうして」と聞いてきて、それに少しだけ緊張した。今日も含めて、なんだか初めてまともに会話をしているような気がする。
「騎士団の団長が負傷するような想定外のことが起こったんです。街の人はそれを知るべきではありませんか? もし知らずに過ごして、ある日突然街に入ってきたらどうなりますか。パニックが起こりはしませんか? 街の人は、少なからず、脅威が近くにあるんだと知るべきです。もしそうなったとしても、知っているのと知らなかったのとじゃ心の持ちようが違うもの」
ファデル様に対しての態度もまだ測れないまま言葉を探しながら伝えれば、目を細め一度として見たことのない真剣な表情になった。じっとこちらを見て、一度考えるように目を伏せる。騎士団長としての顔か、領主の夫としての顔か。少なくとも、距離を掴みかねて窺いながら私と接していた父親の顔じゃない。それはそうだ、こんな話題は、こんな子供が口を挟むべきものじゃない。けどやっぱり不満なものは不満なのだ。
リリシアは戸惑うように私を見ていて、前を向かなくて平気なのかと少し不安になる。手綱を持っているのはリリシアなんだから、ほらちゃんと前見て!
馬に乗って寝台を引くトアレ様の表情は見えないけど、ファデル様はちらりとその背中を見た。
「何も知らされていないというのは、怖いことです。塀に囲われて幸せに暮らしていて、じわじわと塀の外が奈落になっていって、奈落が塀に迫ってから気づいたときどんな心地がするでしょう。知らされていたら、知らなければよかったと思う人だっていると思います。でも、知らぬ間に窮地に陥っているより、窮地に立たされつつあるのだと知っていれば、考えることも、動くこともできるんです」
「……わかった。エーデリアと話してみよう」
相変わらず例えが下手な私だけど、言いたいことは伝わったのかファデル様は重々しく頷くとそういい、トアレ様の背中をついた。いいな、と確認を取っているあたり、彼の頷きも必要なんだろう。恐る恐る見るとあっさり縦に揺れた頭に驚いてしまう。ファデル様もそうだけど、こんな小娘が気に入らないっていうだけで口を出してきたことを採用していいんだろうか。もしかして私が団長の娘だからトアレ様は口応えができないのでは。そしてファデル様は娘だから判定が甘くなってるということはないだろうか。
どうしよう、後悔先に立たずっていうけど、口挟まなければよかった。なにも考えずに口を開くからこういうことになるんだなと頭を抱えたくなる。次からは気をつけなければ。さっきから本当に余計なことばかり言っている。
先生、なんだか先生がいると私心が休まる気がするんです。早く帰ってきてください。いないのは私のせいだけど!
邸につくと、ドアの前でうろうろと落ち着きなく歩いていたエーデリア様がぱっと顔を上げこちらを見た。
ショックを受けたように口元に手をやり動きを止めると、すぐに泣きそうな顔をして駆け寄ってくる。
「あなたっ」
「ああ、エーデリア、すまない」
まるで映画のワンシーンのように腕を広げるファデル様に抱きつくエーデリア様。なんだか見ているこっちが気恥ずかしい気持ちになってしまう。
「ごめんなさい私ったら。怪我は大丈夫なの? 一体どうしてこんな……」
はっとしたようにファデル様から離れると包帯の巻かれた腕に視線が向かい、「ああ」と嘆くように零した。労わるようにそっと腕に手を這わせ、小さく何かを呟く。と、青の光がその腕を包んだ。もしかして、エーデリア様は治癒魔術を掛けているんだろうか。ロキシーさんの魔力よりも透き通った、海のような緑がかった青だ。
先生が使った治癒魔術は魔法陣で、ロキシーさんは精霊魔術、エーデリア様は呪文。ひとえに治癒魔術といっても色々あるのかもしれない。より強力なのとか、かすり傷程度のものに使うのとか。先生が帰ってきたら聞いてみよう。それとも、私が魔力を使えるようになって、勉強が進んで治癒魔術が使えるようになればその時に教えてもらえるかな。
「まだ痛い? 大丈夫かしら」
「もう大丈夫だよ、ありがとう」
心配そうに眉を八の字にして顔を覗き込むエーデリア様に、ファデル様は優しく笑むとその頭を撫でた。ほっと息をついたエーデリア様は私に向き、リリシアが承知した、というように頷くと馬から先に降りて私を下してくれる。すぐに私も抱きしめられて、驚いたけど抱きしめてくる腕に触れた。
なんだか懐かしいような、優しい匂いがする。これが母の匂いというものなのかもしれない。梨夏のときも感じたことのある、心の奥からゆっくりと何かが解けていくような、心のそこから安心できる温かい感覚。
「シア、無事でよかった」
頭を撫でられながら耳元で聞こえた掠れた声に、抱きしめられて少し強張っていた体から力が抜けるのがわかった。
前から思っていたけど、エーデリア様はあたたかくて優しい。最近は動き回って疲れるおかげかすぐに寝てしまうし、寝起きも悪いけど、今もきっと毎朝毎晩、祈ってくれているんだろう。思い返せばいくらだって思い出せる優しい声。
私はきっと、お二方と向き合っていなかったんだ。父母と呼べないなんて言い訳をして他のことに逃げていたんだろう。だってファデル様とエーデリア様がこんな夫婦だったなんてことも、何も見てこなかったから知らず呆気にとられてしまった。リリシアは平然と見ていたから、きっといつものことなんだ。
知ろうとしていれば、関わろうとしていれば、もっと前に知れたはずなのに。
両親を忘れたくはない。忘れるつもりはないし、絶対に忘れたりなんかしないけど、今の私をこの世界に生み出してくれたこの二人も、確かに私の両親に違いはない。
目を瞑り、触れている手を恐る恐る抱きしめ返すように回せば、エーデリア様は小さく肩を揺らした。
きっとわかっていたはずだ。なんとなくでも、私が距離を置いていることに。お腹を痛めて産んだ子に逃げるように避けられて、わけもわからないまま、一体どんな心地がしただろう。それなのに微笑んでいたこの人は、きっと強い人なんだろう。
「騎士団の方々が守ってくださったおかげです」
なんだか胸が痛くなって、少しだけ手に力が入ってしまった。慌ててその手を離し言葉を返せば、最後にぎゅっと強く抱きしめて離された。ちょっと苦しかったと思いながらもなんだか少し嬉しくて、急に心変わりでもしたような自分に呆れてしまう。調子のいいことだ。
吐きそうになった溜息を飲み込みながらリリシアの隣まで戻り、ことの成行きをまた見守る。エーデリア様も常の様子に戻っていた。表情は見えなかったけど、さっきはどう思ったんだろう。
「トアレ、あなたもどうもありがとう。ここまで助かったわ」
言うとエーデリア様はファデル様の左肩に入り込み、その体を支える。見守っていたトアレ様も慌てて右肩を支え、エーデリア様に「いいのに」と遠慮されていた。それでも支えるトアレ様もファデル様を慕っているんだろう。「いらっしゃい」と優しくかけられたエーデリア様の声を聞いて私とリリシアも付いていく。邸に入るとそのまま食堂に全員で向かい、リリシアはメイドさんを呼び付けると何かを言付ていた。
「何が起こったのか、詳しく教えてちょうだい」
エーデリア様と私が並んで座り、向かいにファデル様とトアレ様が座った。リリシアは私たちの後ろに控えていて、メイドさんたちがお茶を持ってくるとエーデリア様が静かに聞いた。リリシアはメイドさんにお茶を持ってくるよう言っていたのか。
「最近、この辺りに強い魔物が現れるという話はしたね」
確かめるように目を見て聞くファデル様に、エーデリア様はしっかりと頷いた。私は初耳だ。もしかしてあの言い方だと先生も知らなかったんじゃないだろうか。街の人たちにも言ってないんだから、まだ確かな話ではなかったのかもしれない。それともこの領は重要な話ほどツートップだけでいろいろと決めていく感じなんだろうか。
「今日もそうだった。本来ならカンデラの森にいるような魔物たちだ。そんな魔物たちが、今日は群れをなして来た。といっても十八か二十そこらのだが、うちの騎士団には荷が重かった。うちは数が少ない上魔術の使い手だっていない。苦戦したよ。戦闘不能に陥る者がいなかったのが奇跡だ。もしかしたら、次はさらに強く、大量の魔物がやってくるかもしれない」
手を組み、祈るように項垂れて話したファデル様にトアレ様も表情が暗くなる。戦闘不能にはならずとも、怪我を負った人は多かったんだろう。もし私に魔術が使えたら、ファデル様たちとともに魔物と戦うことだって、訓練所に行ったとき全員の傷を治すことだって出来たかもしれないのに。
魔力が掴めないことが、心底悔しくて、今初めて、怖かった。次、とファデル様は言った。きっとこれまでも、徐々に強くなっていき、数も増えてきているんだろう。もしその、対処できないほどの次が来た時、私は今日のように何も知らないまま、何もできないまま守られて、傷ついた彼らの姿を後になって見せられるのだろうか。気が付けば領地が荒れ地になってることだって、ありえないことじゃない。
焦りが生まれた。魔力が掴めないことへ、初めて焦りが。今まではアストラの言葉に、まだ慣れていないだけで、確かに魔力自体はあるんだって安心していた。でもそれじゃいけない。確かにあるのなら、尚更早くそれを探すべきなんだ。
読んでいただきありがとうございます。




