47(夢)
──この絵、どうしたの?
まだあどけない、男の子の声がする。幼いころの自分の声だ。
──街に出たときにみつけたのよ。きれいだったから、思わず買っちゃったわ。どこに飾ろうかしら。
答える声は、リュシラのものだ。
彼女は祖母といったほうがいい年齢の女性だが、自分にとっての母といえば、もちろんリュシラしかいない。
椅子に膝立ちして、テーブルにひじをついていた男の子が、前方に手をのばす。
ずいぶん小さい手だな、とラキスは思う。たぶん四歳くらいだろう。子ども時代の夢はおなじみだが、今日はずいぶん小さいころからはじまるんだな。
夢というのはふしぎなもので、登場している自分の気持ちを感じながらも、同時にそれを見物している、いま現在の自分がいる。
十九歳の自分が、子どものいる場所をぐるりと見まわす。なつかしいコルカムの家、住み慣れた居間だ。
踏み固められた土間は案外広く、大人の肩の高さほどもある糸車や、大きな水がめをおいていても、まだ十分な空間がある。
部屋の中央に切られているのは、石積みの炉。火の上でいつも湯気をあげているのは、足のついた大きな鉄鍋。
組み立て式のテーブルには、くすんでいるが清潔な、白っぽい亜麻布がかけられている。布の四隅には、リュシラ好みの草花が刺繍されていて、四季によって別の花の模様に変わる。
たまに来る来客たちは、テーブルクロスを使うなんて領主様みたいだとびっくりするが、これがお針子であるリュシラのこだわりなのだ。
食事時になると用意されるその布が、かけられたままだということは、いまは食事がおわったばかりの時間なのだろう。
きっと朝食にちがいない。ななめ前の席には、カイル──もちろん唯一無二の父──がすわっていたが、彼はたいてい仕事場のほうで昼食をとるから。
手をのばした子どもがつかんだのは、小振りの額縁だった。着色もされていない木枠で、たぶん高価なものではない。でも、そこにはめられた絵からは、安っぽさとは無縁の、高貴な雰囲気がにじみでていた。
壁ぎわにある食事専用の作業台で、使った皿を拭いていたリュシラが、明るい声で言った。
──すてきでしょう。アデライーダ女王様とエルランス殿下、それに三人の小さなお姫様たちよ。本当にお美しくて、うっとりするわ。
──ふうん。
絵を眺めながら、四歳のラキスは気のない返事をかえした。
たしかにみんな、すごくきれいな服を着て、髪もきれいな金色だ。でも、絵が小さすぎて顔なんかよくわからないし、どの人も全部同じように見える。男の子が好きなものはなさそうだ。
とくに興味も感じなかったので、テーブルの上に絵を戻した。リュシラは椀や皿を食器棚に片付けながら、不満そうにぼやいた。
──男の子って、ほんとにつまらないわねえ。
何か感想を言わなきゃいけなかったかな? ラキスは思い、感じたとおりのことを口にした。
──リュシラのほうがきれいだよ。
リュシラがゆっくりと振り返った。
──男の子って、なんてかわいいのかしら。
席で聞いていたカイルが、感心したように唸り声をあげた。
──よく仕込んだものだ。
──当然よ。こんな言葉、夫からは期待できそうにありませんからね。
──おれのほめ言葉は、おまえに求婚するときに使い果たした。
ふたりのやりとりがおかしくて、ラキスは思わず笑ってしまった。
でも、もうそろそろ時間だ。行かなければならない。
戸口のほうに向かって歩き出すと、カイルが声をかけてきた。
──もう行くのか。
──うん。
先に家を出て行けば、ふたりに見送ってもらえることに、ラキスは気づいたのだ。
いままでみたいに長い時間ここにいると、いつのまにか家が消えて、泣き叫んでしまうことになる。でも、ぼくが先に出るようにすれば大丈夫。
──そうか、よく思いついたな。
と、ひげ面をくずしてカイルが笑いかけてきた。ほめてもらえたことがうれしくて、ラキスも笑った。
扉の取っ手に右手をかけたところで、リュシラが言った。
──行かないで。
笑みをうかべたまま、ラキスは首を振った。リュシラも、少し悲しそうにほほえみながら、うなずいた。
──いってらっしゃい。
送り出され、扉をあけて外に出る。後ろ手に閉めてから、走り出す。
成功だ。いってらっしゃいって言ってもらえた。
振り向かずに、どんどん走った。別の場所に用があったからだ。
そこまで行きつけない夢も多かったが、今日は平気だ。探しているものに、きっと出会える。
走っている場所は、最初は慣れ親しんだ田舎道だったが、そのうちに風景がとけて、色彩が抜け落ちはじめた。
だんだん心細くなり、足が止まりそうになる。立ち止まって振り向きたい。でも、それをしてはいけないのだと、必死で自分に言いきかせた。
振り向いちゃだめ。振り向いちゃだめ。
振り向いても、もう家はない。
振り返らないように目を閉じて、歯を食いしばりながら走った。
めちゃめちゃに走っているようでも、方向が合っているのがわかる。もともと、そちらの方向にしか行きようのない場所なのだ。
ほかの方角なんて存在しない。だって夢だから。
走っている一歩の幅が、しだいに大きくなっていくのを感じた。
いまが何歳なのかは察しがつく。八歳だ。
八歳の自分が目をあけると、雨雲の中に入ったように暗い空間がひろがっていた。建物の中ではないようなのに、前方には、なぜか大きな扉がいくつも連なっている。
手前の右手、いちばん近くにあった扉をひらいた。誰もいない。同じような暗い空間があるばかりだ。
ここじゃなかったと思いながら、今度は左手の扉をひらいた。
ここもちがう。
走りながら、八歳のラキスは奥に向かった。
右、左、右。ちがう。誰もいない。
息が切れて、走り方が極端に遅くなってくる。まだ子どもなので体力が続かないのだ。
ラキスはあせった。困ったな、探さなきゃいけないのに。早くみつけないといけないのに──。
だが。
これが最後だと思いながら開けた扉の向こうに、幸いにも、それはいた。
それ、すなわち森でカイルとリュシラに襲いかかり、かけらも残さず食い殺した魔物が。
かけらも残さずとは、のちに人から聞いた話で、その瞬間の記憶は、ラキスの頭から完全に抹消されてしまっている。 目の前で見ていたはずなのに、だから彼は魔物の姿を思い描くことができず、両親の様子を思い出すこともない。
彼はそれを、両親が、嫌な記憶を全部もっていってくれたためだと思っている。
さすがはカイルとリュシラだ。
おかげで、ふたりのことを思い出すときは、楽しかった思い出だけを最優先にすることができる。
ただ──それでもたったひとつだけ、心に刻印されたまま消えない記憶があることを、ラキスは知っていた。獲物を呑み込んだあとの魔物が、のろのろと頭をあげて、こちらを向いたときの記憶だ。
魔物の姿を覚えているわけではない。それなのに、視線が向けられてきたことだけは覚えている。
明らかに自分をみつめた、そのまなざしを、彼はどうしても忘れることができない。
だからこそ、いままでずっと探し続けてきた。
ひらいた扉の向こうは、やはり黒雲の中のように真っ暗で、魔物の姿は見えなかった。覚えていないのだから、夢の中でも見えるはずがない。
でも、背中を向けていることだけは感じとれる。立ち去っていこうとしている。
ラキスはあわてて声をあげた。
──待ってよ、魔物!
魔物がゆっくりと振り向いた。
暗闇の中、目だけが丸く光ったことで、それがわかった。
──待ってよ。ずっと探してたんだ。魔物だって、ぼくのことを探してたよね? だってあのとき、ぼくを食べるの忘れちゃったんだもの。
魔物の視線は動かない。
ラキスはそれを見上げながら、一生懸命話しかけた。
──ぼくがいるのはわかってたでしょ。だけど食べるの忘れちゃったんだ。だから、ぼくのほうから来たんだよ。ねえ、ぼくを食べて。
なんの関心もなさそうに、魔物がふたたび立ち去ろうとする気配を見せた。
なんとか引き止めようと、彼は声を高めた。
──食べてよ。おじいちゃんとおばあちゃんを食べたくらいじゃ、おなかいっぱいにならないでしょ。どうして食べてくれないの?
丸く光るふたつの目が、彼を見据えた。声が響いた。
──共喰いはしない。
これは夢だ、と、十九歳の自分が激しく警鐘を鳴らしていた。
あのとき魔物が、そんなことを言ったはずはない。あれはただ、腹が満たされたから、それ以上の獲物などほしくなかっただけなのだ。
くだらないことを考えるな。
せっかく助かった大事な命を、無駄に捨てるようなことをしちゃいけない。たとえこれが夢であっても。
──くだらないと思っているの?
ふいに、天上から女の声が落ちてきた。
生まれたときに誰でも聞くであろう声。聞いてはいるが、覚えているはずもない声だった。
生みの母のその声が、嘲笑うように暗い空間に響きわたった。
──大事な命? おまえは川に捨てられたのよ。化け物。とっくに死んだと思ってたのに、いまだに生きていたなんて。
──うるさい、黙れ。
叫んだ声は、先ほどよりも少し大人びていた。十二歳くらいになっているのかもしれない。
──あんたなんかに、そんなことを言われる筋合いはない。ぼくは魔法の炎を取ったんだ。ちゃんと魔物退治をしてるんだ。魔物の犠牲になる人が、これ以上ふえないように。ぼくみたいに残される子が、少しでも減るように。少しでも、誰かの役に立つように。化け物に、そんなことできるはずがないじゃないか。
──魔物退治! 自分の同族を狩るなんて、やっぱり魔物並みなのね。
頭上の暗い空間を突き破って、突然、どす黒く巨大なものが降りてきた。掌のかたちをしたそれは、指を大きくひろげて、十九歳のラキスの身体をつかんだ。
棒のようにつかみ上げると、胎内から外の世界へと勢いよく投げ出した。
投げ落とされた先にあったのは、暗く濁った川の流れだった。
激しい水音とともに、急流が彼の身体を押し流す。青灰色の濁流の中を流される。もみしだかれ、押しつぶされそうになりながら流されていく。
それでも細々とつながった意識の中で、彼は必死に考えている。
考えは問いかけになり、止めようもなく心からあふれ出す。
なんで生きているのかだって? おれのほうこそ、声をあげてそれを訊きたい。
育ててくれた人たちが無残に死んでしまったのに、生粋の人間でもないおれだけが、なんで残っているのかと。
実際に叫びたかったが、どうしても声が出なかった。なぜならこれは、夢だから。その証拠に、冷静な自分がちゃんと別の場所にいて、流される自分を叱咤している。
ばかばかしい考え方はもうやめろ。カイルとリュシラが、こんなことを聞いたら悲しむ。
ふたりとも、おれが生きていたことを、心からよろこんでいるはずだ。強く生きていってほしいと、絶対に願っているはずだ。だから堂々と前を向いていればいい。
よくわかっているはずなのに──。
振り払っても振り払っても、同じ言葉を心が叫びはじめてしまう。
なんでおれだけ生きてるんだ。
なんで生きなきゃいけないんだ。
こっちにおいで、と、今度は別の声が聞こえる。
青灰色の流れの中から、インキュバスの声が呼んでいる。
──生きているのが苦しいだろう? ここは楽だよ。ひとつになって、いっしょにいよう。
絶対行かない。そう言い返すと、夢魔は意外そうに応じてきた。
──前に呼びかけたときは、いとも簡単に受け入れてくれたのに。今度はずいぶん、つれないんだな。
あのときとはちがう、とラキスは思う。
もう子どもではない。もう一度あそこに行くほど馬鹿じゃない。おれはそんなに弱くない。
声を出さなければ。声を出して、このくだらない夢から、早くさめなければ。
目をさませ。声を出せ。早く声を──。




