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26(マリスターク)

 にぎやかだった街並みを通り過ぎると、広い庭園にかこまれた邸宅の並ぶ居住区がひろがっていた。

 貴族や裕福な商人たちが、店や工房のひしめく中心地から離れた場所に、自宅をかまえているのだ。


 石積みの塀で区切られた敷地と敷地のあいだに、時おり小さな葡萄畑や野菜畑がはさまっている。

 王都とちがって市壁をもたないマリスタークの街には、ゆるやかに農村と混じりあっていくようなのんきさがあり、エセルの心をなごませていた。


 エセルシータ姫の今日の予定は、城内や街の要所、ごく近隣の農地の視察だった。

 視察といっても、女王や大臣、あるいは次期女王のリデルライナ姫といった人物にくらべれば、ぐっと観光の色が強いものになっている。


 現に、いま彼女たちが向かっているのは、街はずれにある絵画館であり、要所でもなんでもない場所だった。

 姫君のお目当ては絵画だと知っている伯爵が、一番はじめの訪問地としてそこを選んでくれたのだ。


 案内役はオルマンド家自慢の跡取り息子で、同行するかと思われた伯爵夫妻の姿はなかった。

 若いふたり──伯爵の表現によると──が一台目の箱馬車に並んですわり、二台目にはそれぞれの付き添いたちが乗りこんでいる。

 エセル側からは王城に長くつとめ続けている侍女のリタ。いっぽうオルマンド側から来たレブンは、家令にしてはまだ若く、三十代前半くらいに見えた。


 レブンはいかにも謹厳実直そうな四角い顔の男性で、コンラート・オルマンドのお目付け役的な立場を兼ねているらしかった。うわついたところが少しもなく、寡黙なたちなのか必要最小限の声しか発しない。


 もっとも、寡黙になっているのは侍女のほうも同様で、こちらはあえて、ふだんのおしゃべりを封じていることが感じられる。

 一行の護衛担当はディーとレマだったが、ふたりともかなり距離をとった位置から馬車を守っていて、挨拶以外はひとことも話しかけてこなかった。視界にさえほとんど入ってこないので、いるかいないかもわからないくらいだ。


 要するに──エセルは当惑しながら考えた。

 みな、姫と次期伯爵が二人きりに近いかたちを味わえるようにと、気をまわしているのだ。

 もちろん、そういう指示を出したのはマリスターク伯爵にちがいない。伯爵夫妻が同行しなかったのも、きっとふたりの時間を演出するためなのだろう。


 エセルは、葡萄栽培について説明しているコンラートの横顔を、そっと見上げてみた。

 高い鼻梁と、新月の夜のように黒い瞳。きれいに束ねた黒褐色の髪。理知的で清潔な雰囲気を身につけ、語る声には彼女に対する自然な気づかいがにじんでいる。

 話す内容も明快でわかりやすいものだった。


「マリスタークの土地は水はけがよすぎて、穀物を育てるにはあまり向いていないのです」

 と、車窓の葡萄畑に目を向けながら彼は語っていた。


「そこでオルマンド家の歴代当主は、土壌にぴったり合った葡萄栽培に目をつけました。葡萄というのは、本当はもう少し気温が高い地域のほうが甘く実るのですが……」


 気温についての難点は、収穫時期を遅くすることで克服したのだと、彼は説明した。

 もっともいい状態の果実を得るために、毎年、取り入れ時期の決定にはとても気をつかっている。最近では果汁をしぼる大きな圧搾機も導入して、領民ともども、最高級の葡萄酒づくりをめざして日々励んでいる……。


 こういう話題は、普通なら領地の自慢話に移っていってもおかしくないところなのだが、コンラートはしつこく長所を並べたてたりはしなかった。

 そんな彼に、気持ちよく相槌をうちながら、エセルはふと自分の左手首に目を落とした。


 手首には、彼女の雰囲気によく似合った華奢な腕輪がはめられている。白金の輪の上で等間隔にきらめいているのはエメラルドだろうか。

 これはゆうべ、城内に飾られた絵画をコンラートとふたりきりで眺めていたときに、さりげなく彼が贈ってくれた品だった。


 なぜふたりきりだったかといえば、まわりにいた人々が、いつのまにか誰もいなくなってしまったからだ。マリスターク伯爵夫妻の気持ちはゆるぎなく、周囲への指示もぬかりなかったらしい。

 ただ、そのときのエセルは、人がいなくなったことになどまったく気づかないまま、目の前の芸術に見入っていた。


 飾られているのは、そもそもの訪問目的であるヤーコフの絵画で、あま御使みつかいの少女が小型のリュートを奏でている構図だった。

 少女のかたわらには一頭の仔羊が寄り添い、いかにもくつろいだ様子で目を細めている。流れ出る音色の美しさにうっとりと聴き入っているかのようだ。


 深い紺碧の星空を背景にして、御使いのふわふわした金髪が、さざなみのように波打っている。神々しさを感じさせる一対の翼は、やわらかな白さで描き出されて、金色の髪との境目をほとんどつけないままに混じり合う。 

 落ち着いた若草色の衣装をまとい、リュートの弦をおさえる左手の手首には、ほっそりした金の腕輪がはまっていた。


 ゆたかな金髪と星空の対照、白い翼と仔羊の毛並みの、ともにさわりたくなるようにやわらかな質感。画家特有の繊細さで構成された作品世界は、音楽さえ本当に聞こえてきそうなすばらしい出来栄えで、遠くから足をはこんだ甲斐があったと思わせてくれるものだった。


 ──やはり、よく似ていらっしゃいますね。

 

 となりに立っていたコンラートが、鑑賞の邪魔にならないよう小さな声でささやいた。

 エセルはあいまいに答えを返した。


 ──そうかしら? 自分ではよくわかりませんけれど……。


 というのも、絵の中でほほえんでいる御使いは、まだほんの少女で、どう見ても十歳前後にしか見えなかった。

 天つ御使いの描かれかたにはいろいろあり、もっと年上だったり完全な大人であったりすることも多い。

 あどけない少女の姿もたいへん魅力的だが、自分もこんなに幼く見えているのだろうか……。


 小首をかしげていたエセルに、コンラートが差し出してきたのが、絵に描かれたものにそっくりな細工の腕輪だった。

 うながされて手に取り、はめてみると大きさもぴったりと合う。満足そうにうなずいた彼が、ますます似ていらっしゃいますよとささやきながら、笑いかけた。


 エセル自身もなんとなくうれしい気分になってきて、絵の横で少女と同じ仕草を真似てみたりした。

 腕輪をつけたことはいままであまりなかったが、自分では見ることのできない首飾りとちがい、すぐに目に入ってきて美しい。


 ──よかったら差し上げますよ。どうぞお持ちになってください。

 ──まあ、申し訳ないわ。

 ──それはほんの安物です。絵のものに似ているので持ってきてみましたが、姫様にはおもちゃのような品ですから、お気づかいなく。


 ただの友好の印です──と、そんなふうに言いながら、いたずらっぽく肩をすくめた青年は、今日もエセルのかたわらでやさしく気配りを続けてくれている。


 八歳年上……。

 エセルはあらためて、その年齢差を思い出し、大人の男性ってこういうかたのことを言うのかしらと考えた。


 きっと彼の目には、自分などとても子どもっぽい存在として映っているのだろう。庇護するような雰囲気があるのは、単に王族を気づかうためだけではないにちがいない。

 けれど、嫌な感じはしない。むしろ、言わなくても先回りしてくれるような配慮のしかたが、心地いいものに感じられる。


 わたしも、もう少し視野をひろげていろいろな人を見るべきなのかもしれないと、彼女は考えた。

 自分と同じような年頃の若者ばかり追っていたら、それ以外のことが何ひとつ目に入らなくなってしまう──。


 ガタンと馬車が揺れて、それまでの整備された道から、少し石ころの多い脇道へと進路が変わった。


「申し訳ありません。このあたりは、ふだんお客様をご案内する道順に入っていないので、状態がよくなくて」

 コンラートがあやまり、続けて窓の外をさし示した。


「しかし、もう到着です。あちらが絵画館ですよ」


 剪定された垣根が長く続く敷地の向こうに、石造りの邸宅が見えはじめていた。




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