25
ラキスは教練場の宿舎に戻ると、手早く自分の荷物をまとめた。
荷物は少なかった。最低限の身支度ですぐに出発できるよう、日ごろから整理する習慣がついていたからだ。
過去の報奨金が入った革袋と、砕けた魔法剣にかわって調達したひとふりの長剣。このふたつさえ忘れなければ、あとはどうにだってなる。
そう思いながら黙々と手を動かしていたが、やがてふっと動きを止めた。
現実の重みが急に迫ってきて動けなくなったのだ。
なんて馬鹿なんだろう。こうなることはわかっていた。わかっていたから言われる前に出て行くべきだと思っていたのに。
それができなかったのは彼女が──エセルがあまりにもそばにいてくれたから。笑いかけてくれたから。話しかけてくれたから。
もう少しだけ一緒にいたい、やさしい笑顔を見ていたい、かわいい声を聞いていたい。そう願ってしまったから。
そうしてずるずると居座り続けていた結果がこれだ。情けないとしか言いようがなかった。
彼が王城を出るために荷造りしたのは、これで二度目のことになる。最初のそれは無論、二月のさなか、王城付き討伐隊とともに出立するときだ。
遠征の荷物をととのえながら、ここでの生活は今日限りだと何度も自分に言い聞かせた。
いまならまだお姫様と離れても生きられる。姫の恋心を踏みにじる薄情な男として、あっさり別れることができるのだと、本気で思っていた。
彼女は悲しむかもしれないが、そんな冷たい男のことはすぐに忘れてしまうだろう。周囲だって忘れさせずにはおかないはずだ。
母である女王に愛され姉姫たちに愛され、国中の人々から慕われているレントリアの第三王女──それがエセルシータという姫君なのだから。
もしも泣いていたとしても、皆が競って救いの手を差し伸べてくる。そして姫の人生にもっともふさわしい相手を、必ずみつけて連れてくる。
だからこそ、おれは薄情な男のままさっさと離れていけるのだ。
ラキスのこの考えかたは、あれから三月ほど経ったいまでもおおむね変わっていなかった。むしろ強まったとさえ言えるかもしれない。王城にいればいるほど、人々のエセルへの愛情を実感できたからだ。
ただ、長く滞在した分だけ彼女の期待を長引かせ勘違いさせてしまったのは、どう考えても失敗だった。あまり悲しまないでくれるといいのだが……。
いや、悲しむというより普通は怒るよな──うん、きっと怒る。でも怒ってくれたほうがずっとましだ。
ため息をつくと、彼は迷いを振り切るべく勢いをつけて背嚢を背負い、部屋を出た。足を速めて階段をおりる。
踏み出した戸外には春の光があふれており、自分の状況との落差にたじろがずにはいられなかった。だがこれから旅に出る身としては、いまが春であることだけでも感謝しなければならないのだろう。
当然ながら正面の楼門ではなく裏門から出て行くつもりだったので、そちらに向けて歩いていく。途中で一度だけ足を止め、芝生の向こうにそびえる王城を複雑な気持ちで仰ぎ見た。
白い壁と銀色がかった青い屋根のつらなりが、ゆたかな春光の中でひときわ輝いている。
外壁は、陰の部分がほのかな薄紅色に見える石材を用いていて、それが巨大な建物にやわらかな印象をあたえていた。
ところどころの壁に接した小尖塔も、優美な彫刻のようだ。
張り出したテラスの角では、竜体の守護聖獣リンドドレイクを意匠にした紺地の国旗が揺れている。
ラキスはふいに笑い出したくなった。
天幕の中でエセルが一生懸命訴えていた言葉がよみがえってきたからだ。
──ついていきたい、と、あのとき彼女は言ったのだった。
──あなたが故郷に帰るとき、わたしもついていってはいけない? ついていきたいの。
連れていけるはずないじゃないか。こんなに美しく立派な場所に住んでいる姫君を。最高級の場所で生まれ育ったお姫様を。
半魔と一緒の過酷な旅路に、どうして連れ出したりなんかできるんだ。
どんなに頼まれたってできっこない。泥にまみれた暮らしの中に突き落とすことなんてできない。重い荷物を背負わせて、押しつぶすことなんてできない。
荷物の重さに喘ぐのは、おれ一人で十分だ。
姫君の幻影を振り切るように頭を振ると、ラキスは王城に背を向けた。
もう振り向かない。今度こそ、もうここには戻らない。
そう誓いながら歩き出そうとしたときだ。
視線の先に、城壁よりもさらに白く輝くものが立っているのに気がついた。
思わず目を瞠る。オークの木陰にたたずんで、あたりまえのような顔でこちらを眺めているのは天馬のリドだった。
「リド……」
天馬に歩み寄ると、ラキスはゆっくり手を伸ばし、その首筋をやさしくなでた。
「ひさしぶりだな……ずっと<星の道>にいたのか?」
心をこめて話しかけたが、天馬はいつものように知らん顔だった。
乗り手に対する愛想というものは、聖獣の中には存在していないらしい。気が向くときだけなついてきて、向かないとさっさとどこかに消えてしまう。
いつも思うのだが、天馬というのはつくづく猫にそっくりだ。
もっとも猫とはちがい、聖獣が消える先はほとんどの場合 <星の道>と呼ばれる空間だと思われるが……。
「しっかり休憩できたみたいだな」
ラキスは洗いたてのように純白の毛並みを眺め、相手がたっぷり休息をとったことを確認した。城を出たら、まず馬を探すことからはじめなければならないと思っていたので、リドの登場は本当にほっとするものだった。
だが愛馬はそうは思っていないらしく、翼をたたんだまま彼のほうをみつめ続けている。というより、彼の後ろにそびえるものをみつめ続けている。
どうやら興味があるのは、乗り手ではなく王城のほうであるらしい。もしかすると、自分ではなくエセル姫に会いに来たのかもしれない。
「……あのさ、乗ってもいいか?」
たいへん控え目に訊いてみると、つやつやした翼の坂道がおりてきたので助かった。
天馬の上はあたたかく、翼と翼の間に身をおいてみると、ふんわりした加護が身体を包み込んでくるような気がした。なめらかな首元に両手をついて、彼はしばらくの間、じっとうつむいたまま黙っていた。
それからようやく呟いた。
「悪いな……お姫様はここにいないんだ。マリスタークに行って、まだ戻ってこない。とりあえずおれたちは逆方面に向かって飛ぶことに──リド!」
いきなり叫んだのは、天馬がぐっと力をこめるなり翼を広げたからだ。
普通の力ではないし、普通の広げかたではない。
たちまちのうちに地面が遠のき、舞い上がった空の上で翼がさらに大きくはばたく。はばたくごとに空間が揺れる。視界が変わる。
「やめろ、リド、勝手に……」
身体が分解するかのような激しい恐怖で、声が途切れた。全身の細胞がばらばらにされていくようだった。
真の暗闇、真の光。満天の星が流星のようにあたり一面を流れていく。
聖獣の翼が、いともやすやすと<星の道>を翔け抜けはじめた。




