7 土鍋のピンチ!
長ネギ、春菊、白菜、しらたき、しいたけ、人参、焼いた豆腐。特性割り下で薄切りお肉に火を通せばすき焼き!!アクセントの溶き卵の準備も万端、追加の肉もたくさん、野菜も用意したことだし、あとは蓋を閉めるだけ。
私はいつものように土鍋の蓋を閉めようとして……やってしまった。多分、乾燥した空気がいけなかったのだろうと思う。冬になると乾燥の所為で指先がカサカサになり、時にはぱっくりと割れることもある我が手指様が、今回もやらかしてくれた。
水分の吹き飛んだガサガサの指先からつるりと蓋が滑り落ち、まるでスローモーションのようにフローリングの床に叩きつけられる。この間一秒もないはずであり、あっと思った時には既にごとんという鈍い音と、僅かに甲高い音がした。
「ああああっ、あ、やだ、やっちゃったー!」
見事に転がった土鍋の蓋は、その端の部分が三センチくらいの大きさの三角形に欠けていた。欠片は綺麗な形だけど、欠けた鍋など縁起が悪いし指を切りそうで危険である。
しかしこの土鍋は、向こうの世界とこちらの世界を繋ぐ唯一のものだ。今日もあちらの世界では、鍋好きな将軍が準備して待っているに違いない。
「どうしよう」
細かい欠片カスはどうしようもないとして、これくらいなら接着剤でなんとかなるかもしれないけど、接着剤は身体によくない。土鍋の蓋を確認した私は、他に傷やひびがないことを確認してとりあえず蓋を閉める。蓋がないよりはましだが、問題はこの状態でヴォルフを呼ぶことができるかどうかだ。
「だ、大丈夫、じゃないわよね、これ」
いつもなら蓋に空いた小さな穴から勢いよく湯気があがっているはずが、三角に割れた隙間から空気がダダ漏れの状態だし。とりあえずすき焼きの肉を投入してしまったし、安い外国産の肉はこれ以上煮込むと硬くなるので、意を決してヴォルフを呼ぶための呪文を唱える。
「いただきます!」
手を合わせたまま土鍋を凝視するが、鈍く光るものの、それからうんともすんともいわない。焦った私は再び同じ呪文を連続で唱える。
「いただきます、いただきます、いただきます、いただきます!!」
私のしつこさに同情したのか、土鍋がブーンという音と共にいつもの光りを発し始め、ようやく複雑な文様を描き始めた。何時もより光が薄いのが気になるけど、文様が人の形になり、それから見慣れた男の姿になっていくのを見ながら私はほっと一息つく。
「こんばんは、リナさ……ん?」
そしていつも通り現れたと思っていたヴォルフは、いつも通りのヴォルフではなかった。
「なんか薄くない? っていうか、あんた、身体が透けてるよ」
なんていうか、色合いが薄い。というか、ヴォルフの背後に置いてあるテレビの形がはっきりと透けて見えている。
「うわっ、ほ、本当だ! リナさんこれはもしかして」
「失敗、だと思うわ」
ヴォルフは自分の手のひらを通して私を見たり、自分のお腹から透けて見える座椅子に愕然としているけど、はっきり言って私の方がびっくりだ。びっくりを通り越して正直ちょっとキモいとか思ってしまったりする。
こっちでは半透明な人といえば幽霊や精神体の姿というイメージが一般的だけど、あちらではどうなのだろうか……幸い脚は二本とも生えているのであまり怖くはないけどさ。触ってみて手が突き抜けるようだったらヤバいんじゃないかな。
ハルヴァスト帝国人とかいう異世界の軍人で、土鍋によってこっちに来ちゃったりだとか、ただのミネラルウォーターで怪我が回復しちゃったりだとか、色々と常識外れで人外な一面を持つヴォルフだから、意外と大丈夫なのかもしれない。
「び、微妙に透けてますけど、感触は確かにあるんですよね……ほら、お箸も使えますよ?」
ヴォルフは自分の身体をわさわさと撫で触り、それからおもむろに自分用の箸をつかんで開いたり閉じたりをしてみせる。見た目幽霊状態のヴォルフがやるとなんだかシュールな絵面だ。
「あ、あら本当ね。じゃあ問題ないのかな? さっき土鍋の蓋を割っちゃってさ、原因は多分それだわ」
私が三角形に割れた破片と土鍋の蓋を指し示すと、ヴォルフは慌てて私の手を掴んできた。
いや、鍋の蓋が割れたんだってば。
荒れ放題の私の手をまじまじと見ないでよ……っていうか半透明のヴォルフの感触や微妙な体温がへんな感じなんですが。
「怪我は無いのですか?!」
「私は大丈夫だけど土鍋がね。これじゃないと多分召喚できないと思うのよ。蓋だけ直す方法はないのかなぁ」
さわさわと指を動かして私の手を確認するヴォルフに、気まずくなった私はさりげなく手を引っ込める。
「うーん。ハルヴァスト帝国では金を使ってかけた皿を直す技術があるのですが、こちらにはないのですか?」
「金を使って……あるっ、あるあるあるあるっ! でかしたわヴォルフ! 金継ぎよ金継ぎ!こっちにも金を使って割れた器を直す技術があるわよ」
割れた茶碗などを修理する方法、あったじゃない。ヴォルフの世界にも金継ぎの技術があったなんて、なんたる偶然。
「でも高いのかしら……金だもんね」
「帝国でも高級な器にしか使わない技法ですから、まあ高いのではと。こちらの場合は、本物の金が必要ですからね」
「ん? 金、金貨……ヴォルフ、あんたの金貨って純金なの?」
「純金とは正金のことでしょうか? あの金貨であれば不純物の入っていない正金ですが」
「やっぱり! あの金貨を使って金継ぎをしてもらえたり……材料があるなら後は技術料だけ?」
思わず小躍りしていた私はしかしながらはたと思い出した。この金貨は元々ヴォルフの持ち物であり、ヴォルフはどういう理由かわからないがトイレにまでしか行けないようになっている。ヴォルフの持ち物も当然のように持ち出せない。散々試したが髪の毛一本ですらトイレから先の境界線を越えることができないのだ。
ヴォルフから対価として貰い、金貨の今の持ち主が私になったと考えたらもしかしたらいけるのかもしれないが、こればかりは土鍋の力がどう作用してくれるのか検討がつかなかった。
「ヴォルフ、あんたってトイレから先には行けないわよね?」
「トイレ? ああ、手水場のことでしたっけ。はい、それから先には結界があるのか手を通すことすらできませんけど」
「それじゃ、この金貨も同じじゃないかしら」
「……その可能性の方が大きいですね」
ガスコンロの火を消し、アクセサリー入れに仕舞っておいたヴォルフの世界の金貨を手に取りつつ、私はそろそろとリビングを出る。ヴォルフも複雑な表情で私の後をついてきた。
境界線は玄関に近いトイレまでで、私は少しだけ緊張しながら手のひらに乗せた金貨を凝視して一歩一歩足を進める。
一歩、まだ大丈夫。
さらに一歩、変化なし。
もう一歩……あれ、少し動いた?
ダメ押しの一歩。
チャリーン
「やっぱりダメじゃん!」
無情にも手のひらから勝手に金貨が落ちてしまった。
「くっ、ここでも役立たずなんて……なんたる敗北感」
頭がいい癖に自信がない窓際将軍なヴォルフがガクッと膝をついた。
「仕方ないわね。金継ぎってどれくらいかかるのか後で調べるとして、とりあえず、すき焼き食べましょ」
「すみません」
「なんであんたが謝るのよ」
「鍋の対価が対価じゃなくなってしまったので」
落ちてしまった金貨を拾い上げ、リビングに戻ったヴォルフはしょんぼりと肩を落としてしまった。暗に自分はただ飯喰らいだと言いたいらしい。
「あ、それなら心配ないわよ」
「え?」
「ヴォルフが解いてくれた懸賞付きクイズの成果が結構返ってきてるのよ。ちなみに今日の米もあんたの成果だから」
「そ、そうですか」
「そうよ。だからじゃんじゃん解いてね」
「はいっ、頑張ります!」
見えない尻尾がピンと立ったように立ち直ったヴォルフは、本当に大型犬みたいだ。私は、別に対価が欲しいわけじゃない……と言いかけてやめた。ヴォルフが来てくれるだけで対価になってるとか、恥ずかしくて言えないって。
私の内心を知らず、調子が戻ったヴォルフはいつもの座椅子に胡座をかいて座り、今夜の鍋を興味津々で見ている。
「どんな鍋か楽しみですが、私はこの姿で食べることができるのでしょうか」
「まぁ、なんとかなるんじゃない?」
ミネラルウオーターで怪我が治る人種だから大概なんでも有りなんじゃないの、とは言わないでおく。食べた物が透けて見えるのだけは勘弁願いたいけどさ。
溶き卵入りの私の器に少々硬くなってしまった肉を引き上げてからコンロの火をつけ、沸々と煮立ったところで新たに肉を投入して柔らかく煮えた方の肉をヴォルフに渡す。
「どうぞ。溶き卵が欲しいなら遠慮なく言ってね」
「い、いただきます」
ハルヴァスト帝国では生の卵は食べないらしい。随分食べ慣れてきたとは言え、未知なる味との対面の時は少し慎重になるみたいだ。
最初に肉だけをはふっと食べたヴォルフは、思案するように咀嚼してゴクリと飲み込んだ。
「多分、大丈夫です。味も、ショウユと甘味と、ダシでしょうか」
「正解! 濃いとか薄いとかわかる?」
「若干、薄い……かもですね」
「うーん、割り下って結構濃いんだけど。やっぱり半透明だから味覚も半分なのかしら」
醤油と砂糖を追加した私に、ヴォルフはワタワタと慌てている。
「リ、リナさん、私はこれで大丈夫ですからっ」
「何言ってんの。私には溶き卵があるから多少濃くてもいいのよ……ん、まあまあかな」
申し訳なさそうにしょんぼりと肩を落としたヴォルフが可愛いので、むしろ役得だとは言わないでおこう。
もう完璧になった箸さばきで肉を口へと運んだヴォルフは、その瞬間にピコッと耳を立てた。いや、実際にはそんなことないけど、立てたように見えたのよ。最近ことあるごとにヴォルフの仕草がツボにきてるんだけど、なんだこれ?
「スキヤキ、好きですね!」
狙って言ったとしか思えない感想とか、素で言うんじゃないわよ!思わずむせ返ったじゃない。親父ギャグとかそこまでは言わないけど。
「あれ? どうしたんですかリナさん」
「あー、脳内の話だから気にしないで。好きな味でよかったわね。胃の中の物が透けて見える様子もないし、たくさん食べてちょうだい」
「はい!」
肉をあらかた食べ終え、野菜やしらたきに取り掛かるヴォルフは本当に幸せそうだ。見ているだけでこちらも嬉しくなるような満面の笑みが半透明なのは残念だけど、大きく口を開けて煮汁が染み込んだ白菜を咀嚼する姿に、私も自然と笑顔になる。
そうなのだ、ヴォルフと一緒に週末鍋を食べることがいつしか当たり前になり、そのことを嬉しいと思う自分に戸惑っていたりする。時々私やヴォルフに用事が入って週末鍋がお流れになると、なんとなく寂しい。
いや、かなり寂しいんだけどね。
それを素直に認めるのを怖がっていることにもとっくの昔に気がついた。だって、ヴォルフは異世界人だもの。いつかは私の前から姿を消すかもしれないじゃない?割れてしまった土鍋の蓋は、私にそのことを忘れないでって教えてくれたんだと思うのよ。
「リナさん、今日のおコメは艶がありますね」
「あらわかる? 新米なんだけどね、普通に買うと高いやつよ。ヴォルフが当ててくれたからほんと、助かるわ」
「リナさんのためなら何でもします」
キリッとした顔で宣言するのはいいんだけどさ、あんた、口元に溶き卵垂れてるし。そう指摘してティシューで口元を拭いてあげると、顔を真っ赤にしたヴォルフがすごい勢いでご飯をかきこんだ。
うどん玉も用意してるんだけど、食べてくれるかな?残ったら明日のお昼はうどんにしよう。
最初の警戒はどこへやら、溶き卵で食べるすき焼きがすっかり気に入った様子のヴォルフは、締めのうどんまで溶き卵で食べて帰っていった。