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第十一話 確かな幸せ

 第十一話 確かな幸せ


 1


 目を覚ますと、そこはどこかの部屋の中だった。所々に大きな木箱が置かれていて、床は埃だらけになっている。人が使わなくなってから、かなりの時間が経っているようだった。

 部屋にある窓は開いていて、風が吹き込んでいた。その風から潮の香りがしたので、ここがどこかの海の近くにある建物だということがわかった。

「う……」

 まだ意識が朦朧としている中で、背中に回っている両手を動かそうとしたが、金属と金属が擦れ合うような音がするだけで動かせなかった。横目で見ると、両手に手錠がかけられている。

 そうだ。あの時、俺は奴らに捕まって、それで……。

 意識を失う前のことを思い出して、再び辺りを見回すと、反対側の部屋の隅にボブカットの子と桃色の髪の子が俺と同じように手錠をかけられて横になっているのが見えた。すぐにそれが愛佳(あいか)千登勢(ちとせ)だとわかった。二人とも気を失っているようで、微動だにしない。二人の隣には秋野を守っていた松藤(まつとう)がいた。彼女も拘束されて動けないようだった。

「良い風だね……」

 声が聞こえてきて、ようやく意識がはっきりとしてきた。気絶する前に聞いた声、そして、昔から知っているやつの声だった。

 声が聞こえたほうを見ると、反対側の窓のそばに灰色のソフトハットを被ったあいつが立っていた。

伊月(いつき)……」

「こういう時は、海のそばの砂浜を何も考えずに歩いているのが良いんだけど、あいにく、僕たちには縁遠いことだね」

 伊月が窓の外を見るのをやめて、俺のほうに視線を移す。

「君たちは向こう側の世界に行ってくれる。そう信じていたんだけどね……結局、こうして再び会うことになってしまった」

「……」

葉作(ようさく)、どうして僕との約束を破ったの?」

 伊月が口調を強めて聞いてくる。その視線に耐え切れず俺は視線を逸らそうとしたが、それはしてはいけないと意地を張って、伊月のほうを見た。

「お前との約束を忘れていたわけじゃない。愛佳を戦わせたいなんて思っていなかったし、こんなことをさせてはいけないと考えていた。ずっと、ずっと前から。けど、愛佳には守りたい大切なやつが出来た。敵だった自分のことを初めて受け入れてくれたその子のために、愛佳はお前たちと戦うと決めたんだ。その決心を握りつぶすような真似は出来なかった」

 千登勢に会ったことで愛佳は初めて救われた。今まで生きてきて良かったと心から思えるようになった。あのラーメンを食べに行った夜以来、愛佳が笑ってくれるようになった。

 その子を強く守りたい。その思いが俺にはよくわかった。だから……。

「関係ないね。どんな理由があっても、君が僕との約束を破ったことに変わりない。それは紛れもない事実だ。愛佳がその子のことを守りたい気持ちはわかるけど、その事実を変えることは出来ない」

 伊月はあっさりと、冷たく言った。

「本当に残念だよ、葉作」

「……俺たちをどうするつもりだ? なぜ、さっさと殺さない?」

 そう聞くと、伊月はため息をついてソフトハットを被り直した。

「今、浜家(はまや)秋野(あきの) 希莉絵(きりえ)と話をしている。それが終わったら、葉作たちの処分を決めるだろうけど、君たちが元いた場所に戻れないのは間違いないね。本来なら、浜家の目を盗んで君たちを逃がしてあげたいところだけど、僕自身、君たちに対して強い怒りを感じている。それは出来ないよ」

 伊月は再び窓の外のほうを見る。

「でも、もしかしたら来てくれるかもしれないけどね」

「どういうことだ?」

「伊月」

 その時、部屋のドアが開いて一人の男が入ってきた。俺ほどではないが、かなり背が高い。パーマのかかった髪に、整った顔立ちの男だった。

「どうかしたのかい、桜夢(おうむ)?」

「交代だ。浜家たちのところに行け」

 桜夢と呼ばれたそいつは表情一つ変えないまま言った。

「オッケー。じゃあ、見張り、頼んだよ」

 伊月はソフトハットを被り直してドアのほうへ向かって歩いた。しかし、部屋を出る前に一旦立ち止まる。

「葉作、最後に言っておくよ」

 俺のほうに振り返ってまっすぐに見つめてくる。その目はとても冷たかった。

「君は愛佳を救うチャンスを自分から手放した。もう君には愛佳を救うことは出来ない。後悔しても、どれだけ嘆いても駄目だよ。君も、僕と同じになってしまった。すごく、残念だよ……。じゃあね」

 そう言って伊月は部屋を出て行った。

 伊月と同じになってしまった……か。

 それがどういう意味なのか、よくわからなかったが、自分との約束を破った俺たちのことをあいつは絶対に許さないだろう。ダルレストと敵対しているうちにこんな状況になるのはある程度予想していた。だが……。

 俺は手錠をかけられたままの愛佳のほうを見た。

 だが、俺はそれでも……間違っていなかったと信じている。愛佳が選んだ道を一緒に歩んできたことに後悔はない。これからも俺たちはずっと一緒だ。

「その子が例の……なるほど」

 部屋に残った桜夢という男が独り言を呟いた。その視線が俺と同じように愛佳のほうに向いていたのが、とても嫌な感じがした。

 桜夢は部屋に置かれた木箱に座ると、ポケットに手を入れた。銃でも取り出すのかと思ったが、出してきたのはただのハーモニカだった。

「……」

 桜夢は何も言わずにハーモニカを吹き始めた。それはとても綺麗な音色だったが、今の自分が置かれている状況のことで頭がいっぱいで、とても良い気分になれなかった。


 2


 葉作たちに別れを告げた僕は長い廊下を歩いて奥にある部屋へ向かった。

 部屋に近づくにつれて話し声が聞こえてきたけど、くぐこもった声だったので話の内容まではわからなかった。部屋のドアを開けると、そばの壁に花麗が立っていた。

「お疲れさま、伊月」

花麗(かれい)こそ、お疲れ。こっちの様子はどう?」

 そう聞くと花麗は肩をすくめて前方を見た。同じ方向に視線を向けるとスーツを着た男が何人か見張りをしている中で、秋野と浜家が話していた。秋野は椅子に座り、両手に手錠をかけられて身動きが取れないようになっていた。浜家は彼女を見下ろす形で前に立っている。耳を澄ませると、二人の話が聞こえてきた。

「いい加減に話したらどうだ?」

「あなた方にお話しすることは何もありません。早く殺しなさい」

「仲間のためなら自分の死を選ぶか。立派なことだな」

 浜家が煽るように言っても秋野は態度を変えなかった。写真で見たイメージ通り、とても真面目で芯の強い人だと思った。さすが、ガードマンやガードレディを束ねるリーダーだけのことはある。

 でも、ダルレストの尋問はそう簡単に切り抜けられるものじゃない。このまま、彼女が黙秘を続けたところで、本部に帰れば自白剤を大量に打たれることになるだろう。そうなったら、どれだけ口の堅い人でも洗いざらい話してしまう。秋野たちが拠点としている場所のことを。

「その覚悟は賞賛するが、他のやつはどうかな。捕縛したのはお前だけじゃない。こちらには死んでも構わないやつは何人かいる」

「まさか……千登勢たちを!?」

「お前が態度を改めるつもりがないなら、それも考慮する必要がある」

「あの子たちは関係ありません! 狙いは私だけのはずです。他の子は解放してください!」

「そういう訳にはいかない。奴らは仮にも我々ダルレストに敵対しているガードマンとガードレディだ。生かしておけば、後々面倒なことになる」

「あなたは……」

 ここで初めて秋野の態度が変わった。こみ上げてくる怒りで全身が震えているようだった。

「あなたには情がないんですか!? あなたが見捨てたあの子は今も懸命に生きているのに、何も感じないんですか!?」

 あの子? 誰のことだろう……。

 大声でいう秋野に対し、浜家は表情一つ変えなかった。そして、感情のない声で言った。

「……知らんな。刀人になったやつのことなど、私には関係ない」

 刀人になったやつ……ガードレディのことだろうか。浜家が見捨てたっていったい……。

 今まで知らなかった浜家の秘密がわかるかもしれないと思って、興味が湧いたけど、今は聞くことが出来なかった。

 その時、スマートフォンの呼び出し音が鳴り響いた。

 浜家がスーツの内ポケットから黒のスマートフォンを取り出し、電話に出た。

「私です。はい、既に拘束しています……いえ、何も情報は……はい、わかりました」

 短い会話だったけど、浜家が丁寧な口調で話していたので、ほぼ間違いなく相手は吉住(よしずみ)だと思った。

 浜家はスマートフォンをポケットに戻すと、部屋を出て僕たちのところにやってきた。

「一時間後、迎えのヘリが到着する。私は秋野 希莉絵とともに本部へ戻る。お前たちは後から来るヘリで戻れ」

「わかりました……ん?」

 異変に気付いて僕は窓の外を見た。

「どうした?」

 浜家にそう聞かれて僕はソフトハットを被り直した。

「来たみたいだ、彼女たちが」


 3


 大阪湾の埠頭近くに建つ河馬根利(かばねり)製鉄工場は七年前に廃業したにもかかわらず、解体作業が行われないまま、放置されている無人の廃工場だった。

 その広さは東京ドームが丸々一個入るぐらい大きく、 2064 年の現在も不気味な雰囲気を漂わせながら、そびえ建っている。

「外の見張りはいないようだな」

 双眼鏡で工場の様子を見終えた俺は一息ついて車の運転席のシートにもたれた。

「希梨絵さんたち無事でしょうか……」

 となりの席に座っていた八重坂(やえさか)が不安げな表情でつぶやく。

「殺すつもりなら捕まえた時にやっているだろう。それに奴らは俺たちの情報を知りたがってる。秋野たちをそう簡単に殺すとは思えない」

「だけどよぉ」

 後ろの席から声が聞こえてきた。振り返ると、溝谷(みぞたに)が不満そうに頬を膨らませていた。

「奴ら、どうして今日、理事長たちが空港へ行くことを知っていたんだ? オリジナルの刀人だけじゃなくて、大型ヘリ二機まで持って来るなんて、用意周到すぎるだろ」

「あたしたちの情報を誰かがダルレストに漏らしたってこと?」

 溝谷のとなりの席にいた(たちばな)も苦虫を噛み潰したような表情をした。

鶴香(つるか)、それはつまりスパイがいるっていうのか? でも、それだったら俺たちのいる場所を教えたほうが手っ取り早いだろ? こんな回りくどいやり方する必要ないんじゃないのか?」

「確かにそうね。でも……」

「うだうだ言ってても仕方ないだろ」

 一番後ろの席に座っていた佐東(さとう)が口を開いた。

「今は理事長たちを助けることを考えるべきだ」

「そうだな。今はそのことに集中しよう」

 佐東の隣に座っていた沢村(さわむら)が席から身を乗り出して前方にそびえ立つ工場を見た。

「恐らく梨折(なしおり)先輩と八重坂が交戦した女の刀人、そして嵯峨山のおっさんたちを捕まえた別の刀人があそこにいるってことはほぼ確定ですね」

「そういうことになるな……」

 ため息をついて俺は車のハンドルに手をつけた。

 関西国際空港へ通じる高速道路の戦闘から四時間が経過していた。

 字倉(あざくら)と名乗った女の刀人とシンナの戦闘は、字倉の突然の撤退で幕引きとなった。その後、沢村たちに応援を頼んだ俺たちは葉作たちが身につけていた小型の発信機の電波を辿って、ここまで来たのだ。

 結局最後まで俺はシンナの援護をすることが出来なかった。頭の中に聞こえてきた弥生(やよい)の声が今でも記憶に残っている。

『やっと…やっと会えたね』

 あれはどういうことなんだろう。弥生はずっと前から誰かのことを待っていたんだろうか。そして、その誰かがあの場所にいた……。

 そいつはいったい……。

「発信機がまだ作動してるってことは理事長たちはまだ工場の中にいるのは間違いない。だけど、奴らも発信機のことぐらいは予想しているはずだ。絶対に待ち伏せしてるぜ」

 溝谷の言葉に沢村も頷く。

「一つに固まって正面から突っ込むのは良い作戦とは言えないな。ここは三つに分かれて中に入ろう。みんな、工場施設内のマップのデータは見れるか?」

 メンバーが頷いて、それぞれのスマートフォンを取り出す。俺も沢村から渡されたスマートフォンを出して電源を入れた。

 画面に表示されたのは河馬根利工場全体のマップだった。東京ドーム一つ分の広さがあるとはいえ、建物の数は四つとそれほど多くはない。そのうえ、発信機のおかげで嵯峨山たちがどの建物に捕まっているのか、既に確認できた。

「理事長たちが捕まってるのはこの建物。一番大きな工場だ」

 沢村が言っている工場は施設のちょうど中央にあるものだった。その工事の周りを囲むように他の建物が建っている。

「この工場の一番上にヘリポートがある。もしかしたら、奴らはヘリで脱出するつもりなのかもしれない。侵入ルートは三つ。一つは工事の裏側にある各階へ通じる非常階段。これで最上階にいる理事長たちのところへ一気に向かうルート。もう一つは手前に建っている工場にこの工場の地下三階に通じる地下通路があるらしい。これを通って内部から侵入するルート。もう一つは正面玄関から堂々と突破するルートだな」

「最後のは完全に囮役じゃないのか?」

 文仁が聞くと、沢村は苦笑いした。

「その通りだな。正面で派手に暴れている間に、先に言った二つのルートで内部へ侵入する。これが一番妥当な作戦だ。ちょうど三ペアに分かれることもできるからな」

「まったく……しょうがねえな。囮役は俺と鶴香でやろう」

「ちょっと、大丈夫なの、文仁?」

 心配そうに聞く橘と対照的に溝谷は「へっ」と鼻で笑った。

「心配すんなよ、鶴香。目立った行動をするのは得意なんだぜ、俺」

「それに巻き込まれるあたしの身も考えなさいよ、まったく……仕方ないわね、あたしも行くわ」

 橘は呆れながらも文仁と共に囮役をすることに決めた。

「よし、溝谷と橘は正面から突っ込んでなるべく目立つようにしてくれ。そうして、奴らの注意を引きつけている間に、梨折先輩と八重坂は裏口の非常階段から、俺と未国はこの地下通路を使って中から建物の中に入る。目的は理事長たちの救出。それが最優先だ。奴らと戦うことじゃないのを忘れるな」

 沢村が真剣な表情でみんなに言った。

「へっ、さっさと理事長たち助けて帰ろうぜ!」

 開いた右手に左手の拳をつけて溝谷が意気込んだ。

「そうね、みんなで帰りましょ」

 隣にいた橘も頷いた。

「未国、今度の敵は手強いかもしれない。充分に気をつけろよ」

「言われなくてもわかってる。理事長たちは私が必ず助ける」

「よし、頼りにしてるぞ」

「当たり前だ……って頭、撫でるな。恥ずかしいだろ」

 笑顔になって頭を撫でてくる沢村に対して、佐東はかなり照れているようだった。

 みんな、秋野たちを助けたいと思っている。俺自身も、あいつには助けてもらった借りがあるし、葉作たちのことも心配だった。必ず全員を助けたかった。

 しかし、なぜだ……。

 あの弥生の声を聞いてから、俺は妙な胸騒ぎを感じていた。あの工場の中にいるのは秋野たちだけじゃない。敵であるダルレストの奴らも待ち構えているだろう。その中の誰かが……そう誰なのかはわからないが、その誰かと俺には深い因縁があるような気がしてならなかった。そして、弥生のことも……。

 確信も、根拠もあるわけじゃない。だが、そんな変な不安が俺の心の中に強く根づいていた。

「大丈夫です、秀平(しゅうへい)さん」

 助手席に座っていた八重坂が言った。

「不安に思っていることがあるかもしれませんが、私とシンナがついています。必ず希莉絵さんたちを助けましょう」

 強い口調で言う八重坂に対して俺は思わず苦笑いしてしまった。

「すごいな、八重坂。俺の考えていることはお見通しか」

「気づいてないかもしれないですけど、秀平さん、意外と考えていることが顔に出るんですよ」

「そ、そうなのか?」

「ふふ、やっぱり気づいてなかったんですね」

 そう言って八重坂は控えめに笑った。十歳も年下の子に自分の考えていることをあっさり見抜かれたことに、驚きと羞恥心を隠せず、俺は彼女から視線を逸らした。その様子を見て、八重坂はまた小さな声で笑った。

「よし……みんな、始めるぞ」

 沢村の呼びかけに車内にいた全員が頷く。

 秋野たちを救出する作戦が始まった。

 

 4


 午後17時。

 大阪湾の地平線に夕日が沈み始めようとする時間帯。異様な静けさに包まれた工場の正門には左右にスーツを着た男が二人立っているだけで見張りはほとんどいなかった。

 油断しているのか、それとも誘っているのか。どっちか一つだろうが、まあ、この場合はどっちでもいい。

 俺たちの役目はできるだけ目立った動きを見せて、奴らを引きつける。それだけだ。

「鶴香、準備出来たか?」

「出来たけど、これ本当にやるつもりなの、文仁?」

「本当は奴らの追跡から逃げるために使おうと思って置いといたんだけどなぁ。こういう使い方をするとは思ってなかったぜ」

「ねえ、文仁」

「ん、どうした?」

 俺がそう聞くと、鶴香は顔を下に向けたままだった。

「あたしたち、本当に助けられると思う? 希莉絵さんたちのこと」

「助けられるさ」

「根拠は?」

「ない!」

「……」

「……」

「……聞いたあたしがバカだったわ」

「し、心配するな! 根拠はないけど、俺が助けてみせる!」

「はいはい」

「鶴香、お、お前信じてねえだろ!」

「信じてるわよ」

「えっ?」

 俺が聞き返すと、鶴香は刀人の力で剣を出した。

「あんたのこと信じてる。だから、必ず希莉絵さんたちを助けるわよ」

 真剣に俺のことを見る鶴香に多少驚いたが、すぐに実感した。

 鶴香は本当に俺のことを信じてくれている、と。

「……へっ、そう言われちゃ、期待に応えるしかねえな。行くぞ、鶴香!」

「わかったわ!」

 鶴香の返事を聞いた直後に俺は車のアクセルペダルを思いっきり踏み込んだ。

 タイヤが地面を激しくこする音が響いたかと思うと、車が前に出て一気に加速した。今まで出したことのないくらい速かった。だが、俺はしっかりと目の前に見える工場の正門に向かって車をどんどん加速させた。

 正門前にいた男たちが気付いたようだったけど、全く気にしなかった。

「突っ込むぞ、鶴香! どっかにしがみつけ!」

「わかってるわよ!」

 遠くに見えていた正門がすぐ目の前にまで迫ってきた。しかし、絶対に停まらない。ペダルを踏み込んだまま、俺は前をじっと見据えた。

 次の瞬間、物凄い轟音と共に車体が大きく揺れた。シートベルトをしっかり締めていたにも関わらず、体が宙に浮かび上がりそうになった。

 堅く閉ざされていた正門を左右に吹き飛ばし、俺たちは工場の施設内に入った。

「鶴香、投げろ! 出来るだけあちこちに! 出来るだけたくさんだ!」

 鶴香がどんな様子なのかわからなかったが、そう叫んだ俺は片手でハンドルを操作しながら、もう片方の手で助手席に山積みにしていた缶を幾つかとって窓から外へ投げた。

 缶が地面にコツンと音を立てて落ちていく。それと同時に缶から白い煙幕が物凄い勢いで噴き出した。瞬く間に辺り一帯が白い煙で覆われた。

「な、なんだ!?」

「ガードマンとガードレディだ! 入ってきたぞ!」

「どこだ!? 何も見えないぞ!」

 所々で見張りをしていた男たちの声が聞こえてくる。それだけで俺たちの派手な突入が効いていると確信した。

「よし、目的の建物は……あそこだな!」

 煙で視界が遮られる前に施設の中央に建つ大きな工場を正面に見据えて、俺はアクセルペダルを踏み込んだ。

 再びタイヤの激しくこする音が鳴り、一旦スピードの緩くなった車が大きく加速を始めた。

「ふ、文仁! いくら何でも速すぎじゃないの!?」

「これぐらいしないと目立たないだろ!」

「それにしても出し過ぎよ! 無茶苦茶じゃない!」

「う、うるさいな! すべこべ言うな! ほら、もうすぐ着くぞ!」

「どうするつもりなのよ!?」

「このまま接近して、正面玄関の周りにもばら撒く! 準備しておけよ!」

「わ、わかったわ!」

「行くぞ!」

 そう言っている間に工場との距離が縮まってきた。入口のほうから刀を持った男が何人か出てくるのが見えたが、構わずアクセルペダルを踏み続けた。

 工場から数十メートルまで近づいたところで、片方の手で缶を幾つか握り、窓から投げた。

 施設に入った時と同じように工場の入口付近もあっという間に白い煙で覆われた。


 5


「おい、沢村。今、どのあたりなんだ?」

「正確じゃないが、三分の一ってところだな。まだ本社まで行くのに時間はかかる」

「そうか……それにしても暗すぎるだろ」

 文仁と鶴香たちが囮役として行動しているのと同時に、俺と未国は薄暗い地下通路を歩きすすんでいた。

 この通路は一番大きな工場である本社の隣にある別の工場から入ることが出来た。ここを歩いていけば、本社の地下三階にたどり着く。

 ダルレストの連中も大勢できているわけじゃない。正面の入口の見張りをしている奴は多いだろうが、この地下から行ける通路は手薄になっている気がした。それに加えてここは災害などが発生した時に使ういわば非常時の避難用通路だった。そのため、普段はほとんど使われず、この通路自体あることを知らなかった社員も多かったらしい。

 普段から利用されていないと、ただの金の無駄遣いだな。

 呆れつつも、こうして簡単に通れるのは幸いだった。働いてた奴でも知らない奴が多いとなるとダルレストの連中は何の備えもしていないだろう。

「文仁と鶴香のやつ、やりすぎて本物の警察に呼ばれなきゃいいが……まあ、フィールドが張られてるから心配ないか。梨折先輩と八重坂も動き始めている。俺たちも急ぐぞ、未国」

「……」

「おい、未国。話を聞いて……」

 そう言いながら後ろに振り返ると、未国の足取りが段々遅くなっていることに気付いた。

「どうした、未国?」

「いや、別に……何でもないぞ」

「どう見ても何かあるだろ? 歩くの遅くなってないか?」

「そ、そんなわけあるか!」

 意地を張っていたが、その身体が少し震えているのがわかった。

「もしかして、寒いのか?」

「な、なぜだ!?」

「俺はスーツを着てるから意識してなかったけど、ここ結構寒いぞ。それにお前の着てる制服、まだ夏用のやつじゃないか。間違えたのか?」

「いや、そんなつもりは……まさか、こんなに冷えるなんて思わなかったんだ」

 観念したように未国はうなだれた。九月とはいえ、外はまだ暑かったし、夏用の制服を着ても仕方がないと思った。

 やれやれと肩をすくめて、俺はスーツの上着を脱いだ。それをそのまま未国の上に着せた。

「お、おい、沢村! いいのか? お前の方が寒くなるぞ」

「着ておけよ。奴らに遭遇した時に戦うのは未国のほうだろ。お前には万全の状態でいてもらわないと困る」

「それはそうだが……」

「まあ、確かに少し寒いな。それなら……」

 そう言いながら、俺は手を伸ばして未国の手を握った。

「……なんだ、これは?」

「手、握っとけば暖かいかなぁって思ったんだ。うん、実際にお前の手、暖かいし」

「いや、そういうことじゃなくて……」

「嫌か?」

 そう聞くと、未国の顔が一気に赤くなった。

「……嫌じゃない」

「そうか。なら、いいだろ?」

「……」

 未国は何も言わなかったが、こくりと頷いた。その仕草が可愛くて少し胸が高鳴ってしまった。

 やばい、油断して不意を打たれたらまずい……。

 咳払いをしつつ、俺は通路の奥に向かって歩き始めた。未国も俺に手を引かれたまま、そのあとについてきた。

「……沢村」

「どうした?」

「理事長たち、無事だと思うか?」

 しばらく歩き進んだところで未国が聞いてきた。

「理事長は無事だと思う。奴らにとって、『アサガオ』の場所を聞き出すのに一番うってつけの相手だ。色んな情報を抜き取ってくるだろう。だけど、葉作のおっさんや愛佳たちはわからない。いつ奴らに殺されてもおかしくないだろうな」

「そうか……」

「それにもし葉作のおっさんが死んでしまうような状況になったらかなりやばいことになる」

「どういうことだ?」

「愛佳だよ」

「愛佳が?」

「……そうか。未国は愛佳のこと詳しく聞いてなかったんだよな」

「仕方ないだろ。他のやつの生い立ちを聞くのはタブーになっていたし……。誰にでも辛い過去はある」

「本来の愛佳の戦闘能力はな、シンナを圧倒するぐらい強力なんだ」

「なんだと?」

 未国は驚いたように目を見開いた。

 知らないのも無理はない。ダルレストから来た葉作のおっさんと愛佳のことを詳しく知ろうとする者はほとんどいなかったし、あの時から未国は他人と積極的に関わろうとしていなかった。

「ダルレストにいた時にもその力が見込まれてオリジナルの刀人に選ばれたって聞いたことがある。だけど、その力は愛佳自身が制御しきれないくらい危険な力だ。暴走したらどんな事態になるか、わからない」

「だ、だが、愛佳は今まで普通にしていたじゃないか。そんなに暴れた話、一度も聞いたことがないぞ!」

「そうだ。それは葉作のおっさんがいたおかげだ。おっさんがいるおかげで愛佳は自分を見失わずに今まで戦ってこれたんだ。だが、今の状況、奴らが理事長以外に捕まえた奴をそのまま解放するとは思えない。始末する可能性は充分にある」

「そんな……」

「だから、俺たちで助けに行くんだ。絶対にみんな助ける。未国、俺はお前を頼りにしてるぞ」

「言われなくてもわかってる。あの二人にいてもらわないと、うまいご飯が食べられなくなる。それは困るからな」

「……ふっ」

「な、なんで笑うんだ?」

「いや、悪い悪い、未国でもそんなこと言うなんて、意外だったからさ……ふふ」

「意外って、どういう意味だ!? 私は真剣に――!」

「わかってるよ」

 未国が何かを言う前に俺はその体を抱きしめた。

「さ、沢村!? な、何を!?」

「ありがとう、未国……頼りにしてるぞ」

 少し体を離して、未国の頭を撫でた。

「お、おい、子供扱いするな!」

「してねえよ。お前のこと、子供だって思ったこと一度もない。俺はお前のことを……」

「お前のことを……なんだ?」

「……あ、すまん。やっぱり、なんでもない」

「な、なんだと!?」

「ほら先を急ぐぞ」

「お、おい、沢村! さっさと言え! 気になるだろ!」

 未国が何か言っていたが、俺は無視してあいつの手を引きながら前に歩いた。

 改めてお前のこと大切な彼女だって言うのが恥ずかしかった。それを言う自分を想像して顔が赤くなってしまい、その顔を未国に見せるのも恥ずかしかった。

 その後、しばらく未国が問い詰めてきたが、やがて諦めたのか、ため息をついて何も言わなくなった。 

 そのまま、互いに何も言わずにただ手を繋いで、通路の奥へ進んだ。そうして、ようやく理事長たちが捕まってる本社の扉が見えてきた。

「ふう、やっと着いたみたいだな。未国、敵の力は感じ取れるか?」

「ちょっと待て」

 そう言って未国は俺から手を放して、扉のほうに少し近づいた。真剣な表情で周囲を見回す。

「能力を使ってる刀人はいない。待ち伏せしているかもしれないが」

「その可能性は捨て切れないな。けど、向こうも俺たちの正確な位置はわからないはずだ。とにかく先に進むぞ」

「わかった」

 未国がドアを開けて先に入る。俺もポケットから拳銃を取り出してそのあとに続いた。

 工場の地下は巨大なコンテナが無数に置かれた倉庫になっていた。恐らく工場で製造した鉄を外へ運び出すために用意されたものだろう。かなりの数だった。それが四段ずつ、ビル三階建て分ぐらいにまで匹敵する高さまで積まれていた。床は作らていないのか、元あった土で埋め尽くされている。

「廃業して処分に困ってそのまま放置か……」

「使う必要がないなら最初から作る必要なんてないはずだ。どうしてこんな大量に残したんだ?」

「余分に製造するのはよくあることだ。災害が起こって工場が動かなくなった時に、在庫切れを起こしたら大変だからな。反面、こういった問題も起きてしまうが」

「そうか……どうやって上に上がる?」

「来る前に見た設計図が確実なら何箇所か一階へ上がれる階段があるはずだ。一番近いところに行こう」

「わかった。早くここから出るぞ。薄暗くて周りがよく見えないのは好きじゃない」

「そうだな。こんなところで奴らに襲われたら厄介だ」

「そうか……なら、僕が今ここにいるのは厄介なことになってしまうのかな」

 不意に上のほうから声が聞こえて銃口を向けた。積まれたコンテナの上に一人の男が座っていた。深緑のカッターシャツに紺色のズボン、そして灰色のソフトハットを被った男だった。

 男と言っても俺より一回り若い、未国と同い年ぐらいの少年だった。

「別の工場の地下から通るルートがあるって話は聞いてたから知ってたけど、見張っていたみんなは地上で暴れてる君たちの仲間のほうに行っちゃったから、ここはがら空きになってた。だから念のために来てみたけど……これは運が良いと言ったらいいのかな?」

「運が良すぎるな。出来れば争いたくない。このまま見過ごしてくれないか?」

「面白いことを言うんだね、君」

 少年は控えめに笑ってコンテナの上に立った。

「残念だけど、君たちを見過ごすと僕の立場が悪くなる。争いたくない気持ちは僕も同じだから、出来ればこのまま元来た道を戻ってくれないかな?」

「そうしたいのは山々だが、あいにく捕まった仲間が上にいるんだ。助けないわけにはいかない」

「……羨ましいね。大切に思ってもらえる仲間がいるのは良いことだよ。でも、やっぱり通すことは出来ないね」

 少年の表情から笑みが消えた。それとほぼ同じタイミングで未国が動いた。

「沢村、走れ!」

 言うのと同時に未国が左手に隠し持っていたワイヤーを少年に向かって投げた。それを確認して俺は一番近い階段に向かって走った。

「逃がさないよ」

 少年の声が後ろから聞こえてくる。その直後に物凄い大きな音がそばから鳴り響いた。 異変に気付いてその方向を見ると、山積みされたコンテナの一番上が崩れて俺の方に向かって倒れてきた。

「沢村、よけろ!」

 未国の声が聞こえてきた。

「わかってる!」

 叫び返しながら、全速力で前に向かって走った。すんでのところで落下してくるコンテナから逃れる。コンテナが地面に落ち、物凄い大きな音と衝撃が周囲にはしった。大量の土と砂埃が飛び散ってくる。腕で顔を隠して何とか目に入るのだけは防いだ。

「沢村、大丈夫か!?」

 宙に舞った砂埃の向こうから再び未国の声が聞こえてきた。

「平気だ!」

 叫び返すと、舞っていた砂埃がだんだんと晴れて向こう側が視認できるようになった。いつの間にかコンテナの上に移動した未国がサバイバルナイフを構えて少年の方に向かっているのが見えた。

 少年は動じることなく、右手で何かを動かした。

「未国、気をつけろ!」

「っ!」

 俺の声を聞いて何かに気づいたのか、少年のほうに向かっていた未国が急に立ち止まって後ろへ下がった。その直後にコンテナに何かの金属が当たる音が鳴った。

「驚いた。よく見えたね」

「お前の武器……刀じゃないな。それは何かの糸か?」

「こんな薄暗い場所なのに、咄嗟に避けることが出来るなんて凄いね」

 少年は感心したように笑った。命と命を取り合う状況だというのに、そのどこか余裕のある態度に違和感があった。


 6


 普通の刀を扱っていない時点で奴があの鉤爪の男と同じオリジナルの刀人であることはわかっていた。

 どんな得物なのか、わからなかったけど、沢村の声で奴の攻撃を避けることが出来た。そのおかげで何か細長い糸のようなものを何本か右手から出しているのがわかった。最初に沢村を足止めするために、事前にあの糸のようなものをコンテナに引っ掛けていたんだろう。

 この薄暗い地下倉庫内であれは見えづらい。それにあの糸の力は鉄の入ったコンテナを落とすぐらい強力なものだ。厄介な相手なのは間違いない。

 私は後ろに回した右手でワイヤーの先端を掴みつつ、ナイフを構えた。

 いつまでも足止めされるわけにはいかない。せめて、沢村だけでも先に進んでもらいたかった。理事長はもちろん、愛佳や葉作たちのことも助けてほしかった。

「……」

 ふと愛佳の顔が頭の中に浮かぶ。愛佳がアサガオの本部に来たのが何年か前だったことと、私自身が他人との関わりを避けていたこともあって、愛佳とはほとんど話をしたことがなかった。いつも無表情で何を考えているのかよくわからなかった。愛佳にとっても、私のことなんてどうでも良いと思っていた。

 でも、そんな私に愛佳は誕生日プレゼントをくれた。葉作と一緒に手作りのクッキーを作ってくれた。パーティの最中にそれを食べた。美味しかった。普段食べているお菓子よりも思いが詰まっていて美味しかった。理事長の娘の千登勢が帰ってきた時も、愛佳は私の部屋に来て一緒に千登勢を迎えに行こうと誘ってくれた。真那や鶴香たちよりも先に私のことを誘ってくれた。それは偶然だったかもしれない。たまたま愛佳が私を一番に誘っただけなのかもしれない。

 けど、そうだったとしても嬉しかった。とても嬉しかった。私たちはまだ仲が良い友達とは言えないかもしれない。

 だから、必ず愛佳のことは助けたかった。もう一度会って、あいつと色々な話をしてみたかった。これから、仲良くなりたかった。

「……」

 私はぐっと口元を引き締めてもう一度構えを取った。視線の先にいる奴は一歩も動かない。頭に被っているソフトハットの下から静かに私のほうを見つめている。

「良い目をしているね、君。とても強い目だ」

 やつがソフトハットを被り直して言った。

「大切な何かを取り戻したい時にそういう目をする人は多い。あの子もそうだった。親友を取り戻すために、自分の手を血で汚した。ダルレストにいた頃には想像出来ない姿だった。羨ましい、僕は君たちがすごく羨ましいよ。そういった人が一人でもいてくれることがどれだけ幸せなことなのか、僕にはわかる」

「……何を言っている?」

 この状況で独り言のように話すやつの意図が読めなかった。たまらず、そう聞くとやつは肩をすくめた。

「君たちのこと嫌いじゃない。出来れば、戦いたくもない。けど、僕がやらないと傷ついてしまう子がいる。だから、代わりに僕が自分の手を汚す。それがどれだけ罪深いことでもね」

 ソフトハットを少し上にあげてやつが私のほうを見た。

「だから、君たちを見過ごすわけにはいかない。君と同じように僕にも譲れない思いがある」

「……お前の言いたいことは何となくわかった」

 私は右手でワイヤーを握る力を強めた。

「けど、今の私には関係ない。お前を倒して理事長や愛佳たちを助ける!」

 言い終わったのと同時にやつのほうに向かって走り出した。奴の操る糸の軌道は読みづらい。多少傷を負うのは覚悟するしかない。距離を一気に詰めて接近戦に持ち込むのが一番有効だと判断した。

 男が右手を動かそうとする。その直前に右手に握っていたワイヤーを投げた。ワイヤーの先端がまっすぐ飛んで男の右手首に巻きついて動きを封じた。その隙に男との距離を詰めて左手に握ったナイフで男の脇腹を突き刺そうとした。

「!?」

 けど、男の顔面の十数センチ手前で左手が急に動かなくなった。同時に左手首に強い痛みを感じる。あまりの痛みに声が出なかった。手首から赤い血が何滴か落ちていく。

「良い動きだったけど、一歩遅かったね」

 男が左手を少し動かす。天井についている電灯に反射して、私の手首にほそ長い糸が何重にも絡みついているのが見えた。

「い、いつの間に……」

「ごめんね、最初に右手を動かしたのはブラフだったんだ。僕が何か動きを見せれば君から来てくれるのは予想していた。どうやって戦うのかも桜夢から聞いていたからね」

 そう言いながら、男が左手を動かす。手首に巻き付いた糸がほどけて、左手を動かせるようになったけど、痛みが強くてその場で片膝をついてしまった。

「ごめんね、でもあの子のためなんだ」

 男が私を見下ろす。その目がとても悲しそうにしていたけど、どうしてそんな目をしているのかわからなかった。男が右手を動かし始める。

「未国!」

 その声と共に銃声が鳴り響いた。目の前にいた男が急に後ろへ飛び退く。横のほうでいつの間にか、コンテナの上によじ登った沢村が銃を構えているのが見えた。

「危ない、危ない。もう少しであたるところだったよ」

 男が頭に被っているソフトハットを手で押さえながら、一つ後ろにあるコンテナに飛び移る。その間に沢村が私のそばに駆けつけてきた。

「未国、大丈夫か!?」

「大丈夫だ」

「見せろ」

 沢村がしゃがみこんで私の左手を少し持ち上げる。

「……良かった。少し食い込んだだけみたいだ。とりあえず、これを巻いておこう」

 そう言って沢村がポケットから紺色のハンカチを取り出して、男のほうを警戒しながら怪我をした私の左手首に巻き始めた。

「……」

 私もまっすぐに男のほうを見た。沢村が手当てしている間に何か動きを見せてくると思ったけど、男は何もせずにその場に立っているだけだった。攻撃しようと思っているなら絶好の機会のはずだった。それなのに、どうして……。

「よし、これでひとまず大丈夫だ」

 ハンカチを巻き終えた沢村が立ち上がって男に銃口を向けた。けど、男は銃を向けられても全く動じる様子がなかった。

「……」

「……」

 お互いに動きを見せず、何も言わない時間が続く。

「……」

「……ふう」

 しばらくして男がため息をついてソフトハットを被り直した。

「準備はもう出来た。僕は帰るよ」

「な、なに!? どういうことだ!?」

 沢村が驚いて聞くと、男は静かな口調で言った。

「上からの指示は君たちの足止めをするようにって内容だ。始末するようにまでは言われていない。足止めには充分時間を稼いだから、僕の役目は終わりだ」

 男は沢村から私のほうに視線を移した。

「傷つけて、ごめんね。でも、良かったね、君のことを大切に思ってくれる人がいて。これからも大事にするんだよ」

 言い終わるのと同時に男が右手をあげた。プチン、と何かが切れる音が連続で聞こえてきた。その直後、金属をこするような音と共に私と沢村の立っているコンテナが斜めに傾き始める。

「これは!?」

「ごめんね。君がその子の手当てをしている間にコンテナのバランスを崩しておいた。そのコンテナは僕の糸で支えていただけなんだ。それを今、切ったから……」

 男が話しているうちにコンテナはどんどん傾いて、工場の床に向かって滑っていく。

「未国!」

 沢村が私の身体を抱きしめて、片手でコンテナにしがみついた。男が後ろのほうへ歩き去っていくのが見えたけど、次の瞬間にはコンテナが落下して、物凄い衝撃がはしった。


 7

 

「はあ、はあ……」

 自分がこの工場の何階にいるのかわからなかった。ただ、果てのない廊下を走って上の階へ続く階段を探していた。沢村から聞いた話だと、秋野たちは最上階に近い場所で監禁されているらしい。とにかく、上を目指すしかなかった。

「シンナ……」

 横目で自分の走ってきた廊下を見る。その先の俺の入ってきたドアはもう見えなくなっていた。あいつが俺のあとを追いかけてくる姿もない。

「くそ……」

 舌打ちをしながら、再び前に向き直って走り続けた。走っている最中に俺はここに至るまでの経緯を思い返した。

 一時間ほど前、溝谷と橘が囮役として工場の本社で動き始めたことを聞いた俺は、八重坂と一緒に本社の裏口に向っていた。工場の周りを覆う塀を乗り越え、周りに生い茂る木々をくぐっていくと、目的の工場が見えてきた。

 巨大なその工場の背後には各階へ通じる非常階段がついていた。それを登れば一気に最上階まで目指すことができる。

「よし、見張りはいねえようだな」

 いつの間にか、八重坂から入れ替わっていたシンナが辺りを見回して言った。

「溝谷たちが派手に暴れている。俺たちも行くぞ」

「オーライ、さっさと終わらせようぜ、おっさん」

 シンナが刀を肩に担ぎつつ先を歩き始める。俺もそのあとに続いて非常階段を上り始めた。

 工場の裏手にダルレストの刀人の姿はなかった。溝谷たちが派手に暴れてくれたおかげで奴らがそっちへ集中しているのかもしれない。理由はどうあれ、敵がいないのは都合が良かった。

「へっ、ダルレストのやつが一人か二人いてもおかしくないと思ったが、間抜けな奴らだぜ。こりゃあ、あたしたちが一番乗りで理事長たちのところへ行けるかもな」

 余裕そうに笑いながらシンナが言った。

「だといいがな……」

 それに対して苦笑いで応えながら、港のほうを見る。工場を照らす真っ赤な夕陽が少しずつ水平線の向こう側へ沈んでいた。いつ秋野たちを連れて行くヘリがやってくるかもわからない。時間との勝負だった。

「急ぐぞ、シンナ。奴らの応援が来る前に秋野たちを助けよう」

「オーライ、遅れんじゃねえぞ、おっさん」

 シンナがにやりと笑いながら階段を駆け上がっていく、そのあとに続いたが、突然シンナが動きを止めた。

「シンナ、どうした……!?」

 シンナに聞こうとしたが、その途中で言葉が止まった。視線の先、階段の手すりにもたれた一人の女がいた。袖のない黒のティシャツ、青色のジーパン、そして特徴的なシニヨンヘアーの髪。今朝の襲撃で一戦交えたこともあって、見間違うことはなかった。

「字倉花麗か……」

「あら、私の名前を覚えてくれていたなんて、光栄ね」

 字倉が手すりから離れて右手に持っていた棍棒を階段につけた。

「へっ、誰かと思ったらてめえかよ。ちょうどいい、今朝の戦いの決着をつけてやる」

 シンナはにやりと笑いながら刀を肩にもたせかけて階段を二段登った。

「おっさん」

「何だ?」

「中からも上に行けるだろ。ここは私に任せて、理事長たちを助けに行きな」

「しかし、シンナ、お前……」

「心配ねえよ」

 シンナが俺の言葉を遮って顔だけを俺のほうに振り向かせて、にっと笑った。

「あたしはこんなところで死なねえ。早く行け」

「……わかった、気をつけろよ」

「あたぼうよ」

 シンナが前に向き直る。同時に俺は工場の中へ入れるドアに向かった。

だん、と何かが着地するような音がそばで鳴った。いつの間にか字倉が横に立っていた。それを見たのとほぼ同じタイミングで棒を横薙ぎに振ってくる。

「おっと!」

 鈍い金属音が辺りに鳴り響いた。シンナが手にした刀で字倉の棒を防いでいた。

「おっさん、今のうちだ!」

 字倉と鍔迫り合いを始めたシンナが叫ぶ。

「頼んだぞ、シンナ!」

 叫び返して俺はドアを開き、工場の中へ駆け込んだ。そこからは必死に走った。後ろのほうで金属音が何度も鳴り響くのが聞こえてきたが、もう後ろには振り返らなかった。

 そこからずっと走り続けて今に至っている。

「シンナ……」

 シンナの力が強いのはわかっている。しかし、相手はそのシンナが苦戦した強者だった。もしかしたら……。

 いや、今は秋野たちのところへ行くことを考えるんだ。俺があいつらを助けないと……。

 俺は首を横に振って、長い廊下を走り続けた。


 8


「ちっ、相変わらずの馬鹿力だな、てめえは!」

「あら、まだお喋りする余裕があるなんて、流石ね」

 じりじりと棒を押し込んでくる字倉とかいう女に対して、あたしは刀を握る力を強くして対抗した。気を抜いたら一気にあの棒で後ろに飛ばされる。この高さから落ちたら、いくらあたしでもひとたまりもなかった。

「調子に乗るんじゃねえぞ、このアマ!」

 一気に力を込めて女の持つ棒を後ろへ弾いた。一瞬だけ無防備になった女の脇腹を狙って刀を突き出す。しかし、それはあともう少しというところで避けられてしまった。女が素早く棒を持ち替えてあたしの頭に向かって横に振ってくる。姿勢を低くしてそれを避けると、あたしは刀を横に振った。

 再び鈍い金属音が鳴り響く。あたしの斬撃は女の持つ棒で防がれた。

「ちっ」

 無意識のうちに舌打ちしてしまった。前回と違って、この非常階段は左右に大きく動くことが出来ない。あたしも戦い辛いところだけど、リーチの長い棒を武器にしている女のほうがもっと苦しいはずだった。そのはずなのに、女の攻撃と防御に一切の無駄がない。実に鮮やかにあの長い棒を使ってきている。

「チートかよ、てめえは」

「ふふ、あなたと私の相性が悪かっただけよ」

 あたしの考えていることを見抜いたのか、笑いながら女がそう言った。その笑いが癪に障ってイライラする。

「女の癖にそっち側につきやがって……どうせ、他の男どもに良いように遊ばれてるんだろ!」

「……」

 あたしがそう言うと、女の表情が明らかに変わった。さっきまで笑っていた顔とはまるで違う。怒りが表面に出てきたそんな顔だった。その変化に驚いていると、女が一度棒を地面につけた。

 物凄い音が鳴って、階段全体が大きく揺れる。バランスを崩しかけたところで女が棒の先端をあたしのほうに向けてきた。

「!」

 一瞬、刀で防ごうかと考えたが、その直前で何かを悟った。それが何かはわからなかったが、防いではいけないと直感した。咄嗟に女の横のほうへ跳んでその攻撃を避ける。

 女の持つ棒が階段の手すりにあたる。大きな音と共に階段の手すりとその足場の一部が宙へ吹き飛んで地上に落下した。多少は老朽化していたとはいえ、金属で出来たあの階段を一擊で吹き飛ばすなんて、凄い力だった。刀で防いでいたら、間違いなくあたしの身体は後方へ吹き飛ばされていただろう。

「何てやつだ……!」

 体勢を立て直そうとしたのも束の間、女が棒の先端を今度はあたしの顔に向かって突き出してきた。すぐに後ろへ仰け反ってその攻撃をかわしたけど、バランスを崩してしまい、下の階段へ落ちてしまう。

「ちっ!」

 何とか受身を取って下の踊り場に着地したけど、その途中で体の何箇所かを打ちつけてしまった。若干視界がぶれてしまう。

「!」

 だから、女が大きく跳躍して頭上から棒を振り下ろしてくる姿もぼやけて見えてしまった。あんな一擊を食らったらひとたまりもない。足場を蹴って横へ逃げた。だん、と女が棒を踊り場に叩きつけてその一部が大きくへこむ。その勢いが強くて足場が大きく揺れた。

「くそっ!」

 何とか立ち上がることが出来たけど、女が棒をあたしの脇腹に向かって突き出してくる。

今度こそ完全には避けられなかった。

「!」

 女が少し目を見開いて驚いてるのがわかる。当然だろう。今の一撃であたしは宙へ吹き飛ばされていたに違いないと思ったからだ。けど、そんなことにはならなかった。

あたしは脇腹めがけて突き出された棒を咄嗟に左手で掴んだ。それで受け止めるまでは出来なくても、勢いを抑えることは出来た。階段の手すりを突き破り、踵がぎりぎり踊り場の端に引っかかるところで、あたしは何とか踏みとどまった。

「運はまだあたしの味方だぜ!」

 その直後に左手を思いっきり後ろに引き、女を無理やりあたしのほうに引き寄せた。それと同時に右手に握る刀を横に振る。刀の先端が女の腰の辺りを切り裂く。そのまま、棒を更に後ろへ引いて女を階段の外へ投げ出した。

「流石ね……あの人が用心するだけのことはあるわ」

 女は感心したようにそう言うと、そのまま地上へ落ちていった。

「へへ、やったぜ……ぐっ!」

 力を抜いた瞬間、物凄い痛みが脇腹にはしった。今までの戦いで何度も傷を負ってきたのに、あの女の持つ棒で突かれたこの痛みは尋常じゃなかった。

『シ、シンナ! 大丈夫!?』

 真那の慌てた声が頭の中に響く。人格を交代すればこの痛みは収まるけど、真那が耐えられるものじゃなかった。

「心配すんな、真那。ちょっと休んだらすぐに……」

 直後に咳き込んで口を手で抑える。その手に真っ赤な血がべっとりとついた。意識が朦朧とし始めて、立っていられずに片膝をついてしまう。

「悪いな、おっさん。すぐに追いついてやるから……無茶なことはすんじゃねえぞ……」

そのまま、踊り場に倒れこむ。痛みを感じなくなったけど、視界が暗くなっていく。

そこであたしは意識を失ってしまった。


 9


 外からざわめきが聞こえてきてから数十分が経過していた。外がどんな様子なのか、確認することは出来なかったが、奴らが話しているのが聞こえてきて、梨折や沢村たちが助けに来てくれたようなのがわかった。

 俺が身につけていた発信機を辿ってきてくれたのだろう。これで首の皮一枚は繋がったが、ここには伊月を含めて数人オリジナルの刀人がいる。あいつらが太刀打ち出来るのか、かなり不安だった。

あいつらに頼ってばかりではいられない。最悪の場合、俺自身が助からなくても良い。何とかして愛佳たちだけでもここから逃がしたかった。けど、両手を拘束している手錠は刀人でも引きちぎることが出来ない強力なものだった。何度か力を込めて外そうとしたが、びくともしない。

 くそ、こんな時に俺は……。

 何も出来ないでいる自分を激しく嫌悪する。結局のところ、梨折たちが来るのを待つしかないのか……。

 そう考えていると、部屋に鳴り響いていたハーモニカの音が止まった。

「……」

 だいぶ前からずっと聴いていたせいで、その音が鳴っているのが当たり前のように感じていた。それが止まると、逆に変な違和感を抱いてしまう。

「そろそろか……」

 部屋の隅に置かれた木箱。そこに座ってハーモニカを吹いていた桜夢がつぶやいた。

笑うことも怒ることも泣くこともなく、無表情のまま、冷たい目で何かを見つめている。その視線の先には俺と同じく両手を拘束されている愛佳がしゃがみこんでいた。愛佳は意識を取り戻していたが、疲労が溜まっているのか、何も言わずに顔を下に向けていた。

「浜家は秋野 希莉絵を連れて先にここを発つ準備を始めている。それまで伊月と字倉は侵入してきた奴らの足止め。後から来るヘリで退却する」

 ハーモニカをポケットに入れて桜夢が立ち上がる。何かの本を朗読するかのように浮き沈みのない口調だった。

「残りの人質についてはダルレスト本部まで連行するように指示を受けているが、それは一人の刀人に限られている。つまりお前のことだ」

 そこでようやく桜夢が愛佳に話をしていたことがわかった。

「お前の噂、俺はよく知っている。とても強い力を持っている、と」

「……」

「今はその力を抑えているって聞いた。どうやって見ることが出来る?」

「何を言っているんだ、お前?」

 俺がそう言うと、桜夢は横目で俺のほうを見たがすぐに視線を愛佳のほうに戻した。

「教えてくれ」

「……」

 愛佳は何も言わなかった。顔をあげて、じっと桜夢のことを睨みつけていた。手錠を外せば今すぐにでも飛びかかりそうな雰囲気だった。

「答えはお前自身も知らないのか……なるほど」

 桜夢は一旦窓のほうを見ながら、考え込むように右手を自分の顎にあてた。

「……そういえば、伊月がこんなことを言っていた。人は友達とか恋人とか、家族っていう大切な存在があるおかげで強くなるって。生きている意味を見つけられるって」

 桜夢は視線を愛佳……ではなく、松藤のほうに向けた。

「じゃあ、それを奪えばお前はどうなる?」

「……え?」

 それはほんの一瞬、一秒にも満たないぐらい一瞬の出来事だった。愛佳と千登勢のそばにいた松藤の首から血が噴き出した。いつの間にか、桜夢の右手に現れた鉤爪が赤く染まっていた。

 松藤は声をあげることも出来ないまま、どさっと床に倒れた。首のあたりからどんどんと血が流れ始める。即死だった。

「な、お前……」

「もうひとり……やるか」

 ざくっと何かを刺すような音が聞こえてきた。松藤が殺されたのに呆気に取られたせいで何が起こったのか、頭で理解するのに時間がかかった。けど、自分の腹の辺りから激しい痛みを感じた。視線を下に向ける。

 俺の腹に三本の鋭い鉤爪が深々と突き刺さっていた。そして、目の前に桜夢がいた。右手につけた鉤爪で俺を刺していた。

「……がはっ!」

 そう理解した瞬間、咳き込んで大量の血を吐いた。呼吸をするのが難しくなる。

「おとう……さん?」

 愛佳が目を見開いて俺のほうを見ていた。俺の身に何が起こったのか、愛佳も理解出来ていなかったんだろう。

 桜夢が俺に刺した鉤爪を引き抜いた。大量の血が噴き出して、身体の力が一気に抜けた。  

 そのまま、床に倒れこむ。傷口からどんどん血が流れ出してきて、激痛のせいで声を出すこともできなかった。

「いやあああ! 葉作おじさん! 葉作おじさん!」

 千登勢の叫び声が部屋中に響き渡る。

「……」

 それでも愛佳は目を見開いたままだった。だんだんと唇が震え始め、両手を拘束している手錠が音を鳴らし始めた。

「まだ目覚めないか……。なら、そいつもやればいいかな」

 桜夢が今度は千登勢のほうに視線を移した。俺だけでなくて、千登勢まで傷つけるつもりなのか……。

「や、やめ……」

 声を出そうととしたが、流れ出していく血のせいで力が入らなかった。動くことも叶わない。

「……」

 桜夢が段々と千登勢に近づいていく。そして、冷たい目で千登勢を見下ろし、右手につけた鉤爪を振り上げた。

 やめろ。

 そう言いたかったが、声が出なかった。でも……。

「やめろ……」

 声が聞こえてきた。俺が言ったわけじゃない。何度も聞いたその声が誰なのかすぐにわかった。

目を開いて声の聞こえたほうを見る。表情が歪み、ぎりぎりと歯軋りさせ、呼吸を荒くした愛佳が桜夢を睨みつけていた。

「やめろおおおおお!」

 大声で叫んだ瞬間、愛佳が両手を拘束していた手錠を引きちぎった。それと同時に右手に巨大な斧を出す。

「お前は……松藤さんを殺し、お父さんを傷つけるだけでは飽き足らず……ちーちゃんまで傷つけるのかああああああ!」

 目を見開き、愛佳は叫びながら桜夢に向かって突進した。その姿はあの時と同じ……そう、ダルレストを抜け出すきっかけとなったあの夜の惨劇と同じだった。

「そうだ、それだよ……俺が見てみたかったのは、その姿だ!」

 桜夢が笑いながらそう言った。ずっと無表情だった桜夢が笑っていた。刀人の力を発揮した愛佳に。

「うあああああ!」

 愛佳が大声で叫んで桜夢に向かって斧を振り下ろす。桜夢はそれを避けて、右手の鉤爪で愛佳の脇腹を切り裂いた。愛佳の腹から血が噴き出して部屋に飛び散る。

「あああああ!」

 だが、愛佳は痛がることも、怯むこともなく、手にした斧を桜夢に向かって振り下ろした。

「!」

 桜夢の肩から腰にかけてまっすぐ切り傷が入り、大量の血が噴き出した。愛佳がその返り血を全身に浴びる。

「すごい……すごいよ、お前!」

 桜夢が笑いながら宙へ飛び上がり、愛佳の真上にきて両手の鉤爪を振るう。

「がっ!」

 今度は愛佳が両肩を切り裂かれた。それで愛佳の体がよろめく。

「あいちゃん!」

 千登勢が大声で叫んだ。

「……う、うぐぐ」

「もう終わりか? お前の力はそんなものか? もっと見せてくれ。俺が求める答えを! お前の強さを!」

 斬られた傷から血が流れ出してきても桜夢は全く気にしていなかった。その表情が本当に嬉しそうで逆に怖かった。明らかに狂っている。

「もっと見せてくれ!」

「うああああああ!」

 愛佳が斧を振り上げて桜夢に突っ込む。桜夢のほうも右手の鉤爪の先端を愛佳に向けて突き出した。

「!」

 次の瞬間、桜夢が驚きのあまり目を見開いた。俺も唖然として何が起きたのか頭で理解出来なかった。千登勢も口を開いたまま何も言えないでいる。

 桜夢の突き出した鉤爪が愛佳の体をまっすぐ貫いていた。避けないといけない攻撃だった。愛佳なら避けることができたはずなのに……。

「ふふ、これで……もう終わりだ!」

 鉤爪で貫かれ、口から血が流れてきていても、愛佳はにやりと笑った。右手に握った斧を渾身の力で振り下ろした。愛佳の斧が桜夢の右肩に食い込み、そのまま、まっすぐに切り裂いた。

 右肩から先を失い、傷口から血を出しながら桜夢が後ろへ倒れた。

「ふふ……ふふふ……」

 愛佳が笑いながら左手で貫かれた鉤爪を引き抜いた。傷口からぼたぼたと血が流れだしたが、愛佳はまだ笑っていた。そのまま、倒れた桜夢の上に馬乗りになる。

「すごい……すごいよ、お前。こんな気持ちになったのは……久しぶりだ」

 桜夢が幸せそうに笑って愛佳を見上げる。その桜夢に向かって愛佳は斧を振り下ろした。スイカの割れるような音が部屋に鳴り響く。桜夢はもう動くことも声を出すこともできなかった。

「ふふ……殺してやる、殺してやる、殺してやる。生きていたことを後悔するぐらいに……殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる!」

 愛佳は一度振り下ろした斧をもう一度上にあげて、桜夢に振り下ろした。二回、三回なんかじゃない。何度も何度も、桜夢に向かって振り下ろした。その度に愛佳は返り血を浴び、全身血まみれになっていった。誰から見ても桜夢がとっくに死んでいるのは明らかだった。それでも、愛佳の斧を振り下ろす手は止まらなかった。

「やめて……もうやめて……」

 千登勢が目にいっぱい涙を溜めながらそう言ったが、愛佳の耳には届いていなかった。桜夢の死体に斧が食い込む音と部屋に血が飛び散る音だけが響いていく。

「やめてえええええええ!!」

 遂に千登勢が大声で叫んだ。その声が部屋中に響く。あの子があんな大きな声で叫ぶのは初めて見た。

「……うっ」

 その声が聞こえた瞬間、愛佳の斧を握り締める手が止まった。目を見開いたまま、ゆっくりと千登勢のほうに顔を向けた。

「ちーちゃん……?」

「もうやめて……あいちゃん」

 涙を流しながら(かす)れた声でそう言うと、千登勢は横に倒れてしまった。目の前で起こった光景があまりに衝撃的だったんだろう。十代半ばの女の子が見て耐えられるものじゃない。

「あ、愛佳は……」

 愛佳が震えた声でそう言うと、握りしめていた斧がするりと抜けた。斧が床にぶつかって煙のように消えていく。ゆっくりと視線を真下に戻した。

 桜夢は全身を切り刻まれていて、もはや原型を留めていなかった。おびただしい血を床に撒き散らし、体中のあちこちから血を流し続けていた。

「あ、愛佳は……がっ!」

 その時、愛佳が口から大量の血を吐き出した。そのまま、桜夢の隣に倒れ込んでしまう。奴に貫かれた傷口から血がどんどんと流れ出していた。間違いなく重傷だった。

「ぐっ……」

 俺は拳を握り締めた。それまでずっと見ているだけだった自分を悔やむ。

「愛佳、待ってろ……すぐ、そっちに……」

 手錠を繋がれた両手を前の床につけて、俺は這いずって愛佳のほうに向かった。それだけで腹に激痛がはしり、視界がぶれたが、俺は止まらなかった。

 動け、動け、俺の身体。ここで動かなくてどうする? ここで動かないと、今まで俺のやってきたことは何だったんだ? あいつを幸せにするために俺の命はあるんじゃなかったのか?

 動け……動くんだ!

 心の中でそう叫んで俺は床を這いずり続けた。俺の通ったあとに重たい血の筋が続く、血を失いすぎた。俺も限界かもしれない。

「あ、愛佳……」

「……」

 愛佳は何も言わなかったが、薄らと目を開けて俺のほうを見ていた。苦しそうに呼吸している。まだ愛佳は生きていた。

「すぐそばに……行ってやるからな……」

 今度こそ……今度こそ俺は愛佳を一人にさせないと決めた。娘の愛佳を救えず、妻の(あおい)を慰めることが出来なかった無力な自分でも、この子だけは守ってやりたかった。愛佳だけは幸せに生きて欲しかった。

「ぐっ!」

 あともうひと踏ん張りというところで俺も口から血を吐き出した。それで全身から力が抜けていく。視界がだんだんとぼやけてきた。

「愛佳……」

 あと少しなのに……。もう少しで愛佳に届くのに……俺はまたしても……。

「あい……か」

 両手を必死に伸ばす。それでも愛佳には届かなかった。俺の手は愛佳には……。

 その時、何かに引っ張られるような感覚が伝わってきた。手首に何かが巻きついていて、前に引っ張られる。それで俺の手は愛佳の手に触れることができた。

「!」

 驚いて横のほうを見ると、部屋の出口のところに誰かが立っていた。はっきりと姿は見えなかったが、頭に被っている灰色のソフトハットだけは見えた。

「い、伊月……?」

「……」

 返事はなかったが、それはたぶん伊月だった。よく見ると、俺の手首に伊月の操る細い糸が絡みついていた。でも、それは全然痛くなかった。力をかなり抑え込んでいたようだった。

「お父さん……?」

「……愛佳!」

 声が聞こえてきて、俺は目を前のほうに向けた。愛佳が俺の手を握ろうとしていたのがわかった。俺は両手でその小さな手を握り締めた。

「お父さん、ごめんね……愛佳、また……」

「いや、お前は……俺と千登勢を守っただけだ。お前は……よくやったよ」

「お父さん、あのね……」

 愛佳は両目から涙を流しながら、今にも消えそうな声で言った。

「お父さん……愛佳、幸せだったよ。お父さんに会って、お父さんと一緒に美味しいラーメンを食べて……ちーちゃんやうたちゃんに会うことができて、幸せだったよ」

「お、俺だって……俺だってお前と会えて幸せだったぞ、愛佳。お前がいてくれたおかげで、俺は今まで生きてこられた。そして、これからだって、ずっとお前と……!」

 俺は途中で話すのをやめた。そこで気付いた。愛佳が目を閉じていることを。愛佳の手から力が抜けていることを。愛佳がもう……この世にいないことを。

 目から涙が溢れてきた。まぶたがだんだんと重たくなっていく。俺の体も限界に近づいていた。

 愛佳、お互いに辛い思いをしてきたかもしれないけど……俺たちの中には確かな幸せがあったよな? 俺たちこれからもずっと一緒だよな? これからもずっと……ずっと……。

「……」

 もう言葉は出なかった。考えることも出来なかった。でも、最後に頭の中に思い浮かんだのは……。

 千登勢や他の仲間に囲まれて幸せそうに笑う愛佳の姿だった。

「葉作、愛佳……僕は君たちのことを許さない。けど、認めるよ。君たちは固い絆で結ばれた正真正銘の親子だったよ」

 誰かがそう言ったかもしれないが、もう俺には聞こえていなかった。


 11


「はあ、はあ!」

 もう自分が何階にいるかわからなかったが、俺は懸命に上の階を目指した。ついさっき上のほうから何かがぶつかるような大きな音が聞こえてきた。誰かが既に戦っているのかもしれなかったが、シンナはまだ戻ってきていないし、沢村たちとも連絡が繋がらなかった。

 俺が一人で秋野たちを助けるしかなかった。

「俺がやらなくて、誰がやるんだ!」

 そう言い聞かせて、階段を駆け上っていく。

『おじさん、この階! あそこに!』

「!」

 弥生の声が聞こえてきて、俺は階段を上るのをやめた。長い廊下の突き当りにある部屋。その部屋を弥生が指差している姿が思い浮かんだ。

「あそこか!」

 拳銃を取り出して、俺は廊下を全速力で走った。敵がいるかもしれない。俺一人で刀人と戦うことが出来るのか、不安はあった。けど、やるしかない。ここまで来たからには、引き返すことは出来なかった。

「嵯峨山!」

 部屋のドアを突き破り、俺は拳銃を構えた。だが、そこで目にしたのは……。

「……」

 言葉が出なかった。部屋の中央に倒れている三人。そのうちの二人は俺たちが助けようとしていた嵯峨山と娘の愛佳だった。二人とも全身が血まみれになっていてもう動いていなかった。ただ、嵯峨山の両手は愛佳の手をしっかりと握りしめていた。

 そして。

 そのそばに立っている一人の少年。深緑のカッターシャツ、紺色のズボン……灰色のソフトハット。

「お、お前は……!」

銃口をその少年に向けると、少年がゆっくりとこちらに振り向いた。そして、俺の姿を見た瞬間、笑顔になった。

「今の君には初めまして、と言うべきかな、梨折 秀平。会うのを楽しみにしていたよ。そして、久しぶりだね……弥生」

『い、伊月……お兄ちゃん?』

 俺の心の中にいる弥生も驚いた声を出した。


 第十一話 確かな幸せ 終。次回へ続く。



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