第十話 新しい道
第十話 新しい道
1
一度別れた友人と数年ぶりに再会するのは別に珍しいことではないらしい。その経験談はテレビのニュースを見たり、新聞を読めば、幾つか例を挙げることが出来る。
普通の人たちは二十歳を迎えた年に成人式というものに参加するらしい。そこで十代の時に勉学を共にした友人たちと再会し、かつての学校生活を懐かしく語り合うそうだ。あとは同級生と偶然勤め先の職場で一緒になったり、子供の頃に住んでた町に数年ぶりに戻ると当時の幼馴染に再会したり……なんて場面があるみたいだ。
僕の場合、特別な境遇にいるから普通の人と過ごしてきた時間は全く違うものだけど、かつての仲間と再会することは例外じゃない。
こんな形でまた会うのは嫌だったけどね。
そう思いながら、道路の中央で倒れている二人を見た。道路の奥に倒れている葉作はもう気を失っていた。向こうに保護されたことは知っていたし、他の仲間から彼に似た人間が敵にいたと聞いていたけど、まさか本当にガードマンの仕事をしているとは思っていなかった。葉作はとても根が真面目な男だった。僕との約束もちゃんと守っていると思っていたのに……。
「……」
その約束の内容に深く関わっているもうひとりに視線を移す。
「ぐっ……」
手前に倒れている愛佳は全身に僕の糸が絡まり、身動き一つ取れない様子だった。普通のワイヤーと違って刀人の力で出しているこの糸の強度は高い。いくら愛佳でもそう簡単に切ることは出来ないだろう。もっとも、そんなことをさせる隙も与えないけど。
「やっぱり腕が落ちたね、愛佳。感情が豊かな今の君は好きだけど、かつての力を抑え込んでいる以上、僕には勝てないよ」
僕がそう言うと、愛佳は顔をあげて睨みつけた。
「ちーちゃんは……渡さない!」
「そこまで言うぐらい大切な人がいるなんて驚いた。君は葉作にしか懐かないと思っていたけど」
「渡さない……絶対に渡さない!」
「もういいよ、愛佳」
なおも大声で叫ぶ愛佳に僕は落ち着いた声で言った。
「君のことは気に入ってるけど、ここで会いたくなかったよ」
言い終わるのと同時に左手を動かした。愛佳の首に糸を巻きつかせて、強い力で締め上げる。愛佳は必死にもがいて糸の拘束を解こうとしたけど、やがてその動きが止まった。念のため、もう一度力を強めて、気絶したことを確認した。
「さてと……」
僕は後ろに着陸しているヘリのほうに手をあげた。それに応じてヘリからスーツを着た男が何人か降りてくる。
「この二人を先に運んでおいて」
男たちにそう言ってから、気絶している愛佳と葉作の横を通り過ぎて、前に停まっている車のほうに向かった。
「あれ……もう一人いるのか。でも、これは……」
車のほうから刀人の力を感じ取った。愛佳以外にも秋野 希莉絵の護衛をしている刀人がいるのだろうか。
しかし、どういうわけか、その刀人から敵意を感じられなかった。戦うつもりがないのか、それともこっちの油断を誘っているのか。
車のそばまで近づき、後部座席のドアに手を伸ばす。
その直後にばん、とドアが開いた。
ドアの向こうから髪の短い女の人が黒い警棒のようなものを持って現れた。ガードマンたちが持っているスタンバトンだ。いくら刀人の僕でもあの電撃をまともにくらえばひとたまりもない。間合いを一気に詰められたけど、用心していないわけじゃなかった。くいっと右手を動かして、女の人の片足に糸を絡める。
「くっ……」
彼女は大きくバランスを崩しながら、スタンバトンを強引に振ってきた。けど、目で追える速さの攻撃だった。後ろに下がって、それを避けて、さらに強く糸を引っ張る。
女の人がそのまま地面に倒れ込んだ。再び起き上がる前に両手と両足を糸で拘束する。
「松藤!」
車内から大きな声が聞こえてくる。視線を移すと、後部座席の奥に座っている女の人が見えた。吉住に渡された写真に写っていた女性。ガードレディたちのリーダーの秋野 希莉絵だった。もうひとり、秋野が抱きかかえている桃色の髪の子は彼女の娘――確か……千登勢って言ったかな。彼女は身体を震わせて怯えているようだった。さっき感じ取った刀人の力はこの子だったけど、やっぱり戦える状態には見えなかった。
「こんにちは、秋野 希莉絵。会えて光栄だよ」
丁寧にお辞儀して挨拶する。秋野から返事は来なかったけど元からそんな期待はしていなかった。
「こういう迎え方はしたくなかったけど、上からの命令には従わないといけないんだ。悪いけど、一緒に来てもらうよ」
そう言って、一歩前に踏み出す。
「くっ」
それとほぼ同時に秋野が後ろに回していた手を前に出してきた。その手に拳銃が握りしめられているのが見える。
一発の銃声が鳴り響いた。でも、その銃弾は僕には当たらず、足元のアスファルトの道路に命中した。
僕の眉間を狙っていた秋野の銃口は下に向いていた。秋野がわざとそうしたんじゃない。僕が彼女の姿を見た瞬間に絡めた糸でその腕を下に曲げていたんだ。
「挨拶もなしか。敵同士だから仕方ないけど、ちょっと傷つくね」
軽く手を動かして、秋野の手首に絡めた糸を伸ばして首に巻きつけた。念のため、千登勢のほうも身体を縛り上げて身動きを封じる。千登勢はやはり抵抗することはなかったが、震えた声で呟いた。
「あ、あいちゃん……あいちゃんは……」
「あいちゃん? 愛佳のことかな? 一応無事だよ。今の君と同じように動けないと思うけど」
そう言いながら後ろにいたスーツの男に合図を送った。 男たちは秋野と千登勢を車から降ろした。秋野はもう自分で身体を動かすことが出来なかったけど、ずっと僕のほうを睨みつけていた。 威勢の強い人だなと思いながら肩をすくめる。
先に乗っている愛佳と葉作のヘリに三人が運ばれる。それを見送りながら、スマートフォンを取り出し、番号を入力して電話をかけた。 呼び出し音が三回鳴り、相手が電話に出る。
『首尾はどうだ?』
浜家の低い声が電話から聞こえてきた。
「ターゲットは確保したよ。今からそっちに戻る」
『ごくろう。敵と交戦していた字倉も戦線を離脱している。速やかに撤退しろ』
「りょーかい」
軽く返事して電話を切る。ヘリのほうに向かおうと歩き始めたけど、その前に立ちどまった。
「……」
用意していたバンの列はまだ赤い炎で包まれている。そのせいで向こう側がどうなっているのか、わからなかった。
「ちゃんとついてくるといいけど……」
「伊月、どうした! 早く乗れ!」
浜家の部下の声が聞こえてきた。「はいはい」と短く返事して、僕はヘリのほうに向かった。
2
かつて篠暮 桜夢は刀人でありながら感情の豊かな少年だった。頭が良く、刀人の能力のおかげで運動神経も抜群だった。浜家たちから言われるノルマも難なくこなしていたため、オリジナルの刀人としても優秀な部類に入っていた。
その桜夢がなぜ今のように好奇心だけが強く、他の感情が欠落するようになってしまったのか。何かの事故に遭ってしまったのか、はたまた重い病を患ってしまったせいなのか。
答えはそのどちらでもなかった。
桜夢は昔から好奇心旺盛な少年だった。彼にとって刀人としての生活は何ら苦のないものだっただろう。どうして人を殺すのか、刀人はどうして浜家たちの指示に従うのか、どうしてダルレストの施設内で暮らしていかないといけないのか。その答えを探ることはどれも彼の好奇心をくすぐらせる理由としては充分なものだった。
だが、ある時、その強い好奇心は触れてはいけない場所にまで届いてしまう。
外の世界はどうなっているんだろう?
ある時、桜夢はそう考えた。ダルレストの刀人の生活以外で、どんな暮らしがあるのだろうか。大半の人々が過ごしている普通の生活をしてみたくなった。
だから、桜夢が選んだのは施設から脱出することだった。当然、刀人を収容しているため、ダルレスト施設の監視は厳重になっている。施設内には無数の防犯カメラが設置されているし、施設そのものが刀人の能力では破れない特殊金属の扉や壁で覆われている。そもそも、ダルレストの刀人として生活する以外の方法で生きる道を模索すること自体が無謀なことだった。
けれど、桜夢はその他の道を探すのに興味を抱いていた。だから、彼は計画を立てて、それを実行し、上の連中の目を掻い潜り、施設から逃げ出すことに成功した。
脱走するだけでも前代未聞のことだ。そのことはダルレスト内部にも大きな衝撃を与えただろう。
だが、そのあとさすがの桜夢でも予想できない事態が待っていた。
ダルレストと提携を結んでいる別組織。ダルレストの刀人たちが逃げ出した場合に備えて、彼らを監視していたその組織によって、関西の都市部に潜伏していた桜夢はあっさりと捕まってしまった。どのような方法で桜夢のことを見つけ出したのかは不明だが、刀人のことを熟知しているその組織が桜夢を発見するのに二週間ほどしか経っていなかった。
基本的にダルレストを抜け出した者は即刻処分される決まりになっている。けれど、優秀な刀人を処分することは組織にとって大きな痛手だった。特に桜夢のようなオリジナルの刀人は尚更だ。
だから、浜家たちは桜夢を生かした。別組織から出されたある条件を受け入れて。
「一ヶ月ほど、この子の面倒を見ていいですか?」
組織のある人物がそう言って桜夢を連行した。その組織に連れて行かれてから一ヶ月の間、桜夢の身に何が起こったのか詳しいことはわからない。けれど、彼が解放されてダルレストに戻った時、かつての面影のない、今の桜夢がそこにいた。感情が抜け落ち、ただ強い好奇心だけが残った刀人になっていた。それ以来、桜夢はダルレストを抜け出すような真似をせず、浜家にも逆らわないまま、自分の仕事を淡々とこなした。その様子を見ていた周りの仲間たちは桜夢の変わりように怯えた。ダルレストを抜け出すとどのような仕打ちが待っているのか、何が桜夢を変えてしまったのか、考えるだけでははっきりとしない疑問がダルレストの刀人たちに広まり、もし自分たちが浜家たちに逆らえば、同じような目に遭うという恐怖心を生み出した。だから、誰もダルレストを裏切るようなことはしない。嫌でも、浜家たちの指示に従うしかなかった。
3
「ごくろう。敵と交戦していた字倉も戦線を離脱している。速やかに撤退しろ」
近くで伊月と連絡を取っていた浜家の声が聞こえてきて、桜夢はハーモニカを吹くのをやめた。快晴な天気なので、窓の外から雲一つない空と大阪湾の青い海が見える。それを見た桜夢が何を思ったのかは定かではないが、少なくともそこが海岸線沿いに建つ工場施設だということは改めて認識したのだろう。
浜家は電話を切ると、桜夢のほうに視線を移した。
「伊月たちが秋野 希莉絵の確保に成功した。一時間後にここへ来る。到着後、やつにいくつか質問して本部へ戻る」
「俺はどうすればいい?」
「秋野以外にも何人か捕縛したやつがいる。お前にはそいつらの見張りをしてもらう。いいな?」
「……わかった」
短く返事すると、浜家は部屋を出て行った。
「……」
一人残った桜夢は壁にもたれてハーモニカをポケットに入れると、自分の右側のこめかみに触れた。その髪の内側に何箇所も釘で打ちつけられたような傷があったが、その傷痕がどうしてついたのか、桜夢本人はもう覚えていなかった。それがダルレストを抜け出した彼が捕まって一ヶ月間、ゆっくりとつけられた傷だったという事実を知ったとしても、今の桜夢にはどうでもいいことだろう。
桜夢は会いたがっていた。自分と同じようにダルレストを抜け、ガードレディ側についたかつての仲間がどれだけ強いのか、そのことにしか興味を持っていなかった。
4
四年前。2060年。
ラーメン屋をあとにした俺はワゴン車を運転して施設への帰路についていた。
『これからもよろしくな、愛佳』
『わかった……お父さん」
あの時、愛佳と約束したことは二度と忘れないだろう。これから先、どんなに辛いことが待っていても、あの約束がきっと俺の支えになってくれる。
「……」
助手席のほうに目を移すと、愛佳はぐっすり眠っていた。うまいラーメンを食べてお腹がいっぱいになったんだろう。その寝顔を見ていると、自然と笑みが浮かんだ。
ありがとう、愛佳。おまえのおかげで、俺は幸せだよ。
「かわいい寝顔だね」
後部座席から声が聞こえてきて、横目で後ろを見る。伊月がバックミラー越しに愛佳のことを見ていた。
「とても何人もの人を殺してきたとは思えない。どこからどう見ても普通の女の子だ」
そこで一息ついて伊月が視線を俺のほうに移した。
「どうして愛佳はこんなところにいるんだろう。どうして愛佳は人を殺さないといけないんだろう。どうして愛佳は刀人になってしまったんだろう。葉作、君は考えたことがあるかい?」
「なぜそんなことを聞くんだ?」
伊月の質問の意図がわからず、俺は聞き返した。
「……そうか。まだ、そこまで深く考えていなかったんだね。今になって言うけど、実は葉作と愛佳のことはずっと見ていたんだ。あのラーメン屋にいたことは知っている」
「!」
「ふふ、とても驚いたようだね。でも、僕の本来の役目は二人の行動を監視することだ。何の問題もないでしょ」
「のぞき見するようなやつじゃないと思っていたがな」
自分なりに精一杯の皮肉を込めて言ったつもりだったが、伊月のほうはたいして気にしていないようだった。
「それは残念だったね。で、第三者である僕からみた感想だけど……」
一度口を閉じてソフトハットを被り直す。伊月が何か改めて話をする時によくやる癖だ。
「本当の親子みたいだったよ。陽気に話す父親と恥ずかしがりながら笑う娘。普通の親子でも珍しい光景かもしれないね。愛佳はとても幸せだと思う。羨ましいよ。父も母も知らない僕にはね。けど……」
「けど……なんだ?」
聞き返すと伊月は口調を強めて言った。
「わからないかな、葉作。愛佳は確かに幸せになった。そして、人としての感情も持った。これがどういう意味なのか」
「……」
「まあ、近いうちにわかると思うよ。ここにいる限り、絶対に避けては通れない運命がね」
「運命……?」
それ以上、伊月は何も話さなかった。伊月の話している意味がわからなかった。普通の女の子と同じように笑うようになった愛佳の身に何が起きるのか。
それは考えなければいけないことだったのに、あの時の俺は何も考えなかった。
5
数日後。
深夜。俺の乗る車は街灯の明かりだけに照らされた住宅路を走っていた。周りを見ると、既にフィールドが張られているせいで明かりのついている住宅は一つもない。中にいるやつも全員眠っているだろう。
「今日は三件回る。これが対象のリストだ」
隣に座っていた浜家からリストを渡された。何度も見てきたせいもあって、詳細なところには目を通さなかった。
「この地域にガードレディたちの活動している様子はない。あの娘なら二、三時間で片付けられるだろう。三日後にも予定を組んでいるから覚悟しておけ」
「三日後? もう次の仕事の予定が入っているのか?」
「その娘のノルマが伊月や字倉よりかなり遅れている。そのペースで進めないと期限までに間に合わない」
ダルレストの刀人たちには定期的に課せられるノルマが存在する。それは数ヶ月の間に一定の件数の対象者を片付けることが主な内容になっているが、愛佳や伊月のように他の刀人たちとは違うオリジナルの刀人たちにはそれ以上に多くのノルマがつけられている。
もし、そのノルマを達成できない場合、戦力外とみなされることになる。それは生きる価値のない刀人ということ。刀人が普通の生活を送ることはできない。ダルレストのいるあいつらが戦力外と見なされるということは、裏で処分されるという意味だった。
「……」
もちろん、愛佳だって例外じゃない。仕事をこなさなければ、愛佳は……。
「よし、ここで停めろ」
浜家の指示を聞いて、運転していた男が道路脇に車を停めた。少し進んだ先に最初の対象者の家が見える。
「嵯峨山」
「ああ、わかっている」
俺は後ろの席に目をやった。
「愛佳、準備のほうは――」
俺はそこで言うのをやめた。いや、途中で言葉が出なかった。どうして言葉が出てこなかったのか、考えればわかることだったが、あの時の俺はただ困惑していただけだった。
後ろの席に愛佳は確かに座っていた。けど、そこにいるのはいつもの無表情な愛佳じゃなかった。
愛佳は目を閉じてじっと下を見ていた。眠っていたのかと思ったが、そうじゃない。
その肩がわずかに震えているのが見えた。
「愛佳?」
「……!」
呼びかけると、愛佳はびくっとして顔をあげた。
「な、なに?」
言葉がどもった愛佳は初めて見たような気がした。それがあまりに意外なことだったから、俺自身も何を言えばいいのか一瞬わからなくなった。
「……平気か? 行くぞ」
「……うん」
愛佳は僅かに目を伏せて頷いた。何か様子がおかしいと思ったが、あの時の俺は目の前の仕事をこなすことを先に考えていた。愛佳と共に車から降りると、いつものように愛佳は一人で対象の家に向かって歩いていった。けれど、その途中で足を止めて俺のほうに振り向いた。
「どうした?」
「……お父さん」
愛佳は一度息をついてから俺のほうを見た。そして、ぎこちない笑顔を浮かべながら……。
「何でもない。待ってて」
そう言うと、再び前に向かって歩いていった。
「愛佳?」
何でもない様子じゃなかった。今の言葉は愛佳が本当に言おうとしていたことじゃない。けど、それが何か聞く前に愛佳はもう家の中に姿を消していた。
時間で言えばせいぜい十五分ぐらいしか経っていないだろう。だが、その時の俺は愛佳が戻ってくるのをとても長く待っているような気がした。
「……」
ふと数日前のことを思い出した。ラーメン屋の帰り道、伊月が言っていたことだ。
『わからないかな、葉作? 愛佳は確かに幸せになった。そして、人としての感情を持つようになった。これがどういう意味なのか』
幸せになって、人としての感情を持つようになった……。今まで何の感情も抱かずに仕事をやってきた愛佳が……・
「愛佳が人としての感情を……!」
そうつぶやいたとき、頭の中にあることが思い浮かんだ。考えればすぐにわかるはずのことだった。
愛佳が感情を持つようになって、こんな仕事をしたら……。
「まずい!」
俺は急いで対象の家に向かって走った。馬鹿だった。大馬鹿だ。どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだ。俺は何のために愛佳を幸せにしようとしたんだ。その俺が愛佳に今何をさせているんだ!
「愛佳!」
家の中に入ると、そこは明かりも何もついていない玄関だった。その先に薄暗い廊下が続いている。
どこだ。愛佳はどこに……!
「いやああああ!」
その時、奥の部屋から女の悲鳴が聞こえてきた。愛佳の声じゃなかった。けど、今まで何度も聞いてきた婆さんの声でもない。若い、とても若い少女の声だった。
「愛佳!」
部屋のドアを勢いよく開けた瞬間、思わず鼻を手で押さえたくなるほどの強い血の匂いが漂ってきた。中は明かりがついていないせいで暗い。けれど、窓から差しこんだ月の光で部屋の状況がどうなっているのかはすぐにわかった。
「……」
それは何度も見てきた光景だった。だからもうすっかり見慣れていると思っていた。だけど、その時の俺は……言葉を失った。
部屋の中央に倒れている二つの死体。ここに住んでいた爺さんと婆さんだった。二人とも肩からまっすぐ斬られている。もう死んでいるのは明らかだった。
その傍に愛佳が立っていた。着ている衣服も手にしている大きな斧も返り血で真っ赤に染まっていた。愛佳が部屋の奥のほうを見ている。
「う……う……誰か、誰か……助けて」
そこには一人の女の子がしゃがみこんでいた。パジャマを着ていたその子は目に涙をいっぱい溜めて、愛佳を見ていた。一人娘にしては若すぎる。たぶん、爺さんと婆さんの孫だろう。
「……」
愛佳は斧を手にしたまま、全く動いていなかった。俺に背中を向けたまま、じっと女の子を見下ろしている。一瞬、その横顔が見えた。俺は……開いた口が塞がらなかった。
愛佳の目にも涙が溢れていた。
「あ、愛佳……」
「……お父さん」
俺が呼びかけると、愛佳はこっちに振り返った。
泣いていた。それは俺が今まで一度も見たことがなかった、泣いている愛佳だった。
「お父さん……愛佳、愛佳ね。本当は……こんなことしたくなかった」
「あ……」
愕然とした。それはもっと早く、もっと早く俺が聞いておかなければいけない愛佳の気持ちだった。俺は愛佳を泣かせてしまった。涙を流すぐらいあの子のことを追い込んでいた。
馬鹿だった。人としての感情を持った愛佳が今まで通りに仕事なんて出来るはずがない。考えればすぐわかることだったのに、伊月にも警告されていたのに、俺は目を背けていた。
「た、助けて……」
少女が涙声で言う。愛佳は再び前に向き直った。そして、身体をガタガタと震わせながら手にした大きな斧を上にあげた。
「でも、こうしないといけない。そうだよね……お父さん」
震える声で愛佳がそうつぶやいたのが聞こえた。そして、上にあげた斧を女の子に向かってふり下ろそうとした。
「や、やめろ! 愛佳!」
頭で考えるよりも早く俺は愛佳に向かって走っていた。斧を手にした右腕を掴み、その身体を抱きしめた。
「……」
愛佳が振り下ろそうとした腕を止めた。
「愛佳……すまん。本当に……すまない」
「……ごめん、お父さん。ごめん……」
愛佳が小さな声でそう呟いた。その目からどんどん涙が流れ落ちていく。
俺は愛佳が泣くのをやめるまでずっと抱きしめ続けた。
6
翌日。
ダルレストの施設の後ろにそびえる山の背に大きな夕日が沈んでいく。それはまるで今の俺の気持ちを現しているようだった。
「……なるほど」
その景色が後ろの窓から見える部屋。椅子に座っていた浜家は手にした紙を机の上に置いた。
「この報告通りで間違いないな、嵯峨山?」
いつにも増して威圧するような目で浜家は俺のほうを見た。否定を許さない、そういう目だった。
「愛佳は一昨日から体調を崩していたんだ。ちゃんと仕事を休ませるようにしなかった俺に責任がある。だから――」
「体調管理を怠るのは自分の責任だ。事前に報告しなかった愛佳のな」
浜家は俺の言葉を遮って、あくまで感情の起伏のない口調で話した。
「今回の件。対象外だったあの子供は記憶の改ざん処置のあと、保護施設に預けられることになった。本来、目撃者は処分するべきだったがな。そして、愛佳については任務放棄の責任は重いが、オリジナルの刀人は貴重で、愛佳の能力の高さは評価されている。即処分する方針はない」
「そうか……」
俺は安堵して息をついた、その直後だった。
「後日、新たなノルマをやってもらう」
「なに?」
「これがその内容だ」
そう言って浜家が下敷きに挟まれた紙を渡してきた。それを受け取って内容を見る。
「こ、これは……」
それは驚愕に値する内容だった。普段、愛佳や伊月がやっているような仕事の量とは桁が違った。都市部で少なくとも一日十件以上は回らないといけないものだった。
「こんな仕事、愛佳一人でやらせるつもりか!? 普通の刀人の五、六人分の内容だぞ!」
「このノルマについては反対、否定の一切は認めない。変更なしだ。それが出来なければ、愛佳は処分される」
「ふざけるな! こんなのできるわけがないだろ!」
ばん、と机を叩いて怒鳴ったが、浜家は無表情のままだった。
「何を言う? これでも吉住氏はかなり譲渡してくれたぐらいだ。本来なら即刻処分されるぐらいの失態だからな」
「くっ……」
「嵯峨山、思い違いをするなよ。あの娘は人ではない。刀人だ。全ての刀人はそれにふさわしい役割を全うしなければならない。そういう運命だ。情を抱いてはこの仕事務まらないぞ」
「……」
「無理だというなら担当から外れろ。別のやつに面倒を見てもらうだけだ」
浜家は最後まで何かの本を読むような無機質な口調だった。俺は何も言えなかった。どこにぶつけていいのかわからない怒りで息が詰まりそうだった。
7
浜家の部屋を出たあと、自分の足取りが今まで以上に重いことがわかった。
なんで、愛佳がこんな目に遭わないといけないんだろう。普通の女の子として、幸せになるために生きることがそんなに罪深いことなのだろうか。ただ刀人になったというだけで……。
「俺のやってきたことは間違いだったのか……」
「いいや、正しいことだったと思うよ」
ふと前から声が聞こえてきて、俺は顔をあげた。
廊下の壁にもたれているやつがいた。紺色のズボン、緑色のカッターシャツ、そして灰色のソフトハットを被った刀人――伊月が立っていた。
「……」
「その表情を見ると、大体の事情は察するね。この前の仕事の責任を問われて、無理難題のノルマの追加。出来なければ即処分ってところかな」
ため息混じりにそう言うと、伊月は顔をあげて俺のほうを見た。
「僕たち刀人が幸せになるのと、人が幸せになるのとじゃ、難しさが全然違うよ。僕の言った意味、これでわかったでしょ?」
「伊月、お前は気付いていたんだな。刀人が人としての感情を持ち、幸せになりたいと思った時、今まで自分のしてきたことがどれだけ酷いことなのかを思い知る。そうなれば、もう何も出来なくなる。自暴自棄になる可能性も充分にある。そうだろ?」
伊月は何も言わなかったが、その沈黙は肯定しているように思えた。
「なら、お前はどうして浜家たちの指示に従っている? それをわかったうえで、どうして人を殺すんだ?」
「……」
「頼む、教えてくれ」
伊月はため息をついてソフトハットを被り直した。
「……自分の幸せを祈るのなら、僕だって同じ気持ちになっていただろうね。でも、僕と愛佳は立場が違うんだよ」
伊月が視線を俺から反対側のほうに移す。その先は愛佳の部屋……いや、さらに奥のほうを見ていた。
「僕には大切な人がいる。その人の手を血で汚すぐらいなら、自分が罪を重ねたほうが良いんだ。僕は自分より、その人のことを幸せにしたい。その人を幸せにできるなら、何だってするよ」
伊月が俺の今まで聞いた中で一番強い口調でそう言った。そこには決して揺らぐことのないような意志が伝わってきた。
「というわけで、残念だけど僕のことは参考にしたらいけないよ。愛佳のためにならないからね」
「……じゃあ、俺はどうすればいい? これから先、愛佳のために何をすればいいんだ?」
まさか伊月にこんなことを聞くとは思っていなかった。それぐらい俺は追い詰められていたのかもしれない。
「その答えは僕にもわからないよ。たとえ、わかっていたとしても僕が答えるべきじゃない。それは葉作、君自身が見つけなければいけないものだ」
伊月は廊下の壁から離れて俺のほうに身体を向けた。
「そのためにはまず愛佳と話をしてきなよ。彼女の気持ちを聞けば、おのずと答えは出るんじゃないかな」
ソフトハットを深く被って、俺のほうに向かって歩いてくる。
「今なら聞けるよ。あの子の本当の気持ちを」
横を通り過ぎる時にそう言って、伊月はそのまま廊下の奥へ姿を消した。
「……」
どうして、伊月は俺にこれからやるべきことを教えられるのだろうか。まだ中学生ぐらいの子供にしか見えないあいつがなぜ俺より先のことが見えるのか。
理由はわからない。一人で考えたところで答えが見つかることはないだろう。だが……。
俺は再び愛佳のいる部屋に向かって歩いた。毎日欠かさず通いつめているこの場所がいつもと違った雰囲気に見えた。
「愛佳、俺だ」
部屋のドアをノックしたあとに言った。しばらく待っても返事は来ない。
「寝るにしてはまだ早いぞ。開けてくれないか?」
続けて言うと、鍵の外れる音が聞こえてドアが開いた。
「……ごめん、お父さん。寝てた」
愛佳が目をこすりながら呟いた。わずかに涙を流したあとがあったが、その事はあえて触れなかった。
「まったく、昼寝にしては寝すぎだぞ。夜、眠れなくなったらどうするんだ」
ため息をついて部屋の中に入った。愛佳は中央に置かれた椅子に座ったので、俺は対面の椅子に座った。
「……」
「……」
お互いに何も言わない時間が来る。たぶん、愛佳も何から話せばいいのかわからないんだろう。こんなことになってしまった後だから尚更だ。
「お父さん……ごめん」
しばらくしてようやく愛佳が口を開いた。けど、それはとても小さく、そして悲しい声だった。
「愛佳、ちゃんと仕事をしなかったから……お父さん、あの人に怒られた。愛佳のせい」
「愛佳……」
「今度は……今度はちゃんとやる。愛佳、今までと同じように、ちゃんと仕事する」
話し続けるうちに愛佳の身体が小さく震え始めていた。その言葉が本心でないのがすぐにわかった。
「もうお父さんに……迷惑かけない」
「……愛佳」
俺は少し前に乗り出して愛佳の顔を見つめた。
「本当にそれがお前のやりたいことなのか?」
「……」
「俺と一緒にあのラーメンをもう一度食べたい。一緒にどこかへ遊びに行きたい。それと同じくらい強い気持ちがこもっているのか?」
「……うん」
「じゃあ、どうして身体が震えている? どうして泣きそうになっているんだ?」
「……」
「言ってくれ、愛佳。俺に話してくれ。お前の本当の気持ちを」
「う、うう …… 」
今や身体が大きく震え始めた愛佳は目を強く閉じた。
「わからない……こんな気持ち初めてだから。今まで何も考えずに出来たのに、考えてしまうから。斧で斬られたら痛いだろうなとか、この人たちの家族はどうなっちゃうのとか、あの女の子がどうして泣いていたのとか、考えるようになったから……」
愛佳が俺のほうを見る。その目には涙が溢れていた。
「愛佳、たくさん……たくさんの人を殺してきた。殺してしまった。あの人たちのことを全然考えないで殺してしまった。酷いよ……あんまりだよ。愛佳、こんな悪いことを今までしてきた……最低。こんな愛佳のことを好きになる人なんてもういない。これから生きる資格なんてない。だから、お父さん……」
ぐっと拳を握りしめて愛佳が言った。
「お願い、愛佳を殺して」
「!」
目を見開いた。本当に俺は馬鹿な男だった。愛佳にこんなことを言わせるなんて、本当に馬鹿だった。
「馬鹿なことを言うな!」
自分のほうが愚かだったのに、俺は愛佳の両肩を掴んで叫んだ。
「死んだほうがましな人間なんてどこにもいない。死んでしまったら他の誰かが悲しむ。少なくとも俺は愛佳が死んだら悲しい……。お前のいない世界なんて考えられない。人の命を奪うことは罪かもしれないが、それでも俺はお前のことを大切に思っている。そして、これから生きていけば、必ずお前のことを好きになってくれるやつが現れる。必ず! だから、生きてくれ! お前が命を奪ってきた人たちのために、俺のために、これから出会うやつらのためにも……」
話しているうちに涙が溢れてきた。娘の愛佳を失った時以来に初めて泣いたような気がした。
「俺と共に生きてくれ、愛佳」
「う……」
愛佳が顔を下に向けた。その目から涙が溢れ落ちていく。あの感情の起伏に乏しかった愛佳がこんな短い間に二度も泣くなんて、今までなかった。
「愛佳、俺はお前を一人にはしない。これからもずっと一緒だ」
「お父さん……」
俺は愛佳の身体を抱きしめた。愛佳は何も言わずに泣き続けた。強く抱きしめた。もう二度と離さないように。
もう愛佳にこれ以上、罪を重ねさせるわけにはいかない。何とかしないと……。
俺は心に決めた。もう迷っている場合じゃなかった。
愛佳と一緒にここから逃げよう。
8
翌朝、俺は自室で愛佳と共に脱出する計画を立てていた。
次の仕事があるのは数日後に決まっている。浜家から与えられたノルマをこなさない限り、愛佳の未来はない。残された時間はほとんどなかった。
俺はできる限りの方法を考えてみた。
第一に考えられる方法は愛佳を密かに連れて、この建物の外へ連れ出すことだった。単純明快だが、一番手っ取り早い。けど、ダルレストの施設は刀人が逃げ出さないようにするために充分な警備網を敷いていた。愛佳に会うことは簡単だが、あいつを連れて一階まであがり、出口のある正面玄関まで行くのにいったい、いくつの監視カメラとセキュリティチェックをやり過ごさなければいけないのか、わからなかった。
また、外出許可をもらって外へ行く方法も考えたが、最近、許可をもらったばかりで再度浜家に申請を出すのは不自然だった。そもそも、あの浜家がもう一度許可をくれるなんて奇跡が想像出来なかった。
となると、残された方法は仕事で外へ出かける時しかない。
仕事なら俺と愛佳は共に行動できるし、監視の網も施設内にいる時よりは薄い。問題は同じチームのメンバーをどう欺くか、そこに限られる。愛佳と行動を共にする以上、かなり鍛えられたメンバーが選出されるだろう。いくら愛佳でも複数のダルレストの刀人を相手にするのは分が悪い。それに悔しい事実だが、俺は力不足だ。愛佳に守られなければいけない状況は目に見えている。
問題点は多いが、これに賭けるしかないと思った。愛佳は精神的にかなり追い詰められている。迷っている場合じゃなかった。
「俺が愛佳を救い出さないと、誰があいつを助けるんだ?」
自分自身に問いかける。答えは否。この施設に心から信頼できるやつなんて一人もいなかった。誰もが自分の命を惜しいと思っている。自ら死ぬ危険があるような愚かな真似はしないだろう。
愛佳を助ける。これは俺が一人でしなければならないことだった。だが、数日後の仕事の日。俺は予想もしていなかった二つの大きな出来事に直面することになる。
9
そのうちの一つは仕事の内容に関することだった。
「合同任務だと?」
「そうだ」
仕事の前日。呼び出しを受けた俺は浜家から聞いたその一言に耳を疑った。
「吉住氏から指示があった。今後、オリジナルの刀人二名で行動させる任務を一ヶ月に渡り、実施する」
「何のためだ?」
「戦闘用の武器に調整する必要がなく、覚醒した段階で強力な戦闘能力を持つオリジナルの刀人。だが、その力には僅かでも差が存在する。その実力の度合いを推し量るためだ」
「それだけじゃないだろ?」
浜家の説明を聞いて、俺は確信に近い形で言った。
「他にも理由があるんじゃないのか?」
「……こういう時に限って察しが良いな、嵯峨山」
ふっと浜家が軽く笑った。思い返せば、何かで笑う浜家を見るのはこれが初めてだった。
「例の刀人のことは知ってるか?」
「……噂程度ぐらいなら。オリジナルの刀人の中で最強と言われているらしいな。最も、どんなやつで、どういった能力を持っているのか、お前や吉住は何も話してくれないから、細かいことは知らないが」
俺は同僚から聞いた話をそのまま浜家に言った。例の刀人。ほとんど仕事で外へ出かけることなく、施設の一番地下の部屋で暮らしていると聞いている。性別や正体、能力などは一切判明しておらず、幹部である俺でも面会することは禁止されている。ただ、一度外へ出かけたら、普通の刀人の数倍の量の仕事を、短時間で終わらせるほどの実力があるというのを聞いたことがあった。
「その刀人を数年ぶりに仕事で使う可能性が示唆されている。ガードマンとガードレディによる妨害が活発化しているせいで、計画が滞っているのが原因だ。奴等の始末のために、運用せざる得ない状況になりつつある。もちろん、他のオリジナルの刀人もだ。仕事の効率化を図るために今後は二人一組で行動させる予定だ」
「二人一組か……」
正直言って唇を噛み締めたい思いだった。今までと同じ普通の刀人相手ならまだ望みはあったが、愛佳と同格の刀人が一緒に来るとなると、一筋縄ではいかないだろう。
ぐっと拳を握りしめて俺は浜家に聞いた。
「それで愛佳と一緒に行動するのは誰なんだ?」
「僕だよ」
後ろから声が聞こえてきた。振り返るとそこには灰色のソフトハットを被ったあいつが立っていた。
「伊月……」
最近、もう何度顔を合わせているのか、わからない。ここまで来ると、もはや偶然ではなく、何かの因縁で俺と伊月は会っているような気がした。
「愛佳とペアを組むのは伊月だ。明日、いつもの時間に出発するから準備しておけ」
浜家は俺が反対する余地を与えないくらい強い口調で言った。
「わかった……」
そう言ったあとに胸の中に不安が広がってくる。伊月は今まで俺に何度か助言してくれていたが、流石に俺たちのために裏切って協力してくれるような真似はしないだろう。
このままだと、愛佳はまた人を殺さないといけなくなる。
それだけは……何とか阻止しないといけない。
俺は浜家や伊月に見えないところでもう一度、拳を握った。
10
二つ目の大きな出来事はそれこそ想像だにしていないことだった。
次の日の深夜。浜家から課せられたノルマをこなすために俺と愛佳は伊月たちと共に夜の街へと出発した。
相手が伊月だろうと関係ない。たとえ、俺が犠牲になったとしても、せめて愛佳だけは逃がさないといけなかった。
「……」
何も言わずに周りの状況を確認する。車を運転している男は刀人じゃない普通の人間だった。あくまで現場へ刀人を送ることを仕事にしている運転手だ。警戒する必要はないだろう。
次に俺と同じ列の反対側の席に座る浜家を見た。浜家は窓の外を見ることなく、両腕を組んで前のほうを見ていた。無駄な話は一切してこない。こいつがどうしてダルレストの幹部になったのか、家族はいるのか、仕事のない日はどうしているのか、といった浜家の素性を知る人間は吉住以外にほとんどいないような気がした。だが、人のことを監視するのにかなり秀でているのは確かだった。こういう状況で、考えていることが顔に出やすい俺にとっては天敵中の天敵だった。できる限り、考えていることが悟られないようにしなければならない。
次に俺はすぐ後ろの席に座っている愛佳を横目で見た。
愛佳は顔を下に向けたまま、じっと座っていた。腹が痛い時に似たような姿勢を取ることはあるが、今は絶対に違う。
きっと愛佳は怖いんだろう。これからまた人を殺しに行くと考えただけで身体が震えるに違いない。そうなってしまうくらいに愛佳は変わった。
それは決して悪いことじゃない。こんなところにいるのがそもそも間違いだったんだ。
何としても愛佳をここから連れ出さないといけない。
「……」
最後に俺は愛佳の隣に座っている伊月のほうを見た。
それは偶然なのか、どうなのか、今でもわからない。俺が見たのとほぼ同じタイミングで伊月が前から窓のほうに視線を移した。
さっきまで俺のことを見ていたのだ。
『考えていることが顔に出るのが君の悪い癖だよ』
以前、伊月に指摘されたことを思い出した。伊月には俺の考えていることがわかるのだろうか。もし、そうならこいつはどう動くのか。自分の身が大事なら、何もせずに傍観しているのが妥当なところだが、俺と愛佳がダルレストを抜け出すのに協力してくれるだろうか。
今までの伊月の態度からして、その可能性はゼロではなかった。度々、俺に助言をしてくれたし、愛佳とラーメン屋に行った時も何かと気遣ってくれたような節がある。しかし、それだけでわざわざ自分の命を投げ出すような真似をするだろうか……。
俺はしばらく思考を張り巡らしていたが、途中でやめた。本人に聞かない限り、納得できる答えが出ないと判断したからだ。もちろん、今、この場で伊月に聞くようなことも出来ない。
「……」
思考を張り巡らしても良い案は浮かばなかった。だが、愛佳にこのまま仕事をさせるつもりはない。どこかで必ず隙が出来る。それを見逃さないようにするしかなかった。
11
やがて車が道路の脇に停まった。
周りを見ると、明かりのついてる民家は一つもない。フィールドがすでに張られている証拠だった。
ふと、後方に停まる別の車が目にとまった。ダルレストの所有する別のタイプのリムジンだった。先に偵察していたグループでもいるのだろうか。
再び前方に視線を移すと、今回の対象者の住んでいる住宅が見えた。他の家と同様に明かりはついていない。中にいるやつもとっくに夢の中だろう。
「時間通りだな」
隣に座っていた浜家が腕時計を見てつぶやくと、運転手に話しかけて何かの指示を出した。
運転手が頷いて車から降りて、後方に停まっていたリムジンのほうに向かっていく。
「嵯峨山、この現場の仕事はお前に任せる」
「何?」
浜家の言っている意味がよくわからなかった。
「別の地区でガードレディが現れたという情報が入った。私はそちらの処理に向かう」
「ガードレディ? 奴らがどうして?」
「理由はわからないが、我々の動きに気付いた可能性がある。二手に別れて片方が奴らの足止め、もう片方がターゲットの処理をするのが効率良い」
やがて運転手が戻ってきて、浜家の座ってるほうの窓を叩いた。浜家が黙って頷き、車から降りる。
「サポートに富永をつける。何かあったらやつに連絡しろ」
「おい、浜家――」
具体的な状況を聞こうとしたが、浜家はその前に車から降りて後ろに停まってるリムジンのほうに向かっていった。それと入れ替わりで短い髪の男が歩いてきて、俺の座ってるほうのドアを開けた。
「どうも、嵯峨山さん。富永です。さ、面倒な仕事はさっさと終わらせましょうよ」
へへへ、と怪しい笑いを浮かべながら富永は車から降りるように促した。
富永とは何度か仕事で行動を共にしたことがあったが、あまり印象の良い男ではなかった。仕事自体どこか楽しんでやってるように見えるのも理由の一つかもしれない。
「行くぞ、愛佳」
一番後ろの席で横になっていた愛佳は顔をあげた。不安そうな表情で俺のほうを見つめる。富永に見えない角度で俺を「大丈夫だ」という思いを込めて目配せした。それが愛佳に伝わったかどうかはわからないが、愛佳は小さく頷いて車から降りた。
「ターゲットは二人です。その子一人で充分でしょう。さっさと片付けて帰りましょうぜ、へへへ」
「ああ、わかった。お前は周りを見ててくれ」
富永にそう言って俺は愛佳と一緒に対象の家に向かって歩き始めた。
対象の家は今までの仕事と同じ何の変哲もない一戸建ての普通の家だった。正面の玄関のドアを開けると、普通に開いた。
フィールド内に入った人間はダルレストの刀人たちが入るために、どこかの家の入口の鍵を開けるように暗示をかけられる。その行動を行ったあとで仮眠状態に入るのだ。だから、俺たちはわざわざ鍵を壊さなくても仕事をすることができる。
これはチャンスだと思っていた。浜家の監視もなく、富永も離れた場所で待機している今、逃げ出す機会は今しかない。家の中に入ってGPS機能のついた携帯を壊して、反対側から脱出すれば、愛佳も仕事をしなくて済む。
俺はもう一度拳を握って家の中に入った。
だが、ここで不審な点に気付いた。
家の中に人の気配を感じなかった。それがどういう感覚なのか、言葉にするのは難しいが、普段の仕事で感じ取ることが出来る人の気配が全くしなかったのだ。
リビングの中を見ると、人影がひとつもなかった。他の部屋も探し回ったが、やはり誰もいない。
「どうなってるんだ……」
強い違和感をおぼえた。その違和感はやがて不安へと変わっていく。
こんなこと今までなかった。今までなかったことが起きたということは何かが起きる。
そう考えた直後にそれは起きた。
ぱん、と乾いた音が聞こえてきたと思うと、右肩に強い痛みがはしった。それと同時に赤い血が流れ出して、床に数滴落ちていく。
「くっ……」
肩を押さえて後ろを見た。
「へえ、咄嗟に反応して急所から肩に着弾をそらすとは流石っすねえ、嵯峨山さん」
くくっと不屈な笑い声を出しながら、右手に拳銃を握りしめた冨永が立っていた。その周りには刀を持った男たちもいる。
「どうゆうつもりだ、冨永?」
「どうゆうつもり? 変なこと聞くっすねえ、嵯峨山さん。それはこちらのセリフっすよ。俺たちにこんなことをさせるなんて、どうゆうつもりなんですか? そのガキとダルレストを抜けようとするなんて」
「何!?」
俺は驚いて冨永のほうを見た。そばにいた愛佳は俺の横についた。
「ごまかせると思ってたんすか? 嵯峨山さんは浜家さんを見くびりすぎなんですよ。あの人は何ヶ月も前から嵯峨山さんがそのガキに入れ込んでることを知ってやした。親のことを知らないそのガキは遅かれ早かれ嵯峨山さんに対して何らかの感情が芽生えることも」
「くっ……」
「安心してくださいよ。俺は嵯峨山さんのこと嫌いじゃないっす。だから、楽に死んでもらいやすよ」
冨永が再びニヤリと笑って拳銃を構えた。俺もポケットに銃を入れていたが、利き腕の肩を撃ち抜かれているせいで腕が動かなかった。運良く冨永をやったとしても、他の刀人がいる。状況は絶望的だった。
ここまでか……。
その時だった。それは何の兆候もなく訪れた。
「うううう……」
獣に似たような声がそばから聞こえてきた。
「何だ……?」
冨永が拳銃を構えたまま動きを止める。他の奴らも全員、俺のとなりのほうに釘付けになっていた。
「うううう……」
再びうめき声が聞こえてくる。あの時……娘の愛佳が刀人に目覚めた時以来、寒気なんてほとんど感じたことがなかった俺がその声を聞いた瞬間、身体が震え始めた。
ようやく俺は視線を横に移した。
「うううう」
愛佳が立っていた。だが、その様子は今までと明らかに違っていた。右手に持った大きな斧は小刻みに震えていた。愛佳の表情こそ見えなかったものの、ギリリと歯ぎしりのような音を立てている。
「愛佳……?」
「……殺す」
愛佳が顔をあげる。その表情は今までの愛佳からは想像できないほど酷く歪んでいた。
「お父さんを傷つける奴は……みんな殺す! 殺してやるうう!!」
大声で叫んだ瞬間、愛佳は冨永たちのほうに向かって走り始めた。
「こ、殺せ! そのガキを!」
冨永が咄嗟に命令して、数人の刀人が愛佳を迎え撃とうとする。
「うあああああ!」
だが、それより一瞬早く愛佳が叫びながら斧を横薙ぎに振った。狙われた男は刀で防ぐ間もなく、真っ二つに切り裂かれた。愛佳はその男に目もくれず、次の刀人に斬りかかる。
その刀人は刀を横にして受け止める態勢を取ったが、愛佳は構わず斧を振り下ろした。金属同士がぶつかる音が響いたかと思うと、次の瞬間には男の持った刀が砕ける音が鳴った。
凄まじい力だった。愛佳は男の刀を砕き、下から斧を振り上げてその男も斬り殺した。
「なんだ、こいつ!?」
冨永が大きく動揺しながら愛佳に向かって銃を発砲した。だが、愛佳は目で追いきれない速さでそれを避けて、次に姿を見た時にはもう冨永の目の前に立っていた。
そのまま、冨永が反応する前に左手でその首を掴む。
「がっ!」
「冨永さんを放せ!」
別の刀人が刀を振り上げて愛佳に向かっていったが、愛佳は冨永を持ち上げたまま、右手の斧を横に振ってその刀人を吹き飛ばした。信じられない力だった。大の大人一人を片手で持ち上げながら、別の刀人を難なく倒すなんて、今までの愛佳とまるで違った。
「や、やめろ……」
冨永が苦しそうな声をあげる。両手で愛佳の腕を掴んでもがいていたが、愛佳の手はピクリとも動かなかった。そのまま、ぐっと冨永の首を締め上げていく。
「や、やめ……」
ごきっと嫌な音が鳴り、冨永の首が真後ろへ曲がった。愛佳が冨永の首を折ったのだ。片手で。あの子が……。
冨永はもう声を出さなかった。目を見開いたまま、死んでいた。
「……」
たぶん時間で表すと五分も経っていなかっただろう。その僅かな時間で愛佳は富永や他の刀人を瞬殺してしまった。
「……」
俺は終始声が出なかった。これまで愛佳が人を殺していく姿は何度も見てきた。もうすっかり慣れていたと思っていたはずなのに、今の愛佳は異常だった。ただ殺戮を繰り返す怪物にしか見えなかった。あんな小さな子供が、少しずつ笑ってくれるようになった愛佳がどうしてこんなことを……。
「う、うううう……」
全身に返り血を浴びた愛佳はうめき声をあげながら、俺のほうを見た。その目は見開いていて、獲物を狙う狼のように歯軋りしている。手にした血まみれの斧を構えて、俺の方に向かって歩いてくる。
「愛佳?」
「ううううう……」
愛佳は俺のことを認識出来ていないようだった。あの力を引き出したせいで、理性を失ってしまったんだろうか。
「愛佳、俺だ。葉作だ……わからないのか?」
「うう……」
「愛佳!」
「うあああああ!」
次の瞬間、愛佳は振り上げた斧を俺に向かって振り下ろしてきた。咄嗟に横へ避けることが出来たのは奇跡かもしれない。ものすごい速さできたその一擊を俺は避けることができた。
そう避けることだけは。
その直後に愛佳の振り下ろした斧がリビングの床を砕いた。大きな岩が落ちてくるような音と衝撃が響いた。その勢いで吹き飛ばされた俺は部屋の壁に背中をぶつけた。
「ぐっ!」
背中の痛みも決して小さくなかったが、愛佳の振り下ろした斧の衝撃でリビングの床の破片が俺の全身に飛び散ってきた。鋭利なその木の破片を急所に受けないように顔を手で覆い隠すので精一杯だった。致命傷はまぬがれたが、腕や足にいくつかの破片が刺さった。
「うううう」
愛佳は斧を持ち上げて、俺のほうに向かって歩いてくる。
「あ、愛佳……」
あいつの身に何が起こったのか、全くわからなかった。呼びかけようとしたが、声が出ない。傷の痛みのせいで起き上がることも出来なかった。
俺はここで死ぬのか……。
愛佳をこんな場所に置いていったまま、命を落とすのか?
父親としてあいつを幸せにするって心に決めたのに、こんなところで……。
ぼやけた視界の中で愛佳が俺の目の前で立ち止まった。手にした斧をゆっくり上へ振り上げる。
「く……」
自分が死ぬ時、ありとあらゆるものを遅く感じるというのは本当なのかもしれない。
俺は結局、愛佳を助けることが出来なかった。
「う、うう……お、お父さん」
「!」
愛佳の声が聞こえてきて、視界がはっきりしていくのがわかった。愛佳の身体が小刻みに震えているのが見える。さっきまで無表情だったその目には涙が溢れ始めていた。
「お父さん……愛佳、殺したくない……お父さんだけは……絶対に」
「愛佳……」
「うう、誰か……助けて……助けてよ……」
その時だった。
窓を何かが引っ掻くような音が聞こえたかと思うと、愛佳の身体の震えが止まった。その直後、愛佳の背後に誰かが現れ、手で首のあたりを叩いた。
「うっ!」
愛佳は声を上げて、そのまま前のめりに倒れこんだが、後ろにいたやつが抱きとめた。
「ちょっと目を離したらこの有様か。これは生きて帰れないね」
その声を聞いて誰なのがすぐにわかった。
愛佳の後ろに現れたのは伊月だった。いつもの灰色のソフトハットを被ったその表情は何処か寂しげな笑みを浮かべていた。
「よく生きていたね、葉作。こうなることは何となくわかっていたけど」
「伊月……なぜお前が?」
「心配しなくていいよ。浜家や他の仲間は別の仕事でしばらく戻ってこない」
「そんなことより」と言いながら伊月は愛佳を横に寝かせた。
「葉作、君に聞きたいことがある。愛佳がどうしてオリジナルの刀人のメンバーに選ばれたのか、君は知ってるかい?」
「……」
「ふむ、知らないって顔をしてるね。まあ、無理もないか。浜家は君に教えていなかったし、詳しい内容は聞いてないだろうからね」
伊月はソフトハットを被り直して、座り込んでいる俺を見下ろした。
「愛佳の力は僕よりも遥かに強い。覚醒した段階で襲ってきたダルレストの刀人三人を瞬殺したし、これまでの仕事も難なくこなしてきた。命令をすれば、その通りに動く。当たり前のことだけど、それを実行することは以外と難しかったりするんだ。でも、愛佳はまるでプログラムされたロボットのように、浜家からの命令に忠実だった。葉作、君に会うまでは」
一息ついて伊月は話を続けた。
「血は繋がっていなくても、愛佳は葉作から親の愛情を教えてもらった。それによって人としての感情が芽生え、嬉しさや喜びを感じるようになった。同時に自分の持つ本来の力を押さえ込んでしまった。だから、普段の愛佳の戦闘能力は僕に劣るし、今まで自分のしてきたことを自覚して、罪悪感に苦しんでいる。それは力の制御に拍車をかけることになった。けど、それが何らかのきっかけで解き離れた場合、愛佳は刀人の力を暴走させてしまう危険がある」
「さっきのやつがそうだというのか?」
「正直言って、あれでも愛佳はまだ本気を出していない。縛りから解放された瞬間、どんな事態を引き起こしてしまうのか……考えただけでも怖くないかい?」
「……」
怖くない、とはっきり言うことは出来なかった。もし伊月が助けに来てくれなかったら、俺は愛佳に殺されていたかもしれない。
「愛佳の暴走を止める方法は一つ。葉作、君が危険な目に遭わないことだ。そのために愛佳を戦わせない状況を作るしかない」
伊月は真剣な表情になって俺を見下ろした。
「葉作、愛佳をもう二度とこの戦いに巻き込まない、と約束できるかい? 二度と愛佳の手を血で汚さないと誓えるかい?」
「俺は……」
傷を負っていたが、俺はぐっと歯を噛み締めて立ち上がった。
「約束する。もう愛佳にこんなことをさせないと」
「……」
そう言って伊月を見すえた。奴が何を考えているのか、わからなかった。けど、俺はきっぱりと言い切った。
伊月は少しの間何も言わなかったが、やがて被っていたソフトハットを少し下げて顔を隠した。
「血は繋がっていなくても君たちは親子同然だ。葉作、君は僕と同じ道を進む必要なんてない。だから、約束は必ず守ってほしい。その言葉、忘れないよ」
言い終わると、伊月はソフトハットをあげた。その表情にどこか寂しげな笑みが見えた。
その時、携帯の振動する音が聞こえてきた。伊月がズボンのポケットに入れて、真っ黒なスマートフォンを取り出し、電話に出た。
「報告が遅くなってごめんね。大丈夫、もう来ていいよ」
それだけ言って電話を切ると、再び俺のほうを見つめた。
「葉作、迎えがきた。ここのことはうまく誤魔化しておく。君は愛佳を連れてガードレディたちのところへ行くんだ。少なくとも、愛佳には向こうでの暮らしのほうが幸せだ」
「な、何を言ってるんだ、伊月! そんなことをしたらお前が!」
「僕のことは気にしなくていい。さっきの電話は僕の強力な助っ人だ。浜家でも手が出せない強力な、ね」
やがて何か大きな車のエンジン音が聞こえてきた。一瞬、浜家が戻ってきたのかと思ったが、リムジンの走っている音じゃなかった。
「さ、ついてきて、葉作」
「……」
痛みをこらえて俺は気絶している愛佳を抱きかかえた。前を歩いていく伊月のあとにしたがって民家の外へ出た。
そこには大型のトラックが二台停まっていた。それぞれのトラックから白い作業服とマスクをつけたやつが数人ずつ降りてきて、民家の中に入っていく。
「伊月さーん、お待たせしました~」
後ろのトラックの助手席が開いて降りてきたのは麦わら帽子を被った少女だった。まだ幼い。愛佳とそんなに年が変わらないように見えた。
「伊月、この子は?」
「ああ、葉作は実際に会うのは初めてだったかな。彼女が遺体の回収屋をしている創路だよ」
「なに!?」
俺は驚いてその子をもう一度見た。
創路はダルレストが始末した対象者の遺体を回収し、秘密裏に処分してるグループのリーダーだった。対象者だけでなく、ダルレストとガードレディたちの戦闘で出た死体の回収もしている。2つの組織の中立な立場にあり、重要な役目を任されているのがこんなに小さな子だとは考えもしなかった。
「創路、手はず通りに頼んだよ」
「任せてください! うちにかかれば、ちょちょいのちょいですよ~」
この場の雰囲気にとても合わない能天気な口調で言った。すぐそばを富永たちの遺体を運んだ作業員が通りかかったが、全く気にしていないようだった。普通の女の子が死体なんて見たら泣いてしまうはずなのに。
「葉作、創路が君と愛佳をガードレディたちの元へ送ってくれる。さすがの浜家も創路の行動を把握することは出来ない。安全に君たちを送り届けるはずだ」
「……わかった」
「それじゃ、これでお別れだね。別れるのは悲しいけど、もう二度と僕の前には現れないでね」
「ああ、わかってる」
「ささっ、どうぞ、どうぞ」
創路がトラックの荷台の幕を開いて中に入るように促してくる。俺は愛佳を荷台の横に寝かせ、自身も乗り込もうとしたが、その前に伊月のほうを見た。
「伊月、最後に教えてくれ」
「何かな?」
「どうして俺たちを助ける? 浜家に知られない自信があるのはわかるが、俺たちを逃すのはリスクが大きい。それにそんなことしてもお前の得になることはない。それなのに、どうして?」
「なるほど、最もな質問だね」
伊月はソフトハットを少しあげて俺のほうを見た。
「どうして僕が君と愛佳を助けるのか。具体的な理由はないよ。ただ……」
「ただ、何だ?」
「ただ、君は僕と違って大切な人が手に届く場所にいる。それがどれだけ幸せなことか、君に知ってもらいたかった。それだけだよ」
そう言って伊月は笑みを浮かべた。それは決して明るくはない、どこか寂しげで、何かを羨ましそうにするような不思議な笑みだった。
12
伊月の手引きによって創路に保護された俺と愛佳は京都から離れて、三重県の松阪市に向かった。その道すがら、愛佳は寝息をたてたまま、起きることはなかった。俺もまた何をすればいいかわからず、ただ呆然としていた。
やがて松阪市の山中にあるNPO団体「アサガオ」の本部に送られた俺たちは、そこでガードマンとガードレディを率いるリーダー秋野 希莉絵との対面を果たした。
しかし、その反応は予想通りと言えば予想通りなものだった。
「理事長、ダルレストにいたやつを受け入れるなんて反対です!」
「そうですよ。もしかしたら、こっちの情報を奪うために送り込まれたスパイかもしれないじゃないですか!」
秋野の周りにいた職員らしき女たちが猛反発していた。当然と言えば当然だ。今まで敵対していたやつを「はい、わかりました」と易々受け入れるやつなんてそうはいない。
「まあ、まあ、皆さん落ち着いてくださいよ~。喧嘩は良くないですよー」
創路がその場を取り直そうとしているが、能天気な性格が災いしているせいか、何の説得力もなかった。
「理事長、今すぐ追い返すべきです!」
「……」
周りから強く言われていたが、秋野はずっと黙ったままだった。
ただじっと俺と抱きかかえている愛佳に視線を送っている。
「わかりました。私たちはあなた方二人を迎え入れます」
そのままずっと黙っているのかと思うくらい長い静寂の末、秋野は何かを決心するようにそう言った。
「理事長、どうして!?」
「もしダルレストのスパイだとしたら創路にすぐわかります。彼女が安全に送り届けたということは信じていいでしょう」
驚いて聞く女に対して、秋野は続けていった。
「それにあの二人を見てください。どこから見ても愛する娘を守る父親そのものです。血のつながりはなくても、二人は紛れもない親子です。私にはそう見えました」
「し、しかし……」
「責任は私が取ります。これ以上の反対は許しません」
厳しい口調でそう言うと、秋野は辺りを見回した。周りにいた職員たちは何も言わずに黙り込んでしまった。
「では……」
周りからの反発がないことを確認すると、秋野はそれまでの険しい表情から打って変わって、優しく微笑みながら俺たちのほうを見た。
「嵯峨山 葉作、嵯峨山 愛佳。ようこそ、アサガオへ。私たちはあなた方を歓迎します」
こうして俺たちは秋野たちによって保護されることになった。
13
アサガオ本部に迎え入れられたとはいえ、快適な暮らしが待っていたかと聞かれると、答えはノーとしか言いようがない。
やはりダルレストに所属していたというだけで、警戒するべきだというレッテルが貼られてしまい、俺たちは施設の片隅の部屋で寝泊まりすることになった。
「申し訳ありません、嵯峨山。二人を警戒している人たちが多くいる中で、説得するのが難しくて」
「気にしないでくれ。元々、俺たちはここにいてはいけないんだ。にもかかわらず、こうして受け入れてくれてるだけでも有り難いよ。それに……」
後日、謝りに来た希莉絵にそう言うと、俺は部屋の奥にあるベッドで眠っている愛佳のほうを見た。
「あいつにもこっちの暮らしのほうが合う」
「二人がどういった経緯でダルレストに入り、ここに来たのか、大体の話は創路から聞きました。辛い思いをしましたね、嵯峨山」
「……ああ、そうだな。だが、こうして俺と愛佳は今を生きている。それだけで充分だよ。礼を言う、秋野」
俺は秋野にお礼を言って安心させた。
「では、私は戻ります。何かあったら連絡してください」
「ああ、わかった」
秋野は一度お辞儀して部屋を出ていった。見送ろうと廊下まで行くと、ふと視線に入った。
「ん?」
廊下の曲がり角から半分だけ顔を出して、俺のほうを見ている桃色の髪の少女がいた。ただ、その子は俺がみていることに気づくと、すぐにどこかへ行ってしまった。
「なんだ……?」
誰なのか気になったが、「お父さん……」と呼ぶ声が部屋から聞こえてきたので、とりあえず頭の隅に置いといた。
部屋に戻ると、窓際に置かれたベッドの上で眠っていた愛佳が目を開けていた。そのそばにしゃがみ込み、愛佳の顔を覗き込んだ。
施設に来てから数週間の間、愛佳はほとんどこの部屋を出ていない。起きていても、ご飯を食べるか、呆然と窓の外を見ているだけで、あとはほとんど眠るだけだった。
だからと言って、愛佳に何かもっと別のことをしてほしいわけじゃない。
今の俺たちが他の奴らに警戒されているせいで、自由に動くことは出来ない。こうなってしまうのはわかっていたつもりだったし、迎え入れてもらえるだけでも恩の字だった。
だが……だが、心のどこかで俺は愛佳にもっと自由に生きてほしいと思っていた。そう願わずにはいられなかった。
「おはよう、愛佳。気分はどうだ?」
「……ちょっと、眠たい」
「そうか……」
「お父さん」
愛佳がそっと手を差し出してくる。俺はその小さな手を優しく握りしめた。
「愛佳、寂しくないか? 俺はあの場所からお前を助け出すことは出来たかもしれない。だが、結局、こんな孤独な暮らしを送らせている。俺は……お前に何もしてやれない」
「……そんなことない」
愛佳が俺の手を握る力を強めた。
「お父さんがいないと、愛佳何もわからなかった。ずっと今までと同じように、人を殺していたかもしれない。でも、お父さんがいたから、愛佳、気づくことが出来た。愛佳、寂しくない。お父さんがいるだけで、愛佳は充分だよ」
「愛佳……」
「ありがとう、お父さん」
俺はこの子を幸せにしてやることが出来るだろうか?
自分の子供を救えず、妻にも見捨てられ、ダルレストで自分の手を汚してきた俺がこの子に、愛佳にいつの日が、笑顔でいられる時間を作ってあげられるだろうか。
その答えはわからなかった。ダルレストを抜け出すことが出来ても、俺の心の中は不安でいっぱいになっていた。
14
そんな不安に押しつぶされそうになる中、俺たちの元にあの子が現れることになる。
「愛佳、お腹減ってないか?」
「……ちょっとすいた」
「そうか。食堂で何か貰ってくる」
座って呆然と外を見ている愛佳の頭を撫でていた俺は、食堂で昼ごはんをもらうために自分たちの部屋を出た。
「ん?」
その時、廊下の角から人の気配を感じた。見ると、桃色の髪の女の子が遠くからじっとこっちを見ていた。
あの子か……。
ここ最近、何度か見かけたことのある子だった。大抵は俺たちの様子を見に来た秋野と話し終わったあとか、昼ごはん時によく見る。しかし、知っているのは顔だけで名前はもちろん、どうしてここへよく来るのか、その理由もわからなかった。
本人に直接聞きたかったが、俺が近づこうとしただけで猫のようにそそくさと逃げてしまう。追いかけるのも変だから、俺は少々複雑な気持ちで毎日を過ごしていた。
その時も気づいていないふりをして食堂へ向かった。
廊下の時計を見ると時間はちょうど午前十時になるところだった。他のやつが昼食を取るにはまだ早い時間帯だ。今なら人も少ないだろう。
そう思いながら食堂へ入ろうとした時だった。
「おっ!」
「ん?」
反対側の廊下から歩いてきた男とちょうど入口のところで肩がぶつかった。お互いに全く見ていなかったせいで気づかなかったんだろう。短いこげ茶色の髪に、両耳にピアスをつけたその男は初めて見る顔ではなかった。俺と愛佳がこの施設に送られてきた時、秋野とその周りにいた奴らから少し離れた場所で様子を見ていた男だった。皆が俺たちの受け入れに反対する中で、この男は何も言わずにノートに何かの絵を描いていたのを覚えている。その後も秋野に「沢村」と呼ばれて、用事を頼まれているところを何度か目撃したことがあった。
「あーあんたはいつかのおっさんじゃないか。何だ、どこで何しているのかって思ってたら同じ寮にいたのか?」
「ああ、まあな……」
何て返事をすればいいかわからず、俺は曖昧に答えてしまった。
「今からご飯食べるのか?」
「ああ、いつも二人分の弁当をもらっているんだ」
「二人分? あの子もこの寮にいるってことか」
沢村のその言葉を聞いて、しまった、と思った。秋野以外に愛佳のことはなるべく言わないようにしていたのに油断していた。
「そうかそうか、大変だな、あんたも」
しかし、沢村はそのことに関して問い詰めるようなことは何も言わなかった。そのまま、食堂に入ろうとする。
「ま、待て」
俺は咄嗟に沢村のことを呼び止めていた。
「お前も他のやつと同じ考えじゃないのか? 俺と愛佳はダルレストにいたんだぞ。どうしてそのことについて何も言わない?」
俺のほうに振り向いた沢村は一瞬目を丸くした。少し間をあけて「ああ、そうか、そうか」と言った。
「確かに元々敵対していたやつがこっちに来たら、みんな疑うのは当然だろうな。信用できないってやつは多いかもしれない。けど、俺は何ていうか、そういうのだけで信じるか、信じられないのか、判断したくないんだよ。ここに来るってことはそれなりの事情があるってことだし、そもそもダルレストにいたやつが俺たちのほうに来るのにも、強い抵抗があったに違いない。でも、あんたは俺たちのところへ来た。その理由は聞いていないから、詳しくはわからないけど……あの子のためなんだろ?」
「……」
「俺にも、色々とあって心を塞いでしまったやつがいるんだ。あいつは他の仲間と分かり合おうとしない態度を取っている。けど、そんなことする理由を知っているから、俺はあいつに何を言われようと、見捨てるようなことはしない」
話しているうちに沢村の表情が真剣になっていった。
「似たような立場にいるんだよ、俺とあんたは。だから、俺はあんたたちがここにいることに関しては何も言わない。もちろん、あんたから話してくれたら嬉しいけどな」
沢村はにっと笑って、俺の肩をぽん、と叩いた。
「ま、お互いに頑張ろうぜ、嵯峨山のおっさん」
言い終わると、沢村は食堂の中へ入っていった。
「……」
俺は終始唖然としていた。秋野以外に俺たちのことを受け入れてくれるやつがいるなんて、思ってもみなかった。
もしかしたら……もしかしたら、他にもいるかもしれない。俺たちのことを信じてくれるやつが。
15
「……」
「……」
「……うーむ」
「……」
「……むむ」
誰かにつけられている気配がする。そんな経験をしたことは誰にでもあるかもしれない。仕事終わり、暗い夜道を歩いている時や人ごみの中を歩いている時、色々な場面が想像できるが、実際につけられていることはほとんどないと言っていいだろう。
俺はそんなストーカーのような行動を取ったことは一度もないが、もしそういったことをする場合、基本的に気づかれないようにするのが前提になる。本人に気づかれてたら、何の意味もないからだ。
食堂で弁当をもらった帰り、今の俺もそういった状況に陥っているわけだが、この子は尾行が下手すぎる。
横目で後ろのほうを見る。廊下の角から桃色の髪をした少女が俺のほうを見ていた。
「ひっ!」
俺がこっちを見ていることに気づくと、少女は慌てた様子で頭を引っ込めた。
名前は聞いていないが、ここしばらくの間、俺たちの様子を見ている子だということはもう確信していた。今までは気づかないふりをしようと思っていたが、こういうことを何日も続けられると、さすがの俺も精神的に疲れてきていた。
ここは踏み込んで良いタイミングかもしれない。
そう決意した俺は来た道を引き返した。廊下の角まで行って覗き込むと、少女は廊下の壁際にある柱に隠れていた。
「隠れていても無駄だぞ。もうとっくに気付いてる」
そう言うと、少女はやや緊張した表情で俺のほうを見た。
「き、気付いていたんですか……?」
「ああ、俺が言うのもなんだが、尾行するならもっとうまくやれ。今のままだと、すぐバレるぞ」
「そ、そんな……完璧だと思ってたのに……」
少女は落ち込んだ様子で柱から出てきた。
愛佳と同じくらい小柄な子だった。短く切り揃えられた桃色の髪に、大きな目をしている。歳も愛佳と変わらない感じに見えた。
「どうして俺のあとをつけるんだ? 話があるなら直接、言えばいいじゃないか」
「……」
少女はしばらく黙っていたが、やがて何かを決意したように顔をあげた。
「私、秋野 希梨絵の娘の千登勢と言います。嵯峨山のおじさん、あの子に……愛佳ちゃんに会わせてもらえませんか?」
「な、なに?」
俺は二つのことに驚いて目を見開いた。一つはこの子が秋野の実の娘だということだ。そのことは秋野本人から聞いていたので、存在は知っていたが、こうして面と向かって話すのは初めてだった。
そして、もう一つはこの子が愛佳に会いたがっていることだった。
「何でだ? あの子は……愛佳はみんなに嫌われているんだぞ。その理由もわかっているはずだ。なのに、どうして?」
「確かにそうかもしれません。おじさんと愛佳ちゃんはダルレストにいたってお母さんが言っていましたから。でも、私、他の人から聞いただけのことで、良い人なのか悪い人なのかを決めたくないんです。だから、どうしても会いたくて……けど、なかなか勇気を出せなくて、ストーカーみたいなことをしてました。ごめんなさい」
そう言って、千登勢は頭を下げた。
「あ……」
沢村と同じだと思った。ここにいるやつの中にも、他人からの話を聞いただけで人の善悪を決めたくないって思ってるやつはいるんだと改めて思った。まさか、こんな短時間で二人も会えるとは予想していなかったが。
「……わかった、じゃあ、一緒にご飯食べてくれるか?」
「い、いいんですか!?」
「ああ、愛佳もきっと喜ぶはずだ」
そう言うと、千登勢の表情が明るくなった。
「あ、ありがとうございます! 私、お弁当取ってきます! 少し待っててください!」
言い終わると、千登勢は後ろに振り返ってすごい速さで走り去っていった。普通の女の子とは思えない速さだった。
「は、速いな……」
その光景に驚きながら、俺は彼女が戻ってくるのを待った。
16
「愛佳、戻ったぞ」
部屋に戻ると、愛佳は弁当を取りに行った時と変わらず、窓の外を見ていた。
「おかえり、おとう――」
俺のほうに振り向いた愛佳は途中で言うのをやめた。後ろに立っている千登勢に気づいたんだろう。
「こ、こんにちは、秋野 千登勢です。初めまして、嵯峨山 愛佳ちゃん」
千登勢は丁寧に頭を下げて挨拶した。それに対して愛佳は呆然と彼女のことを見つめている。
「……」
「……」
「……」
三人の間に沈黙が訪れた。微妙な雰囲気に包まれて、何を言えばいいのかわからなくなる。
「……千登勢」
しかし、その沈黙をやぶったのは意外にも愛佳だった。
何を思ったのか、愛佳はベットから降りると、そのまま歩いて俺の横を通り過ぎ、千登勢の目の前に立った。
「な、なに? 愛佳ちゃん?」
「……」
千登勢に聞かれても、愛佳は何も言わずにじっと彼女のことを見つめていた。俺も愛佳が何を考えているのか、わからなかった。
やがて愛佳は何を思ったのか、千登勢のほおを指先で押し始めた。
「あ、愛佳ちゃん!?」
「このほっぺた、柔らかい……うらやましい」
「く、くすぐったいよー!」
千登勢がそう言っても、愛佳は全くやめようとせずにずっと指でつついていた。
「あ……」
その時に俺は気づいた。愛佳の表情が楽しそうに笑っていることに。
ああ、大丈夫だ……。
具体的な根拠があるわけじゃない。でも、この子は、千登勢は愛佳にとって大切な友達になると俺は思った。
「愛佳ちゃん、好きな食べ物って何かあるの?」
「食べ物……どれも好き。特に好きなのは……ラーメン」
「ラーメン美味しいよね! でも、私のお母さんすぐに太っちゃうから食べすぎたらダメって言って、あまり作ってくれないの」
「お父さん、おいしいラーメン屋さん知ってる。今度一緒に行く?」
「えっ? 本当に? 本当に良いの!?」
「うん、ちーちゃんが良いのなら」
「ちーちゃん?」
「千登勢って何か、呼びづらい。だから、ちーちゃん」
愛佳はそう言ってご飯を食べている手を止めた。
「そう呼んでもいい?」
「……嬉しい」
千登勢は小さな声でそう言うと、箸をテーブルの上に置いて、愛佳の両手を握り締めた。
「あ、愛佳ちゃん。わたし……ずっと、あなたに話しかけようと思っていたの! でも、他の子が愛佳ちゃんは向こうにいた子だから話しかけちゃだめだって。友達なんかじゃないって。わたし、全然話したことのない子をそんなふうに決め付けるの、嫌だから、許せなくて……でも、話しかける勇気もなくて……だから!」
千登勢は顔を下に向けて「だから……」ともう一度言った。
「ごめんね……愛佳ちゃん」
俺は千登勢じゃないから、この子がどういった気持ちで今まで過ごしていたのか、はっきりとはわからない。だが、ずっと話したかったんだろう。誰に何を言われたとしても、千登勢は愛佳と友達になりたいと思っていたんだろう。
それだけ、愛佳のことを考えてくれた子がいたことに、俺は嬉しい気持ちでいっぱいになった。
愛佳本人はどう思っているだろうか……。
「……ちーちゃん」
愛佳は千登勢の手を握り返して、まっすぐに彼女を見つめた。
「あいちゃんって呼んでくれたら……許す」
「え……?」
千登勢が驚いて顔をあげると、愛佳は控えめに笑った。笑ったのだ。あの愛佳が、ずっと辛い思いをして、心もふさぎこんでいた愛佳が初めて……笑った。
「あ、あいちゃん……」
「ちーちゃん」
「あいちゃん!」
千登勢は嬉しそうに愛佳のあだ名を言うと、ぎゅっと愛佳の身体を抱きしめた。愛佳は驚いた表情をしたが、すぐに抱きしめ返す。
「これからもよろしくね、あいちゃん」
「うん……」
それから千登勢は毎日のように俺たちの元へ足を運んでくれた。最初は一緒に昼ごはんを食べるぐらいだったが、やがては食事の時間以外にも遊びに来てくれて、愛佳の話相手になってくれた。
同年代の話相手が出来たのは俺にとって嬉しいことだった。俺と愛佳だと世代の差のせいで、話が弾まない時がよくあった。最も愛佳はあまり話さない性格だったから、それほど気にすることはなかったが、それでも千登勢の存在は俺にとってありがたかった。
何より、あれから愛佳は感情が豊かになった。楽しい時は笑うようになり、千登勢がもうすぐ部屋に来る時は妙にソワソワし始める。千登勢が帰った時はさびしそうな表情をする。わかりやすく言えば、自分の気持ちを顔に出すようになったのだ。
普通の人で言えば些細な変化なのかもしれない。だが、俺たちにとってはとても、とても大きな変化に違いなかった。
そして、あの日、俺にとって、そして愛佳にとって大きな節目を迎える時が訪れた。
17
「ぐすっ……う、う……」
傍で千登勢が泣いている声が聞こえる。千登勢だけじゃない。周りにいる大勢の人間が泣くのをこらえたり、隣にいるやつを慰めている者もいた。
アサガオの施設にある大広間の地下にある墓地。ガードマンやガードレディにしか入れないその場所に俺と愛佳はいた。千登勢がどうしても愛佳についてきてほしいと言ったので、秋野に頼んで特別に入ることが出来たのだ。
喪に服した俺たちの前に無数に並ぶ小さな石碑。どれも綺麗に磨かれているその列に新しい石碑が四つ建てられた。言うまでもなく、それはダルレストとの戦いで命を落としたガードマンとガードレディの物だった。最も、遺体そのものは創路に回収されて跡形もなく処分されているため、その石碑の下には何もない。唯一、あいつらが生きていたことを証明するものは普段身につけていた髪を結ぶ紐や腕時計だった。それらの遺品が石碑のそばに置かれていた。
死んだやつらの名を聞いても俺は出会った覚えがなかった。この施設で関わりのあったガードマン、ガードレディといえば、あの時食堂で少し話した沢村ぐらいだった。元々、俺と愛佳はダルレストにいた立場。積極的に関わろうとするやつは少ない。千登勢以外は。
「う……う……」
千登勢は葬儀が始まった時からずっと泣いていた。俺も愛佳も慰める言葉が見つからなかった。いくら励ましたところで死んでいった者が生き返ることはない。
「葉作おじさん……」
ずっと泣き続けていた千登勢が小声で話しかけてきた。
「どうして人は死んじゃうの? まだ死んじゃうような病気にかかったわけじゃないのに、おじいちゃんやおばあちゃんになったわけじゃないのに、まだ生きていられるはずなのに、まだまだやりたいことがたくさんあったはずなのに……何で、みんないなくなっちゃうの?」
「辛いことがあって、現実から目を背けたいと思ったら、死にたいなんていうやつは大勢いる。だけど、大抵のやつはいざ死のうと思った時に踏みとどまることが出来る。生きている時に何かしらの後悔があるからだ。だから、人は本質的に死ぬのを恐れている。あいつらだって例外じゃない。でも、それでも覚悟を決めてガードマンやガードレディになったんだろう」
俺が愛佳のことを命に代えても守ろうと思った時と同じように。
「死ぬのを覚悟してまで、あいつらには守りたいものがあったはずだ。それが何かはわからないが、あいつらにとってかけがえのない物であったことには間違いない。友人や恋人、ここにいる仲間たち。それらを守るためなら死ぬ覚悟は出来ている。あいつらはその思いを胸に死んでいったと思う。だから……」
自然と脳裏に死んでいった愛佳の顔が思い浮かんだ。
「だから、生きている俺たちはあいつらのことを忘れないようにするんだ。俺はあいつらと話をしたことは一度もないから、それほど親しい交流があったわけじゃない。それでも、あいつらのことは覚えている。これからもずっと。それがあいつらのいたことを証明することにもなる。あいつらの思いを継ぐことにも」
「思いを……継ぐ?」
「あいつらのやり残したことを成し遂げるために、あいつらの覚悟をこれから生まれてくるやつに伝えるためにな」
俺は娘の愛佳のことを助けられなかった。自分に力がなかったせいかもしれない。もしくは浜家の言っていたように、以前から決まっていたことなのかもしれない。いずれにしても、それは過ぎたことで、残るのは後悔だけだ。考えても仕方がない。
でも、自分の生きていることには何か意味があると思った。そして、ダルレストの幹部になって、今の愛佳と出会った。ずっと自分の手を血で汚していたあいつを助けることが出来た。俺が生きていたことには意味があったんだ。そして、これからも……。
「私……」
千登勢は溢れてくる涙を拭った。
「私、絶対に忘れません。ここで眠っているみんなのこと。みんながやり遂げようとしたことを。私、強くなります」
その言葉にはとても強い決意が込められていた。中学生ぐらいの子供がこんなふうに自分の意思をはっきりと示すことが出来るのだろうか。
驚いて何も言えずにいると、ぎゅっと右手が握り締められる感覚がした。反対側に視線を移すと、それまでじっと立っていた愛佳が俺の手を掴んでいた。
「愛佳?」
「……」
愛佳は何も言わずに口を引き結んだままだった。俺の手を握る力も強くなる。
「どうした?」
もう一度聞くと、愛佳は深く息をついてから俺のほうを見上げた。
「お父さん、愛佳、ずっと考えてた。自分のやらないといけないことを。やっとわかった」
俺を見つめる愛佳の目に強い光が宿っていた。こんな真剣な表情をした愛佳は初めてだったかもしれない。
「愛佳、ちーちゃんのために戦う。ここにいる人たちと一緒に」
それは二度目だった。愛佳が自分からやりたいことを言うのは、二度目だった。
「愛佳、それがどういうことなのか、わかってるのか? お前がずっと一緒にいた奴らと戦うことになるんだぞ。お前がやりたくないって言っていた人の命を奪うことを、もう一度やるんだぞ。愛佳がそれをしても、ここにいるやつが俺たちのことを信じてくれるとは限らない。これからも辛いことが待っている。お前の努力が必ず報われるわけじゃない。わかっているのか?」
そう聞くと、愛佳は顔を下に向けた。しばらくうつむいていたが、やがて真剣な表情で俺のことを見上げる。
「……伊月との約束、忘れたわけじゃない。でも、愛佳……愛佳は自分の生きている理由を残したいの。お父さんがさっき言ったように……。それでやっとわかった。愛佳、ちーちゃんを守るために戦う。そのためなら死んでも構わない」
「どうしてそこまで言えるんだ、愛佳?」
「だって……ちーちゃんは、愛佳の……初めて出来た友達だから」
……ああ、そういうことか。
愛佳の答えは単純で特に深い意味もなかった。けど、愛佳自身にとって初めて出来た友達は普通の子のいう友達とは存在の大きさが全然違う。
孤独に、自分がしていることがどういう意味なのか、わからないまま人を殺し続けてきたこの子に同い年ぐらいの友達が出来たことがどれだけ価値のあるものなのか……。
そんな大切な友達を守るために愛佳は戦うと言ったのだ。それが伊月との約束を破ることになるし、かつて一緒に仕事していた奴らと殺し合うことにもなる。その道を進んだところで絶対に幸せになれるとも限らない。それらのことを承知した上で愛佳はここにいる奴らと一緒に戦うと言ったのだ。
その思いに俺は愛佳の父親として応えなければならないと思った。
「……わかった、愛佳。俺もお前と一緒に戦う。だから、死んでも構わないなんて言うな。俺より先に死ぬんじゃないぞ」
「……うん。ありがとう、お父さん」
愛佳が俺の手をもう一度強く握った。俺もその小さな手を握り返す。
そして、俺たちは新しい道を、ガードマンとガードレディとして生きる道を歩くことにした。
第十話 新しい道 終。次回へ続く。