自然と眠れる夜
許可を得たレイズは、どこか誇らしげに胸を張った。
「じゃあ、今日はそろそろ休む。明日は朝から――俺の美しい走りを見せないといけないからな」
わざとらしく髪をかき上げ、いかにも格好つけた仕草を見せる。
そのまま振り返ることなく部屋を後にするレイズ。
そんな背中を見送りながら、ヴィルは自然と口元を緩めていた。
(……本当に嬉しそうですね)
ほんの少し前まで、何事にも興味を示さず、自分自身すら諦めていた少年。
そのレイズが今では、自ら鍛錬を望み、自ら外へ出たいと願い、明日という一日を心から楽しみにしている。
その変化が、ヴィルには何よりも嬉しかった。
まるで祖父が、成長した孫を見守るような優しい眼差しだった。
一方で、その様子を静かに見つめていたイザベルは、ふと笑みを消した。
胸の奥に、小さな痛みが走る。
(……レイズ君)
あんなにも楽しそうなのに。
あんなにも希望に満ちた笑顔なのに。
だからこそ、少しだけ怖かった。
未来を知るレイズ。
誰よりも多くを背負いながら、それでも笑おうとする姿が、どこか無理をしているようにも見えてしまう。
イザベルは小さく視線を落とした。
胸の奥に生まれた言葉にならない感情を、誰にも気付かれぬよう静かに飲み込む。
――そして、レイズの部屋。
部屋へ戻ると、レイズは大きく息を吐きながら布団へ腰を下ろした。
「ふぅ……」
今日一日を思い返す。
ヴィルとの鍛錬。
イザベルとの会話。
そして明日はいよいよ屋敷の外。
この世界へ来てから、ほとんど屋敷の中だけで過ごしてきた。
だからこそ胸が高鳴る。
(町ってどんな感じなんだろうな……)
(いま生きてる人々はどんな生活をしてるんだ?)
(ゲームでは見られなかった景色もあるかもしれない)
想像するだけで自然と笑みがこぼれる。
だが、その時だった。
(……そういえば)
脳裏をよぎる一つの記憶。
(鍛錬を続けると……また、あの乾きが来るんだよな……)
喉が焼けるような渇き。
身体中の水分を一瞬で奪われるような感覚。
あまりの苦しさに、何度も意識が遠のいたあの経験。
「……あれだけは勘弁だ」
レイズは小さく肩を震わせる。
すぐに立ち上がると、枕元へ置いてあった水瓶を持ち上げ、中身を確認した。
ちゃぷん、と心地よい音が響く。
「よし、ちゃんと入ってる。」
それでも安心できず、蓋を開けてもう一度確認する。
「うん、大丈夫。」
さらにもう一本、水瓶を用意する。
「念には念を、だ。」
満足そうに頷くと、二つ並んだ水瓶を見てようやく安心した。
「入念にしとかねーと!」
思わず独り言が漏れる。
誰に聞かせるでもないその言葉には、少しだけ照れくさそうな笑みが混じっていた。
再び布団へ身体を沈める。
ふかふかの感触に包まれると、疲労が一気に押し寄せてくる。
瞼が重い。
(明日かぁ……)
町。
人々。
景色。
新しい出会い。
考えれば考えるほど胸が高鳴る。
まるで遠足を前日に控えた子供のように。
楽しみで仕方がない。
自然と頬が緩む。
そのままレイズは静かに眠りへ落ちていった。
穏やかな寝息だけが部屋に響く。
その寝顔は年相応の少年そのものだった。
何の疑いもなく明日を信じ。
希望だけを胸に抱き。
安心しきった表情で眠っている。
……だが。
翌朝。
彼を待ち受けていた現実は、その無邪気な期待を優しく迎え入れてくれるものではなかった。
この夜の穏やかな眠りが。
この無邪気な笑顔が。
ほんの数時間後には、大きく揺さぶられることになる。
――しかし、この時のレイズは。
まだ、そのことを知る由もなかった。
その頃――ヴィルの自室。
窓から差し込む月明かりだけが、静かな部屋を淡く照らしていた。
ヴィルは椅子へ腰掛けたまま、ゆっくりと窓の外を見つめる。
「未来には……アルバードは存在しない、ですか」
レイズが何気なく口にした未来。
その言葉は今なお、胸の奥へ深く突き刺さっていた。
あまりにも残酷だった
長い年月をかけ守り続けてきた家が滅ぶ未来。
当主として歩み続けた人生。
共に生きてきた者たち。
積み重ねてきた歴史。
その全てが消えてしまうという結末。
到底、受け入れられる話ではない。
だが――。
ヴィルはレイズを責めようとは微塵も思わなかった。
むしろ逆だった。
「だからこそ……」
小さく呟く。
「アルバードは、滅びずに済む……」
今のレイズは違う。
未来を知っている。
だからこそ誰よりも努力し。
誰よりも苦しみ。
誰よりも成長しようとしている。
未来を変えるために。
誰かを救うために。
自らを犠牲にすることさえ厭わず歩き続けている。
その姿を見続けてきた。
だから確信できる。
今のレイズは………
滅びの未来は、必ず覆せる。
以前のアルバードには、不安があった。
迷いがあった。
守り切れなかったものがあった。
けれど今は違う。
希望がある。
レイズという希望が。
ヴィルは静かに目を閉じた。
「……ですが」
小さく漏れた言葉。
「心残りだけは……やはり消えませんか」
それは誰へ向けた想いだったのか。
本来、この世界で生きていたレイズ。
救うことのできなかった、孫。
彼と共に歩みたかった未来。
その後悔だけは、どれだけ未来が変わろうとも、決して消えることはない。
ヴィルはゆっくりと夜空を見上げた。
静かな月明かりは、何も語らない。
それでも彼は、小さく微笑む。
「今度は―必ず……」
誰にも聞こえないほど小さな決意だけが、静かな夜へと溶けていくのだった。




